記憶/追憶❖1
「おい慧、今日暇ならこれからファミレス行かねー?」
大学の放課後。
すっかり肌寒くなった十一月、生徒は長袖の上に一枚羽織り、これから来る初冬に備えて始めていた。
俺を呼び止めたのは達川稔。同輩であり、付き合いは高校からの親友だ。彼は人気の少ない教室の中央、机の上に腰を下ろして我が物顔で寛いでいる。
「いやぁ、悪い。今日はちょっと予定がさ」俺は笑顔を作り都合が悪いと返すと、稔は眉根を寄せる。
「えーなんだよ、バイトか? だったら休みに出来ないか?」稔は机から下りて側に近寄ると声を潜め、続ける。「クラスの音無さんいるだろ? 美人のさ……あいつも来るんだぜ?」
稔はまるでとっておきの情報とでもいいだけな顔で俺を見た。その後ろ、教室の開けっ放しの扉から音無爽香と視線が合うと、彼女は小さく会釈をした。
彼女とは講義が被ることは多かったが、会話したことはあまりない。
その整った顔立ちから密かに人気があり、この大学一年生のスクールカーストで言えば彼女はかなり上位に位置している。
俺だってなんの予定もなければ二つ返事でファミレスだろうとなんだろうとついて行くだろう。
だが、今日は外すことのできない大事な用がある。
「本当に悪いな……今日は妹の方なんだ」と、俺が言うと、稔は全てを理解してくれた。
「あぁ……成る程な。まったく、音無さんには悪いが、なんとか丸く収めておくよ」稔は首をさすりながら残念そうな顔をする。
「音無さんは俺に用があったのか?」
「まぁ、大学生活にも慣れてきたし、講義が被るお前とお近付きになりたいんだとさ」稔は妙に強く背中を叩き、含みのある笑みを浮かべる。
「……お、おう……?」
丁度その時、下校のチャイムが鳴り響く。
「おっと、本当に悪い! 稔、音無さん。急がないとバスが来ちゃうからまたな!」
俺は慌ただしく二人に手を振り、教室を駆け足で後にする。背後から稔が声を投げかけた。
「貸しだからな! 今度なんか奢れよなー!」
そんな理不尽な声を聞いて、俺は自然と顔がほころぶ。時刻は十六時半を回り、病院へ向かうバスが駅に着くまでは後八分。そして学校から駅までは自転車で十分程だ。
「ヤバイヤバイヤバイ!」
俺は校舎玄関にたむろする人波を掻き分けて、校舎の隅に設置された駐輪場の折り畳み自転車に跨る。
急げば間に合う距離。
ペダルを踏み込み立ち漕ぎをして駅に向かった。吐く息は白く後方へと流れていく。
俺は校舎を振り返る……今頃は稔が音無さんと話し込んでいるんだろうか?
あいつは顔も性格も良いし、何より明るいからクラスでも人気が高い。俺がいてもいなくても、音無さんとは上手くやれるだろう。
そんな風に考えて、帰路につく生徒を追い越し駅へ急ぐ。
自転車を駅の駐輪場に停めると、直ぐにバス停留所へ向かう。片田舎の街を巡回するバス。これを逃すと次は一時間後になってしまう。
既に停留所から発車しようとするバスに手を振り、停めてもらうと駆け込んだ。
「……はぁ、……はぁ、……間に合った」
整理券を取り、俺は椅子に座ると手で首元を仰ぐ。身体が熱い上にバスの乗客の視線が痛い。
景色を眺めながら病院までバスに揺られて十五分。乗客も減る一方で、病院に着く頃には俺と二人しかいなかった。
待合室の受付に立つ看護師は俺の顔を見て会釈をする。既に見知った顔だ。ここへはもう何度も通っているのだから。
「慧君じゃない。妹さんは今日も調子いいみたいよ」と、看護師。
「頑張ってるみたいですね」
「そうね。お兄さんも大変だろうけど、頑張ればきっと良くなるわ」
看護師はそう言って励ますように拳を握り、俺に頷いた。
俺は頷き返して妹の病室に向かい、扉を開けると、そこにはうたた寝をしている妹の姿があった。
「……なんだ、寝てるのか……」
俺は少し落胆して、パイプの椅子をベッドの側に置くと、そこに腰を下ろして一息ついた。
記憶の映像はそこで一度暗転する。
❖
夏の日。遊歩道によって左右に分かれた人工芝が青々と陽射しを反射する。
息を吸い込めば鼻の奥に香る草いきれ。俺は妹の後ろに立ってゆっくりと歩いていた。
妹はアイスクリームを両手に持ち、陽光に目を細める。
「……んー、いい天気だね」と、妹。
右手に持つアイスクリームは妹の分。左手に持つのは俺の分。溶けたクリームが傾き始めているのに俺は気付くが、車椅子の持ち手を握っていたため行動が遅れる。
あっと言う間もなく、アイスクリームは膝の上に落ちて、シミを作る。
やっちゃったねぇ。と妹は呟き、そして『冷たい』と笑った。
――冷たい……
――あれ?
