傷跡❖2
戦争が終わったなんて実感はなく、今ではすっかり澄み切った風も陽光もどこか偽物のように思えてならない。
それでも、この出鱈目に荒れた地平を眺めれば嫌でも夢ではないことがわかる。間違いなく、この場所で多くの血が流れたのだ。
私は苦労して断層をよじ登り、時にはガントールの手を借りて崖を降りた。女型は涼しい顔で足場から足場へと跳躍して先へ進む。
やがて足を止め四方を注意深く観察し始めた。人の気配がないことを確かめると手頃な岩に腰掛ける。
「ここでいいかな」女型は言う。
「いいですけれど、何故こんな所まで……」
荒れた土ばかりの前線。そこの一際落ち窪んだ場所である。盛り上がった断層は手頃な風除けとして有難いがそのかわり視界は切り取られて勝手が悪い。
相変わらずどこか淡々とした彼女の腹も分からない。ここで首を掻き切られでもしたらと想像しただけで粟肌が立つ。
「別に、あんた達に話しかけられなくてもここには来るつもりだった」女型は言う。「それにあの屋敷に私を入れてくれるとは思えないしね」
そう口にして投げかける冷ややかな視線。
争う必要こそないが分かり合うには溝が深い。今はまだ、女型をチクタク王宮へ招く訳にはいかないだろう。
「最初に、私から訊いても良いだろうか」
ガントールは控えめに切り出す。
「はい。えと……」
「リブラ・リナルディ・ガントールだ。
ガントールと呼んでほしい」
「ガントール。……あの時兄貴と一緒にいた人だよね? 顔は覚えてる」
その言葉にガントールは苦笑した。おそらくはその時に一度戦ったのだろうか。
「私は、アーミラ・ラルトカンテ・アウロラです。……アーミラと呼んでください」
「はい、分かりました。僕はセリナ・ニァルミドゥ。
セリナでもニァルミドゥでもお好きなように」
「ではセリナ。ここに来るまでの道中でもこれまででも時折土を掘り返していたが、率直に聞かせてもらう。あれは何をしているのだ?」
私は交互に二人の顔を見やる。
信頼したいという思いを隠さず、ガントールは真っ直ぐに問い質す。
一方でセリナは表情を崩す様子もない。
「あれは……探しているんですよ」
何を? と、視線を送る私とガントール。
「龍血晶――兄貴の身体の欠片だよ」
「ドラブライト……?」具体的な名称を出されても聴き慣れたものではない。「アキラさんの欠片と言うなら、緋緋色金では」
私が言うと、今度はセリナが顔を顰める。
「あれ、そうなの?
……もしかしたらそっちとこっちで呼び名が違うのかもしれない。私達があんた達を蚩尤と呼ぶようにさ」
それにガントールが続いた。
「私達が龍人を禍人と呼ぶように……」
緋緋色金を龍血晶と呼ぶ。
「ともかく、アキラの欠片を集めて、再生を試みている。……ということであっていますか?」私が確認すると、セリナは肯う。
「うん。どういうわけか兄貴は人の体じゃないからね、集めれば目を醒ますかもって」
「では、その、アキラさんは――」
「生きてるってば」やや不機嫌に主張する。「信じてなかったんだね」
「だって……私はあれから一度もアキラに触れてません。今だって、首だけじゃないですか」
生気のない顔。
閉じ合わされた瞳。
僅かに開いた口。
自分で言ってて嫌になる。
セリナが膝に乗せているアキラの首。誰の目から見ても、私の目から見ても、とても生きているとは思えないのだ。
「じゃあ、触ってみなよ」と、セリナは立ち上がり、アキラの首を差し出した。
「う……」
目の前には愛しい人の変わり果てた姿。私は腹の腑が引き攣る。
もし、セリナがとうに気を触れていて、これまでの全てが妄言だとしたら、この首は二度と目覚める訳はない。
正気か、狂気か。
私は恐る恐る受け取った。
手に触れてまず驚くのはアキラの持つ人肌の温かさだ。セリナが抱いていたから熱が移ったわけではない。アキラの首自身が仄かに温かいのである。
消失した首から下、その断面は肉とも骨とも言えない金属質なもので滑らかに塞がっていた。およそ生物としての組成からは逸脱したアキラの体。これはきっと私が行った死者蘇生の禁術による影響だろう。
人間性の喪失――故にアキラは死なず。
嫌が応にも眉を開く私に対してセリナは脂下り口の端を吊り上げる。そこには敵意も狂気も存在していなかった。セリナの言葉は真実だったのだ。
