天球儀は測らない❖7
❖――視点:アーミラ
三日の時が過ぎた。日増しに寒さが厳しくなり、世界はいよいよ冬至を迎えようとしている。
防寒の備えに心許ないチクタクではあるが、一方で良い知らせが一つ。
カムロの容態が今朝方より快方へ向かい始めていた。何度目かの覚醒を認めたのはいつもの如く寝ずの番をしていたオクタと、偶然の巡り合わせか哨戒の手が空いたサハリが立ち合った。
前回と同じように痛みに喘ぐだろうというオクタの予想と覚悟は今日初めて裏切られ、カムロは苦悶に表情を歪めてはいるものの、薄く開いた瞳がこちらを認め、サハリの名を呼んだ。オクタは名を呼ばれない事を口惜しく思いながらもすぐに立ち上がり、私とオロルを呼び出した。
そして今に至る。
「オ、クタ……?」偉丈夫の隆々とした厚い手に肩を触れられ、カムロはやっとその名を呼ぶ。
「隊長……っ、えぇ、私です。……オクタですよ」
地下礼拝堂、カムロは目に力を込めて私達を見つめる。失血の影響か、視力がひどく低下したまま像を結ばないようだ。
サハリから水の入れられた杯を口に当てられ、一口だけをゆっくりと飲み降す。全ての動きは緩慢で、体力は衰えてしまっている。
「後ろにいる方は……
申し、わけございません……目が……」
「いえ、構いません。私はアーミラです。こちらがオロルですよ」私は指で指し示してみるが、それさえ見えているのか怪しい。「どこか痛みますか?」
「痛み……」カムロは朦朧とした様子で繰り返す。「全身が軋むようで。特に左腕は痺れて動きません」
その言葉に私達は静かにどよめいて、目配せをする。記憶が曖昧なのだろう。カムロはあるはずのない左腕が痛むと訴えているのであった。
左腕は失われた。動くはずもない。
つまりその痛みは幻肢痛なのだ。
オロルは努めて落ち着いた声音で言う。
「カムロよ、記憶は思い出せるか? お主の左腕はとうに――」
そこまでを耳にして、カムロはぶるりと身を震わせる。色を失った顔は確かに全てを思い出したことがわかる。
「そう、でしたね……」
右腕は震えながら、左肩を撫でる。包帯で厚く丸められた傷痍は鎖骨の中程から始まり、肩甲骨、肋骨も一部欠損している。つまるところ義手を取り付けるための肉もない。
何一つ覚悟も固まらぬままに戦争は動きを見せて、翻弄されるまま終結を迎えた。カムロからしてみれば気持ちの整理ができないのが当然だ。
繰り返し確かめるように肩を撫でる彼女の沈黙、そして次に出る言葉は何か。
「……少年は、無事でしょうか?」
カムロは言う。
神族ではなく、ただ一人の命について。
「はい、彼は無事ですよ」オクタが答えた。「ですが、親は見つかっておりません……」
「そう、ですか……」
オクタの表情に翳りを見て、カムロはその言葉の意味を悟った。少年は一人だ。
「私達は、この戦争に勝った……のでしょうか?」
カムロは問う。痛切な声と涙に濡れた双眸に私達は言葉を詰まらせる。
私達は勝ったのだろうか?
それを喜べるのだろうか?
