第十四話 終わりの桜花弁
1
二月の中旬にもなると、それなりに冷え込む。そして胸くそが悪くなるほどの甘い匂いが校舎に充満していた。
下駄箱に入っていた大量の小綺麗な袋をかき出して、俺は教室の扉を開けた。暖房が入っているはずなのに、まったく温かくなかった。朝だからまぁ仕方のない事だと思うが。
「侑李くん」
見ると坂倉が席につく俺の方にやって来た。
坂倉の事だからこうなる事は予想していた。が、坂倉は他の女子とは違い、シンプルなラッピングの袋を俺に差し出す。
「これ、バレンタインのチョコなんだけど……受け取ってくれる?」
シンプルで、けど少し大きめ。
俺がその味……というか甘さを警戒していると、坂倉は俺の考えを察したのか首をものすごい速さで横に振った。
「ち、違うよ?! ちゃんと侑李くん用に甘くないチョコを使ったブラウニーだから! 安心して!」
「……俺用に?」
それが意外で、俺は思わず聞き返す。
「うん。だって一月、侑李くんの誕生日があったでしょ?」
「あったな」
「その時の侑李くん、男バスのみんなからチョコ貰っても嬉しくなさそうだったから。その後の部活もすごく不機嫌そうだったし、みんなの練習量も増えてるし……。チョコ嫌いなのかなって」
そんな事を考えていたのか。
坂倉は、案外よく周りを見ているな。
「それでみんなに聞いてみたら、侑李くん甘い物が苦手なんだって教えてくれたの。だから納得しちゃった。貰ったチョコ食べた時、凄く甘かったから……。あれ、多分アメリカ辺りから輸入してきたチョコだよ」
輸入のくだりはなくてもいいだろ。
「……お前、変な事考えるよな」
「えぇ?!」
ビクッと坂倉が肩を震わせる。
「へ、変な事なんて考えてないよ!」
俺の台詞を違う意味で捉えたのか、坂倉の頬が徐々に朱色になっていった。
「バァカ。そういう意味じゃねぇよ」
俺はため息を吐いて坂倉にデコピンをする。たいして強めでもなかったが、坂倉の額は頬よりも赤くなっていた。
「うぅ……」
それが余程痛かったのか、坂倉は片手で額を擦った。
「…………」
俺はそんな坂倉からブラウニーを半ば奪うように受け取る。そして坂倉の擦る片手の上に自分の片手を当てた。
「……悪かった」
それは考えるよりも先に出てきた台詞だった。
「え? ごめん、侑李くん。今何て……」
わずかに首を傾げ、俺の腕でちょうど隠れた坂倉が顔を出す。
「何でもねぇよバァカ」
目が合い、見つめ続けられるのが嫌で俺は顔を逸らした。
十一月に坂倉に告白されて、俺は「別に嫌じゃない」と答えた。それは本音だ。思った事を正直に言っただけだ。その日以来、俺たちは付き合っている。
坂倉は俺が好きだ。
本人がそう言っていた。
なら、俺は坂倉の事が好きか?
嫌じゃないだけの俺は坂倉が好きか?
