第三話 鍵はかからない
1
次の授業は担任の授業だったが、俺が目の前で泣いたからか天音にも俺にも何も言わなかった。そうして授業が終わる度に誰かに囲まれる。
猫を被ってくだらない質問に答えると、いつも天音が遠くから不思議そうな目で俺を見ていた。
一日の授業が終わった瞬間に、俺は養護施設に帰った。誰かに捕まらなかったのが幸いで、すんなりと帰れる。
疲れた。
そう思う暇もなく宇佐見が俺の目の前にやって来た。
「もう帰ってきたの?」
「……どけ」
猫を被っていた反動で、宇佐見にはいつも以上に不機嫌な態度をとった。前までは猫を被っていても疲れなかったのは、相手がガキではなく俺が転校生ではないからだろう。
「侑李くんったら。その調子じゃお友だちが出来なかったのね」
「いらねぇよそんなの」
吐き捨てて俺は自分の部屋--宇佐見に無理を言って一人部屋になっている--に戻ったベッドに倒れ、俺は長く息を吐く。
本当に疲れた。けれど元の世界に戻ろうとは思わなかった。それほどまでに、俺は天音のいない世界が死ぬほど大嫌いだった。
そうやってベッドで目を閉じていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
『たぁーちぃーばぁーなぁーゆぅーうぅーりぃー!』
……は?
目を開いた刹那、鍵なんかかかっていない扉から男子が突進してきた。
「っな……! ぐふぅ!」
らしくもねぇうめき声を上げて、俺は上に乗っかる男子--クソガキ--を見上げた。どっかで見覚えがあるような、ないような、そんな顔だ。
「おい立花! お前勝手に帰んじゃねーよ! 委員長が探してただろーが!」
その台詞でわかった。
こいつは同じクラスの奴だと。
「どうして君が養護施設にいるのかな?」
俺が怒りを抑えて尋ねると、クソガキは怒りを抑えもしない表情で怒鳴った。
「なんだとてめぇ! 俺だってここに住んでんだよ! いて当然だろ!」
……なん、だと?
俺はまじまじとそのクソガキを観察した。観察しても、覚えてないものは覚えてないんだから全然わからねぇ。
「くっそー! その顔はぜってー覚えてねぇ顔だな! いいか猫被り野郎! 俺は椎名多生だ! 覚えとけ!」
「どうでもいいけど君、さっきからすごいうるさいよ」
いちいち語尾に"!"を付ける奴なんて初めて見た。……つか、さっさとどいて欲しい。
「あぁん?! まだ猫被ってんのかコラ! 俺たちもうダチだろ!?」
「なんでだよ!」
あまりの傍若無人さに、つい我を忘れてつっこんでしまった。クソガキ……椎名は立ち上がって俺を両足で挟むような体勢になった。
「はぁ!? お前、宇佐見から教わらなかったのか?! 同じ施設にいる奴らはみんな家族! 俺のダチだ!」
「教わってねぇよんなクソみてぇなモン!」
猫被りだと知られてるなら容赦はしなかった。あまり椎名の自由さにキレながら、俺は叫ぶ。すると椎名はキョトンとした表情で俺を見下ろした。
「……教わってない? へぇー、宇佐見でもそんなとこあるんだ」
「んな事よりさっさとどけ」
「へいへい」
椎名は大きく跳ねて着地し、大窓の方へと駆け寄った。元々四人部屋になっているこの部屋は、俺一人しかいないおかげでだいぶ広く見える。
「つかお前、何しに来た」
「ん? 見ればわかるって」
椎名は窓を開けて「おーい!」と誰かを呼んだ。
「"天音"ー! 立花いたぞー!」
「……は?」
『椎名くんっ! 本当にありがとう!』
間違いなく外から天音の声が聞こえる。
恐る恐る後退すると、椎名が「逃げんな立花!」と俺の元へと飛んで首根っこを掴んだ。ずるずると引きずられて窓の外へと顔を出される。
俺の部屋は二階にあって、フェンスの奥の道路に天音は立っていた。
「天音も入って来いよー! ここ、別に関係者以外立ち入り禁止じゃねーし!」
「そ、そんな! 悪いよ! 私、ただ侑李くんの様子を見に来ただけっていうか、急にいなくなるから心配したっていうか……」
高校の頃に初めて出逢った天音は、素を見せたこんな俺にも臆する事なく話しかけてきたような気がする。当時はただただ迷惑で、今思えばありがたかった。
中学生の俺が高校時代を思い返しながら、中学生の天音を見下ろした。
「……良かった。侑李くん元気そうで」
一体何で判断したのか、天音は小さく笑った。
「じゃあ、私はもう帰るね」
天音の足が動く。
俺は思わず身を乗り出して叫んだ。
「ま、待てよ!」
振り向く天音は頬を朱色に染めていた。「どうして私は呼び止められたの?」的な表情をしていると思う。
