天球儀は測らない❖12
ユタは私の前で膝をついた。
「これまでのこと、側で聴いていた……まさか我ら神族がそのような悪事に手を染めていたとは……知りもしなかった……!」
手を付いて床に額を擦り付ける。陳謝に伏して啜り哭く現王の姿に私はただ戸惑う。
「や、やめて下さい……もう終わったことですから……」
「いいえ、これはけじめなのです」セラエーナは翼を引き摺り膝を折る。「ザルマカシムの怒りも、無理はありません。最早我らは、民を導く王に値しません」
二人は腰を折り深々と頭を床につけた。
刎ねられても構わないと細首を晒し、小さく震えていた。垂れた髪から覗くその首には傷一つなく、これまで神族がいかに不可侵であったか、高貴であったかがわかる。目眩がするほどに滑らかな肌だ。
一歩、二歩と覚束ない足取りで後ろへ下がりながらも、翼人の小さく床に丸まった姿を眺めていると、何故だか次第に憤りを覚えた。奇妙に乖離した意識に思うのは、神聖さの崩壊と、その姿がいかに衝撃的であったか。
一言で言うなら、目の前の翼人が惨めに映ったのだ。こんなものに私は命を掛けていた――湧き上がる怒りの念はそれである。
傷だらけの私と、傷一つない二人が同じ翼人の血を引くのだと思うと、理不尽に思えてしょうがなかった。
「簡単に、押し付けないで下さいよ……」
私は言い放つ。洟をすすり、泣き腫らした目で見下ろす。
「死にたいのであれば、人に頼らず自らの手によって行われるべきです」
セラエーナは驚いたように顔を上げてこちらを見る。心外だとでもいいだけだ。
「だって、そうでしょう? あなたたち神族は散々好き勝手に人の命を振り回して、都合が悪くなれば卑しく許しを請う!
『王に値しない』? ……そんなのは二百年前にわかってたことでしょう!?
私達が命をかけて戦っていた時、どんな気持ちで生きていたんですか? 他人事のように前線を眺めて安穏と過ごしていたんでしょう!?」
「そんな!」ユタは躙り寄る。「知らなかったのだ……! 今この時まで、そのような歴史があるなんて――」
「縋らないで!!」私は叫ぶ。「裁かれて然るべきだと言いながら、結局背負う覚悟なんてないじゃないですか……! 全てを私に押し付けてるじゃないですか……っ!!」
私は怒りに身を任せ、流れる涙もそのままに二人を睨む。そうでもしなければ心が潰れてしまいそうだった。
「アーミラ……」
重苦しい空気の中、ガントールは心配そうに私に声をかけてくれる。気付けば頬を伝うのは涙だけではなかった。怒りのせいで角の薄皮が裂けたか、襟元まで血でじっとりと濡れていた。
「……やりますよ……私が平和な世界を作ってみせます」
強がって、覚悟を決めて、吐き捨てる。
もうここにはいられない。私は逃げるようにその場を後にした。
❖
チクタク王宮、昼御座に一人逃げ帰る。
セリナは怪訝そうに血を流す私を見つめ「どうしたの」と訊ねた。
その優しさに気が緩んだか、胸咽ぶと喉を震わせてその場に座り込んでしまった。
「わ、私は……っ、一体どうしたらいいか……」
拳を固くして込み上げる感情を抑えつける。
とにかく吐き出して楽になりたいのに、言葉がうまく出てこない。どこから話せばいいのだろう。どうすれば彼女にこの心を伝えられるだろうか……
しかし言葉はいらなかった。
セリナは尾を伸ばして私の背に沿わせると、側に寄せるようにして抱き締めてくれた。
少し冷たい龍の鱗。その奥にある彼女の体温。その硬質さは少しだけ、アキラに似ている。
「大丈夫。言葉に出来なくても、言葉に出来ないほど苦しいってことはちゃんと伝わるよ」
思いは思いのままで。
悲しみを知っているセリナは、それ故に私の心を理解してくれた。
どれくらいそうしていたのだろうか、抱き締められていると幾分気持ちが落ち着いた。涙もすっかり乾いた頃、オロル達三人の足音が聞こえた。
❖
「私は……ずっと、どこに居ても、世界の片隅にいるのだと思って生きていました。
親の顔も名前も知らず、幼い頃の記憶も持たず、……そうして誰の輪の中にも属さずに生きて、そして誰の記憶にも残らず死んで行くのだと」
夜。私は皆の前で心根を明かす。
「でも、それは間違いでした。
リーリウスが話してくれた事はきっと真実に違いありません。私は、世界の中心にいたんです」
全ての人種の血を宿す龍人として。
唯一ユグドの血を宿す翼人として。
そして、次女継承者の一人として。
「アキラをこの世界に喚び出せたのは、あるいは運命なのかもしれません。私の内に流れる血そのものが召喚の要因になったのかも……
とにかく、これから先の世界を導くには、もう私しかいません」
決意は固い。
しかし、オロル達の表情は晴れない。
「『私しか』……か」オロルは言う。「わしは、その言い回しは好まぬ。本当にお主だけじゃろうか、最善は尽くしたか」
「それは、わかりません……これまでだってできる事はやってきました。でも、私たちのこれまでって、全ての選択が正しかったでしょうか?」
最善を尽くしたと思っても、世界はいつだってそれを上回っていた。
正直、『あの時、ああしていれば』と後悔したことも多い。選択を間違えたこともあるだろう。
「いつかアキラさんは言っていました。『俺は勇者じゃない。英雄でもない』と――私達は未熟で、時には過ちを犯します。きっと多かれ少なかれ、全員が罪を背負っているのです」
天秤の長女継承者として、その言葉に思うところがあったのだろう。ガントールは目を見開いて、己が手を見つめる。
「全員……罪人……」
私は頷き、言葉を続ける。
「でも、他と違うのは、私達は貫いたということです」
何度道を踏み外しても、挫けて倒れても、私達は信じた道を貫き通した。
「そして確かに、戦争を終わらせた。
間違いなく、私達にしか成し遂げられなかったことです」
「だから、これからも貫くと?」オロルは問う。
「はい。アキラが目覚めた時、平和な世界を見せてあげたい」
私の言葉に二人は微かに驚いたような顔をして、互いに目を見合わせる。そして腕を組んで何か考えこむと、表情は徐々に柔和になる。
「……ふん。少し似てきたか?」オロルは笑う。
「え?」
「……ちょっと思った」ガントールも口の端を吊り上げて相好を崩す。
「最初に出会った頃とは大違いです。強くなりましたね。アーミラ様」と、カムロ。
「アーミラ、あんた兄貴に似てきたかもね」セリナが続いた。
呆気にとられた私に、カムロはやれやれと嘆息してみせる。しかし表情は明るかった。
「これだけは言っておくぞ。アーミラよ」オロルは立ち上がる。「わしら五代目継承者は、誰一人として欠けてはならない存在だ。……もちろん、アキラも含めてな」
「この先もきっと困難が待ち受けてる」ガントールも右に習い立ち上がる。「貫き通すなら、やっぱり『私しか』はおかしいな」
この世界を救えるのは私だけでは足りない。
かけがえのない仲間と共に――私たちだ。
「……手伝って、くれるんですか……?」
私は問う。それは継承者が放棄した大きな使命だ。
「もとよりそのつもりじゃ」オロルは手を差し伸べる。
「当たり前だろ。私達は友であり姉妹なんだから」ガントールは手を差し伸べる。
二人の手を取って、私は立ち上がる。
見つめ合って、頷き合う。
暗雲立ち込める世界に、光明さす道理を通すために。