「そう? ……あ、受け取ってくれてありがとう」
俺は坂倉から貰ったバレンタインの小袋に視線を移した。多分というかほぼ絶対、それは全部俺の好みに合わせて作られた物だった。
「……いや」
俺の方こそ。
……俺の方こそってなんだ。それ以上先の言葉はらしくないだろ。押さえていた片手を離してもう一度坂倉を見上げる。
あと二ヶ月もすれば坂倉と出逢った四月が来る。あの日の俺は、なるべく坂倉に関わらないようにしていた気がする。
いつの間にこんな事になってしまったんだ。
驚くほどに後悔はない。が、それ以上先の言葉が言えなくても、言葉にしなければどうしようもない。
「侑李くん?」
「……ありがとな」
これくらいは、これから先も何度も言おうと初めて思えた。
「お礼はいらないよ。私、侑李くんが好きだから」
「あぁ、俺も好きだ」
「うん」
坂倉はおかしくて仕方がないというような笑いで、冷えていたこの場を温かく包み込んだ。
2
三月の中旬にもなると温かくなるというのは、嘘だ。俺はマフラーを首に巻きつけて正門を跨ぐ。しばらく歩くと坂倉に出逢った桜の木が見えた。
どんなに目を凝らして見ても蕾さえない。満開の桜は去年見ているはずなのに、それがまったく想像出来なかった。
「侑李くん、おはよう」
振り返ると坂倉がいた。
「珍しいな、お前がこの時間に登校すんのは」
「ちょっと寝坊しちゃって……」
照れくさそうに笑う坂倉の前髪はピンで留めてある。多分寝癖が直らなかったとかそういうのだ。
「それよりもこの木、懐かしいね!」
「あぁ」
「本当にそう思ってる?」
「思ってる」
立花侑李が存在しなかったら、この桜の木が無かったら、俺たちは出逢ってなかっただろう。
俺は幹に触れた。
ゴツゴツだったりザラザラしてたり、とにかく変な感覚だ。
「ふふっ」
「突然笑うな。気持ちわりぃな」
「--だって。私、幸せなんだもん」
「…………」
坂倉を視界に入れる。すると、散った桜が坂倉の周りを舞う場面が見えた。
「……そうかよ」
「侑李くんは?」
「言わねぇ」
「っえ、それは割りに合わないよ!」
「お前が勝手に言ったんだろ」
俺が正論を言うと、坂倉は「うぅ」と視線を伏せた。
「依澄ー」
原田の声だ。見ると中崎も高橋もいる。
「お返しちょーだい」
高橋は俺に手を差し出してガムを膨らました。
「は?」
俺が眉をひそめると「今日はホワイトデーだぞ」と中崎が補足した。……補足にもなってねぇけどな。
「俺ら一月にチョコあげたじゃん」
「誕プレだろ、あれは」
食ってねぇけど。
「兼バレンタイン」
「一ヶ月も違うだろーが」
三人まとめて蹴りを入れる。が、その法則で行くと俺は坂倉にホワイトデー……バレンタインのお返しをしなきゃまずいらしい。
「侑李く……」
「お前のもねぇ」
坂倉はムッと頬を膨らました。「まだ何も言ってないのに」……何かを呟いたみたいだが、他の三人に気をとられていたせいでそれは耳に入らなかった。
そんな俺に、坂倉が珍しく軽く蹴りを入れた。
相手が坂倉だったからか余計に驚く。
どうやら相当怒っているらしい。
「もう」
「今度何かやるから機嫌直せよ」
「そういう問題じゃありませんー」
「じゃあどういう問題だよ」
「秘密ですー」
なんか腹立つ。
坂倉にこんな感情を抱いたのは初めてだ。
「気が向いたら絶対教えろ。わかったか」
「いつかね」
そうだ。三月は毎年やって来る。
バレンタインだって、ホワイトデーだって、世界が終わらない限り永遠とやって来る。
何度でも何度でも。少なくとも俺たちが生きている間は。
俺はそう思っていた。
信じて疑わなかった。
「あーあ。もう二人だけの世界だ」
「リア充死ね。依澄限定で」
「……馬鹿馬鹿しい」
あいつらは好き勝手に口に出して校舎へと向かう。
「私たちも行こっか」
「あぁ」
桜の木の下で出逢った坂倉。
桜貝のネックレスをつけた坂倉と見た猿山。
不注意で怪我をした坂倉と行った保健室。
練習試合をする事になって決まった対戦校。
対戦校の選手、椎名と立花侑李との出逢い。
互いに距離をとった月もあった。
文化祭で読み上げた立花侑李からの手紙に泣いた二人。
そして俺と坂倉は付き合いだした。
初デートで乗った観覧車から見た初雪。
忘れられない誕生日。
坂倉への想いを自覚したバレンタイン。
坂倉が初めて怒ったホワイトデー。
次の四月の坂倉は、どんな坂倉を見せるのだろう。それは俺の、唯一"まとも"な楽しみだった。
「侑李」
「……?」
「これから侑李って呼ぶから、侑李も私の事、名前で呼んでほしいな」
それがバレンタインのお返しだとでも言うように、坂倉はえくぼを作って笑った。
「天音」
「あっ、意外とあっさり呼んでくれた……! ちょっと複雑!」
「何でだよ」
お前もあっさり……というか唐突に呼び捨てたくせに。
天音は落ちた小枝を拾って俺に見せる。桜の蕾が、ほんの少しだけ開いていた。