天球儀は測らない❖8
「……確かに、彼のものですね……」
カムロは呟くように言う。
「なにが書いてありますか」と、私。
「今のままでは読めません。一見して暗号の手口から彼のものだと判断しただけです。
すみませんが、火を頂けませんか」
カムロの言葉に諾々と従い、私は地下礼拝堂の壁に掛けられていた灯盞を一つ拝借するとそれを手渡す。
一体何をするのかと注意深く見守る私とオロルの前で、あろうことかカムロはおもむろに手記を口に咥えて留紐を乱暴にちぎり始めた。
「ちょっと……!?」私は思わず声をあげる。
「ご安心ください。必要なことなのです」
必要なこととは……そのように頁を分解して大丈夫なのだろうか。私の不安に対して、カムロは説明してくれた。
「この墨に細工があるのです」
見ていてください。と、一枚目の羊皮紙を灯盞の火に燻らせる。私は固唾を飲んで見届ける。
ちりちりと細い煙りが昇り羊皮紙は炙られ、黄変していた墨が変化を始めた。
それは、所によっては無色となり紙面に痕跡を残すことなく消え去り、僅かに残された一部は黒々と色を取り戻して浮かび上がる――炙り出しだ! しかし、浮かび上がる文字に馴染みはなく、依然として読むことができない。
「魔呪術言語でも常用語でもないですね。まだ仕掛けが?」私は問う。
「いえ、この文字は私とザルマカシムで作ったものです。仕掛けは特にありません」
二人だけの共有言語。しかし、そこにはマーロゥという三人目の存在があった。他者に伝わることを避けるための暗号でありながら、他でもない敵の一人にその言語が共有されてしまっていた。
近衛副隊長が間者と繋がりを持つことは重大な罪だ。立ち所に斬り伏せられるべき行為だったはず。ザルマカシムは何故危険を冒してまでそのような行動に出たのか。
それがいよいよ解読される。
私とオロルは固唾を飲んで見守る。カムロは首肯してその暗号を読み解きはじめた。まずは一頁目の走り書き。
「『約定ハ破ラレタ』……? 『次女継承ノ印持ツ者、行方不知』」
「……約定? 行方知らず?」
私は首を傾げる。オロルは表情を固くして次の言葉を待っていた。なにやら不穏な始まりに、空気が奇妙に張り詰める。
「続けてくれ」
「承知……『帝ヨリ発令サレタ嬰児暗殺ニ失敗。我、コノ事実ヲ奥之院ヨリ入手、以後、独断デ調査ヲ開始』……ちょっと、待ってください……これは、そんな……」
カムロは握る手に力がこもり羊皮紙に皺を作る。表情には動揺が広がっていた。
オロルは努めて落ち着いた態度でカムロの手に指を這わせて紙を取る。何が起きているのかわからないが、重要なものだ。破いてしまってはいけない。
「落ち着くのじゃ。ここまでの話はつまり何を伝えているのか、わしらにも整理させてくれ」
カムロは尚も全身に力がこもり、肩を震わせる。
「整理も何も、この文章が意味しているのは『継承者の印を持つ嬰児を殺す』という天帝令が出されていたということですよ……一体いつの話なのでしょう」
「ふむ……心当たりは――ある」オロルは言う。「継承者の刻印のことじゃ。わしらの代は、生まれた時は印を持ってはおらんかった。……もし、嬰児暗殺を企てていたことが事実であれば、何か因果があるかもしれん」
「そんな……」私は身を竦ませる。
嬰児暗殺だなんて……想像だにしない命の危険が迫っていたことに今になって怖気が走る。神族側が私達継承者に手を掛けようとしていたとは、にわかには信じられない。
「これが事実なら、ザルマカシムが神族を裏切る動機としてはあり得るかも知れません。ひいては神殿そのものの存在を揺るがしかねないことですよ。
……ですが、この天帝令は私自身、把握しておりません。この手記そのものの信憑性が疑わしいですね」
「『嬰児』というなら、わしらが赤ん坊の頃じゃ。当時の神殿ならば実働隊は神族近衛ではない」と、オロル。
その言葉にカムロはひらめいた。
「そうか、矛……! 隠密斥候隊に発令されたものということ!」
「静かに、外に聞かれたらまずいじゃろう。
悪いが場所を変えるぞ。アーミラよカムロに肩を貸してやれ」
❖
地下礼拝堂からカムロを連れ立って、私達は二階へ上がる。中庭に突き立てたまま安置された天球儀の杖の中、驚異の部屋へ移動した。
一階書庫の棚を端へ押しやって文机と灯盞を置くと、そこにばらした羊皮紙の束を積んで次々と炙り出していく。
