傷跡❖9
見舞いを終えて、各々が三々五々に地下礼拝堂を後にする。王宮の入り口で私とオロルはガントールと合流した。
「なんだ? 待たなくてよかったのに」ガントールは困ったように笑う。
――先刻、オロルに告げられた言葉。それを持って改めて彼女を見れば、確かに見えてくるものがある。
「……いえ、一緒に帰りましょう」
私は隣に立って王宮の門扉を潜る。
オロルから密やかに教えられたのは、まさしくガントールについてである。
見舞いを済ました帰りの途中、通路を二人きりで歩く場面があり、オロルに呼び止められてこう切り出されたのだ。『ガントールについて、何か感じないか?』と。
私はその問いに対して首を傾げることしかできなかったが、詳しくオロルの話を聞いてみれば、ガントールは一人思い悩んでいると教えられた。
終戦を迎えた世界で、生き死にを歪めたその一端を担った事実について……平たく言えば、過去に囚われているとオロルは言う。
それを聞かされた今、ようやく私の目にも『心の機微』と言うものが感じ取れた。彼女の気丈な振る舞いの中にある幽かな翳りを見た。
「……スークレイさんとは、話せましたか?」私は横目に伺いながら言う。
「あ、ああ。話せたよ。……おかげで随分話し込んだな。
……って言っても、治癒の途中だから本調子じゃなさそうだ」
ガントールはきりきりと口の端を吊り上げて笑みを作る。……今ならば分かる。彼女もまた本調子ではないことを。
なぜもっと早く気付けなかったのだろう……いや、そんな後悔の念に囚われている暇はない。あの時は誰だって自分の事で精一杯だったのだ。オロルでさえ部屋に閉じこもっていたのだからしょうがないことだ。
あるいは、そんな状況だからこそガントールは立ち上がったのか。
王宮の階段を上り奥の間に辿り着くと、昼御座に寛いでいたセリナが出迎えた。
「お帰り……遅かったね」
「うむ」と、オロル。セリナは声を潜めて呟いた。
「その顔は……まだ終わったわけじゃないのか」
「気構えることもない。わしに任せておけ」オロルはそこで言葉を切ると振り返り、ガントールに対した。「ガントールよ、久しぶりに付き合ってくれんか」
「付き合うって、酒か?」
オロルは奥の間の隅にある引き戸を開けて、そこから茶色い瓶を取り出した。中に満たされた液体が水音をたてて揺れる。抱きかかえなければ持ち上げられないような丸みのある大きな酒瓶だ。蓋をするように口に被さるのは逆さのぐい呑。
「アーミラも、セリナも、今宵は溜め込んだものを洗いざらい吐き出せ。そして飲め」
ごとり。と昼御座に置かれた瓶。ガントールは戸惑った様子で私を見る。
「……終戦を祝う場がありませんでしたし、今日は私も付き合いますよ」
「アーミラまで……帰ってきてからなんか変じゃないか? よそよそしいというか、妙に優しいというか」ガントールは訝しむ。
「何を言っておる。スークレイ達も無事見つけられたのじゃ、今日くらい肩の荷を降ろして懐古話に花を咲かせるのも悪くないと思っただけじゃ。
アキラの展望も開けた今、改めてセリナとの友好も築きたい。……そうじゃろう?」
「あれ、……じゃあ私も飲まなきゃだ」セリナはそう言って茶化すと、這うようにして瓶を囲んだ。
私もそれに続いて酒を囲むと、あとはいよいよガントールのみ。気が進まないのか躊躇うように足踏みをした後、腹を決めてオロルの真向かいに車座になった。それぞれ杯が渡される。
「前線に来てからめっきり飲まなくなったからなぁ、もしかしたら下戸になってるかもしれないぞ」
ガントールは遠慮がちに杯を手元に引くがオロルは杯を追うようにしてなみなみと注いだ。
「それなら中庭で吐けばよい。
