目撃者
「曰く付きの物件があるのだが、住んでみる気はないか?」
友人に話を持ち掛けられてから、私は返答に三日間の猶予をもらった。
「住みたがっているやつは他にもいるんだ」
私が逡巡を見せた際に友人は言い放った。不動産屋の常套文句だ。競争相手がいる(と思わせる)ことで焦らせて即決させようという魂胆だ。
この文句には客を焦らせる他にも、もうひとつ効果がある。それは、「競合するほど人気なのだから、いい物件に違いない」と実際以上の評価を植え付けさせるという効果だ。
〈1LDK。最寄り駅まで徒歩七分。徒歩十分圏内にコンビニ、郵便局、コインランドリーあり。二階の角部屋。敷金なしの家賃四万九千円〉
〈裏野ハイツ203号室〉は申し分のない物件といえる。客が競合してもおかしくはないだろう。
最初に友人が口にした「曰く」さえなければ。
「不動産屋の常套文句」と言い表したが、友人は不動産屋ではない。自分が借りた〈裏野ハイツ203号室〉に私を住まわせようというのだ。
引っ越しを考えており、良い物件を見つけ即決して借りたのだが、その部屋がどうもおかしい。よくよく近所に話を聞いてみると、そこは『曰く』の付いた物件だった。ということらしい。
物件説明の際、不動産屋はそのことを友人に黙っていた。文句を言って解約しようかとも思ったのだが、私の存在を思い出して話を持ちかけたのだという。
「久しぶりの仕事のため引き受けたのはいいが、ホラーなど書いたことがなく、何をどこから手を付けて良いかさっぱり分からない」
と酒の席で私が漏らした愚痴を憶えていたのだろう。
「その部屋に住んで体験したことを、そのまま小説に書けばいいじゃないか」
気安い笑い顔とともに友人は私に言ってきた。
多くの不動産屋がそうであるように、友人の言う「他にも住みたいやつがいる」という言葉も、はったりの可能性が高い。「分野外のホラー執筆の依頼を安請け合いして困窮している作家」などという人種でもなければ、そこに率先して住みたがる奇特な人間はいないだろう。そんな人種がその辺にごろごろ転がっていようはずもない。現に三日間の猶予をもらったにも関わらず、私はこうして無事〈裏野ハイツ203号室〉に住まうことが出来た。
私が決断すると、友人はもうひとつ条件、というか頼み事を言ってきた。それは、私がここ住む間、自分を本来の私のアパートに住まわせてほしい。というものだ。すでに前の住居は引き払ってしまったのだという。ようは一定期間互いの住居を交換しようというわけだ。期間は私の原稿の締切を考慮して一ヶ月間。それまでには友人も不動産屋に言ってここを解約し、新たな住居を探しておくという。私は快諾し、ノートパソコンひとつ持ってここ、〈裏野ハイツ203号室〉に臨時の引っ越しをしてきた。寝具、家具調度は友人が持ち込んだものを使わせてもらう。
友人がこの「住居交換」の話を持ち掛けてきたとき、私はすぐに彼の企みを察した。友人は自分の職業を「気楽なアルバイター」などと言い、気ままな暮らしをしているが、ただのアルバイターにしては羽振りがよすぎる。その理由は、彼のアルバイトが人には言えない闇のアルバイトだからだ。それは、危険ドラッグの売人。彼はそのことを私に打ち明けなど当然していないが、私は偶然、友人と顧客との取引現場を目撃してしまったことがある。
それからも、友人と飲みに行った先で解散となって、私は自宅へ帰るふりをして友人を尾行し、同じように取引現場を目にしたことも何度かある。
私は普段近づかないような怪しいバーなどに出入りし、それとなく「商品」の入手が可能か訊いてみたこともあったが、最近は警察の目がこと厳しくなり、売人は取引場所の確保に苦労している、といった話も小耳に挟んでいた。
友人の企みはこうだ。彼は私と一か月間住居を交換し、私の部屋を商品の取引場所として使おうとしているのだ。彼自身警察にマークされているのかもしれない。友人は私と同年代で背格好も似通っていることを利用し、外出するときは私の服を着て私に成りすますだろう。警察が全くのノーマークのはずである、売れない作家の私という人間に化け、その住居を使い。まんまと取引を済ませてしまおうというつもりなのだ。
