我らの希望❖4
天球儀の杖から驚異の部屋へ入ると、声を潜めて啜り泣くアーミラの声が聞こえた。俺は階段を一段一段踏みしめて、時間をかけて二階へ上る。
――アーミラ。
「……っうぐ、…はい。……」
部屋の中、ベッドの上で背を向けて座っている。微かに顔をこちらに向けて忙しなく涙を指で払う。
――勿体つけて不安にさせたら悪いから、先に言うよ。
「……っ……」アーミラは目を強く閉じて俺の言葉に身構える。頬を一筋、涙が伝った。
――俺も好きだ。
ドジをして世話が焼けるのが好きだ。
俺にだけ見せるお喋りな姿が好きだ。
泣き虫なのに諦めない性格が好きだ。
長い藍鉄色の髪も、涙に濡れる碧眼も、魔人種特有の白い肌と尖った耳も。
――好きなんだ。
「う、うぐっ、……アギラ、さんっ……」アーミラは俺の言葉に驚いて、大きく開いた瞳から涙が止めどなく溢れてしまう。
アーミラはこちらに振り向いて抱きつこうとしたが、どうやら緊張の糸が切れて腰が砕けたらしく、子供のように両手を広げて俺を呼ぶ。
「……っ、ずびっ…、アキラさん……抱っこ……」
――あらら、ひどい顔だぞ。……ほら拭いて。
アーミラにハンカチを手渡して頭を撫でる。ぐしぐしと顔を拭いて、アーミラは鼻をすすると、俺の体に抱き付いた。
硬い板金の肌。冷えた鉄に頬を寄せる。
――ごめんな。堅い体で。
「謝るのは、私です。……アキラのことが好きです」
――わかったよ。
「……返事はそうじゃないんですけど」
アーミラは不満そうに言う。俺はしばらく躊躇ってから、観念した。
一度言ったなら、あとは何度だって同じだ。
――……俺も好きだよ。
「えへへ」
アーミラは泣き腫らした目で無邪気に笑った。
❖
ガントールは事の顛末を知るべく、天球儀の杖の前で待ち続けていた。
「どうなったんだ!? アキラ殿!!」
現在時刻は午後の三時。
アーミラは顔を洗って今はすっかり気分も落ち着いている。とはいえ内心から湧き出る喜びに自然と笑みがこぼれる。
――聞かなくても……わかるだろ?
俺は照れ隠しに気取った言葉を返し、ガントールの肩を叩く。アーミラの表情が全て語っている。
「天球儀の魔女と首失騎士の二人か。いつかこうなるんじゃないかと思っていたが。漢を見せたな。アキラ殿」
――すげぇ緊張したよ。異世界でこんな事になるなんて。
何の気なしに言った自分の言葉に納得する。異世界で人に好意を持たれたり、好意を伝えたりなんて、できないと思っていた。なんというか、すべてが他人事で、俺が本当にこの世界に介入できることはないと思っていたのだ。
今だってそうだ。全部夢なんじゃないかと思ってしまう。
「ところで、あー。アーミラ」ガントールは仕切り直してアーミラに向く。言葉の歯切れは途端に悪くなる。
「…は、はい。なんでしょう……?」
「改めて、お願いだ。スークレイのことで、さ」
――あぁ……
そうだ。
いろいろな事が起きてしまったせいで忘れていたが、そもそもスークレイの話し相手になりたくて、アーミラにお願いしていたのだ。
「鎧を修復する間、アキラ殿に妹の傍にいてもらう事を許してほしい」と、ガントールは改めて頭を下げる。
――スークレイからも言われたよ。『奪うつもりはない』って。
俺もアーミラに頼み込む。戦えない間はここでやれる事をしたい。
「…問題だったのは、スークレイさんの気持ちではなかったんですけど」アーミラはそう言って俺を三白眼で睨む。「アキラが、私を選んでくれるか……それが不安だっただけです……」
「なんだ、それならもう明らかになったな!」ガントールは俺の肩を叩いて破顔一笑。八重歯を覗かせる。
――ちゃんとアーミラの方に帰ってくるよ。俺はただ、やれる事をしたい。
「……そう、ですか……」アーミラは花弁のような唇に指を当てて、少し考え込み、やがて頷く。「そこまで言うなら、わかりました。……必ず私の元に帰ってきて下さいね」
アーミラは例に習い、俺の肩を軽く叩いた。
❖
アーミラの一件によって予定は後ろにずれ込み、俺の体を修理に出すのは夕方になってからだった。
場所はリナルディ邸のアーミラの部屋。絨毯の上に丁寧に並べられた手足や頭、そこに俺は寝転んでいる。
魔法によって俺の板金鎧は細かく取り外され、俺は初めてこの世界で目を覚ました時と同じ、四肢を失って胸像のような姿になる。
「あの時よりも傷だらけですね」アーミラは慈愛に満ちた瞳で、床に転がる俺の胴を撫でた。
――頭も取れて、この胴も穴が開いてるからな。
「これだけバラバラにしても平気ということは、やっぱりこの胴体に魂が宿っているのでしょうけど、『核』はどこでしょうね」
――核?