僅かな沈黙の末、オロルが口を開く。
「辛勝。というのが正直なところじゃろう。双方に甚大な被害を受けた。おそらく、お主が想像しているよりもずっと酷い被害じゃ」
「想像を……超える……」カムロはそこで、あたりを見回す。「私の部下は……? オクタ、他に誰か生き残ったものはいないのですか? ヤーハは……ザルマは……!?」
「お、落ち着けって」サハリはカムロの肩に手を添える。
「ヤーハバルは、そう、そうです……涙の盃に落ちて……っでも! ザルマカシムは貴方と一緒に逃げ延びたのではないですか? オクタ、彼は無事なのですか……?」
縋り付くような視線。サハリはこちらに振り向いてどうするべきかと困惑したように伺う。
ザルマカシムはこちらを裏切った間者だ。――と、誰の口から伝えるべきか。無言の攻防が続く。出来ることなら部下であるオクタか、こういった場面にめっぽう強いオロルに頼りたい。視線は二人に集中した。
二者間で視線がぶつかる。オロルは頑なに口を開かず首を振った。それに観念したか、オクタがカムロの前に対した。
「『想像を超えていた』んですよ。隊長……
ザルマカシムは……ッ、あいつは、俺たちを裏切っていたんです……!」
「そんな……っ」カムロは戦慄き、左肩に走る痛みに喘ぐ。
オクタの方は形容し難い表情で顔を背ける。カムロは茫然自失といった様子で寝台の上で脱力した。瞳は何を観るでもなく鍾乳洞の天井へ向き、まばたきもせず静かに涙が伝っていった。
オロルは口をひき結んで仕方ないと頷き、地下礼拝堂を静かに後にする。
確かに、今はこれ以上かける言葉を持たない。無理に全てを詰め込んでは飲み込めるものも飲み込めなくなる。ザルマカシムの遺した手記については、日を改めた方がいいだろう。
❖
カムロから離れて、私とオロルは昼御座に座していた。そこにはセリナも同席しているが、ガントールはいない。
「わしの口から話したとしても……あの様子では無為に時間を食い潰す」
オロルは胡座の脚に肘をつき、その拳の上に顎を乗せて怠そうな顔をした。
「無為ではありません」私は控えめな語調で答える。「必要ですよ。少しずつ現実を呑み込む時間です」
「信頼していた部下の裏切り……か、それを吞み込めるまでにどれくらいの時間がかかるじゃろうな」
「それは――」
怪我の後遺症か視力も落ちてしまっている。手記の存在を伝えたところで読めるのかどうかさえ危うい。
「――わかりません。カムロさんの強さに期待するしか」
オロルは胡座をやめてセリナの尾を引き寄せると、それを枕にして身を横にした。
「ふむ、……とりあえず明日にも様子を見よう」
気をもむのも飽きたといった態度。誰かにとっては必要な時間、そして私達にとっては無為な時間が過ぎていく。
❖
一夜明けて、カムロは随分と顔色が良くなった。
「痛むところはあるか?」オロルは決まり文句のように言う。
「頭が少し……ですがこれは私の持病みたいなものですから」
「偏頭痛か、冬が近いなら痛むじゃろうな」
寒風は古傷に響く。二人は柔和に笑みを浮かべた。
「目の方は?」
「だいぶ良くなりました。昨晩、オクタが兎の血粥を作ってくれたので、それのおかげでしょう」
カムロは言いながらも苦々しい顔をする。血粥とはその名の通り新鮮な血と穀物、その他薬草等を炊いて作る粥であるが、味は野趣に傾き滋味は二の次。露店で扱われるようなものではなく薬膳の類だ。好きこのむ者はいないだろう。
とはいえ、失った分の血を補うには手っ取り早く、おかげでカムロの容態はとても良いように見える。私は安堵に胸を撫で下ろし、懐に忍ばせた手記に触れる。
「実は……今日はザルマカシムの件で少し――」
「ザルマカシムですか……?」カムロは瞳に戸惑いの色を映す。「昨晩、オクタから詳しい話を聞きました。正直に申し上げますと私はまだ、信じられません……」
「奴の行いについては、わしらもまだ事情を把握してはおらん。呑み込めぬのも無理はないじゃろう」
オロルは一歩詰め寄って私の前に立つと掌を差し出した。手記を手渡す。
「何を考えていたのか、おそらくはこの一冊の手記に遺されているやもしれん」
「それは……?」
オロルによって渡された手記。羊皮紙を一綴りにしたそれは、もしかしたら悪戯にカムロの傷を開いてしまうかもしれない。
「ザルマカシムが遺したものと見ている。じゃが、この中に記されたものはほぼ全て解読できていない。お主ならば読めるのではないかと機会を待ち続けていた」
カムロは呆然として暫くの間視線を落とす。その手に収まる小さな手記、黒革の装丁を見つめて、覚悟を決める。彼女の指先が丁寧に表紙をめくった。