彼がこの計画を思いついたのは、私が彼にこぼした愚痴、すなわち「成り行きで引き受けたホラー小説が書けなくて困っている」という言葉を聞いてのことだろう。そんな私に話のネタとなるような「曰く付き」の物件の話をすれば飛びついてくると踏んだのだ。
彼の目論見通り、私はこの話に飛びついた。私の返事を聞いたとき、彼が内心そうしていたであろうと同じく、私も心の中でほくそ笑んでいた。私は私で、この状況を利用してやろうと閃いたからだ。
ここに越してきてから私は、なるべく息を潜め、他の住人たちとは顔を合わせないよう気をつけて生活をしている。食事など、やむを得ず外出しなければならないときは、サングラスを掛け帽子を目深に被り顔を晒さないようにしている。外出着も友人が部屋に残したものを着用する。私が部屋を出入りしているところを見られても、「私と友人は部屋の交換などしておらず、友人がずっと203号室に住んでいる」と思わせるために。
最初はマスクもしていたのだが、一度彼の様子をこっそりと覗きにいったときに、私の服を着ている友人を見てマスクはやめた。彼はトレードマークともいえる立派な口髭をきれいに剃り落としていたからだ。無論その理由は私が髭など生やしていないためだ。そこまで徹底してくれるのはありがたかった。付け髭の用意もいらず、サングラスにマスクまでしてしまっては、かえって怪しまれてしまいかねない。
何度か「向こう」の様子を見に行ったが、(当然友人には気づかれないように)あちらは順調のようだった。顧客らしき人間が私の部屋に出入りしているところも何度か目撃した。
こちらも万事順調に進んでいる。友人が外出した隙を狙い、合鍵で私の部屋に入り、台所の包丁をまったく同じ新品と交換した。あれは買ってから日が経っていないので、新品とすり替えられていても友人に気づかれる心配はない。友人は顔に似合わず料理をする。私は自分の部屋を出る直前、包丁を丁寧に洗っておいた。だから現在、私の部屋にあった包丁には友人の指紋しか付いていない。当然この包丁には自分の指紋が付かないよう扱う。
ターゲットもすでに決めてある。怪しいバーに出入りするようになってから、その店でよく見かける羽振りのいい中年男だ。どうやら非合法の金貸しで、肌身離さず持ち歩いている鞄には常に数百万単位の現金を入れているらしい。これまでの観察で、その男は毎週金曜日の夜には必ずそのバーを顔を出す。今日は金曜日、そして、私と友人との部屋交換から一か月後、すなわち、私がこの〈裏野ハイツ203号室〉に住む最後の日だ。
そろそろバーの開く時間だ。私は友人の服を着こみ、帽子を被りサングラスを掛け、鞄にはタオルで包んだ例の包丁を忍ばせて、ドアを開けて外に出た。
「どうも、こんばんは」
二つ隣〈201号室〉の住人である老婆がちょうど外に出ており、挨拶をされた。声まではどうしようもないので、私は無言のまま、ぺこり、と軽く頭を下げるだけに留める。
この老婆はここ〈裏野ハイツ〉の所有者らしい。ハイツの裏に小さな畑を持っており、畑仕事をしている様子を何度か目にしている。私もそこで採れたという野菜をおすそ分けしてもらったことがある。肉と一緒に炒めてみたら殊の外美味かった。
変わらず笑顔で視線を投げてくる老婆の横を通り抜け、私は階下に下りる。
「こんばんは」
階下でも声を掛けられた。103号室に住んでいる主婦だ。右手にスーパーのビニール袋を提げ、左手で息子と手を繋いでいる。ここでも私は会釈をする。若い主婦は会釈を返してくれたが、手を引かれた息子はじっと私の顔を見つめたまま。何度か顔を合わせたことはあるが、私はこの子供が苦手だ。いつも無表情に人の顔を見てくるだけ。103号室は私の部屋203号室の直下だが、子供の声を聞いたことがない。大人しい子供なのだろうか。
私は二人を通り過ぎる。背後から103号室のドアが開く音と「ただいま」という主婦の声がした。直後、「おかえり」と部屋の中から旦那の声が聞こえた。私は振り返ろうかと思ったがやめた。あの気味の悪い子供は母親に引かれて部屋に入るまで、じっと私のことを見ているに決まっているからだ。
