第十一話 侑李とのメール
1
うだるような暑さが--あの桜の木の下で過ごした時間が嘘のような、涼しさが"ひどい"九月。残暑なんて鼻で笑ってしまう。
何も変わらないようで何かが変わった日々を過ごし、俺は今日もいつも通りを貫いていた。
「"依澄くん"」
坂倉が俺に話しかける。
「んだよ」
「これ、頼まれてた物」
頼まれてた物とは上手く言ったものだ。マネージャーの仕事に関係ない缶コーヒーを買いに行かせただけだってのに。
「あぁ」
「サボってないで早く練習してね」
普通の表情の坂倉は、新しいボールを出しに倉庫へと向かった。不意にポケットに入れていた携帯が震える。
俺はそれに手を伸ばす事なく走り出した。
「おい!」
半ば本能で駆け出した俺が倉庫に飛び込むと、得点番が坂倉に向かって倒れる数秒前だった。
ガンッ
不愉快な音をたてて、手のひらで支えた得点番の感触を確かめる。後ろに逃げようとして足を滑らせていたドジな坂倉は、片腕で支えた。
「"侑李くん"……?!」
すべてが一瞬すぎて、"ボロ"が出たな。
「ちゃんと言えんじゃねぇか」
「言えるって何を……」
「俺の名前だ」
名前で呼ぶなって言ったのはいつの話か。
思えば出逢ってから半年の月日が流れていた。
「……ッ!」
視線を下に向けて坂倉を見ると、坂倉は暗がりの中でもわかるほど顔中を朱色に染めていた。
「い、依澄くん!」
「もうおせぇよ」
得点番を立てて坂倉から腕を離す。どうせ俺が引っ張らなくても一人で立てるだろう。
「倉庫に行って怪我すんなら、倉庫の出入り禁止にするからな」
俺は坂倉にそう言い残して出入り口へと向かった。
「あっ、待って!」
一瞬だけ足を止めると
「……ありがとう」
久しぶりに坂倉の声でそれを聞けた。
さっきまで座っていた壁際に戻り、ポケットに入れていた携帯を取り出す。操作するとメールの差出人は不明だったが
《倉庫に行け。今度は骨折ではすまねぇぞ》
俺はそれが誰だか悟っていた。これを読む前から、俺は感覚で走り出していた。
飛び火する不幸から逃れたいというのもあるが、第一に坂倉に怪我されたら困るんだ。マネージャーの坂倉に怪我をされたら、な。
俺は指を動かして、今までしてこなかった事をした。逆に何で今までしてこなかったのか不思議なくらいのそれをだ。
《お前、立花侑李だろ。何でお前がそんな事を知っているんだ》
送信する。
それを予期していたかのようにすぐさま返信が来た。
《いずれわかる。……と言ってもお前は納得しないか》
《しないな。答えるならさっさと答えろ》
《答えない。それだけは答えたくないの方が正しいかもな》
《もういい。お前が立花侑李ってのは否定しないんだな》
《否定しない》
《じゃあお前は何者だ》
《強いて言うならお前の"兄弟"だ》
今まで機械的に動いていた指が止まった。
同じリズムでメールのやり取りをしていたのに、ここで俺が立ち止まる。
一本取られたような気分だった。
《俺に兄弟はいない》
《物理的にはいないな。どちらかと言うと"双子"か》
《椎名と同じ事を言うな》
吐き気がする。
それは立花侑李に対して負けた気分になるから言わないが、立花侑李もボロが出ないように文が短かった。
《椎名の言う事は気にするな》
《お前は椎名の親友か》
《さぁな。向こうは親友、家族だと思ってるみたいだが、俺たちはそのどっちにもなれねぇだろ?》
《そうだな》
それ以降、立花侑李からの返信が来る事はなかった。
2
十月になると例の桜の木が色を変えて葉を落としていた。この時期は文化祭の準備に追われる事が多くなる。
上手く文化祭の準備をサボっていると、坂倉がマネージャーの仕事に加えて準備を率先してやっているのに気づいた。
倉庫で二回も危険な目にあった坂倉が動き回っていると、つい目で追ってしまう。
「依澄ー、これ貼ってー」
不意に死角から放られたガムテを受け取ると、机の後ろでしゃがんで作業をしていた高橋が風船ガムを割った。
「これでお前の口を塞ぐぞ」
ガムテをちぎって机の後ろに回ると、高橋は「げぇっ」と声を出して画用紙を盾にした。絶対に脆いだろ、その盾。
「塞ぐならこの画用紙くっつけて」