俺はアーミラの言葉を繰り返す。
「核は、魂が宿った箇所のことです。アキラはこの鎧によって限界を持たない不死の肉体を手に入れたのですが、唯一の急所があります」
――それが核……
アーミラは頷く。
「核によって板金鎧は会話や行動を可能にします。いわゆる脳ですね。それを失うと板金鎧はただの物に戻ります」アーミラは目にかかる前髪を指で撫でつけて、俺の胸部の金具を丁寧に外す。「核だけでは何もできない石ころと同じです。手足はもちろん。ないものは動かせませんから、コミュニケーションは出来ないでしょう」
――それは、恐ろしいな。
核だけでは何もできない。おそらくそれは、脳だけでは五感全てが機能しないのと同じだ。
――考える石になるってわけか。
「まさに、その通りです。……少し怖いでしょうけれど、これを機に核を探しますね」
アーミラは胸部の全ての金具を外すと、ひとつながりの板金を取り除いた。俺は背中と首鎧だけになる。
「会話は出来ますか?」と、アーミラ。
――あー。あー。……随分声が小さくなった。
俺の声は消え入りそうなほど小さい。邸の外で雨が降っていたら、かき消されてしまうだろうほどの小さな声量。
――それに、視界も悪い。真っ暗だ……あ、アーミラ? そこにいるよな?
「はい。います」
アーミラの声も、五体満足の時よりもだいぶ遠くに聞こえる。
――まるで海の底だ。
俺は呟くが、この声はアーミラには聞こえてないらしく、返事はない。
「たぶん、核の場所がわかりましたよ」アーミラはコツコツとおそらくは指先で俺を叩いたのだろう。感覚が酷く鈍いため、はっきりとはわからない。
――どこだ?
「恐らく、首鎧に嵌め込まれた鉱石です。ここをこれから外しますね」
反応が無くなったら、これが核だということですから。とアーミラが言っているが、その声は膜の向こうのように感じられる。そして、取り外される振動を微かに感じたのを最後に、俺は真っ暗な空間に閉じ込められた。
闇というには悪意もない。
ただひたすらに黒い世界。
……これが、考える石。
声を出しているはずなのに、耳は自分の声さえ聞こえない。ただ一つの思考として内部に存在するのみ。
視界は一寸先さえも闇……いや、自分の体と闇を分ける境界さえ持たない。一つの無の世界に閉じ込められている。
怖い。
もう、戻して欲しい。
アーミラはどこだ?
いつまでこのままなんだろう。
もしかして、核だけになったらもう戻れない……?
まさか……そんな……。
おーい。アーミラ。戻してくれ。
その言葉は声にはならない。
何も聞こえない。
考える石。
怖い。
「これでどうですか?」
突然アーミラの声が聞こえ始めて、俺は咄嗟に叫ぶ。
――ア、アーミラ……! いるんだな? いるんだよな!?
「わっ……なんですか?」
目の前にはアーミラが映る。かなりぼんやりとした視覚情報だが、考える石でいるよりはマシだ。
「ほんの数秒、核だけにしてしまいました」
――数秒……? ……頼む。あれはやめてくれ。……予想していたよりも怖すぎる。
「すみませんでした、アキラさん」アーミラは申し訳なさそうにそう言って、しばらく黙ってしまう。
――何をしてるんだ?
「えっ? 抱きしめています」
――そうなのか……黙っているからまた不安だった。
俺はほんの数秒の恐怖が恐ろしくて堪らない。抱きしめてくれているはずのアーミラを感じ取れない。鎧に戻ったのではないのか?
「今、アキラは核だけを壷に入れて保管しています。声を出すには反響する空間が必要なのでしょう」
――だからアーミラが触れているのがわからないのか。
「会話ができるということは耳も大丈夫そうですね。……視界はどうです?」
――首失騎士状態の時よりもさらに悪い。ぼんやりとしかわからない。アーミラの顔も見えないぞ。
「どうしましょう……もっといい入れ物があれば改善できるかもしれませんが……
――それはやめてくれ! これで……いいから。
また核だけにされたら俺は泣き叫びそうだ。恐怖のあまり声を荒げてしまう。
「…わ、わかりました。すみませんアキラさん。怖かったですよね」
――俺も、ごめん。本当に怖かったんだ。
アーミラは俺を見つめているらしい。よく見えないが、悲しい顔をしているように思えた。
「……せっかく好き同士になれたのに、ごめんね。アキラ」
――気にしなくていいよ。早く鎧を治してもらおう。
「それも、そうですが、やっぱりスークレイさんに預けるのは正解ですね」
――ん? なんで?