ハイツの敷地を出たところでまた声をかけられた。
「こんばんは。お出かけですか」
101号室の住人だ。五十代くらいの年齢の、おそらく会社員。ぱりっとした背広に糊の効いたシャツを着て、夏でもネクタイを締めている。一度103号室の旦那と話をしているのを聞いたことがあるが、101号室の男は、「いつも女房がアイロンがけをしてくれているので」などと嬉しそうに語っていた。私はこの101号室の男の奥さんは、見たことも声を聞いたこともないが。
私はこの男にも会釈をしただけで、足を止めずに横を通り過ぎた。
足音は私のものしか聞こえない。ということは、あの男は私に声を掛けてから立ち止まったままであるということだ。私は振り返ろうとしたがやめた。
バーに着いた。開店直後であり客の姿はまばらだ。私は一番奥の、入店してきた客を常に監視出来る席に腰を落ち着け、いつものカクテルを頼んだ。今夜ばかりはあまり酔うわけにはいかないため、ちびりちびりやる。右手でカクテルグラスを持ち、左手で鞄を撫でた。包丁の手触りを鞄越しに確認した。
「獲物」が姿を見せるまで私は、何とはなしに裏野ハイツのことを考えていた。一ヶ月間も暮らしたのだが、不思議とまったく愛着は沸かない。ずっとこの計画のことだけを考えていたからか。それとも、友人の口にしていた「曰く」というのが、はったりではなかったためだろうか。
私は何度か異様な体験をした。
ひとつは、隣〈202号室〉のことだ。といっても、その部屋の住人と私は会ったことはない。が、誰かしら入居していることは確かだ。時折、壁を越して202号室から物音がするのを聞いたことがある。物音といっても、テレビの音や人が歩く生活音ではない。何かが床を這いずり回るような。作家の端くれとして想像を逞しゅうしてみれば、それは、ずぶ濡れになった人間が水を滴らせながらゆっくりと床を這う、とでも表現したくなるような音。
一度私は壁にもたれ掛かって考え事をしていたとき、背中にひんやりとした感覚を覚え、どきりとして背中を離したことがある。その壁は隣、202号室とを隔てる壁だった。壁に手を触れてみると、やはり、ひんやりとした感覚がある。その壁の他の場所にも触れてみたが、そういった感覚を覚えることはなかった。まるで、壁一枚隔てた向こうで、何者かが私と同じように壁にもたれていて、いや、それはもしかしたら壁にぴたりと体を密着させ壁越しに、じっと私の背中を凝視していたのでは。それが発する言いようのない視線が壁を伝って滲んできているかのような。壁の反対側にいるのは、ずぶ濡れの人間……
私はそれ以来、隣室側の壁にもたれかかるのをやめた。
私が壁の向こうからの感覚を「視線」と表現したのにはわけがある。ふと、思考が途切れた瞬間、あるいは、窓や玄関に目がいった瞬間、「もしかしたら覗かれていたのではないか?」と感じることがままあったからだ。視線を後追いで感覚する、とでも言おうか。
私は「この計画」は全て頭の中だけで練り、文書やパソコンに残していないため、計画が誰かに漏れるという心配は一切ないのだが、気持ちの良いものではない。私はこの部屋の窓の目隠しがカーテンではなくブラインドであることを恨めしく思った。ブラインドでは完全に外からの光を遮ることは不可能だ。ブラインドの板(スラットというらしい)をどんなに傾けても、そこには必ず隙間が生じる。外から室内を除けるような角度ではないが、そこに「視線」の通る隙間が少しでも空くというのを言いようなく不安に感じた。かといって、一ヶ月で出てしまう部屋にわざわざ厚手のカーテンを付けることもない。まあ、ここは二階部屋のため、外から誰かに覗かれるという心配はないのだが。
それに、私が「視線」を感じるのは窓からだけではない。玄関のポスト、物入のドアの隙間、はたまたカラーボックスと壁の隙間など、およそ人が入り込めるはずのないようなところからも視線を感覚することはあった。それを思えば、ブラインドをカーテンに変えるなど何の効果があろうか。