……ほれ、セリナよ杯を出せ」
「はい。お酒初めてだからどうなるかわかんないからね」
セリナは言いながらも興味があるようで、杯に満たされた液体を矯めつ眇めつ観察する。
「なんてお酒なの?」セリナは鼻を近付けて匂いを嗅ぐ。私が答える。
「蒸留酒でしょう。オロルさんはそれを好んでいたはずですから」
「強い?」と、セリナ。好奇心に舌先を杯に近付けるとオロルはまだ飲むなと咎める。先の割れた舌が素早く口の中に引っ込む。
「強いぞ。乾杯をしてからじゃ」
それぞれの杯に酒を酌み交わすと、互いに目配せをして杯を掲げる。セリナは作法を知らないようで、ガントールや私の真似をして杯の中の液体を少量舐めると目を白黒させた。
「うげぇ、なにこれぴりぴりする!」
「ふん……まだまだじゃな」
オロルは大口に酒を喉へ流すと早速瞳がとろりとしていた。ガントールの溜め込んでいるものを全部吐き出させようというのに、量を抑えるつもりはないようだ。先に潰れてしまうのではないだろうか。
「なんか悔しいなぁ」セリナは頬を膨れさせてオロルを見下すと、舌を出して手扇で扇ぐ。「ベロがいひゃい」
その舌は長く、先が二つに割れている。私は思わずまじまじと見てしまい、視線に気付いたセリナと目が合った。少しだけ気不味くなって、私はオロルの方に膝を向ける。
「その、龍体って元に戻せないんですか?」
「セリナの体か」オロルは答える。
「はい。昨日は記憶を消すことは可能だと言っていたじゃないですか」
「本人が望むのなら記憶は消せる。しかし龍体は戻せぬ」オロルはそこで杯を床に置くと言葉を続ける。「魔獣を人に戻すのとは訳が違う。わしの掌の傷も癒えんし、魔鉱石に余裕の無い現状では解析もできん」
「そうですか」私が肩を落とすとセリナは長く伸びた尾を擡げて見せる。
「……この姿は嫌い?」
「いえ、その……」私は言葉に詰まってしまう。
セリナを嫌っているわけではないが、外見だけを見ればそれは災禍の龍そのものだ。額に揃えた角も、翼も、長い尾も舌も憎らしく思う人は一目見て忘れることはないだろう。
「外に出れば、誰かに狙われるかも知れません」
「それはそうかも……だけど、私はこの身体のこと、結構気に入ってるんだよね」
私達三人は思わずセリナに目を向けた。その身体を気に入っているだなんて信じられない。
「……溜め込んだものを吐き出せって言ってたし、少し愚痴っぽいけど私から話しちゃおっか」
セリナは前口上をして酒を舐めると語り出す。
「もしかしたら兄貴から聞いたかも知れないけど、元の世界の私は生まれつき体が弱くてね、世話ばかりかけてた――」
賢しげに目を細めて夢想するセリナ。手元に引き寄せた尾を撫でる。
「聞いたことがありますよ。肉親も早くに亡くしたと」私は先を促す。
「そう。兄貴はだから僕の親みたいな存在でもあった。歳も離れていないのに、苦労ばかりかけてさ。
ここに来てからもそう。また会えたと思ったら傷つけちゃって……僕は再開の仕方を間違えたんだ」
『再開の仕方を間違えた』……私はその言葉に身を強張らせてしまう。偶然にもそれはマーロゥの遺した言葉と同じだったからだ。緊張を悟られぬように杯を口に運んだ。
「とにかく、この身体はずっと便利で、私は気に入ってるよ」
「なるほど、であればわざわざ元の姿に直さなくともよいわけじゃな」
それならば結構とオロルは言う。
「姿といえば、ガントールは義手をどこへやった? あれも緋緋色金であろう」
その問いにガントールは鼻の頭を掻いて困ったように眉を寄せる。
「別の部屋に置いたまま。
気温のせいかなんなのか噛み合わせが馬鹿になったみたいで付けてると痛むんだ」
「スァロ爺に調整してもらったらどうです?」と、私。
