第八話 始まりの桜花弁
1
どうして俺の名前を知っているんだ、と口にする前に、女の顔色が一気に朱色になる。
「え、ふぇあ!」
変な声を上げて口をパクパクさせる女は混乱しているようだった。
「君、だいじ……」
もう一度肩を揺さぶろうとして手を伸ばすと、手の甲に何かが落ちた。それは女の涙で俺はぎょっと手を引っ込める。
「あれ、やだ……」
何度も涙を拭う女は、「あれ? あれ?」と不思議そうで。状況が理解出来ていない俺は混乱し、質問する"余裕も"与えなかった。
何だかんだで女に目の前で泣かれるのは初めてで、「使う?」と差し出せるハンカチもない。
どう声をかけていいか逡巡していると、女は恥ずかしそうに笑った。
「--これじゃ、最初に会った時と逆だね」
その台詞の意味は、わからなかったが。
「もしかしてだけど、君、僕の事誰かと間違えてない?」
俺はこの女を知らないが、女は俺を知っているような口調だったので尋ねてみた。すると女はおかしそうに笑って
「間違えてないよ。侑李くんは相変わらず"猫かぶり"してるんだね」
と、俺の本性を見抜く。
「…………」
俺が言葉を失っているのにも関わらず、女は次々と質問攻めをし始めた。
「ねぇ、いつこっちに来たの? その制服は侑李くんも豊崎って事だよね? あ、というか私、侑李くんを見つけたって事で……むぐ」
「ちょっと待て」
俺は女がこれ以上喋らないように口を手で塞いだ。見抜かれたならこの頭のおかしな女に猫かぶりで相手をしている余裕はない。
「俺の名前は依澄侑李だ。お前の言う"侑李クン"は俺じゃない」
だから告げた。
「……依澄、侑李? どっかで聞いた事ある気がするなぁ」
「て事は俺はお前の知ってる侑李クンじゃないって事だ」
腕時計を見ると予鈴まであと少しだった。
うんうんと首をひねって必死に思い出そうとする女を放置して、俺は校舎へと向かう。
例のメールに従った結果、変な女に出逢った。
この教訓を活かして、今度メールが来た時は無視をする。そう決めた俺は予鈴に間に合ったが、女は間に合わなかっただろう。
始業式が終わって、担任と一緒に女が入ってきた。
俺を見つけた女は「いじわる」とでも言いたそうな表情をする。が、教室中を見回せばすぐに笑った。
「坂倉天音です。神奈川県立、浪江総合高等学校から転校して来ました! よろしくお願いします!」
頭を下げる女に、俺はやっぱり人違いだと確信した。それは単純に、俺に神奈川に住む知り合いは一人もいないからだった。
「坂倉はじゃあ、あそこの空いている席にな」
担任が指差す方向は、俺の列の一番後ろだった。女は「はい 」と返事をして俺の真横を通り過ぎる……途中でチラッと俺を見て目が合った。
睨む事もなく、かと言って笑うわけでもなくただ見ただけ。当然泣きもしなかった。
俺はすぐに視線を逸らす。
こいつには二度と関わりたくない、そう思うのに頭の隅では何かが引っ掛かっていた。
「依澄ー」
ぷすぷすと、後ろの席で同じバスケ部の高橋拓海がシャーペンで俺の背中をつつく。
「今のてんこーせー、絶対お前の事見たよな」
「さぁな」
高橋と長話をする気はない俺は短く答えた。
「『さぁな』って何」
「そのまんまだ」
高橋は「ふぅん」と俺の背中をつつくのを止めた。
「侑李くん!」
ホームルームが終わってすぐに、女……坂倉天音が俺の席に来た。もしかしたら坂倉が来るかもしれない、その前にさっさと帰ろうとしていた俺にとって、それは小さな衝撃だった。
気配さえなくポッと急に現れたかのような坂倉は、じぃっといかにも純粋ですと書いてあるかのような双眸で俺を見据える。
「んだよ」
「やっぱり、侑李くんは侑李くんだよね?」
またそれか。
「違うっつってんだろ」
「ううん、違わないよ。だって匂いが同じだもの」
「にお……っ?!」
何で判断しているんだ、この女は。
軽くドン引きしていると、坂倉は俺の手をナチュラルにとって
「ねぇ、1on1しない?」
そう言った。
「断る」
