天球儀は測らない❖1
❖――視点:アーミラ
王宮の中庭、私とセリナは手頃な場所に杖を突き立てて根城にする。
驚異の部屋に招くと、折りたたんだ羽や尾が窮屈そうにぶつかるのもかまわず、セリナは書庫を眺めて憧憬に目を輝かせた。
「すごい……変な本ばっかり! これ全部あんたのものなの?」
「私のものというわけではないですよ。先代の継承者が少しずつ集めて、或いは自ら筆を執って認めたものです」
「へぇ……あんたは書いてないの?」
「う、いや……私は特に書けるようなものもありませんので……」
「そうかな? 終戦までのこととか、兄貴のこととか……結構あると思うけど」
書いてみればどうか。と勧めるセリナに対し、私は曖昧に頷きを返すと、思い出したかのように酩酊に足元が覚束なくなる。
「今日はもう、眠りましょう。上にベッドがありますので」
ふらつく私を軽々と抱え、セリナは階段を上ってベッドに運んでくれた。
「本当に狭いね」
「すみません……散らかってますが適当に寝場所を作って構いませんので」
「いや、いいよ。実は僕眠る必要ないんだ。龍体を維持する為に月光を浴びるだけで充分」
「そ……ですか」
私は既に微睡んでいる。その蕩けた意識の中で昨夜の歌声を思い出す。あの時も月光を浴びていたのだろうか。
「……特別に貸してあげよう」と、セリナの声。
胸元に何か温かいものを渡されるが、それが何かわからない内に、私は眠ってしまった。
❖
夢を見た。
とても、とても幸せな夢。
優しく微笑む彼が、その指先で私の瞳に溜めた赤い涙を拭い去り甘く囁いてくれる夢。
知らぬ間に額からは角が伸びていて、私はそれを隠そうとする。彼はそんな私の手を握ると、角に唇を触れさせて微笑んでくれた。
私は受け入れられたことがたまらなく嬉しくて、翼を広げて全身を包むように抱きしめるのだ。
全てを捧げてしまいたい。
この瞳も、指先も、長い髪も、貴方が触れるその全てが無上の喜びとなってこの身は震える。
――ずっとそうしていたいけれど、私は夢であることに気付いてしまった。ああ、醒めてしまう……
「ん、――」
私は目を擦り身動ぎをすると胸元に何かを抱いている事に気付く。それは他でもないアキラの顔だった。
「っ! アキラさ――」
思わず声を弾ませて抱き寄せると、首だけであることを思い出す。夢と現実が未だ判然とせず寝惚けてしまっていた。
部屋には私の弾んだ声が耳鳴りとなって残響し、虚しさが募る。酒に焼けた喉の渇きと頭痛、何より身体が怠く重い……そうか、祈祷がなくなった今、体の機能が戻っているのか。
何にもやる気が起きない。私は身を倒してもう一度眠ろうと目を閉じると、部屋に誰かが入ってくる物音がした。セリナだろう。
「アーミラ。オロルがデレシスに向かうって言ってるけどどうする?」
「あー……」デレシスということは板金鎧の回収か。「そうでしたね。探さなくちゃ」
緩慢な動きで起き上がるが、どうにも本調子にはならない。セリナは心配そうに見つめながら話を続ける。
「ガントールさん、しばらく部屋で休むことになるって。一緒にいるのも少し気まずいから僕は塔の様子を見に行こうかなって思うんだけど」
「深き塔ですか……」
「うん。もう一度見て回りたいし」
「なら、私もそちらについて行ってもいいですか?」
セリナは眉をへにゃりと下げた。
「やっぱり僕がそこに行くってなると怪しむよね」
「あっ、いえ、違います……マーロゥのことで何か私について手掛かりがないかと思いまして。
でも、いずれにしろ怪しむ者がいるのなら見張り役という口実は都合もいいですね」
唯一マナを知る人物。ハラヴァン。
彼の生前の住処に行けば何かが手に入るかもしれない。
もちろんアキラの体を元に戻すことも大事なことだが、背に腹はかえられない。アキラが再び目覚めるより先に、私は私を取り戻したいのだ。でなければ、どんな顔をしてよいのかわからない。
「じゃあ、準備が出来次第向かうことにするよ」
❖
万全とは言えない身体を起き上がらせ、やおらに支度を済ませる。頭の中では『体調の万全な時なんてない』と皮肉な言葉が繰り返される。
「行きましょう。セリナさん」
