傷跡❖3
セリナは嘆息する。
「僕には出来なかったよ。
だって、それはすごく難しいことでしょ? 目を覚ましたら知らない世界で、流されるままに戦う。じゃなきゃ生き残ることも難しいんだから。
他所者の僕達が、世界を変えようなんて並大抵の覚悟じゃできないよ」
セリナの言葉には心から共感できた。
そう。これは身分や権力で解決できる話ではない。問題が大きすぎるのだ。
長い歴史の中で出来上がった営み、先代から受け継がれる悔恨は血の鎖となり、膨れ上がって使命となる。ただ生きているだけでも敵意を植え付けられるのだからきりがない。
全てをやり直すには、途方もなさすぎる。
「兄貴は世界そのものを破壊して、そこからやり直す事を目指していたっていうんでしょ? ……現に今この世界は真っ白。成し遂げたわけだ」
「あの……」私は控えめに手を上げてセリナを窺う。「マーロゥの……いえ、そちらの行った術式について、改めて聞いてもいいですか?」
あの日災禍の龍として、セリナはアキラと戦っていた。
そして時を同じくして私もマーロゥと戦い、呑み込み難い結末を迎えたのだ。
禍人領側は何を企てていたのか、そこを明らかにしたい。
「……いいよ。ハラヴァンが居なくなった今、あまり気乗りはしないけどね」
セリナは目を伏せて、表情に陰を落とす。
「簡単に言えば、兄貴と似たような事……それでいて全く違う結末を描いていたんだよ。
僕達がやっていたのは世界を一からやり直すための破壊じゃなくて、世界を終わらせるための破壊」
ガントールは眉間に皺を作る。
セリナは今更どうということもない風で淡々と先を続けた。
「僕はこの世界の歴史についてはよくわかってないんだけど、龍人側はここ数百年の間一方的に国土を奪われ続けていた。……そこは間違いない?」
認識に誤りがないかと確認してみせるが、私とガントールは曖昧に頷くしかない。
見方を変えれば継承者は禍人領を奪い続けてきた。それは間違っていない。しかしそれを認めるのはどうにも気まずい。こちらにはこちらの大義があったはずなのだ。私達はセリナに責められているように思ってしまうのである。
「龍人側は既に対抗策が限られていて、選ぶ手段がなかったんだ。それが人魔獣化と、龍体術式。
どちらもやる事は同じで、武器の素材や兵力の不足を解決するために人の体そのものを作り変える魔呪術。
だけど、結局は気休めにしかならない。
姿形を変化させる術式を高めたところであんた達『はかり』には到底及ばない。
不完全な龍体でおよそ力量は『はかり』一人と五分。僕みたいな完全龍体で『はかり』三体と渡り合える」
セリナの口から語られる龍人側の内部。
不完全な龍体とはつまり私達が蛇堕と呼ぶ個体の事で、完全龍体が災禍の龍という事。そして『はかり』とは継承者のことだろう。
「そこに突然現れたのが龍血晶の板金鎧……つまり兄貴だね。
かろうじて釣り合っていた力の均衡がそこで完全に崩された。
僕がこの世界に入って来たのは、丁度この辺りかな」
「つまり、セリナが元の世界で死んだのはこの時期だと……」ガントールは言うと、セリナは肯定した。
「誰に、喚ばれたのですか?」私は問う。
アキラは私が意図せず喚び出した。本人の意思ではない。
ならば死を迎えたセリナの魂は、どのようにしてこの世界に入って来たのか。
「分からない……自ら命を絶ったのは確かだけれど、ここに来たのは誰かに喚ばれたわけじゃないかもしれない。
気付いた時には『深き塔』の至聖所に倒れてた。服もなくて、薄暗くて冷たくて、……そこで出会ったのがハラヴァンだった」
セリナは物哀しい顔をする。ガントールが先を促した。
「そこで囚われ、龍体にされたと?」
「いや、ハラヴァンはとても優しくしてくれた。……こんな事言っても多分信じてはくれないだろうけど」
セリナはますます表情を翳らせる。
てっきり彼に利用されたという風に捉えていたが、どうやら違うようだ。
目の前の彼女はハラヴァンの死に心を痛めているのである。
「本来の姿なんてあんた達は見た事ないだろうけど、本当は歳は六十に近い人格者だった。
裸の僕に自分の上着を掛けてくれて、何も言わずに助けてくれた。――現に龍体にされてる以上、言葉を並べたところで説得力なんてないかもしれないし、当然彼なりに打算もあったんだろうけど――あの環境下で無理を強いるような態度じゃなく、確かに信頼関係があったんだ」
