第十七話 桜の空
1
それは、とても白い建物だった。
昔なら一生縁がないだろうと思っていたそれは、思っていたよりもなかなかしっかりとした造りになっている。海が見渡せるとだけあって人気なスポットらしいが、俺にとって重要なのはそこではなかった。
そのはずだが、バックミラー越しにどこまでも広がる海を眺めると、これまた懐かしいものが込み上げてきた。
海も桜もこの町も、全部、立花侑李が見てきたのかと思う。
普段ならあり得ないこの感情が、俺の中の立花侑李の存在をいっそう際立たせていた。
今度は駐車場に車を止め、白い建物こと"教会"を見上げる。白というか純白という表情の方が似合いそうだった。
「……やっぱり、何度見てもキレイだよね」
随分とこの教会を気に入ったらしい天音は頬をほころばせた。今さら式場の変更が出来ないと理解している俺は、あえて何も言わない。
「ねぇ、侑李も何か言ってよ」
「ベタだな」
「もう。素直じゃないなぁ」
この会話はこれまで何度もした。が、不思議と飽きなかった。
「俺が素直になったって、似合わねぇだろ」
かつては椎名に、ゲスデレとまで言われたんだからな。
「あははは……」
天音に笑って誤魔化されたのがその証拠だった。
車を下りると、春特有の甘い匂いが俺の鼻腔をくすぐった。天音はそれを吸い込むように深呼吸を繰り返す。
「……旨いのか?」
「うんっ! 侑李もやってみなよ」
「やらねぇよ」
俺は天音の先を歩いた。
不釣り合いだが教会にも植えられている桜は、今が満開になっていた。が、俺たちが再びここに来る時には葉桜になっているだろう。
「ねぇ、侑李。ここの下見が終わったら海の方に行かない?」
一瞬の間があって。
「……いいな」
俺はそう答えた。
2
教会とはうって変わって、潮の匂いがした。
春だからか、海は淡い水色に近い色をしている。砂浜に足跡をつけると、何を思ったのか天音が俺の足跡の上を歩いた。その姿を眺め、俺は短くため息を吐く。
「何してるんだよ」
「え? な、なんとなくだよ!」
呆れた俺を見て自分の行いを恥じたのか、天音は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「……どう見てもなんとなくには見えねぇけどな」
天音が恥ずかしさで爆発する前にさらに先を歩く。教会の近くだからか清掃が行きとどいているらしく、砂浜にはまったくゴミが落ちていなかった。
「キレイだね」
「まぁまぁな」
「あはは。私、侑李の"まぁまぁ"って最大級の誉め言葉だと思う」
「……は?」
「何でもないよー」
シラを切られた。
だいぶ海沿いを歩いたところで、天音が不意に足を止めた。
「侑李、見て!」
言われた通りに天音が指さす方を見れば、小瓶が落ちていた。どっかから漂流でもしてきたのだろうか。
「あの小瓶可愛いなぁ」
「そこかよ」
キレイに整備された浜辺に落ちている小瓶は、少し幻想的に俺の目に映っていた。結局はただのゴミなんだろうが。
「…………」
「侑李?」
小瓶があるところまで歩く。
遠目から見てもしかしたらと思ったが、やっぱり中に何かが入っていた。それを拾ってみれば紙切れで、丁寧に折り畳まれてあった。
「それって……ま、まさかタイムカプセル?!」
「にしてはだいぶちいせぇだろ」
コルクを抜くと甘い匂いがした。何の匂いだっただろうか、必死に思い出そうとして気づく。隣にいる天音の匂いだった。
「何それ?」
「……ただの紙切れだ」
「ふぅん。……あ、侑李。それ、そのまま捨てないでね。ちゃんとした場所で捨てるんだから」
じゃあそれまでずっとこれを持ってるのかよ。気味わりぃな。
海の方に視線を向けた天音を確認して、俺は紙を開いた。裏からでも何かが書いてある事くらいわかる。
《----》
ただ、滲んで読めなかった。
なおさら気味がわりぃ。
俺は紙切れを小瓶の中に押し込んで、見なかった事にした。天音にバレないように、その辺にでも放り投げて捨てたい衝動に駆られる。
「捨てちゃダメだからね」
俺の考えを読んだかのように、すぐさま天音が念を押した。
「わかってる」
「本当に?」
天音は疑わしそうな視線を俺に向けて、俺はその視線から逃れた。天音は仕方がないとでも言うようにため息を吐いた。
「嫌なら私が持ってるよ」
「いや、いい。俺が持ってる」
気味がわりぃ。
が、そういうのを無しで考えてもこれを天音に持たせる気にはなれなかった。
「そう? じゃあ、お願いね」
「あぁ」
天音は俺の足跡の外に出て、自分の小さな足跡を砂浜につける。そして何を血迷ったのか海へと駆け出していった。
「おい!」
止めようとするも「だいじょーぶー」と返された。お前がやると大丈夫に見えないから止めてんだよ。気づけバァカ。
天音の背中が徐々に小さくなる。
それでも不思議な事に、このままどっかに行ってしまうとは微塵も思わなかった。
天音は途中で靴を脱いで、裸足のまま未だ冷たいであろう海に音をたてて突っ込む。
大人の体で子供のような精神を持っているような。
わざとあぁやって笑っているのか、今になっても俺にはいまいちわからない。天音はそうやって笑っていた。
「侑李もおいでよー」
「誰が行くかバァカ!」
多分、いつまで経ってもわからない。
天音は何かを見つけたのか、屈んで海に手を突っ込んだ。
「つめたっ!」
そりゃそうだろ。
拾い上げたそれを天音は小さな手で包み込んだ。
「侑李ー、桜貝見つけたー!」
桜貝という単語に耳を持っていかれた。
天音が必死に俺に見せているが、小さすぎてまったく見えないというか……それを見せて俺に何と言えと。
迷って、そしてつい口から出てきたのは
「--"良かったなー"」
"あいつ"の、あの台詞だった。
不意に風が吹いて、天音が慌ててスカートを抑える。
『--良かったな』
風と共に聞こえた声は木霊なんかじゃないはずだった。慌てて周囲を見回しても、特に何もなく。
『なんて言うと思ったかよ、バァカ』
幻聴でもなく。
小瓶が一瞬温かくなった気がしたが、気がしただけでこれも特に何もなかった。
天音は俺の言葉に笑って桜貝を海に返す。
天音が俺の元に戻ってくる頃には、青空が剥がれて茜色に染まっていた。
--舞い散る桜の空が、そこにはあった。