天球儀から外へ出ると、朝日の降り注ぐ中庭に立つ。日は高いが風は日増しに寒くなり、晩秋を感じさせる。
「行くのか?」と、声がする。
振り向けば廊下に身を丸めて座るガントールがいた。剣を持たず、既に気分は落ち込んでいるようだ。
「はい。ガントールさんはあまり無理をしないで下さいね」
「ああ、オロルには『妹と共にいろ』と言われた……」
「きっとそれがいいですよ」
「かもな。でも、どうにも足が重い。こんな姿を見せるのは恥ずかしいし、姉として見せたくない」
「でしたらスークレイさんの方から来ていただきますか?」
私の提案にガントールは力なく笑い飛ばして見せた。
「はは……それには及ばないよ。自分の足で歩いてみせるさ」
口ではそう言ってのけるものの、ガントールはまんじりとも動かない。表情は固く、今こうして私と会話するのも億劫なのだろう。
「行くんだろう? 私のことは気にしないで行ってくれ」
「……すぐに戻りますからね」
後ろ髪を引かれる思いではあるが、のんびりしてはいられない。私はセリナの背に掴まり深き塔へ飛んだ。
風を切る龍の翼。それが高度を上げて滑空姿勢に入ると、セリナはこちらに視線を向けた。
「よかったの? あのまま放って」
「……世話を焼くとかえって嫌われてしまいそうで」
ガントールがあれだけいうのだから、信じてあげるしかないと思ったのだが、あまり自信はない。
「もしセリナさんが同じ立場だったら、どうしていましたか?」
私の問いにセリナが唸る。
「んー……? そうだねぇ……
僕だったらきっと剣を渡しちゃうんだろうね」
ハラヴァンに対しても投薬を止めることができなかったのだから、きっとそうなるだろう。――と、セリナは言う。
「僕、どうしようもない馬鹿だからさ」
❖
今や人影の無い戦地を眼下に眺め、私達は禍人領に穿たれた本城の洞穴、深き塔に辿り着く。
冷えた空気の中に腐臭が混じり、未だ記憶に新しい戦いの残り香を感じた。
「マーロゥの住んでいた場所はどこです?」私は問う。
「慌てなくても、僕の目的もそこだから大丈夫だよ」
セリナは私を背負ったまま、翼と尾を巧みに操り入り組んだ穴を降りて行く。縄の切れた桟橋や半壊の家屋、そして救い切れなかった者の亡骸を通り過ぎて一層深く奥まった所へ進む。
深き塔と呼ばれるその巨大な建築物は塔という形をしているものの、実際のところは洞穴の中にある地下街と言った方がしっくりくるだろう。下へ行くほど格調高い趣きが窺える
マーロゥの根城はその塔の至聖所から程近い、最奥部に存在した。
「ここ……ですか」
私はセリナの背から降りて入り口の門を見上げる。押し固められた地層をくり抜いて設えたにしては立派な家だ。白く塗られているのは柔らかく粘土質である。湿気った石灰か骨粉であろうか。
ともかく、これ程最奥部に住むということは、龍人の中でも地位の高い人物だったということだ。意匠もどこか厳格なもので類似する建造物は他に数える程もない。
「ハラヴァンは生き残りの中でも偉い人だったらしいよ。難しい話だったから、よく覚えてないけどね」
それより酷い臭いだ。セリナはそう言って足早に中に入る。理由は明白で、穴の底を覗けば組織液の溶け出した魔獣の肉と腐乱死体が積み重なって溜まりをつくっている。オロルが救い出せなかった者達の死体だ。救助を行ったチクタクの者も、亡骸まで手厚く葬る義理はないと決めたのだろう。私は苦々しい面持ちで中に入る。
セリナは光の届かない部屋の中で何不自由することなく物色して回っている。私は懐に入れていた魔鉱石の欠片から蝋燭程の灯を生成する。
「あったあった」
土埃を払ってセリナは何かを引っ張り出す。
「なんです? それ」
「服さ。流石にこの一張羅じゃ臭いが気になるしね」
「普通ですね」
「変なものなんて何もないよ。ここで暮らしてたんだから」セリナは替えの服を雑に丸めて抱える。「それより、調べたいならどうする? ハラヴァンの書庫にでも行くか、あるいはもっと下の至聖所なら何かあるかも」
「ならば両方とも見て回りましょう」と私は答え、目を皿のようにして手掛かりを探した。しかし結果からすると私の謎を明かすようなものは見つけられなかった。