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天球儀は測らない❖5


❖――視点:アーミラ



 ザルマカシムが遺した一冊の手記についてはカムロの目覚めを待つと決め、気を揉むばかりの二()が過ぎた。


 近く目覚めると見ていたカムロの容態は未だ安定せず、時折耐え難い痛みに暴れては投薬によって昏昏こんこんと眠らせることの繰り返し――皮肉なことに、その薬もまた鴉片アヘンを原料とする希少な麻酔薬が用いられることとなった。


 傷痍の痛みが引くまではとても話せる状態ではなく、耐え難きを耐え無理矢理に眠らされるカムロの姿に皆心を痛めていた。


 そして、ガントールの懶惰らんだに膿みきった精神的な落ち込みについても日を追うごとに深々と沈んで行き、未だ解決には至っていない。現在はチクタク王宮の最奥、オロルの昼御座と隔てた別室に朝も夜もなく心を塞いでしまっている。


 これまでの恩義を返すならば今だ。と、私は決心して立ち上がったのだが……


「スークレイさん」と、呼び止める。


 場所は地下礼拝堂。垂れ幕により区分けされた一室。そこにガントールの妹であるスークレイは身を休めていた。


えずらじ――」


 目をかすかに見開いて、がらがらと痰が絡んだような声。扇子を開き口元を隠すと彼女は咳払いをして喉の調子を整える。


「失礼。……めずらしいわね。貴女が一人でここに来るなんて」


 私はこくこくと口を引き結んで首肯のみで答える。正直に言えば彼女に対して苦手意識があるのだ。自分から見舞いに行くことは確かに珍しいことだった。


「ガントールさんのことで、少しお話しがあります」


「姉様の……?」スークレイは片眉を跳ね上げて視線を尖らせる。


「遡ってここ数日、ガントールさんはここへ来ましたか?」


「ここ数日どころか、一度だって来ていませんわ」


 そう答えた声音は微かに揺れていた。穏やかでは無い空気を早くも悟り、冷徹な性分ながら姉を想う気持ちがそこにはっきりと感じられる。


 私は組み合わせていた指を解いて組み直すと、おとがいに添えて思考に集中する。


 一度だって来ていない? ……となると、未だガントールがどのような状態であるかも知らないのか。


 ガントールは意図的に妹と会うことを避けている。

 それこそ、私たちがカムロの容態をみていた時も、スークレイに会う振りをしていたのだ。『自分の足でスークレイのもとへ向かう』と約束したのに。


「貴女、ガントール姉様は『無事』だと仰っていましたわね。……それがどのような意味合いでの『無事』なのか、私はまだ聞いておりませんわ」


 スークレイは視線を厳しくして詰め寄る。その天を衝くような獣人の背丈から見下ろされては身が縮こまる思いだが、もとより私がここに来た理由は変わらない。


「……もちろんお話しします。その上で、相談させていただきたいです」


 へつらいではない。

 友として、私はガントールを救いたい。


 垂れ幕の仕切りを降ろして寝台に並んで腰を下ろすと、私は近々のガントールについて洗いざらい話した。終戦に至るまでの経緯から、それまでに負った幾つもの傷について、そして神器『裁きの剣』が継承者に与える影響についても。


「――今、ガントールさんは剣を手放して部屋に籠っています。私達は『スークレイさんの所で休んだ方がいい』と伝えたのですが……動きがみられません」


 全てを話し、私は上目遣いにちらりとスークレイの顔を窺う。


「そう……」


 静かに扇子を畳む彼女、伏せた瞳は暗澹とした陰を落として冷ややかだ。もっと憐憫の色を見せるかと思ったがその顔は怒りに近い静かな熱を見せた。


「姉様の所へ向かいましょう。向こうから来ないのならこちらから出向くまでよ」


 すっくと立ち上がるその背中は肩を怒らせて歩幅も荒々しい。きりきりと吊り上げた目尻に一抹の不安が過ぎる。


 ガントールを癒すには姉妹である彼女しか頼る人がいないと思ったが、今更ながら不安になってきた。大丈夫かな……





 チクタク王宮の二階。吹き抜けの中庭が設えられた弧を描く廊下を進み最奥の隣部屋、スークレイはガントールが閉じ籠っている引き戸を開けた。


 戸は横滑りの勢いをそのままに、柱にぶつかって強かに音を立てた。


「姉様、入りますわ」


 それは戸を開ける前にいうべきでは……と思ったが口に出さずに呑み込んだ。


 兎も角。開かれた部屋の中を覗く。

 がらんとした室内に埃を被った箱がいくつか積まれている。どうやら物置として機能していた一室なのだろう。古ぼけた置物の中に溶け込んで、ガントールは小さく膝を抱えて視線だけをこちらに向けた。