俺は理由を問う。アーミラの性格からしたらずいぶんと珍しいことを言う。
「…だって、驚異の部屋に入れていても、アキラは一人きりで寂しいでしょうから」
――なるほど……そうだな。
アーミラの言葉に深く納得する。寂しいのはアーミラやスークレイだけではない。俺もその一人だ。
「鍛冶屋には話を付けてきた。……これ全部運べばいいのか?」
「ひっ!? ……あぅ、ガントールさん」
遠くからガントールの声がする。視界は壷の口から覗ける範囲しかないため、部屋の天井とアーミラの横顔しか見えない。俺はぼんやりと会話を聞き流す。もはや俺にやれる事はない。
「鎧は全て、ぶ、分解しました」
「おう。……って、なんで壷を抱いてるんだ?」
「……ここに、アキラがいるので」
「へぇ」ガントールが壷の口を覗き込む。「アキラ殿ー?」
――なんだ? ガントール。
「おお、返事が来た。喋る壷だな」ガントールは愉快そうに言って、続けた。「鍛冶屋に修理に出すから、恐らく十四ソはその状態になりそうだ」
――そんなにかかるのか!?
「早い方だぞ。これから実物を見て具体的な修理工数を見積もるだろうし、もっとかかるかもしれない」
ガントールの言葉に俺は愕然とする。
こんな不自由な壷で二週間以上を過ごすなんてぞっとしない。
――その鍛冶屋の腕は確かなのか?
「むむむ、失礼な。リナルディ家お墨付きの鍛冶屋だぞ。頑固爺だがラーンマク一だと私が保証しよう」
――その間はお前らは戦いに行くんだよな?
「もともと三女神に板金鎧はいないからな。この邸を生活拠点にはするが、明日から本格的に戦況に介入するぞ」
――そうか。……アーミラを頼むぞ。
「もちろん」ガントールは壷をコツコツと叩いた。
「…守られるだけの私ではないですけどっ」アーミラは頬を膨らませる。「毎日、夜には帰って来ますから」
――あぁ、待ってるよ。
❖
アーミラに運ばれて俺は部屋の外へ出る。後ろではガタガタと物音がして、恐らくはガントールが鎧を運び出しているのだと思われる。
――どこに行くんだ?
「スークレイさんの所に。アキラを壷に移したと教えなければいけませんので」
――そうか。
俺は素直に感心する。約束を守る精神は純粋に美徳だ。
アーミラに抱かれて俺は移りゆく景色を見る。相も変わらずピントの合わない視覚はリナルディ邸の天井を映す。硬い石窟の床に絨毯を敷いている為、階段を上る足音さえ俺には聴こえない。
歩く度に天井との距離は上下して、後ろに流れる。
「……あら。青い魔女」
「ひぅ」
会話が聞こえる。冷たく響く女性の声はスークレイのものだろう。そして小さく悲鳴をあげたのはアーミラだ。
「ボロ鎧が貴女のことを探しておりましたわよ」
「そ、それはもう。……解決、しました」
「ならいいわ。…寧ろ未だに解決していなかったら愚図も良いところよ」
「……」
「…で? 何しにここへ来たのかしら? 意味もなく子供を抱くみたいに壷を持っている訳ではないのでしょう?」
「……あ、アキラが。……アキラがこの壷に……」
「あら」スークレイの声は棘を隠し、穏やかになったように感じられた。とても微かな、ともすれば気のせいだと片付けられる程度のものだ。「この壷にアキラが? まるで遺灰みたいに小さく収まったわね」
「……そんな風に言わないでください。アキラからも、何か言ってよ」
アーミラは壷の口を覗き込み、俺の視界はアーミラの碧眼に覆われた。
確かに、手も足もなくなったとはいえ黙っている理由はない。
――スークレイ。俺だ。
「ボロ鎧よりは小綺麗になりましたわね」
――しばらくはこの姿で過ごすことになる。
「青い魔女とここに来たということは、貴方はこの邸に置いていかれるのかしら?」
――そうなる。……だよな? アーミラ。
俺は一応アーミラに確認すると、こくりと頷いた。
「私が邸にいない時だけ、ですからね……」
「わかっているわよ。取りはしないわ」
ここでスークレイが咳き込む声が聞こえる。
「それで、自分で動けないアキラを、どこに置こうかと」
「あぁ、……えぇ。そうね。邸の玄関広場に一つ卓を用意できるかしら。開け部屋から埃を被っているものを使って貰って構わないわ」
「……わかりました。そこにアキラを置いておきますね」
「お願いね」スークレイは短く切り上げて、また咳き込み、足早に部屋の中へ引きこもってしまった。
――すまん。
俺はアーミラに謝る。アーミラ本人からしてみれば、不愉快極まりないだろう仕打ちだ。それに、今の俺は自分では何一つままならない壷だ。卓の用意はアーミラ一人でやらなければならない。




