板金鎧に宿る者❖2
厚い雲に月は見えず、吹き付ける風には霰が混じり屋根を叩く音が耳鳴りのように響く。
チクタク王宮の中庭に、俺と芹那は降り立った。
すっかり涙の乾いた芹那はほとんど落下する速度で土を踏むと衝撃を膝で逃し、発条のように一足飛びで廊下を跨いで引き戸を開け放った。
「アーミラ!」
ばっ、と灯盞が巻き起こる風に横薙ぎに揺らめいて、床に散らばる書類のいくつかが舞い上がる。
その中央でアーミラは膝を折り、俺の首を抱えていた。周りにはガントールとオロルが立ち、困り果てた顔のまま芹那を見る。後ろにいる俺は、妹の広げた翼によって都合暗幕のように隠されている。
「セリナさん……」アーミラの声に活力は無く、聞いてすぐに泣いていることがわかる。
「急に飛び出して、どこに行ってたんだよ」ガントールは続ける。
「打つ手も分からぬままに、アキラの首は動かぬ……」オロルが言うと、アーミラの啜り泣く声が続いた。
しかし芹那は泣きはしない。泣く必要がないからだ。
灯に照らされる中で悲観にくれる三人と、夜の中で希望を持ち帰った芹那。その明と暗がとても対照的に映える。
「すまん、心配かけたな――」
俺は芹那の横に歩み立ち、腰に手を当て胸を張った。瞬間空気が張り詰める。
金色の板金鎧。
継承者であればその意味はすぐにわかる。
驚いて見開かれた視線。
開いた口は塞がらない。
芹那は続ける。
「アキラ見つけた!」
❖――視点:真の神
アキラを見送り、荒れ果てた下界を眺めながら来たる結末を見守る。彼の選択はどのようなものになるだろうか。
ここ数日のアーミラは、国の再建を図るべく山積みの問題と向き合い、方々に企図をしたためた書簡を作成する日々に追われていた。察するに心労は覚悟の比を超えていただろう。その夜半、アキラの首が静かに硬くなっていたことに気付く。
様々な後悔の念に駆られて慟哭するアーミラに対して誰も宥める術を持たない。何よりオロルもガントールも酷く狼狽えているのだから当然だ。日々に追われて龍血晶の破片を、つまりアキラの身体を捜索することを後に回していた己の決断を責めた。
だが、しかし――我は笑む。
深き塔へ降り立つアキラを認めた者がいた。龍体の瞳が備えた視覚は人の比ではなく、荒天の夜を滑る金色の光を見逃さなかったのだ。かくしてアキラは再開を果たした。
金色の板金鎧となって、セリナが連れてきたのだが……
「……本当に、……アキラさんですか……?」
アーミラは震える声で問う。状況を飲み込めていないのだろう。胸に抱いた彼の首は今も目を開いてはくれない。
一方で鎧もまた異変に気付いた。目の前に対したアーミラの姿は記憶と違う。羽織りものかと思っていたそれはよくよく見れば翼人の翼。藍鉄の髪は白んで、額からは頭角が覗く。
ここで我はますます笑みを深める。というのもアキラはそこで男を見せたのだ。
彼は喉元に迫り上がる疑問や戸惑いを呑み込み、黙って首に巻いていた白布を巻き取ると、ゆっくりと頭を外した。それを脇に抱えると一呼吸の間を置いて堂々と勇み立つ。
鎧の内側には人はおらず、がらんどうである。
彼は自身の存在が嘘偽りなく本人であることを言外に示しながら、それを理解させるに十分な時間を置いてこう言った。
――俺はここにいる。
ただ一言。彼は『ここにいる』と言った。
それは肉体を失い、鎧となった姿では意味が通らない。ここにいないのだから。……しかし、長く生活を共にした三女神継承の彼女達には霹靂のように理解できた。
『ここにいる』とは、魂の在り処を指しているのだ。幾度となく傷付き、肉体を失ってなお燦然と輝く自我の連続性の証左。なんとも洒落の効いた返しである。
首が活動を止めたのは、つまり魂が鎧に移っているのだと悟ったアーミラはここで再び涙を零す。安堵の涙であった。
――首を……
鎧は一歩歩み寄り片膝をついて腰をかがめる、アーミラは目をこすって彼の首を掲げた。
目線の高さより上に、そしてゆっくりと降ろして首は鎧の襟元に収まる。
神経が繋がると、閉じ合わされていた瞼を瞬かせて視力は明瞭。アキラは取り戻した顔で微笑んでみせた。
「うー、あー、おほん。……ほら。俺はここにいる」
アキラは立ち上がると両手を広げ続ける。
「ただいま」
「お……っ、おがえり、なさっ……ぐ、うぅ」
アーミラは口をへの字に曲げて泣き笑いの表情。瞳は疲労に隈を作って酷い顔だった。その様に皆も思わず顔をほころばせる。
「あらら、相変わらず泣虫だなぁアーミラは。随分と見た目が変わってたからびっくりしたよ……何があったのさ?」
