第十五話 雪桜花弁の乱舞
1
大学一年生の冬。コーヒーの匂いが充満する店内で本のページをめくる。向こうから誘ったくせに、誘った本人は現れる気配すらない。視線を文章からスマートフォンに向けても天音からの連絡はなかった。
「ごめん、侑李!」
視線を上げると、息を切らした天音がいつの間にか側に立っていた。
気配も連絡もなかったはずなのに、こうしてひょっこり現れる。それが普段の坂倉天音だと俺は知っていたが。
「おせぇよ、バァカ」
「ごめんってば」
前髪を直しながら目の前の座席に座った天音は、メニュー表を眺めて比較的甘いコーヒーを頼む。甘党なのは高校の頃から変わってないな。
「さてと。じゃあ今日のデートはどこに行こっか」
ニコニコと俺の目の前で微笑む天音を一瞥して、俺は本を閉じた。あいつが来る前に頼んでおいたコーヒーは、若干冷めてはいるもののまだ飲める。
「侑李はどこがいい?」
コーヒーを味わっていると、天音は頬杖をつきながら尋ねた。
「ここでいいだろ」
外を見るとコートをしっかりと着込んだ奴らが視界に入った。真冬の中でわざわざデートに行く神経が、俺にはわからない。
「ここって侑李が好きなコーヒー専門のカフェでしょ。……私がコーヒー苦手だって知ってるくせに」
確かにデートの待ち合わせにここを指定したのは俺だ。が、別にこの店が好きなわけじゃない。単純に俺の家とあいつの家の中間にある、それなりにいい店だったからだ。
「じゃあ好きにしろよ」
そうなげやりに言うと、天音は「バカ」と言いつつもスマホでこれから行く場所を調べはじめた。画面を見つめながらコロコロと表情が変わる天音を眺める俺は、運ばれてきた天音の分のコーヒーを断りもなく飲む。俺のは天音を待っている間にほぼ空になっていた。ついさっきが最後の一口だったのだ。
いくら甘いコーヒーでも、天音の場合、残す事がわかりきっている。それでも待たせた詫わびに奢らせる事を俺は念頭に入れた。
「……あ、ねぇ! ここにしようよ!」
そう言って見せられた場所は、水族館だった。
「……まぁ、いいんじゃねぇの?」
なんとも言えない場所に微妙な反応になったが、どうやら天音は気にしていないみたいだ。
「ってそれ私のコーヒー!」
「どうせ飲まねぇだろ」
さっき飲んでいたコーヒーは苦いもので、今飲んでいるのは甘いコーヒー。そのおかげで口内の味がいいバランスを保っていた。
「そうだけど…………はぁ。それ飲んだら行こうか」
言い終わる前にカップを置いた俺は、「行くぞ」と天音の手を引く。結局、代金は俺が全部支払う事になった。
店を出ると、天音の甘い匂いが嫌でも匂う。天音は俺が少しだけ距離をとったのを見て、眉を下げながらえくぼを作った。
「侑李のそれ、高二の頃から変わらないね」
「……高二?」
「覚えてないの? ちょっとボケるの早くない? ほら、高二の時に私が侑李の高校に転校して、私たちは出逢ったんだよ」
「そう言えば、そうだったな」
高校の頃はとにかく周りが騒がしかった。
周りと言っても俺が所属していたバスケ部のみで、原田が特にうるさくて、高橋が無駄に天音に絡んでいた。
「私ね、初めて侑李に会った時…………初めて会った気がしなかった」
「なんだそれ。気のせいだろ」
そう言う俺も、天音と初めて出逢った時、同じような感覚を覚えていた。ただ、あまり認めたくないだけで。
「気のせいじゃないよ。……私、多分一目惚れだったんだね」
照れくさそうに笑う天音が、……なんというか、可愛くて。俺はついそっぽを向いた。
本当に、"つい"だった。
そっぽを向いたまま信号を渡った俺は、信号を無視した車にすぐ気づいた。ただ、天音はすぐに気づけなかった。
とっさに手を伸ばしても
振り向くという無駄な時間が運命を変えた。
俺よりも少し先を歩いていた天音は、俺に背中を向けたまま遠ざかっていく。
いっその事、もっと遠くにいてくれとさえその刹那せつなに思った。