気が付けば私は、すでにカクテルを空にしていた。あまり酔うわけにいかない、などと思っていながら、さっぱり酔えはしない。あの気味の悪い〈裏野ハイツ〉のことなど考えていたせいだろう。これ幸いにと私は、二杯目にはもう少し強めのカクテルを注文した。
気味が悪いといえば、あの住人たちもそうだ。誰もが(あの子供を除いては)顔を合わせる度に、にこにこと笑いかけてくるが、あれは決して本心からのものではない。目が、いや、心が、違う、魂が笑っていない。作家として暇を見ては人間観察を続けていた私には分かる。喜びと同情と嘲りが綯い交ぜになったとでも言おうか。あんな笑い方をする人間を私は見たことがない。
私は極力あのハイツで見聞きしたことを思い出さないように、心に留めておかないようにしている。今夜が最後だ。私は「仕事」を終えたら203号室に戻り、そこで一夜を過ごし、明日には友人との住居の交換を終え、住み慣れた元の部屋に戻る。
「ターゲット」が来た。
私は首尾よく「仕事」をやり終えた。ターゲットの男は入ってきてから二時間ほど飲んで店を出た。やつは店を出ると人気のない裏路地へと足を運んだ。いつもの通り、何度も尾行して確認した通りの帰り道だった。決行場所も決めてあった。路地の最深部。週末といえど滅多に人の入り込まない昼間でも薄暗い路地。
念のため私は、動かなくなった男の体を路地脇に寄せ、段ボールを被せておいた。腹部に突き立った包丁はそのままにしておく。大事な「証拠品」なのだから。男の鞄から現金数百万円を抜き取ると、私はそれを自分の鞄に移した。最後に手袋を外し、それも鞄に押し込む。
すぐに現場を離れなければならないというのに、私は不意に立ち止まった。あれだ、あの感覚だ。「見られている?」私は周囲に視線を巡らせたが、何の気配も感じない。人の姿も見えない。当然だ。何度もシミュレートし、考えに考え抜いた計画だ。この時間、この場所に目撃者などいようはずもない。私は正気に戻ったように歩みを再開した。
死体は意外と早く発見された。その報がニュースに流れたのは、あの夜から三日後のことだった。
容疑者の確保も早かった。捕まったのは友人だ。凶器に残されていた指紋が一致したことが決め手となったのだろう。犯行当日、現場周辺から友人に似た服装と背格好の人物が目撃されたという証言も取れたのかもしれない。加えてアリバイもない。
当人がどう証言したのかは知らないが、おそらく曖昧模糊とした証言を繰り返したのだろう。本当のことを口に出来るはずがない。「その時間は友人の部屋で危険ドラッグの取引をしていました」などと口に出来るはずがない。もし自分のアリバイを主張などしたら、友人の身柄は厚労省の麻薬取締部に引き渡され、洗いざらい喋らせられるはずだ。もしそんなことになったら、釈放されたとて待っているのは、組織からの報復。全く身に覚えはなくとも、このまま大人しく捕まっていれば、娑婆に出てきた暁には組織がまた「職」の面倒を見てくれるだろう。強盗殺人とはいえ初犯であり死刑に処せられることはないだろう。もしかしたら組織がいい弁護士をつけてくれるかもしれない。大きな目で見ればどちらが得かは論を待たない。
調査の結果、友人は金曜日の夜から未明にかけては、必ず部屋(交換した私の部屋)に閉じこもり、ずっと商品の取引をしているということが分かった。顧客に社会人が多いため金曜の夜というのは動きやすいのだろう。ここにターゲットの男が毎週金曜夜に欠かさずバーに出入りしていることも分かり、計画の決行は揺るぎないものとなった。
このどちらかの条件が合わなければ、私の企みは実行されることなく終わっていた可能性が高い。それならそれでよかった。貴重な恐怖体験を土産に原稿を上げればいい。
だが、もうその必要もなくなった。明日、編集者に原稿の断りの連絡を入れる。やはり私にホラーは合わない。幽霊や怪異など出てこない、人殺しのミステリーを書いているほうが性に合っている。
玄関の呼び鈴が鳴った。私はパソコンの前を離れ、玄関に向かい鍵を開けた。
どうして鍵を開ける前にドアスコープで訪問者を確認しなかったのだろうか。そのときに限って。もしかしたらすでに私はその時点で〈憑かれて〉しまっていたのかもしれない。