優しく問いかけるアキラに対して、アーミラははっとして顔を隠した。オロルは何かを言いたげな表情で一歩踏み出そうとしたが、止まる。アキラと目が合ったからだ。
心配ない。その目は柔和に、そして超然とした余裕を感じさせた。オロルは息を飲んで引き下がり、ことを見守る。
アキラは掌で髪をかきあげて額を晒すと、アーミラの顎に手を伸ばす。
「顔を見せて。それだけで全部わかるから」
「ぅぐ、アキラさ――」
こつん。と、引き寄せたアーミラと額を合わせる。
突然の事にアーミラは目を見開いて戸惑うばかり。ただ安心させるためだけにしている訳ではないということは表情を見れば明らか。アキラという存在が人の域を逸していることを悟る。
「なるほど……その姿が本当の姿だったんだな」アキラは呟く。額を合わせただけで記憶を読み取っているのだ。
「隠していて、ごめんなさい」アーミラはそっと額を離して、後ろめたさに俯いた。が、アキラはそっとその背に手を回して抱きしめる。
「謝る必要なんかないよ。全部わかった。……全部全部わかったんだ」
その言葉はどこまでも優しく、角に触れる指は慈しみに満ちていた。
「長い道のりだった。本当に――」
アキラは果ての見えない夜の空を見上げる。
想いを馳せるのはこれまでの足跡。
「――掴みとれたものはそんなにない。むしろ失うばかりだったよ。
でもさ、全部が嫌な思い出だって言い切れないんだ。俺はアーミラを愛してるんだ。きっと、マナと同じようにね」
「アキラさん……」アーミラは呟く。
「『さん』はいらない。アーミラ、俺の名を呼んでくれ。本当の名を呼んでくれ」
「あ、……慧……」
「そう。空を滑る星という意味を持つ『彗星』。そして星に願いを込めるのは『心』……それが合わさって、『慧』」
それは天球儀を継承したアーミラにとって、運命的なものを感じさせた。涙もすっかり収まって、アキラはそっと睫毛を撫でる。
「俺が俺である意味が、この世界に来た意味が、わかったんだ」
真実を明らかにして、真正面から向き合うこと……それが、やるべきこと。
理性的に受け止めて、龍として理を正すこと……それが、やりたいこと。
その二つが一致した。
故に決断の時。
「神よ! そこにいるんだろう!
俺は答えを手に入れた!!」
アキラは声を張り上げて立ち上がる。
「慧! 待って!」アーミラは引き止める。「何をするつもりです……!?」
翼を広げて、アキラは振り返る。
その目には覚悟の灯を宿していた。
「決まってる。アーミラが笑って生きていけないなら俺がここにいる意味がないんだ。
君のため、そして何より俺のために……もう一度世界を壊すよ」
我は笑む。
❖
アキラは龍に姿を変えた。およそ人一人が持つ質量からは有り得ない程の巨躯。緋緋色金の鱗が精緻に噛み合い顕現した雄々しき理の龍は、その身を削って箱舟を創造したのだった。
『もう一度世界を壊す』
その言葉にガントール達は血相を変えてアキラの背を見つめるが、首長の龍が放つ神聖さを前に畏怖の念に駆られ近付くことはなかった。その横を突っ切って駆け寄るのはアーミラだ。
「慧!」
アーミラは鱗伝いに駆け寄って回り込むと、頬を上気させて吐く息白く、大きく前に傾いだ龍の首の先を見上げる。龍はぐいっと顔を落としてアーミラを見下ろした。
「どうしたの?」呑気な返事だった。
「どうしたのって、本当に壊すんですか? あの大きな箱はなんなんです?」
指差す方向、夜の闇のなかにとろりと輪郭を立ち上げるのは巨大な立方体。アーミラはその大きさから、それが箱舟であるとわかっていない。もしわかっていたとしても、何に使うものかわからなかっただろう。
「あれは箱舟さ。星を砕くからにはここら一帯は海に沈むことになる。みんなを乗せてあげて」
縷々としたアキラの言葉。当然のように口にした言葉の衝撃は凄まじく、決意は固いのだと悟る。
「……本気、なんですね……?」
「あぁ……」
アキラは遠くを見つめる。暗雲の切れ間、山陵の果てに望む明日の予感に目を細めた。
「もう、十分だろう? 悲しみを知った。痛みを知った。いい加減、人々は赦されるべきなんだよ」
「……それって……」
アキラは歯を剥いた。龍の表情は悪戯に笑みを作ったのだ。
「言ったろう、心配いらないって。
アーミラは俺の世界を変えてくれた。だから次は、俺がアーミラの世界を変える番だ」
始まるよ。
世界の終わりが。
びょう――っと、風に煽られてアーミラは身を屈める。目を開けばもうアキラは空の彼方まで飛翔していた。
胸の高鳴りを抑えて、踵を返す。
「ガントールさん! オロルさん! 国のみんなをあの舟に!!」