「いや、それはいいかな。アキラ殿に使ってもらう方がいい」
「それは構いませんけれど、片腕では不便ではないですか?」
「不便だよ。何をするにも手が足りないってのは困る」ガントールは続けた。「だけど戦争が終わったのなら、命取りじゃないだろ」
諧謔な言葉とは裏腹に表情は暗い。その顔こそが本音なのだろう。
「心底うんざり……という顔じゃな」
オロルは好機と見て口火を切った。いつの間にか杯を乾かしているガントールにオロルが再び杯に酒を注ぐ。
「うんざり、だな。……初めてこの剣を握った時は昂りが収まらなかったけど、あの頃はまだまだ青かった」
いらいらするよ。とガントールは小さく呟いて頬杖をついた。酒が回ってきたらしく、熱に浮かされたように饒舌になる。
「あの剣があれば、なんでもできる気になった。柄を握るだけで全能感に満たされてさ……だけど、つくづく思い知ったよ。『重すぎる』って。
生かすも殺すも、正義も悪も、私の手に負えないものだったってね」
忘れかけていたものは命の尊厳。
ガントールが一太刀で首を刎ねるのは、元を辿ればより苦しむことなく死に至らしめるためのものだ。
「戦っているうちに、だんだんと何も感じなくなってきたんだ……いや、殺すことに何も心が揺れ動かないことに怖くなった。
そうして次第に太刀筋に迷いが出てきたのだろうな。私は継承した能力に頼るばかりで、弱くなっていった」
「そんな、弱くなんかないですよ」私は思わず否定する。
「それはこの剣のおかげだな。おそらく三年前の私が目の前にいて戦うとしたら、勝てないだろう」
ガントールは腰に帯剣していた柄を握ると私の前に差し出した。
「握ってみるといい」
「……はい」
私はオロルとセリナにも視線を投げて、そっと柄を握る。
「ひっ……!?」
驚いてすぐに手を離す。なんだこれは!
まず、指先に走るのは電のような突き刺す痛み。そしてその後にくる言いようもない多幸感と全能感。すぐに手を離さなければ――笑い出して止まらないかもしれない。
私は釣り上がる口角に指を添えてほぐすように頬を擦る。
ガントールはこれでわかっただろうとでも言うような視線を送る。
「強い、狂躁ですね……これを常用しているのであれば、投薬と変わりません。
むしろ、その剣を持ってガントールは平静でいたんですか」
「違うな」オロルが割って入る。「帯剣していなければガントールは感情を喪失してしまう、平静ではいられんのじゃろう? 酒を口にしなくなったのもそう、縋るとはつまり中毒だと」
「……そう。……兵士や前線ではそう珍しくないアパシーだよ。心を壊せば信仰心も失って戦えなくなる。天秤継承の神器はつまり、心の均衡を保つ力も持っていたわけだ。
というか、オロル達は最初からこの話が聞きたかったんじゃないのか?」
「そうじゃな。お主の様子がどうにもおかしいと思ったから、酒に誘った」
「だろうね……オロルのやり口がなんとなくわかってきたよ」
ガントールは眉根を寄せて鼻を鳴らす。機嫌を損ねたように立ち上がる彼女の裾を私は慌てて掴んだ。
「が、ガントールさん……私達は心配なんです。
このままではどんどん壊れてしまう」
「心配? ……その必要は――」
「そんなに怒らないでよ」
怒気を孕んだガントールの言葉を遮ってセリナが言う。そしてアキラの首を目の前に突き付けて繰り返す。
「本当に心配無いって、兄貴の首にも誓えますか?」
ガントールは微かに狼狽し、観念したか素直に怒りを収める。
「……やっぱり、私はどうもおかしい。
急に気持ちに抑えが効かなくなって、カッとなった」
「僕が言うのも違うだろうけど、慣れてるから大丈夫だよ。
……ハラヴァンもおんなじ風だったもの」