第六話 巡る季節の終焉
1
秋が過ぎて、冬が来る。
夏の合宿以降、俺と天音は一定の距離を保っていた。だからこそ、側にいた椎名には不愉快だがすぐに気づかれた。
年を越せば、天音から「転校する」と言われるのだろうか。いや、もう俺には話しかけないのだろうか。
そんな事を思っていたら年も越してしまっていた。気づけばもう二月だ。
「侑李ぃー!」
席に座っていると、後ろから肩を組まれた。椎名からは甘い匂いがする。
「見ろよ! 俺、こんなにチョコ貰ったんだぜ!」
「匂うから離れろ」
「んだよ! いい匂いじゃーか!」
椎名はバレンタインのチョコの匂いを嗅いでニヤニヤと笑った。
「どうせ本命には貰えてねぇんだろ」
「痛いとこ突いてくんなよゲス!」
椎名を無視して天音を見ると、天音は表情を強ばらせたまま椅子に座っていた。
「本命に貰えてねぇのは確かだけどよ? こんなに貰ったら喜ぶよな? 普通?」
語尾に"?"を付けて話す椎名は珍しい。
「んなの俺が知るかよ。つか、どうせ義理だろ」
「んでそう言い切るん……」
「俺も貰った」
証拠に鞄の中を見せると、椎名は本気で両膝を床につけて悔しがった。養護施設に帰ったらどうせ全部お前にやるんだから、目障りな事は止めてほしい。
椎名を無視した俺は鞄を持って教室を出た。
部活に出ようか迷う。
別に練習して強くなりたいわけではない。ただ俺は……
「っゆ、侑李くんっ!」
……どんなに距離が離れても、天音が視界に入る場所にいたかった。
足を止めると、あいつも俺の後ろで足を止めた。
「あの……あのね」
あんなフラれ方をしたくせに、まだ俺に話しかける勇気が天音にあったのが驚きで。突き放したくせに、まだ天音に話しかけてほしいと思っていた俺がいた。
「私、夏に一回フラれてるけど、これだけは受け取ってほしいの」
話しかけてもらえたが、どんな表情をして何て言えばいいのかわからなかった。多分それは天音も同じだ。
「お願い、私を見て」
振り返ると、泣きそうな天音がいた。
両手は紙袋を持って俺へと差し出している。
「……私、まだ侑李くんの事が好きだから」
「俺が死んでも?」
つい言葉が出た。
"お前"に今の俺の気持ちがわかるか、と。
「--愛してる」
いつの間に、互いに対する想いが同じになったんだろう。
それなのに狂ってしまうほどにすれ違って、傷つく。
「また泣いてる。侑李くんは意外と泣き虫だよね」
「お前に言われたくねぇよ」
俺はあいつから紙袋を奪って
「貰っとく」とたった一言だけ告げて
部室へと駆け出した。
2
三月上旬にセンパイの卒業式を終わらせると、中旬にある"例の日"までは一瞬だった。
天音から貰った生チョコは食べて、他のは全部、椎名にやった。椎名は「これ明らかに本命だろ! バカにしてんのか!」と大半を俺に返したから、ほとんど捨てたが。
そんな事を思い返しながら、部室に向かう天音に声をかけた。最後に話したのはバレンタインで、気まずさが残る。
「バレンタインのお返し。今日中に渡さねぇと意味ないからな」
それでも案外言葉は出てきた。
「え、お返しなんて良かったのに」
「そう言っといてやらなかったら怒るだろ」
実際、タイムスリップする前は怒られた。
天音は「そんな事はないよ」と嘘をついて俺から小箱を受け取る。
「ありがとう、侑李くん」
久しぶりに見た天音の笑顔は綺麗だった。
「開けていい?」
「好きにしろよ」
俺は天音と普通に話せている今の状況に、内心で呆気にとられていた。そんな事も知らない天音は手中にそれを落として、目を見開いた。
「……ネックレス?」
小さな桜貝がついたネックレス。
どうしてもあの事故の日が忘れられなかった俺は、水族館にありそうなモノを探していた。そんな時に見つけたこのネックレスは、天音によく似ていた。
「可愛い……」
つんつんと桜貝をつついて、ネックレスをつけようとする。不器用でなかなかつけられなかったのが天音らしかった。
「貸せ」
天音に後ろを向かせてチェーンをつける。
俺の方に向きなおった天音は、やっぱり桜貝が似合っていた。
「侑李くんありがとう」
もう一度俺に笑顔を向けてくれる天音は、数年前初めて出逢った天音と全てが同じだった。そして天音が転校するまで一ヶ月もないのだと知る。
「…………」
いつ出発するのか聞けるわけなかった。
そもそも聞いたところで、俺に何が出来るのかわからなかった。
「侑李くん? どうしたの?」
「……いや、別に」
うなじを掻いて、俺は行こうとする。
終業式まで一週間くらいしかない。
これが最後の会話かもしれないと思ったら、最後くらい好きな奴に言い残す事はないようにしたいとらしくもなく思った。
「……似合ってる」
が、最後まで一番言いたかった言葉は、俺には言えなかった。
四月になったらまた、天音のいない世界がやって来る。
別の俺がいる生きづらいこの世界に存在する意味はなくなってくる。
その時どうすればいいのか、俺は既に心に決めていた。
3
養護施設に植えてある桜が咲いた。