「え、どうして?」
いや、こっちが聞きたい。
坂倉は俺が断らないとたかをくくっていたらしく、きょとんと俺を見下ろしている。
「……どうして侑李くんが断るのかよくわからないけど、私はとにかく1on1をしてほしいの。侑李くんとバスケをすれば、もっと確信するはずだから」
言葉の意味がまったくわからなかった。
そもそも最初から坂倉と話が噛み合ってない気がする。
「いーじゃん、やってあげなよぉ」
断ろうとした俺の肩に手を置いて、ニヤッと笑ったのは高橋だった。
「バスケでしょ?」
「うん、そう! バスケ!」
坂倉も坂倉で、「ようやく話が通じる人に出会えた」的な表情をしていた。
坂倉と高橋。このコンビは他の生徒が帰っても俺が折れるまで延々と説得しそうな勢いで、俺は早々に諦めた。
体育館を開けて倉庫からボールを取り出す。
先にボールを持たせると、坂倉は素人丸出しの体勢でドリブルをした。これには勝手についてきた高橋も驚いたようで、ガムの風船をパンッと割る。
素人丸出しに見えるのは癖のあるやり方のせいで、それは……。
「あの子のスタイルお前に似てない?」
高橋も思ったのか、シュートをする坂倉を指差した。始まりの合図もなく唐突に始まったが、俺の予想通り坂倉は外した。
やらずに終わらせるよりも、この調子だと俺が終わらせた方が早く終わるだろう。
「チッ」
坂倉からボールを取って、ルールなんか関係なくリングに放った。坂倉が追ってくる事はなく、負けてもいいのかじっと俺の動作を見ていた。
「俺の勝ちでいいんだろ?」
「っえ? あ、うん! この勝負、侑李くんの勝ち!」
拍手をする坂倉は第三者のようだった。
「うわー。なんか俺、依澄に負けた気分」
本物の第三者、高橋を無視して俺はボールを倉庫に戻す。その前に一瞬だけ坂倉の横を通り過ぎたが
「……顔も名前も匂いもスタイルも、名字以外全部一緒なのに別人なんておかしいよ」
みたいな事をぶつぶつと呟いていた。
だからおかしいのはお前の方だろ、と俺は心の中で反論する。
「高橋、鍵はお前が片付けろ」
「マジで? 鍵って一番めんどいやつじゃん」
高橋はくるくると鍵を指で回した。口ではそう言いつつやってくれるらしい。
「侑李くん帰るの?」
「あぁ」
「--そっか。"またね"!」
俺は"返事をする事もなく"、一人帰路についた。
2
次の日から部活が始まる。
放課後になって体育館に行くと、何故か坂倉がいた。
「女子だ! 依澄、体育館に女子がいる!」
騒ぐ原田築を黙らせて、俺は坂倉に向き合った。
坂倉の性格的にも
出逢った時の話の噛み合わなさっぷりにも
俺の本性をすぐに見透かしたところも含めて
死ぬほどもう二度と関わりたくないと思っているのに。
「……お前、何しに来た」
「侑李くん! 見て、これ!」
見せつけられた紙は入部届けで、部活名は男バスになっていた。
「私、ここのマネージャーになるね」
「マジで?!」
後ろの方では揃い始めた部員共がざわついている。
死ぬほどもう二度と関わりたくないと思っているのに。そうまでして俺につきまとう坂倉を完全に拒めない自分が情けなく思えた。
「これ、顧問の先生に出してくるね!」
スルッと俺の側を通り過ぎて、坂倉は職員室の方へと走っていった。振り返ると姿はなく、気配といい身の動きといい奇妙な奴だと思う。
信じてはいないが、ガラにもなく幽霊に見えてきた。
「依澄。いいのか?」
副主将の中崎至が、短く主将の俺に尋ねた。
主語が無くても中崎が言いたい事はわかる。
「良くねぇよ」
「じゃあ何で止めない」
俺はその問いに答えられなかった。
少し前にまたあの奇妙なメールが来て、《天音の入部を止めるな》と書いてあったが、それは関係ない。
「まぁ、性別関係なくマネは必要だしね」
高橋はニヤニヤしながら坂倉が姿を消した方に視線を向けた。その表情が腹立たしくて蹴りを入れる四月。
奇妙な女と共に現実味のない非日常がやって来た。
それが日常となるまで、そう時間はかからなかった。