「わかるでしょ?」
その言葉に私は頷く。心の中に穿たれた大きな穴が、少しずつ埋められていく思いだった。
まだ、生きていてくれている。それがたまらなく嬉しくて、私は涙を堪えながらアキラの頬をそっと撫でる。
「この世界を守る為に兄貴の身体はバラバラになった。……だけど欠片を集めれば――」
「目覚めてくれる。かもしれない」ガントールが言う。
「そう信じてるんだけど、実はまだわからない」
セリナは腰帯に収めていた雑嚢から石を取り出すと掌に乗せてガントールに見せた。
「この辺りで拾った欠片だよ。龍血晶のはずなんだけど、兄貴の身体にくっついてくれない」
ガントールは石を摘み上げるとまじまじと観察する。陽に透かしたり指先で転がしてみたりと弄り回すが、魔鉱石や緋緋色金の見分け方を心得ているわけではないので分からない。見た限り、セリナの言う通り緋緋色金に違いないと思えるが……
「アーミラ、何かわからないか?」そう言ってガントールは石を寄越した。
回ってきたそれは小指程の石だった。この世界にある金属は青銅と銀と金、その他雑多な鉄と種類が多いが、それらと比べて緋緋色金――ないし龍血晶――はさらに希少である。
この付近でこの大きさのものが産出されるような事は無いためアキラの欠片で間違いはないだろう。
熱に溶解して風に冷やされたため、形状は艶のある涙型。色味も錆とは別の赤褐色。アキラの血が混ざっていることの証拠だ。
試しに欠片をアキラの首元に近付けてみるが反応はない。皮膚に擦り付けてみても変化はなかった、
「例えば……光線によって溶解した際に、アキラとの魂の結びつきが切れてしまった。……とか」
私は仮説を立てみる。当てずっぽうに発した言葉ではあるが、意外と正鵠を射るものではないかと思う。
首を傾げるセリナを置いて、私は更に思考に没頭する。
「魂……魂の結びつき……精錬血によって薄められたそれがさらに消耗してしまった。
そもそも現状のアキラは仮死状態なのでしょうか、……欠片を集めれば目覚める。のではなくアキラが目覚めれば欠片が再結合する……いやそれは無理筋……」
「ねぇ――」
「やっぱりここは欠片を集るのが先ですかね、……そして目覚める前段階で何か必要な行程……それは何か。治癒術式……は、駄目か、アキラは魔呪術を弾きますから……」
「おい、アーミラ」
「なら、また禁術? だとしたら必要な魔鉱石の調達が容易では――」
「アーミラ!」
「っはい……!」
驚いて背筋が強張る。
ガントールがため息混じりに視線を飛ばす。
「……まったく、アキラを失ってからずっと魂が抜けたみたいだったのに、生きてると知ればすぐにこれだ」
「す、すみません」私は恥ずかしくなって手扇で顔をパタパタと扇ぐ。「それで、何でしょう?」
「話が逸れてるから、一度正そうと思って」セリナは言いながら、両手を広げる。「兄貴の首と欠片を」
返さなければならない。
私は手放したくない一心だったが、大人しく首を差し出した。
名残惜しく手に残る温もりが寂しい。
「本題はここからだよ。アーミラさん。
この世界での兄貴のこと、きっとあんたが一番知っているんでしょ? 全て話してくれるって約束だよ」
セリナは取引だとでも言わんばかりに言う。実際、これは情報の取り引きだった。
アキラのこれからの可能性を教えてもらった今、私からはアキラのこれまでを洗いざらい話すのが筋というもの。そもそもこの場はそのために設けられた場だ。
「……全て。と、言うことは、『どのように出会ったか』から話す必要があります」
私は居住まいを正してセリナに向かい合う。
おそらく嘘偽りで逃れようとすればそれを見透かされるだろう。セリナはそれができる人だと思う。彼女の信用に応えられなければ、私は二度とアキラに触れることは許されないのではないだろうか。
「アキラについて話す前に、少しだけ私についてお話ししますね――」
そう前置きして、記憶を遡る。
自身が物心つく前から、既に両親の姿さえ覚えておらず、師と共に流浪の民として村々を、時には国々を流れ歩いていた。
私が十七歳の頃、師は老衰と病により他界……それからは孤独の日々が始まった。口に糊する日々である。