薄い桃色で、一瞬雪でも見ているんじゃないかと錯覚する。季節は三月下旬、終業式が過ぎた春休みの最中だった。
俺の部屋は相変わらずの一人部屋……というわけにもいかず、去年から椎名と同じ部屋だが、いつもいる椎名はいなかった。
「侑李ッ!」
部屋に突然入ってくる椎名は俺の襟首を掴む。
「お前! 早く!」
「……おい、はな」
「早く! 天音が東京に転校するって! 今日新幹線に乗って行っちゃうって!」
……今日だったのか。
元から覚悟していた俺の思った事は、この程度だった。
「さっき天音に呼び出されて! 男バスの一年で会ってたんだよ! 俺、バカだけど天音は本当はお前に見送ってほしいんだなって事だけはわかったんだ!」
俺がここにいる時点でそんなわけないだろ。
そう思った俺は、椎名をまともに相手にしようとしなかった。そんな俺に椎名は泣きながら叫び、頼む。
「頼むから行ってくれよ!」
初めてこの部屋で出逢った時から、今まで椎名が泣いた事は一度もなかった。大粒の涙が頬を伝って俺の頬に落ちる。
「--"お前は何でここにいるんだよ!"」
椎名はそれを、"立花侑李"は何故この状況で部屋にいるんだと言っただろう。
だが俺の耳には、"依澄侑李"は何故この世界にいるんだと言っているように聞こえた。
どうにもならないのは初めからわかっている。
が、こんなどうしようもない怠けた俺にまだチャンスがあるなら。
「……横浜駅か?」
「ッ!」
声を枯らした椎名は大きく頷いた。
財布を持った俺は椎名を腕でどかして走る。この一年、地道な練習を積んできた"俺"はあの事故の日よりも早く走れた。
一心不乱に電車を乗り継いで横浜駅にたどり着く。
すぐさま新幹線の一日切符を購入して中に入った。
ずっと、本当に長い間見てきた天音の姿は人ごみに飲まれていた。
わざわざこの世界に来たってのに、本音を一年半も言えなかった自分の方が椎名よりもバカだった。
「くそッ!」
今の俺を見たら依澄侑李は嘲笑うだろう。
くだらないとそう言って、常に何かにイライラして。実際は今だってそうだ。今だってイライラしている。
変わってないのに変わっている自分が不気味で、俺をそうさせた天音はさらに不気味だ。
なのに求めている。
最後の最後に、「似合ってる」よりも言いたい言葉があるからだ。
「待てよ!」
そうやって叫べば、最後尾で新幹線に乗りかけた天音が振り向いた。
「侑李くん……?!」
片足だけを新幹線の中に入れて天音は立ち止まった。
「本当はずっと前から好きだった」
「え?」
「好きだったっつってんだよ、バァカ!」
羞恥心も振り払って叫ぶ。
よく見ると天音は桜色のワンピースに桜貝のネックレスをつけていた。その姿は合宿で見たそれとは違い、この世界に来る前に見ていたそれだった。
「じゃあ、私たち……」
「でも付き合わねぇ」
「…………どうして?」
俺は、何度天音を泣かせたら気が済むのか。
いや、ここまで俺を悩ませた天音も同罪か。
「--"未来で俺を見つけたら、付き合ってやる"」
天音が乗る新幹線のアナウンスが入る。
天音はこんな俺の言葉に頷いて両足を新幹線に入れた。
俺は早口で天音に"俺"の居場所を伝えようとした。
「俺は東京でお前を待ってる」
それと
「俺の本当の名前は--」
発車のベルが鳴る。
声は掻き消されて、扉は無情に閉まった。
充血した目を見開く天音は驚いていた。俺の目の前で新幹線が動き、天音を連れていく。
「……最後まで言わせろよ、バァカ」
耳がホームの雑音を捉える。
今までこんな雑音が入り交じった場所で話をしていたんだと思うと、もっとちゃんとした場所で話せば良かったという後悔が込み上がった。
横浜駅のホームには、何処から来たのか桜の花弁が落ちていた。そのせいで宇佐見みたいな花の甘い匂いがした。
あの海でちぎった花弁が脳裏に浮かんで、今と重なった。
養護施設に戻った俺がする事はただ一つだった。
「宇佐見」
養護施設のガキを育てる大人の中で、唯一俺に話しかける宇佐見は振り向く。
「俺はどこに捨てられていたんだ?」
「え……っと、こっちよ」
宇佐見は俺がそれを尋ねた理由を聞かずに、戸惑いながらも案内した。
「貴方はここにいたの」
そこは桜の木の下だった。
無言でそれを眺める俺に、宇佐見は笑顔を向ける。 俺はそんな宇佐見に頼み事をして部屋に戻った。部屋では、疲れたのか椎名が寝ていた。
俺は元から少なかった荷物を整理して、学校の物を一つにまとめる。そしてまた財布だけを持って養護施設を出た。
--もう二度と、ここに"帰る"事はないだろう。
電車を乗り継いで、俺がタイムスリップした海に行く。多分、俺がこの世界にタイムスリップした意味はないんだろう。
天音の転校はガキの俺には止められない。
初めて出逢ったあの日々を変えたくもなく、忘れていたあの日々の謎がわかったなら止めたくもなかった。
だから意味はない。
あるとするなら、死んだ天音に再会してバカだった俺を元に戻す事くらいだ。
「----」
海に向かって歩き出す。
もう一度、世界を終わらせる為に。