 スークレイは靴も脱がずに上がりかまちを跨ぎつかつかと詰め寄った。このまま胸ぐらを掴んで無理やり立ち上がらせるのではないかと私は青褪める。が、そうはならなかった。


「スークレイ……」ガントールはそれだけ呟いて、二の句が続かない。


「血だらけね」


「血……?」虚を衝かれてガントールは首を回して体を確かめる。「どこにも血なんてな――」


 言い終わるより先に、スークレイはガントールを抱きしめた。ガントールは驚いた顔で目を見開き、所在無げに隻腕が空を掻く。呆けた口が塞がらない。


「姉様は何も知らないのね。心だって、傷付けば血を流すのよ」


 傷付いて、傷付いて。

 その心は血を流している。


 呆けている私にスークレイはちらりと視線を投げる。二人きりにして欲しいのだと意図を汲み取り、開け放ったままだった部屋の戸を静かに閉めた。


 無粋だと思いつつも隔てられた壁に耳をそばだてる。そこから姉妹の会話が聞こえた。



「姉様はいつもそう……私を頼ってはくれないの?」


「そんな……ことはないよ。やしきのことを任せて、頼りにしてる」


「今はそんなことを聞いているわけではありませんわ。無理ばかりするくせに、背負った重荷を私に打ち明けてくれないことを怒っているの」


「だって、そうは言っても……」


「『だって』なんです? 『そうは言っても』なんです? 私では、力になりませんか?」


 スークレイの言葉に対する躊躇いの息遣いと、辛抱強く返事を待つ沈黙が続く。

 長く耳鳴りを感じるほどの時間が過ぎた後、ガントールの声が聞こえた。


「……違う」


「なら何故?」


「スークレイは……私と違ってしっかり者だから、迷惑をかけたくなかったんだ。

 私はこれでもリナルディ家の長女だからな」


 前線辺境伯の長女。

 ガントールは幼い頃よりその期待と重圧を一身に背負い、生来の奔放な性格を隠して戦地に立ち続けた。

 邸を継ぐのは妹の方こそ相応しいと心に決めて、せめて誇りを維持するために尽力するに至ったのか。


 しかしスークレイは否定する。


「それこそ違いますわ。勘違いをしています。

 姉様はこれまでずっと前線に立って戦い続けていました。その功績は私とは比べ物になりません」


 一拍の間、洟をすする音。


「私は……姉様に頼られる人になりたくて、ずっと、強くあり続けたのです。

 身体の弱い辺境伯の娘、出来損ないの私はいつも姉様の隣に立てるように励んで参りました。わたくしは……っ」


 嗚咽が漏れる。あのスークレイが泣いているという事実に驚く。


「スークレイ……」


「私は……っ、背負いたいのです。姉様が立てないのなら、その重荷が欲しい。

 頼って下さい。話して下さい。

 私はいつまでも弱い妹ではありませんわ」


 ………………。



 私はそこで、そっと壁から耳を離す。


 ラーンマク前線辺境伯。リナルディ姉妹の仲に存在する家族の絆。それが温かに胸を打つ。


 ガントールは、きっと大丈夫だろう。

 これからは少しずつ快方に向かうと確信できる。病める心を癒す存在が隣にいるのだから。


「なにをしておる」


「ひぅ!?」


 背中にかけられた声に驚き私は口を塞ぐ。慌てて振り向けば、そこには呆れ顔のオロルが立っていた。


「入りたければ入ればよかろうに」


「いえ、……用事は済みました」


 私は一人安堵の笑みを作るが、事情を知らないオロルは冷めた目をして自室へと向かう。


「そうじゃ、カムロのことで話がある」


 歩を止めて、思い出したようにオロルが言う。少し前までは『目覚めるまでは見舞う必要もない』と突っぱねた態度だったが、ぐだぐだと言いながら毎日経過を見ているのだ。どうやら今もその帰りと見える。


 奥の間を潜り昼御座まで付いていくと、セリナが気怠げに出迎えた。


「おかえり」


「うむ」


 短いやり取りを済ませるとそれぞれが定位置に腰を下ろす。オロルは昼御座に胡座をかいて早速話を切り出した。


「カムロの容態が依然として安定しておらん。この様子ではもうしばらくは長引くじゃろうな」


「魔鉱石はもうないのですか?」私は問う。眠らせて自然治癒に頼るよりもはるかに回復が早い。


「あるにはあるが、一人のために消費しては心証が悪かろ。ここにはまだ癒えぬ傷を負う者ばかりなのじゃから」


「そうですか……」


 オロルの言う事はもっともだ。治癒術式を必要とする傷病者はカムロだけではない。ランダリアン率いる遠征隊が魔鉱石をいくらかき集めて戻ってきても、あっという間に消費してしまうのが今の現状だった。


 ザルマカシムが遺した手記、その謎を解明するのはまだもう少し先か。私はやきもきとして日々を過ごすこととなった。

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