「おいッ!」
足を動かす。
バスケ部だったのに、大学に入ってから止めたせいか思うように走れないのを感じた。反応でさえ鈍かったかもしれない。
手を伸ばして、ボールではなく人間を掴む。
限界まで見開いた天音の目と俺の目が合って、俺は天音と一緒に揉みくちゃにされながら飛んだ。
「ッ!」
口内からじんわりと鉄の味がする。
腕の中の天音を見ると、少なくとも擦り傷はあった。
「おい……」
固く目を閉ざす天音の頬を叩く。すると天音はゆっくりと目を見開き、俺を視認した。
「……ゆ、うり」
その名前は聞き慣れた俺の名前であり、今さら徐々に思い出してきた正体不明のままの"あいつ"の名前だった。
「無事か」
「うん、そっちは……?」
「見りゃわかんだろ」
天音はこくこくと頷く。そして道路で横たわったまま、涙を流した。
子供のように泣きじゃくる天音を見て、改めて生きているんだと実感する。天音と同じように横たわる俺が振り返ると、車は電柱に衝突して止まっていた。
「君たち、大丈夫?! 立てる?」
次第に通行人が話しかけてきた。
「はい、立てます」
天音をなんとか支えながら立たせ、歩道へと向かう。一応救急車を呼ばせてもらった手前、そこで待つ事になった。
そして思い出すのは、俺と同じ名を持つ"立花侑李"だった。
高二の秋。十月に手紙のようなメールをもらった後、高校を卒業するまで立花侑李からのメールは一切なかった。
卒業後すぐに天音と二人きりでした花見で、俺は立花侑李から最後のメールを受け取る。その日も桜がキレイに咲いていた。
《バスケを辞めるな。これが俺の最後の頼みだ》
最初は意味がわからなかった。
なんで立花侑李にそれを指示されるんだと。
俺はもう一度擦り傷だらけの天音を見て、その意味を初めてきちんと受け取った。無意識に口角が上がる。
俺にとって立花侑李とは、得体の知れないバケモノだった。
けど、あぁ、そうか。今ならわかる。
お前が俺を双子の兄弟と表現した理由なんて簡単だ。
--お前は、俺なのだから。
"奇跡的に"隣にいる天音も、散々言ってただろ。
本来なら知り合うはずのなかった椎名だって言ってただろ。
エスパーなんかじゃねぇ。
俺自身が俺自身を知っているのは当然だ。
「ハッ」
俺の手と天音の手が触れあう。
"未来の俺"、良かったな。天音は生きてるぞ。
*
--"形のない物を壊したい"。
小さな頃からそうだった。
その気持ちはいくつになっても薄れる事はなく、大学生の今もなおだった。
俺は顔を上げた。
青空がどこまでも広がっていて、春とは思えないほど澄みきっている。どこからか吹いてきた風が桜を運んできた。
桜は水面に落ちる。
海は穏やかだった。
「……は?」
海は穏やかでも、桜が通常じゃなかった。
桜は雪のように降ってくる。
初デートで見た雪が桜に見えたように、桜が雪に見えた。
事故があった日も雪が降りそうな天気だった気がする。
俺は再び顔を上げて、"世界の歪み"を見つけた。
それは目に見える"世界の歪み"だった。
青空が"割れている"。
裂け目から、また別の桜が溢れでるようにして降る。
異常なまでにそれらは"キレイ"だった。
「ハッ」
無意識に口角が上がる。
変わった過去に従う為に、今という未来が消えるらしい。そうさせたのは、他でもない俺自身だった。
「ハハッ……ハハッ!」
笑いが込み上げて止まらない。
目に見えないどころか、世界を壊した自分がおかしくて仕方がない。その理由も"愛した女を守る為"だ。
俺は隣にいない天音を想って、笑うのを止めた。するとまた別の笑みが浮かび上がる。
「……終わったんだな」
ボロボロと崩れる青空が海に落ちた。同時に雪のような桜が乱舞する。
俺はその光景を、忘れないように目に焼きつけた。
2
あの事故の日から数日が経った。
俺と天音は検査入院をする事になり、今は別々の病室にいる。
今日は雨が降っていた。