そう語るセリナの姿はどこか熱に浮かされているよう。信じて欲しいと訴えかけるその語りと真摯な視線に私は圧される。彼女が今更嘘をつく理由もない。本当に真実なのだろう。
だからこそ、耳を疑う。
「どんな人間にだって裏と表はある。まして敵同士だったのなら信じられないのも無理はないけど……僕から見たハラヴァンは、国の為に戦い続ける英雄だった。
……これはもう、誰が何と言おうと覆せないよ」
セリナは語調を強めて断言する。奴隷として使役されていたわけではないと。
敗戦した側の人間として、生き残った者の一人として語った言葉だ。
裏と表。敵と味方。マーロゥもまた立場を変えれば英雄としての側面を持ち、戦争の歴史に存在を歪められた者の一人なのだろうか。
私は訥々と口を開く。
「……私は、前線でマーロゥの……ハラヴァンの最期を見届けました」
私と戦い、自ら毒を打って自死した男の最期。
『再開の仕方を間違えた』という言葉。セリナならば何か知っているのだろうか。
私はそれを問おうかと思い、喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。
それを話すには知られたくない秘密までも明かさなければならない。頭角と翼。それら全てを話すにはまだ信頼に値しない。なによりここにはガントールがいる。
「……彼は、自ら毒を打ち込んで、静かに絶命しました」
言葉を選びそれだけを伝えるにとどめる。
セリナは口を結び膝に乗せた手を握り締めた。
「ハラヴァンはいつも薬に頼って生きていたから。性格も人相も別人みたいにかわっちゃって……それがないと立つことも出来ないくらいだったもん。
最後の方はどれだけ正気を保っていたのか、私にも分からないや」
狂っていった――
ハラヴァンの心は、逼迫する戦争の行く末と龍人の命を背負い立つ内に均衡を崩し、薬に頼る内に人格さえも以前のものとは別のものとなっていったのだとセリナは下唇を噛む。
「私の中に施された陣が展開された時、彼の死を悟ったよ。二度と会えないだろうことも分かってた」
「それって――」私は言いかけて、口をつぐむ。
「そう。あの時、僕を含め全ての龍人はそもそも生きることを放棄していた。
言ったでしょ? 世界を破壊するという点においては兄貴と変わらないって、その後に残る結末が違うって」
「つまり、私達もろとも心中するつもりだったと――」
「そんな、それでは勝利も何もないだろう……!?」
ガントールは憤りに声を荒げる。セリナは肯う。
「戦争には勝てないと知った。でもこのまま生かしては置けないと恨んだ。
だから、敵味方一人残らず消し去るつもりだった」
「だが、アキラ殿がそれを防いだ――」
「僕の精神はそこで大きく揺らいでしまったの……まさか板金鎧が兄貴だなんて思いもしなかったんだから」セリナは斬首剣を指差す。「陣も不完全な内にあんたが破壊したんでしょ?」
ガントールは刀身の破壊された裁きの剣を引き抜いて、それをセリナの問いかけの答えとした。確かに陣を破壊したのはこの剣だ。
セリナは一層冷え込む風に肩を摩り、立ち上がる。この場の話はここで切り上げにするようだ。
「とにかく、世界は無くならなかった。私も死んでないし、兄貴もまだ死んでない」
からりとした語調でそう締めくくる彼女に、私は言う。
「私達のこと……恨んでいますか……」
「……どうだろう。わかんない」セリナは曖昧に笑みを作る。「龍人達はあの『はかり』に記憶を消されたと聞いているし、今更僕だけが恨みを引きずって取り残されるのは、すごく嫌なんだ。生まれ変わったはずなのにいつまでもいつまでも前に進めないのは、うんざりしちゃうよ」
「なら、私達と共に来てくれないか」と、ガントール。
セリナは面食らったように固まる。
「アキラ殿はそれを望むはずだ。……それに、私もそれを望む。争いのない世界。本当の平和。
今からならば、それを築くことが出来ると思うのだ」
ガントールは気取りのない言葉で真っ直ぐに語り、セリナに詰め寄る。互いに慣れていないのか、肩に力が入って辿々しい。
しかし、だからこそ私も後に続いた。
「私もっ、それを望みます。
いつか目覚めるアキラさんに平和な世界を見せてやりましょう」
握手を求め、手を差し出す。
セリナは暫く呆然と私の手を見つめていたが、恐る恐るといった体で手を伸ばすと、ガントールがそれを掴んだ。三人の手が固く握り合わされる。
「よろしく頼む。セリナ殿」