俺だって何で呼び止めたのかわからなかった。隣の椎名でさえ、俺が何を言うのか待っている。
「…………また、明日……な」
結局何が言いたいのかわからず、あったとしても上手く言葉に出来ない感情をしまって俺は真っ先に思った事を伝えた。
思えば、今まで一度も天音に言っていない言葉だった。
そう言わなくても会えると軽く思っていた明日は来なくて、もしかしたらこの時代の明日にも会えないかもしれないと思ったら言葉が止まらなかった。
「……うんっ! 侑李くん、また明日ね!」
天音は何度も言ってくれてたのにな。
泣きはしなかったが、胸が締め付けられるような思いはした。
2
翌朝一人で朝食をとっていると、途中から椎名が俺の隣に座って朝食を食べはじめた。俺が眉をひそめると、椎名は「んだよ」と眉をつり上げる。
「それはこっちの台詞だ。何で隣に来んだよ」
「あ? 俺とお前は家族でダチなんだから、いるのは当たり前だろ!」
そして椎名はバクバクと米を頬張った。
家族でダチとか、なんだそれ。俺には到底理解出来ない。
ふと見ると、宇佐見が影から俺たちを微笑ましそうにして見ていた。
「うっし! "侑李"、がっこー行こーぜ!」
「名前で呼ぶな」
既に中学の制服を着ていた俺は、食べ終わった途端に椎名に引きずられるようにして養護施設を後にした。
卒業まであと半年の十月下旬にもなると、話題になるのは受験の話だった。
「侑李は高校、何処に行くんだよ」
無意識にかつて通っていた高校名を答えようとして、止める。俺が今いる地域は神奈川で、生まれた時から住んでいた東京ではなかったからだ。
「知らねぇよ」
とりあえず天音が行くなら何処へだって行くつもりだった。俺の学力ならばどんな高校を選んでも合格出来る自信はある。
「なんだそれ! 俺はなぁー……」
「椎名くん、侑李くん。おはよう」
振り向くと天音が笑って立っていた。
椎名は「おっす」と返してあいつに進学先を尋ねる。
「浪江総合を考えてるよ」
「あ、そこ俺と一緒!」
「本当?! じゃあ、侑李くんは?」
迷う暇なんてなかった。
「俺もそこ」
椎名が何か言いたげな表情で俺に目をやる。
「え、え、本当に?! 嘘じゃない?」
「二度も言わせんな、バァカ」
はや歩きであいつらを振り払おうとしても、天音がはや歩きで俺に話しかけてきた。
「侑李くんと同じ高校に行けるなんて夢みたい!」
「……俺は今この状況が夢みてぇだよ」
今日も会えた。
俺は密かにそう思って、若干、嬉しかった。
「っあ、ごめん。しつこかったね」
「別にんなことは言ってねぇだろ」
噛み合っていない会話。
性格なんてまったく違ったはずなのに、どうして俺はこんなにも天音の事を好きになってしまったのか。
天音に視線を向けたついでに、椎名が視界に入る。
椎名は面白くなさそうに顔を歪めていた。
「なぁ、侑李」
休み時間になって顔を上げると、椎名が仏頂面で俺を見下ろしていた。椎名が学校に着く前から不機嫌で、その理由は考えなくてもわかっていた。
「何かな、椎名くん」
俺がニコッと笑えば椎名は気味悪そうな表情に変える。
「お前さ、猫被ってて楽しいか?」
「ごめん椎名くん。何を言ってるのかさっぱりわからないよ」
「いででで!」
机の下で椎名の足を踏み、椎名が声を上げると素早く離した。
「うぅ……まぁ、今はいい! 俺が聞きたいのはそんな事じゃねぇからな!」
椎名は腕を組んで「どうして嘘ついた」と俺をなじった。
「それは進学先の事かな」
「お前、俺には答えなかったのに天音には答えただろ。それってどういう事だ?」
「……椎名くんに言ってもわからないよ」
とりあえずそう答えた。けれど本心だった。
「確かにわかんねぇな。だからストレートに聞くけどよ、お前天音の事好きなのか?」
「本当にストレートだな」
声をひそめて俺は椎名に言った。椎名は俺の反応が嬉しかったのか、「ゲス侑李の方か」と笑う。
「死ね」
もう一度椎名の足を踏んだ。
誰も見ていないと思ったが、教室の隅からあいつが俺を見ていた。目が合うと驚くほど素早く逸らされる。
「いっで! だから痛いっつの!」
俺は椎名を無視して宇佐見から借りた本を読みはじめた。
「本逆さま」
「静かにしてくれるかな」
本を正しい位置に直して俺は足元を探る。だけど椎名は学習したのか俺から距離を置いていた。
「っへへ! ここまでなら届かないだろ!」
「……それでいい」
得意気な椎名を無視して、呟いた。
タイムスリップしてきた現実味のない俺という存在の側には、天音だけがいればいい。関係のない椎名や宇佐見らには入ってほしくなかった。