傷跡❖1
戦火。
思想。
歴史。
何もかもが一つへ収束し、あらゆる命が失われたあの日から、早くも十六日という時間が流れていた。
あの終焉の光景から今まで、何故生きているのかすら判然としないまま私達は生きていて、世界はなんの狂いもなく夜と朝を繰り返している。平穏といえばその通りだが、胸の空漠に日々は曖昧としたものとして過ぎていった。
「髪」
チクタク王宮の一角、窓外を眺め身を休めていた私にガントールが声をかける。
「染めたんだな」
彼女は左右に結い分けている髪を下ろし、間に合わせの貫頭衣と外套を纏っている。袖から覗く腕は義手を失って左の隻腕である。首から鎖骨にかけても痛ましい裂傷が走っていた。おそらく服の下に隠した素肌は傷だらけだろう。
そして、腰にぶら下げている天秤継承者の神器――裁きの剣でさえも剣先を溶かして壊れてしまっている。ガントール曰く、国土に展開された禁忌術式を破壊した際に砕けてしまったのだと言う。
「聴いてるか……?」
私は呆けたように見つめていた事を自覚して、慌てて応えた。
「あ、はい。……白く変色したままだと、その……目立つので」
「そうか」
私は髪の房に指を通して、手櫛を繰り返す。
何か会話を続けるべきだとわかっているのに、かける言葉は見つからない。
アキラを失ってから何も手につかず、国王として磨き上げてきたはずの社交性や人格も戦場のどこかに落としてきたらしい。
有り体に言えば人嫌いな性格が戻ってきたみたいだった。色濃く心に巣食う喪失感をひた隠して、平静を装う。
「お、……オロルさん。まだ閉じ籠ったままですね」
苦労して会話の穂を継ぐ。
オロルは禍人領で別れて以降、面と向かって会話はしていない。
魔獣に変えられた禍人を救うために動いていた彼女……最終的に助け出されたのはほんの一握りにしか満たなかった。
人の肉体に戻すことまではやり通せた。確かに救い出したというのに、そこから終戦を経てチクタクから救助が来るまでの丸二日、夜冷えと飢えを凌ぐ体力は尽きてしまったのだ。
憔悴した身体では耐えられず、感情の消失した心は軽々に死を受け入れてしまう。ラソマ達チクタクの民が救護に向かった時には九割以上が死体となって、穴の底で腐り始めていたと聞く。
遠目に見たオロルの背中は悔しさに肩を落とし、私もガントールも声をかける事が出来ずにいた。
「……あれは、残念だとしか言いようが無い」ガントールは部屋の角に背を預けると気怠るそうに天井を見上げた。「ザルマカシムもそうだ、結局何も聞き出せずに終わった」
ザルマカシム。またの名をブーツクトゥス。
彼は神族近衛隊でありながら、災禍の龍として裏切りを謀った。
アキラとガントールの活躍により討伐、無力化に成功したが、何故国を裏切ったのかについては語る事なく禁忌の術式に飲まれて以降、二度と目覚めることはなかった。
彼の中にあった信念のようなもの。仄めかす程度に感じ取れた言葉の断片……それは神族近衛隊と隠密斥候隊の中にしこりを残し闇の中へ消えてしまった。
種族間の宗教戦争が終わった今、言いようのない虚しさばかりが心に募る。
明らめるべき何かがあり、私達はそれを掴みそびれたのではないかという疑念……
私達は科せられた使命を正義だと信じて戦っていた。それは禍人も同じだ。
正義と正義。
命と命。
奪い合うその先に見た終焉の光。そして――
「アキラ……」
思わず声に出していた。ガントールが腫れ物に触れるような視線をこちらに向ける。
「戦争が終わったからといって、全てがひっくり返るように平和にはなりませんね……」
取り繕うように呟いてガントールに向かい合う。彼女は嘆息して心底同意見だというふうに頷いた。
「アキラ殿が繋ぎ止めてくれた世界だ。どうにかしたいが、何から手をつけていいのか分からないな」
ガントールは腕を組んで私と同じように窓の外を眺める。
荒廃した世界。地盤が隆起と沈降を繰り返して断層が至る所に生じている。そこに転がる死屍累々……
「女型は、まだ首を返してはくれないのか?」と、ガントール。
私は視線を返すことなくただ一度だけ頷いた。
女型。
終焉の光を放った人型、あるいは災禍の龍。……そして、アキラの実妹。
終戦後、人々が意識を取り戻した時、女型は人目を憚らずアキラの首を抱いて泣いていた。その慟哭に虚を衝かれた私に対してガントールは教えてくれたのだ。
『あの龍はアキラの実妹らしい』と。
元の世界で生き別れ、常に想い囚われていた妹と、考えうる限り最悪の形で再開した。その胸中は果たして如何許りか。
そして同時に私の中ではマーロゥの最期が面影を重ねようとしていた――なにか、言い表せない不吉な予感めいたものを――故に女型が抱いているアキラの首を奪うことができず、今もこうして離れたところからただ呆然と眺めることしかできないでいる。
兄妹が離れ離れになったそもそもの原因が私なのだから。目の前の光景は不可侵で、私の入る隙間なんてない。