「一枚目の内容なのですが」私は言う。「『次女継承者の行方が分からない』って、どういう意味なのでしょう」
「言葉通りなら、アーミラ様、貴女のことでは……幼少の頃の記憶はないのですか?」
カムロは問い返す。確かに私の事を質問しても、それを答えられる人はいない。
なにより、私の過去を知るために手記を解読し、ここまで漕ぎ着けてきたのだ。
「ずっと旅をしていました。師匠と国々を渡り歩いて……ただ、その旅の目的を訊ねても、答えてくれたことはありません」
「……ふむ。よくよく考えてみれば怪しいな」と、オロル。「何かから逃げていたと仮定することもできる」
カムロは首を傾いで顳顬を指の腹で揉みながら、囁くような声で切り出した。
「言い伝えでは、継承者は百年周期で産まれることになっています。……これは悲しい推理ですが――
アーミラ様の五代目継承者は、本来六代目なのではないでしょうか」
「どういうこと……?」
カムロは言い淀む。代わりにオロルが言葉を継いだ。
「先代の四代目から、わしら五代目が現れるまでは二百年の空白がある。ということは、百年周期で産まれる筈の継承者が現れなかった空白の時代が存在しておるのじゃ。
そしてこの手記に記された嬰児暗殺……二つの事象が意味することはつまり、『現れる筈だった継承者は神殿に殺された』」
「……ッ!?」
そんな……、まさか……。
だとしたら遡って少なくとも百年前、その時点で神殿は嬰児暗殺に手を染めていたことになる。
ありえない。ありえるはずがない。しかし辻褄は合ってしまう。
嬰児暗殺と二百年の空白。そして私と師匠の旅の目的……繋がりようもない世界と私の点と点。それが結びついて線になり、その先にある答えが導かれる――神殿は、黒だ。
「ザルマカシム……貴方どこまで知っているんですか……」カムロは下唇を噛み、呟く。
「殺された本当の五代目継承者の赤子、そして『刻印を隠した六代目』。行方眩まして生き延びた次女継承……ここじゃ。
ここに、アーミラの謎がある」
オロルは語調を強めて励ますように私の手を握る。
出生の秘密。私が私であることの証明。その手掛かりを手に入れた。しかし先行きは暗澹として、とても喜べる気はしない。
恐るべき真実と、その先にある答え。
私は覚悟を決めて次の紙をカムロに手渡した。
「では、読み上げます……
『俺ハ、神族近衛ト云フ身上ヲ利用シテ神殿内部ノ書ヲ調ベアゲタ。マズハ此ノ国ノ歴史ヲマトメルコトニスル――』……次の紙を」
小さな手記では一頁に書き込める情報は少ない。カムロは次々と炙り終えた羊皮紙を取り替えて読み進める。
ザルマカシムが記したこの国の歴史はこうだ。
五百年前――
・禍人種との争い絶えず。獣魔賢の種は山に神殿を築き対抗。初代継承者が現れたのもこの時代である。
四百年前――
・魂の生成について。神殿、心血を注ぎ術を研鑽す。又、当二代目継承者は戦果勝れず。尚一層の研鑽に躍起となる。
三百年前――
・魂の生成について、神殿、成果物を生成す。しかし、結果は自滅。当三代目継承者方が驚異的な成果を上げ、魂の生成は以後禁忌と認定。
二百年前――
・先代三女神継承者に続く躍進。
・蛇堕、災禍の龍が現れる。
・この時代、禍人種は継承の力への対抗策を確立(人魔獣化術式と龍体術式)。そこから彼等は術を発展させ容姿を偽り間者として内地に紛れ込む事態が発生。対抗手段としての『矛』、隠密斥候隊を編成。
百年前――
・神族は隠密斥候に天帝令を発令。継承者嬰児を殺め、親一族郎党もまた闇へ葬る。
「『――以上ガ、此ノ国ノ真実デアル』……」
カムロは震える喉を抑えて唾を飲み込み、それきり黙り込んでしまった。
「……なんと、まあ」
重苦しい沈黙にオロルは脱力して声を漏らす。
「一族郎党も口封じとは惨い話じゃのう……えぇ? この手記に世界の焦げ付きが集約されておるわ」
「ここから先の頁には、各国の座標――六芒星を描くための最適な場所――についての仔細と、マーロゥとの計画についてが記されているばかりです」
カムロはぱらぱらと紙面を流し見て、解読を中断した。必要な情報は取り出せるだけ取り出した。次にやるべきことは……
「神族に問い質す」オロルは断言した。「このくそったれな顛末については、直接聞けばよいわけじゃな」
金色の瞳には憤怒が兆していた。