――妹って、
――なんだっけ……
❖
「――お兄、起きて?」
俺はその言葉をぼんやりと聴き、意識が少しずつ覚醒していくのを感じた。ああ、長い夢でも見ていたようだ。
夢……?
と、不意に俺の脳内に留まる一つの疑問。それを足がかりに夢現の意識は鮮明になる。
どっちが夢だ……?
「……はっ……!?」
俺は咄嗟に飛び起きた。
夕暮れに染まる病室。妹のベッドの横に座り、突っ伏している内に眠っていたらしい。
「……びっくりした。起きてとは言ったけど、急に起き上がらないでよ」
妹は目を丸くして俺を見つめていた。
肩に掛かる程の黒髪が、差し込む夕日に赤く反射して輝く、病衣から覗く腕は握れば折れてしまうのではないかと思う程に痩せている。
この光景を、俺は何故か懐かしく感じていることに気付く。
そして理解した。
ああ、わかったぞ……これは記憶だ。
全部、全部思い出せる。
「ごめん。驚かせたか、芹奈」
芹奈。それが妹の名前だ。
歳は五つ離れている。この記憶は三年前のものだから、十四歳のままか。
俺からしてみれば三年ぶりの再会になるわけだ。
懐かしいなあ。
何にも変わってないなあ。
なんで忘れてたんだろう。
「えっ、お兄……泣いてるの?」
「……え……」
俺は妹の言葉にふと我に帰ると、自分が涙を流していることに気付く。そして言い訳を取り繕って微笑んだ。
「泣いてるわけないだろ。寝起きで涙が流れただけだよ」
こんな会話、昔もしたような気がする。
たしか、その後妹は家に帰るように俺を促すんだっけ。
「そう、別に気にしてないけどね。それよりお兄、もう病院閉まる時間だから、家に帰りなよ」
……ほら、やっぱり。
この日常は俺の記憶を寄せ集めて作られているんだ。
俺の思考は遊離して、記憶の映像が流れ続ける。妹に返す言葉を選択することも出来ず、当時の光景をなぞるように俺の身体は動きだす。
「げ、結構寝てた……? もうこんな時間なのか」
俺は立ち上がる。
「疲れてたんじゃない? 呼んでも全然起きないんだもん」
「かもしんねぇ」俺は肩を竦める。
「別に無理して見舞いに来なくたっていいんだからね?」
「バカ。無理なんてしてねえよ」
俺は気丈に振る舞い、妹の頭を撫でる。
友人の誘いを断る程大切な用事。それは今日を生きている妹の姿を見ることに他ならない。
「んあぁ、触んなよー」妹は恥ずかしいのか俺の手を払う。不器用な反抗期だ。
「はは、また来るよ」
「うん。気を付けて」妹はベッドに身を休ませたまま、軽く手を振った。
病室の扉を出て、病院を後にする。空は夕日が山向こうへ消えかけて、緋色から藍色の鮮やかなグラデーションに染まっていた。
市内を循環する市営バスで駅まで移動し、駐輪場に停めた自転車で家路に着く。その道中、スーパーマーケットに立ち寄って、食料を買い込んだ。
湯に溶かすだけの即席味噌汁と、値引き品の惣菜。おにぎりに盛り合わせサラダ、それとカップ麺を幾つか。
一人称視点で送られる記憶の映像を俺はただ眺め続けた。
慎ましくも穏やかな生活。
不運ながらも幸福な日常。
――俺には親はいないもんな……
俺の中で俺は一人呟く。
両親は震災によって亡くなった。
今は保険金と少しばかりの遺産、そして祖父母の仕送りによって一人暮らしている。
もし……
もしも、妹が退院した場合は二人暮らしになるはずだった。
俺は、病室に残した妹の笑顔を思い出す。
少しずつ衰えていく身体機能。笑みを作ってみせる血色の悪い唇。日を追うごとに痩せていく身体。活力低下による緩慢とした動作。
妹は肺を侵されている……医師は『気管、気管支および肺の悪性新生物』と診断していた。
一般的な言葉で言い換えるならば、肺癌である。
進行はすでにステージ3。
妹は入院生活を余儀無くされた。この時点での生存率は二割から三割程度に満たない。
その上、家庭環境から支払える治療費には限度があった。
そんな状況の中、俺は進学を諦めて高校卒業とともに就職するつもりだったが、祖父母が『高卒ではかえってまともな職に就けないから』と、進学させてくれたのだ。