「……アキラの妹だっていうんだから、きっと悪い奴じゃない」ガントールは言う。「ただ、今のままじゃどうにもならない」
「『アキラはまだ死んでいない』って、女型は言っていましたね」
「今だってアキラの首を片時も離そうとはしないで抱きながら彷徨いてる。
……そもそもあれが正気かどうかさえ怪しい。異世界人とはいえあれだけのことをしたんだから。儀仗兵も気が気じゃ無いだろうな」
見てみろとガントールは顎で示す。しかし示されるまでもない。それは私がずっと眺めていたものだ。
大切そうにアキラの首を抱きながら、辺り一帯を朝も夜もなく歩いて回る女型の姿。それが哨戒を行う儀仗兵からしてみればなかなかに油断ならない。煩わしくて仕方がないのだった。
そんな彼女は、高く登った日の光を浴びながら時折荒れた土に尾を突き立てて掘り返している。
精神に耐え難い苦痛を受けた者は、己の身を守るために幼児退行することがあると聴いたことがある。今の彼女ももしやそうではないかというのが、ガントールの解だった。
しかし彼女がもしも正気であるならば、アキラが未だ死んではいないという言葉に私は縋りたい。
……まず、女型の意識が正気であるか。アキラの首はまだ息をしているのかをはっきりさせたい。
次に、土を掘る理由についても明らかにするべきだろう。禍人種として何か企てているのでは無いかという疑念も拭えない。
ガントールは逡巡するように唸っては頭を掻き、無理矢理に奮い立つ。
「……やっぱり、このままじゃ良くないな。アーミラもオロルも、私もだ」
そう言って差し出された手に、私は首を傾げる。
「行くぞアーミラ。折角アキラが救ってくれた世界なんだ。私達も何か動き出そう」
「行くって、どこに行くんですか?」
「決まってる。女型のところだ」
その言葉に腰が重くなる。
私とアキラの関係を知れば、女型はどんな反応を示すのか、想像したくない。
龍人の血を持つ者ならば、マーロゥのように私の出生について何か知っているかもしれないという期待がないわけではないが、より事態が悪い方へ向かってしまわないかという恐怖の方が強かった。
「嫌です……一人で行ってきてもらえませんか――」
「悪いが駄目だ。『レイズ』」
ガントールは短く詠唱して私の重さを奪うと強引に手を引いて、抵抗虚しく王宮から連れ出される。
「私も一人で行く度胸が無い」
❖
「あんたがアーミラだよね」
女型は開口一番そう言った。
崩壊してもはやあってないようなチクタク防壁の国境。その境で私とアキラの妹は真正面に対した。ガントールは頤に手を添えて呟く。
「似ているな……」
私もその言葉には同感である。
全体として見比べれば似ても似つかない半人半龍の女型。しかし顔付きや目鼻立ち、その面影だけを見比べるならば私と彼女はとても似ていた。
アキラも前に言っていたことがある。『妹の面影を重ねて、つい私のことを放ってはおけなかった』と。
視線を合わせればまるで鏡写しのよう――惚けている私に対して女型は見下ろすように胸を張り、眉を跳ね上げて繰り返す。
「……違うの?」
「あ、いえ、私がアーミラで間違いないです」両手を振って応えるが、ふと疑問に思い問い返す。「何故……私を知っているのですか?」
「もしかしてって思っただけ。
お……兄貴が言ってたんだ『アーミラ』って。それが何の意味かわからなかったけど多分誰かの名前だろうなって」
「アキラさんが」私の名を……と心の中で続いたが、声には出さなかった。
「特別な人なの?」女型は覗き込むような鋭い視線で問う。殺意こそ感じられないが、黙秘を許すつもりはないという真っ直ぐな視線で射抜いてくる。私は言葉を詰まらせて後退る。
助けを求めようとガントールに視線を投げかけるが、我関せずと受け流される。隠すか明かすか、私の一存に任せる腹づもりか。
頭の中で躊躇いと真実がせめぎ合う。話すべきか話すべきではないか。私は意を決して答える。
「た、大切な……人、です……」
「ふぅん」
ここからは、きっと逃げられない。
彼女は自分の兄がどのようにしてここまで生きてきたのかを知る権利があり、私は嘘偽りなく話す義務がある。
元の世界から魂を奪ってしまったこと。
私の身勝手な行いによってアキラは幾度も命を落としかけてしまったこと。
それでも、私はアキラを手放したくないということ。
「話してよ」女型は言う。
「どこからでしょうか」
「じゃあ、初めからで」
「……わかりました」
「んー、よし。少し歩こうか」
女型は腰元にドレスのように垂らしていた翼を大きく広げて伸びをすると、アキラの首を抱え直し防壁の外へ歩き出す。その背中にガントールが呼び止める。
「私も付いていいだろうか?」
「いいよ。まだ僕のこと信用できないだろうしね……」女型はそこで振り返る。「まぁ、二人がかりでも容易いけどさ」
微かにガントールから剣呑な気配が強まると、女型は猛禽のような手をひらひらと振って歩き出す。
「――なんて、冗談だよ」