玄関先に立っていたのは、にこにこを笑みを浮かべた、ぱりっとした背広に糊の効いたシャツを着た男だった。胸元の赤いネクタイが妙に目に入る。
「少々よろしいですか」
男は笑みを崩さないまま言ってきた。そこでも私は憑かれたように拒みはしなかった。
私は男に、持参したビデオカメラの映像を見せられた。
男がもうひとりの男を呼び止め、振り向いた隙に包丁を腹部に突き刺し、倒れて絶命した男の死体を狭い路地の脇に寄せて段ボールを被せる。最後に鞄から現金を鷲掴みにして自分の鞄に入れ持ち去るまでの一部始終が記録されていた。時折映像はアップになり、刺した男の顔を大きく捉えていた。そこに映る、サングラスと帽子だけでは誤魔化し切れない、私の顔。深夜だというのに映像は妙に明るく、まるで照明を当てて撮ったかのようだ。
「どうしてこれを……」
犯行を認めるような口ぶりになってしまうが、私は訊かずにおれなかった。その映像は犯行の様子を真横から捉えているのだが、そこには、カメラがあるべき位置にはビルの壁がそそり立っているだけで、カメラが、撮影する人間がそこにいられたはずはないのだ。
「映像に違和感をお持ちなのですね」私の心中を見透かしたかのように男は、「私たちは他にも証拠を持っていますよ。例えば、これなんかはどうでしょう」
男はカメラを操作して、別の映像を液晶ディスプレイに映した。私がこの部屋の台所で包丁をすり替えている映像だった。私は思わず台所に目をやった。いつ? どうやって?
「こんなものが……」私は滴る汗を手の甲で拭って、「こんな怪しい映像に証拠能力があるとでも……」
「でも、再捜査は確実に成されるでしょうね」
男はここに来てから一度も笑みを崩していない。
「わ、私に、どうしろと……」
私のその言葉を聞くと、男は一層笑みを深め、
「戻って頂きたいのです」
「戻る……? って、どこへ……」
「決まっているではありませんか」
ひとつしかない。
「う、裏野ハイツ203号室へ……?」
私が言うと男は頷いた。
私は不承不承了解した。そうするしかない。答えを聞くと男は、この日一番大きく、満足そうに頷いた。
「手続きは全て滞りなく済んでおりますので――」
「あ、あの部屋に」私は男の言葉を遮って、「あの203号室に何があるっていうんですか?」
男はカメラを仕舞う手を止めて、
「あの部屋というよりも、あのハイツに、ですね。いえ、正確にはやはり部屋でしょうか。202号室に」
「202号室!」
私は、壁越しに感じた、あのひんやりとした感覚を思い出した。
「あのハイツには、全室誰かしら入居して貰わなければ非常にまずいのですよ。人が住んでいれば抑え込んで――いえ、人が住めば家屋は痛まないというでしょう……」
「えっ?」
私の疑問の声を無視するかのように男は、
「102号室の方など、直下のため、まともに影響を受けてしまったのでしょうね。もう何か月姿を見ていないことか……ああ、いえ、お気になさらずに」
「ま、前の住人は? 203号室の前の住人は、どうしたんですか?」
「死にました」
男はあっけらかんと答えた。笑顔もそのままに。
「死体は畑に埋めました。私と103号室の旦那さんと二人で」
「え……?」
「やはり、直下と隣は隣接しているため、影響を受けやすいのでしょうかねぇ……」
「と、隣……じゃ、じゃあ、201号室は? あの婆さんは?」
「あの方は大丈夫なんです。202号室の住人は彼女のお孫さんですから。大変なお婆ちゃん子だったらしいですよ」
男はカメラを仕舞って立ち上がると、
「お聞きの通りです。皆さん、話はまとまりました」
私の背中の向こうに声をかけた。私の背後にあるのは……私は立ち上がって振り返り、カーテンを引いた。
窓の外には、老婆、夫婦、その子供の四人が並んで立っていた。子供以外は皆、にこにこと笑みを浮かべている。
「あなたの奥さんは、いないんですね?」
私は自分でも不思議なほど冷静に訊いていた。
「いえ、家内は、そこに」
男は老婆の隣、何もない空間を指さした。
呆然とした私は、冷静に思考する能力を失ってしまっている。
ここ、何階だっけ?