天球儀は測らない❖2
なんの収穫もなく日は暮れて、肩を落としてチクタクへと帰ってきた私に対し、土産を持ってきたのは同日デレシスへ向かったオロル方である。
「――で、それがこれですか」
私は目の前に置かれた一冊の本に目を落とす。場はチクタク王宮の中庭、セリナとガントールを外に払って驚異の部屋に二人内々に篭っていた。
それは、草臥れた黒革の表紙に挟まれて一綴りに装丁された羊皮紙の本。オロル曰く、何者かの手記であると言う。
「地盤が隆起して地下壕の入り口が出てきていた」オロルはことのあらましを話す。「そこに往来の足跡が残っていたのでな、妙に思い少し調べてみたのじゃ」
「足跡ですか」私はその言葉を転がす。確かに妙だ。
先日のランダリアン達はデレシスには立ち寄っていない。そもそもデレシスに地下壕が存在すること自体が初耳だ。古く眠らされていたものだとしても、そこに真新しい足跡が残っているのなら辻褄は合わない。
「逃げ延びた生存者がそこにいるというなら無視をすることもできんじゃろう。酷い地割れのせいで探索は困難じゃったが甲斐はあった。
深い所に進むと何者かの拠点のような部屋に辿り着いた。質素な寝床と机だけのな」
オロルはそこで言葉を切ると顎で本を示す。私は促されるままに手に取ると頁を開いて中身を検める。
「ん……? これ――」
私は困惑して顔を顰める。オロルは頷いて続けた。
「読めんじゃろう。わしも解読の緒を探ろうとしたが、どうにも難解じゃ」
羊皮紙を一綴りにした手製の本。その中に記されているのは黄変した墨の筆跡。特殊な筆を用いているらしく筆記は横に太く縦に細い。その帯のようなものは複雑に縦横に走り、時に途切れて文字のようなものとなるが、恐らくは意図的に形を崩しているのであろう。解読できそうにない。
「重要なのは」オロルは語調を強める。「これが誰によって書かれているのか、じゃ」
デレシスに現れた地下壕の入り口、そこに往来する存在は人目を忍ぶ必要のある者に限られる――つまりは間者だ。
それが残した言葉となればもちろん内容も重要であるが、もし……もしもこの手記がマーロゥのものであるとすれば、その価値は一層高まる。
「誰のものだと思いますか?」私は辛抱できずオロルに問う。
「断言出来ぬのは当然じゃが……その手記はマーロゥか、あるいはザルマカシムのものじゃと考えておる」
「何故?」
「中程まで頁をめくってみぃ、走り書きの図が描かれておる」
私は目当ての頁を探す。代わり映えのしない墨の帯ばかり、幾つか覚書のために描かれたであろう図が紙面の端に描かれているが、中程のほうに行くとある頁で手が止まった。
それは神殿はもちろん代々の国全土を簡易的に記した小縮尺の地図。
その上に細く――察するに筆の先を立てて判別できるようにしたのだろう――描いた円がぐるり。次にその線の等間隔六ヶ所に印となる点を打って線を繋いだ六芒星の陣図が重なり、注釈を入れている。
「『三〇〇』……数字ですね」私は言う。他の走り書きと違い簡単な構成の文字であるため一目で分かる。
これは国土に描かれた禁忌の魔法陣……その計画図だ。
魂の生成を強行したのはマーロゥ、ザルマカシム、セリナの三人で相違なく、つまりその図を記しているこの手記は三人の内の誰かのものだ。
セリナが所有者である可能性は低い。そこからオロルは持ち主を推理したのだろう。
「いずれにしろこの手記にはわしらの知らぬ龍人側の情報が記されておる。……どうする、セリナに見せてみるか?」
もしかしたらこの文字を読めるかもしれん。とオロルは提案する。龍人の文化に明るい彼女ならばその可能性は捨てきれないが、しかしどうだろう。
「この図の『三〇〇』というのは、つまり生成に必要とする素材の数です。それが六ヶ所……合わせて一八〇〇。
その、セリナは――」
「皆まで言わずともわかっておる」