とはいえ当時の俺は自分でもわかるほど神経をすり減らしていて、家族が減っていく焦燥と一人ぼっちになってしまう恐怖に怯えていた。
食うや食わずの日々はもはや死人と同義で、生きながらに死んでいる俺の姿に祖父母は胸を痛めていたのかもしれない。
今は、せめて自分の学費や食費だけでも稼ぐ為にアルバイトをしている。
妹は化学放射線療法を行いながら細い生命線の上を渡る日々が続く。いつかまた、学生生活を謳歌する日を夢見て。
きっと良くなる。そう信じていたのに……
――今では俺がこの世界に居ないんだもんなぁ。
記憶の映像はすでに六畳一間のアパートの中。大学で使用していた鞄を床に放って、夕飯の支度をしている。
そんな光景を眺めていた俺は、言葉にできない思いに胸を締め付けられて痛い。
――思い出せねぇよ……
この先の俺は、眠りについて、また高校へ向かうだろう。アルバイトだってシフトが入っているなら放課後には働いているはずだ。しかし、その記憶は俺にはなかった。
頭の中で直感的に理解する。
ここから先の俺は、もうないんだ。と……
「どうだった? これが君の生前最後の記憶だよ。思い出せたかな?」
場面は暗転。
現実に引き戻されるように、背後から声が聞こえた。
俺は振り向く。
――お前は……
長いうねりのある黒髪の幼女。
ヴィオーシュヌ神で間違いない。
今の俺には元の世界の記憶と、板金鎧に宿っていた記憶。どちらも存在していた。
――神様ってのは、俺をどうするつもりなんだ?
「先に言った通りさ、こちらの世界で生きていくための調整を行うよ」
俺はため息をついて、もう何も映らない暗闇を眺めた。
――あそこに戻るのは出来ないのか?
日本での生活。平凡な毎日を過ごし、たった一人置いてきてしまった妹を想うと遣る瀬無い。
「それは出来ない。あの世界の神は別にいるからね、無闇に手を出す事は出来ないんだ」神はゆっくりと一呼吸して続けた。「それに、君はあの世界では死んでいる」
――死んだ……?
俺はただ首を傾げる。今もこうして生きているこの意識はなんなのだろう。
俺が死んだ言うのなら、どのような最期を迎えたのか、実感がないのだ。
そんな俺の考えを見透かしたのか、神は語り始める。
「死んだ経緯がわからないみたいだけど、単純な話だろう? あの記憶から先は私の世界に……君で言う異世界に迷い込んだ。そうだろう?
同時に二つの世界で存在することは出来ない。魂を失った君の身体は、一人部屋の中でゆっくりと死へ向かったよ」
――そんな……!?
俺は動揺を隠せない。あの部屋で、眠りから覚めること無く死んだということか……そんな、そんな終わり方、納得できるわけがない。
――誰が俺を殺し……いや、それはハッキリしてるのか……俺を殺したのは……
犯人探しの必要は無い。神は凄惨な笑みを浮かべて、歯を覗かせる。
「理解できたようだね。だが誤解がないようにはっきり言葉にしてあげよう。
君の魂を運んだのは私ではない。アーミラさ」
そう、答えは自明の理。
元より隠されてなどいない。
俺を殺したのはアーミラだ。
その事実を突き付けられ、言葉も出ない俺を見下ろして、神は続ける。
「まぁ、そういう事さ。恨むのならば我が娘、アーミラ・ラルトカンテ・アウロラを恨みたまえよ」
パチン。
神は指を鳴らす。
小気味の良い音がこの真っ暗な空間に響いて、この暗闇の世界に光が差し込む。どうやら目を覚ます時が迫っているらしい。
――待ってくれ……!! 最後に、最後に一つ……
「なんだい?」
――芹菜は、俺の妹はどうなった……!?
光に満たされる視界。神は微笑んで応えた。
「いい質問だ」神は愉快そうに手を叩く。「君の妹は、すっかり良くなったさ。きっと向こうの神様が哀れにおもってくれたんじゃないかな。
今は第二の人生を元気に歩んでいるよ」
それだけを言い残して、神は光に溶けて消えていった。しかし、それだけで充分だ。
妹が元気に生きているのなら、こんなに嬉しいことはない。
――そこに俺が居ないこと、悲しくないと言えば嘘になるけれど。




