天球儀は測らない❖10
「言い伝えでしか語られない継承者の存在……父から伝えられた悪夢のような歴史も含めて、私は全部嘘なのではないかと思うようになった。本来生まれ来るはずの五代目暗殺は全て父の譫言で、本当はただの夢物語なのではないかと。
事実、継承者が生まれるとされる年が来ても、報せはなかった。そうだろう? カムロよ」
リーリウスは視線を向ける。約二十年前にはカムロは既に神人種の一員として神殿に生きていたようだ。
カムロは首肯した後、当時の状況を語る。
「確かに、誰もが待ちわびている報せは届くことはありませんでした。
神殿内では継承者が百年周期であるという仮説そのものから間違っているのではないかという説が唱えられ、星占術に白羽の矢が立ったのです。
そして、言い伝えより遅れて十年ほど過ぎたとき、神殿に神器が顕現しました」
継承者神器。私の持つ天球儀の杖やガントールの裁きの剣、オロルの柱時計が十年遅れて神殿に現れたという。
「だが、神器が顕現した後も継承者は現れなかった。
神器は何も語らず、まるで嬰児殺しを咎めるようにそこにあり続けた。
言い伝えは現実に起こり、私は昼夜を問わず継承者嬰児を探した。父が語った話が本当ならば、『継承者の居場所は天球儀の杖が示す』と教えてもらったことがある……なのに、杖は座標を示してはくれなかった」
「それは今から遡って何年前になる?」オロルは問う。
「約六年前までのことですね」カムロが答える。「それから突然、なんの前触れもなく杖が座標を示したのです」
六年……? 私は密かに顔を顰める。この違和感はどうやら私だけのものらしく、周りでは平静としたものだった。
リーリウスは続ける。
「そこには嬰児とは言えぬ歳の貴女達がいた。殺すには手遅れなほどの力と才覚を蓄えてな」
ガントールは「あぁ」と声を洩らす。「神殿からの遣いが来た時のことは覚えてる……妙に素っ気無い態度だと思ったもんだ」
その言葉に私も思い出す。浮遊する杖に導かれ現れた遣いのこと――その見下ろすような冷ややかな視線を。
祝われて然るべきことのはずなのに、遣いの者は白衣の上から外套を纏いまるで衆目を集めることを嫌うような出で立ちであった。
あの態度、今となっては納得がいく。
遣いの者は隠密斥候で間違いない。可能なら、あの時だって暗殺を狙っていたんだ……!
「……これが、継承者嬰児暗殺の真実だ。
しかし伝えるべき事はまだ残っている」
リーリウスは背凭れに身を預けて天井を見上げ、静かに視線をこちらに戻す。
鼻越しに眺めるその目は、私を見つめていることに気付いた。
「アーミラ・ラルトカンテ・アウロラ……あなたは此度の継承者の中でも行方を掴むのが難しかった。何しろ座標の反応が弱く、流浪の民に紛れて雲隠れしていたからな」
私は顰めていた顔を正して小さく頷く。
ガントールとオロルに神器が渡ったのが六年前。私はさらに遅れて四年前となる。当時のことは忘れもしない。師匠の死と、刻印継承とと、アキラとの出逢い……
リーリウスの話はザルマカシムの手記にある『行方不知の次女継承』について踏み込んだのだ。
「二年間捜し続けた。なぜそんなことになったのか、理由がある……逃亡を共にした同行者の存在だ」
同行者、となると心当たりは一人しかいない。師匠マナ・アウロラだ。
師は私に生きるためのあらゆる事を教えてくれた恩人で、物心つく前からずっと生活を共にしていた。だがリーリウスの言い方はまるで怨みがましい響きがあった。
「逃亡……? 師匠は継承者嬰児暗殺を知っていたのですか?」私は不満顔を隠さずに言う。
「逃げる相手は私ではなかっただろう……
アーミラよ……隠している真の姿を、ここで見せてくれないか」
その体を見れば明らかだ。と、リーリウスは言葉を続けて、賢しげな眼差しをこちらに向ける。一人だけではない。様々な想いを込めた皆の視線がこちらに集まっていた。ことカムロに至っては困惑するばかりで、オロルやガントールのそれは、心配してくれているのだろう。不安げに揺れていた。
何故リーリウスは私の隠していた姿を知っているのか。口から出まかせというには確信めいたものがある。なにより、オロルやガントールが動揺を見せてしまった以上、知らぬ存ぜぬでは通用しない。
オロルははたと我に返って下唇を噛み、不安げに私を見つめる。
私は逡巡しながらもそれぞれの視線に対して頷きを返し、束ねていた髪をそっと解いた。
身に纏っている法衣の釦を外し、背中を晒すと息を深く吸い込み、目を閉じる。
熱を帯びた痛みが走る。内側から膨らみ、押し上げられる感覚が襲う。
額から滴る血が睫毛に溜まり、頬へ伝う。
薄皮で塞がりかけた背中の皮膚がぱつりぱつりと裂けるのがわかる。蛹から蝶へ姿を買えるように、翼が少しずつ伸びていく。最初の頃よりもずっと出血が少ない。
露出した角が外気に晒されて、熱が冷めていくのが少し心地良い。既に何度かこの姿になっていたせいか、痛みにも慣れてきた。
指先で涙と血を拭い目を開く。息を呑むカムロと、賢しげな眼差しを保つリーリウスが見えた。
「やはり、そうか――」リーリウスは繰り返し頷き、呼吸は浅く、早くなる。「――ユグドの血を引く者……やはり生きていたのだな」
カムロは驚き青褪める。
リーリウスは続けた。
「隠密斥候に天帝令を発令し、嬰児暗殺を試みた。しかし、誰一人として刻印を持たず、継承者の行方が掴めなかった。
……その時を同じくして、私は禍人種からもユグドの血を持つものが行方を眩ましたと知ったのだ。血眼になって探しているとな……
貴女とその同行者が逃げる相手は、私ではなかったということだ」
「……神族の血を引いていると知りながら、助けることはしなかったのですね」と、私。血混じりの涙が頬を滑るのも構わず、厳しい視線を飛ばす。
リーリウスは首肯する。
「エンプレスは、攫われてからしばらくして、神殿に返されたのだ。心と純潔を失ってな。
龍人の間に生まれた子や、そのまた次の子がどうなったのかはわからぬ。いずれにしろそのほとんどが形態異常を引き起こし長くは生きられないだろうが、重要なのはそこではない。
その娘が内地に身を隠していること。
その身に刻印を宿していること。
嬰児暗殺に失敗した今、ここに来て行方を追うこととなった……あらゆる運命の因果は、その一人の娘に収束している。わかるな」
リーリウスの言葉に、私は辛うじて後退ることはなかった。受け入れ難いのは承知、思考の隅で妙に冴えた意識が直感的に理解した。
エンプレスの産み落とした子、その子が産み落とした子……形態異常を繰り返し、全ての血を掛け合わせ、額には龍の角。背中には翼を宿した。
これは、次女継承にまつわる話を逸脱している……カムロ達の視線が痛い。
私が師匠と歩いてきた旅は、運命から逃れるための逃避行だった。
龍人領では全種族の血を持つ唯一の存在として生まれ、前線を抜けて神殿側に逃げ果せては、今度は刻印を宿すこととなった……ユグドの血と継承者の使命を同時に宿して現れたのだ。
翼人と龍人との間の唯一の娘として――
次女継承者の刻印を持つ魔女として――
私という存在は、神殿と龍人領の双方から命を狙われていた。