オロルは繰り返し頷いて目を閉じた。呑み込めぬものを無理やり呑み下すように。
「禁忌を行うために必要な材料がそう易々と調達できるわけもない。
あの日わしは穴の底にいたので詳しくは分からぬが、お主の行った死者蘇生の術式もこの目で見ておる。禁忌の災厄が起きたのはガントールからも聞いた」
わかっているなら私からは何も言うことはない。私は口を噤んで肯う。
あの日、災禍の龍としてセリナは一八〇〇人を殺めて血の刻印を大地に刻みつけた。殺戮の足跡はまさしく六芒星を描いていただろう。
今、彼女にこの手記を見せるべきか否か。躊躇われるものがある。
「セリナさんは、いえ、誰もがそうであるように傷付いています。この手記の文字が読めるのであれば、その内容によっては悪戯に傷を開いてしまうかも」
「じゃろうな。そうじゃろうよ。
じゃからお主にのみ先に見せた。これは世界の真実を正す断片かもしれぬ。そしてお主を知るための匣かもしれぬ」
他人を痛めつけるとしてもそれを知りたいか? ――オロルが質している問いは私の覚悟についてだった。
もしかしたら何も得られないかもしれない。塞がりかけた傷口を開くだけ開いて、私の謎を明かすことはできないかもしれない。
それでも知りたいのか。
「わ、私は……知りたい。です。
できるなら誰も傷付けず真実に辿り着きたい。でも、それができないなら諦めると言えるほど割り切れるものではありません」
私の言葉にオロルはしばらくの間の後に頷き、手記を取って懐へ納めた。
「では、わしの部屋に皆を集めよう」
❖
驚異の部屋から場所を移し、四人は昼御座に対して腰を下ろす。ガントールは朝に見た時よりも精気を失っているように見えるが、果たして留守中にスークレイの元へ行ったのだろうか。
オロルは両手を打ち鳴らして咳払いを一つ。私達の視線を集めると話を切り出した。
「夜も底じゃ。手短に今日の成果から話をしよう。
まず、オクタの言っておった通りデレシスで板金鎧の下肢を発見し、回収した」
私はその言葉を聞きながら、部屋の隅に安置されている下肢の現物に視線を向ける。
「次、セリナとアーミラは深き塔に向かい、めぼしい成果は無し。……間違いはないな?」
オロルの確認に対してセリナはやや暢気な風に答える。
「うん。私の替えの服くらいしか無かったよ」
「うむ。……では、ここから少し訊ねたいことがある」
わずかに声色を変えたオロルの言葉。セリナは首を傾げながらも頷いた。
オロルは懐にしまっていた手記を取り出すと床に置き、滑らせるようにセリナの方へ差し出す。
「何これ?」
「何者かの手記じゃ。そこに書かれている内容がわかるか?」
手記……とセリナは呟きながら頁をめくりさらさらと目を滑らせる。
「なるほど。読めないけど誰のものかわかるよ」
「誰ですか?」私は逸る気持ちを抑えられず問う。
「ブーツクトゥスのだね。……残念だけど、ハラヴァンのものじゃない」
「……ザルマカシム……」と、小さく声を漏らすのはガントール。滅入る心に響くものがあるようだ。
集まる視線に居心地悪そうに俯きながら、ガントールは言葉を続ける。
「あの男は、自らの意思で龍人種側についた。……どんな想いがあったのか、知りたい」
ザルマカシム・スペル。神族近衛隊副隊長であると共に言葉の扱いに長けた勇名の者。
智慧のある男であることは誰もが知るところであり、故に裏切りの理由は誰にもわからない。
「近衛筋でならば、ザルマカシムの手記を読み解くことはできるじゃろうか」オロルは誰に言うともなく呟く。
「私達が読めないなら、そこに頼るしか無いと思うよ」と、セリナ。
機密文書とも言うべきザルマカシムの手記。そこに記された暗号を解読できるのはカムロの他にいない。彼女が目覚めるまで二日、さらに会話できるまでの体力を回復するまでに三日の時を要した。