高橋が足で示した画用紙は無惨に散らかっていて、俺は脆い盾ごと高橋を蹴り、仕方なくしゃがんだ。
「何だこれ」
「知らね」
起き上がった高橋は脆い盾を丸めてゴミ袋に投げ捨てる。
「あぁ、高橋くんもったいない!」
顔を上げると、一部始終を見ていたらしい坂倉がいた。
「いいじゃん一枚くらい。それよりもちょーど良かった。これ何?」
「え? 画用紙だよ?」
「じゃなくて、これで何作るのかって話。あんたってもしかしなくてもバカだよね」
「一言多いよ高橋くん! これはね、暗幕代わりに使うの。ほら、色が黒いでしょ?」
八月から坂倉が俺に距離を置いている分、高橋との距離が縮まったように見えるのは気のせいか。五月よりも仲良さそうな二人は暗幕の作り方を打ち合わせしていた。
「依澄くん、聞いてる?」
「……聞いてる」
九月で一回呼んだきり、坂倉はまた呼び名を名字に戻した。ほぼそれのせいで、俺も坂倉とは極力話したくなかった。
「……聞いてるならいいけど」
坂倉は今度は別のグループに首を突っ込んでいった。見えているのか見えてないのかわからないくらい長い前髪の高橋は、そんな俺と坂倉を見比べる。
「お前らってさ、八月辺りから喧嘩してんの?」
まぁ、端から見たらそうだろう。
否定をしない俺からガムテを取り返して、高橋は適当に画用紙をつなぎあわせた。
「ま、俺には関係ないしどうでもいいけどぉ」
「なら聞くんじゃねぇよ」
「いや、珍しいっつーか意外だなぁって思っただけ」
「んだよそれ」
俺は高橋が貼ったガムテを剥がして修正した。あのままだったら光が漏れる、そう思ったからだ。
「だってお前らって俺らから見たらカレカノだったし」
ぐしゃっ、と音がして、俺が直していた画用紙が破けた。
「……依澄?」
「何でもねぇよ」
破けた画用紙は堂々と捨てた。
坂倉が見ていると視線でわかったが、坂倉は「もったいない」と話しかけて来なかった。
「みたいってだけの話で、俺らだってマジで付き合ってるとは思ってないって」
俺が戻ると高橋はこう続けた。
「ただ、依澄が初対面の頃から素を出してたからさぁ」
四月に出逢った時、桜に包まれながら坂倉は俺を見ていた。側にいると虫酸が走る純粋な瞳で。
「見破られたんだ。出逢ってすぐにな」
そんな瞳で、何で俺の本性を見破れたのかは未だに理解出来ない。
「依澄の猫かぶりが?」
「それ以上言うと練習メニュー追加すっぞ」
それから高橋は見事に黙った。
黙々と作業を進めていると、「依澄くーん」と坂倉ではない女子の声が俺を呼んだ。
「ん? どうしたの?」
高橋との作業を放り、俺は立ち上がってその女子を見つける。クラスメイトだというのはわかったが、名前は出てこなかった。
「こっちの作業手伝ってくれなーい?」
「いいよ。ちょっと待ってて」
「……早速猫かぶり依澄のとーじょーか」
「高橋クン、この後の部活が楽しみだね」
ささっと逃げる高橋を横目に、俺は女子の集団の中に入る。女子たちがやろうとしていたのはベニヤ板のカットだった。
「良かった! 依澄くんがいれば十人力だね!」
「それは大袈裟じゃないかな」
「そんな事ないよ。依澄くん、最近忙しそうだからいる時に頼まないとクオリティ下がっちゃう」
愛想笑いを浮かべると、一人になった高橋を手伝い始めた坂倉がじっと俺を見ている事に気づいた。このクラスで俺の素を知っている高橋はニヤニヤと笑い、坂倉は複雑そうに視線を伏せる。
「お、何? 今日は依澄がいてくれんの? ラッキー、俺らのとこも助っ人頼むよ」
「えぇー、女子はともかく男子の助っ人ってどういう事なの……」
少し眉根を寄せると、連中がいっせいに笑いだしだ。その笑い声に釣られてか、廊下から他の生徒が覗く。
「あ、依澄くんが準備に参加してる! ねぇねぇ、中庭のペンキ塗りも手伝ってよ!」
「ちょっとみんな、俺、部活があるんだけど? そんなには無理だよ」
だから準備をサボっていたのに、高橋に捕まったのが末だったか。
「依澄、バスケ部のアシスタントコーチもやってるしなー」
「でも今年は予選落ちだろ? 依澄ももっと行事に参加しよーぜっ」
二度目の愛想笑い。
坂倉と目が合って、今度の坂倉は面白くなさそうに俯いた。