積もった雪が雨に溶けていく。
不意にノックの音が聞こえた。個室ではないが、俺以外に患者はいない。病室を間違えたのかと思ったが、扉を開けたのはよく知った顔だった。
「よっ、依澄」
呼んでもいねぇのに、高橋を含めた高校時代の男バスメンバーが面を揃えていた。
「……何しに来た」
「そんな露骨に嫌そうな顔するなよ」
成長期が終わり、あの頃からまったく変わらないあいつらに会うのは卒業式以来だった。
「ぶはっ! お前、マジで入院してんだ」
高橋は俺を指差して笑う。……本当に何しに来たんだよ。
「こうして見るとスッキリするな」
「あぁ?」
中崎は死んだ魚のような目で俺を観察し始める。
「確かに。高校の頃だったら考えられないな」
「バチが当たったんじゃね?」
原田の台詞は、やけに俺をまっすぐと刺した。それは俺も薄々思っていた事だったせいか、胸が異様に詰まる。
「……うるせぇな」
「なになに? 聞こえない」
「チッ、なんでもねぇ」
俺は体を起こして、あいつらを追い払うように手を動かした。
「はいはい。俺たちがここに来た目的は、依澄の無様な姿を見に来ただけじゃないからな」
「……は?」
あいつらは俺に背中を向けて病室から出ていこうとする。
「おい、ちょっと待て!」
「待たない」
ニヤニヤと笑うあいつらの行き先なんてわかりきっていた。天音のところだ。多分、天音があの四人に連絡して俺の見舞いをしろだとか言ったんだろう。
何とか病室を出て、あいつらの背中が遠くの方にあるのを視認する。
「……ッ!」
「いーすみっ!」
また別の声がした。
四人でも天音でもないが、知っている声。
振り向くと俺に手を振る"椎名"が笑った。
「……椎名」
「おぉー、入院服新鮮だな!」
「ぶっ飛ばすぞ」
「えぇ?!」
椎名は困ったように笑い、俺はもう一度あいつらが姿を消した方を見る。あいつらはもうどこにもいなかった。
「ん? 誰か探してんの?」
「……いや。いい」
椎名がどんな理由でここに来たのかは知らないが、ちょうど聞きたいことがあった。
「来い」
不思議そうにまばたきをする椎名を引っ張り、俺は屋上への階段を上る。椎名は笑って「ゆっくりだなぁー」と逆に俺を引っ張った。
まだ若干体調が悪いせいだ。
そんな言い訳をする前に、椎名は屋上へと俺を連れてった。
「おぉー!」
椎名は外の景色を見て、俺に場所を譲る。
その意味はすぐに気づいた。さっきまで降っていた雨は止み、灰色の雲の隙間から太陽が覗く。
「雪も溶けてるぜ!」
濡れてはいたものの、これから降る気配もない。
俺たちは屋根のあるベンチまで歩き、腰かけた。
「んで? どうしたんだよ」
「--どんな奴だったんだ、立花侑李は」
視界に入る小さな雪だるまが崩れた。
「どんな奴も何も、"ゲスデレ"だよあいつは」
即答した椎名は指と指をからめて伸びをした。
「ゲスデレって何だよ」
「普段はゲス。暴言はすげーし、人の不幸とか普通に楽しんでたし」
「…………」
「けど、たまにすげー泣く。デレッデレッにな!」
雪だるまが溶けだした。
俺の中の立花侑李像が崩れ、俺と同化していくように溶けた。
「確かここらへんに……」
雪だるまから椎名に視線を移すと、椎名はスマホの画面を俺に見せた。
「中学の頃、宇佐見に頼んで撮ってもらったやつ」
そこには三人写っていた。
中央にはクソガキオーラを放つ椎名がいて、左隣に微笑む天音がいて。右隣に迷惑そうな表情の"俺"がいた。
「な? お前そっくりだろ」
「……そうだな」
記憶にないが、それは確かに俺だった。
こんな中学時代が俺にもあったのか。立花侑李が、本当に、ほんの少しだけ……羨ましい。
「ほら依澄! ボーッとすんなよ! 急に侑李の話を聞いた理由を聞かせてもらうからな! まさか今さら俺の双子説が正しかったなんて……」
「言わねぇよ。正しかったのは、お前が……」
……お前が、俺の親友になれそうだと言った事だけだ。