流浪の身ということもあり他者との交流を最小限にとどめていた私は、生活を送る伝手もなく日銭を稼ぐ為に慣れない日雇いを続けることになった。一日中働いて、ときには報酬が一宿一飯という日も珍しくはなかった。
そして、師との死別から一年ほど経ったある朝、胸の痛みと共に目覚め、刻印を継承した。
「――刻印とは三女神継承の印。私はその日から使命を科せられ、神器の力を持って前線に立たなければならなくなりました……
その後の事はガントールさんも知っている通りです」
どのようにアキラを喚び出したか、始まりの日から今日に至るまでの足跡を私はセリナに語った。
縷々として語るには月日は流れすぎている。アキラと出会ってからの三年半、その濃密な日々はあまりにも多くの出来事があった。それを仔細伝え漏らすことのないように記憶を辿り、長い時間をかけて足跡をなぞり尽くす。
洗いざらいに全てを語り、そして話が一段落ついた時には陽はすっかり傾き、風が冷えていた。
セリナは眠るように閉じていた目を開き、糸を吐くように長いため息をする。
「喚び出したその時まで、異世界の魂である事は分からなかった……でも、結果として元の世界で兄貴は命を落とした……か」
ガントールは不安そうに柄に手を添えるが、セリナの態度は理性的で、そこに種族間の恨みや怒りは持ち出してはいなかった。
単にアキラの死の理由、蟠り続けていた謎を明かして、肩を落とす。
「……『死にたかった訳じゃない』って、そういうことだったんだ……」
微かに震える声。膝に乗せたアキラは何も応えない。
「ずっと、気にかけていましたよ」私は言う。「置いてきてしまったあなたの事、アキラさんは遠くから幸せを祈っていました」
「そっか……」セリナは傷を撫でるような繊細さでアキラの頬を撫でる。
「助けられてばっかりだなぁ……
今の僕なら馬鹿みたいに丈夫な体で病気もしない……あとは兄貴が帰ってきてくれたら、それだけで僕は充分だよ……」
セリナはそっとアキラの首を胸に埋め、祈るように抱き締める。俯いた顔は垂れた髪に隠れて見えないが、一滴の雫が土を湿らせた。
隣に視線を移せば、柄から手を離したガントールの表情に驚く。
「が、ガントールさん……? なんで、貴女まで泣いてるんですか……」
「ぐっ、ぅ……いや、不覚にも胸を打たれてしまって……妙に涙脆くてな」ガントールは貫頭衣の裾を捲りあげて涙を拭う。「……『神様は意地悪だ』と、アキラ殿は言っていた」
セリナと再開したあの戦場で、アキラが呟いた言葉だと言う。
「あと少しで手が届くところまで来て……掴めない。
アキラ殿が言った言葉の意味がわかる。全くもって神は底意地が悪い。だから破壊活動を唆したのだろうな」
ガントールの言葉に私は頷く。
対してセリナは眉を顰め、泣き腫らした洟を啜った。
「さっきもアーミラさんが話してたね。破壊活動って言葉。それってどんな目的があったの?」
「目的……と言われると少し答えづらいですけど、アキラさんはとにかくこの宗教戦争に疑問を抱いていたみたいです」
私の言葉にガントールが続く。
「アキラ殿は人を殺す事に強い抵抗を持っていたな……生まれた場所で敵と味方に別れてしまうこの世界の有様を飲み込めずにいた。
あの塔に攻め込む段になって、言って来たんだ。『もう殺し合うのはよそう。使命を背負う事はやめよう』とな」
「使命って、その神器の力を使う事?」と、セリナ。
「力を使って殺す事……だな。宗教戦争という名を借りた種族間の軋轢は、勝者が敗者を皆殺しにしなければ解決しないと考えていた。
そして疑う事なく皆殺しにすることを使命として歩んでいたんだ。私達は」
ガントールの言葉に、セリナは肯定も否定もしない。
「だが、アキラだけは納得していなかった。私達獣人、魔人、賢人と言葉を交わし、心を通わせる事が出来たのに、なぜ龍人とはそれが出来ないと決めつけるのか……そういった想いがあったのだろう」
アキラはそれを、『本当の平和』と呼んだ。
敵の存在を消すのではなく、分かり合う事で共存の道を開くこと、恨みを捨てて手を取り合う世界を願った。
私が言葉を継ぐ。
「破壊活動は、一切のしがらみを全て消し去ることで、双方が歩み寄れる世界を作る……そのための土台作りでもあると思います」