第十話 夏の邂逅と愛情
1
気温が上がりはじめた七月になっても、坂倉の足は治らなかった。あの日から色んな面で俺が坂倉の世話をするはめになっている。
移動教室の時は肩を貸し
体育大会の日は代わりに全員リレーで二度も走らされ
部活に至ってはほぼ毎日あるせいで神経をすり減らした。
「まだ治んねぇのか」
他人の不幸は密の味だが、坂倉の不幸は俺に飛び火する。予想通り飛び火した不幸に苛立ちながら尋ねた。
「まだ……ですごめんなさい」
坂倉は俺の表情を見て急に敬語を使い出す。
俺は舌打ちをして練習を再開させた。
もちろんボールが坂倉の方に飛んでいかないように、とかを考えながらだ。他の部員がそんな器用な事を出来るとは思ってなかったせいで、余計にだった。
「あ、そういえば侑李くん」
ボールや人の声に紛れてもよく聞こえる声。
手を止めると坂倉が体育館の端からちょいちょいと手招きをした。
「んだよ」
「インターハイ予選落ちしたでしょ?」
「……それがどうした」
坂倉は持っていたボードに挟んでいた紙を取り出す。
「だから、代わりに練習試合した方がいいんじゃないかなって思って」
見せてきた紙は周辺校のリストだった。
「こいつらが俺たちと練習試合するわけねぇだろ」
インターハイに予選落ちしたからと言って、周辺校では俺たちに敵わない。だからわざわざ練習試合をしようと考える高校はないはずだ。
「……そうなの? うーん……、あ! じゃあ!」
坂倉は妙に嬉しそうに、ある高校の名前を出した。
「浪江総合?」
どっかで聞いた事のある名前だった。ただ、あまり記憶に残っていない。
「うん。私が前にいた学校」
そういえばそうだった。
始業式の日、坂倉がその高校の名前を出していた気がする。
「神奈川か」
「覚えててくれたんだ」
坂倉はニヤニヤと頬を緩ませた。
俺はそれを無視して、その浪江総合を考える。
「……練習試合、な」
そもそもする必要性を感じないが、坂倉に変なエンジンがかかり、最早止められそうにない。
「じゃあ今から連絡してみるね!」
そう言って駆け出して行けば、物理的にも不可能だった。
しばらくすると幸せそうな表情をした坂倉が体育館に戻ってきた。というかお前、骨折してたんじゃなかったのかよ。
坂倉は「オッケーだって!」と指で丸を作って笑う。それを見ていた高橋が、「何が?」とつっこんだ。
「練習試合」
「え、マジ?」
「なんだそれ」
高橋も中崎も乗り気じゃなさそうに返したが、改めて坂倉を見て黙った。そりゃそうだろう。あの笑顔を前にすると黙るしかない。
「いつ?」
そんな中、茂木がまともな事を尋ねた。
「八月の三日! 向こうが合宿帰りに寄ってくれるって!」
向こうからしたらハードスケジュールじゃないか、それ。他の面子もそう思ったのか、うわぁ、と顔を歪めた。
「よくオーケーしてくれたな」
「向こうもちょうど練習試合する相手を探してたみたい」
「へぇー。ちょー偶然じゃん」
あいつらが脇で話を進めている中、俺はステージに置いてあったスポドリに手を伸ばした。そして隣に無造作に置いていた携帯がメールを受信している事に気づく。
飲んだ後に確認すると、それはまた例のメールだった。
差出人は不明。
件名もなければ本文はいつも今俺の身に起こっている事を指示するだけ。迷惑メールという部類に入るが、頻度が少ない為放置していた。
とりあえず本文を見ると
《八月三日は天音を傷つけるな》
そんな、虫酸が走るような内容だった。
2
八月三日になった。体育館は完全に蒸し風呂状態で、何もいい事なんてありゃしない。強いて言うなら坂倉の骨折が治ったくらいか。
が、朝から妙にそわそわしている坂倉に苛立った。
何が坂倉をそうさせているのか、無性に気になって仕方がない。
「あっ!」
坂倉も気になるのか何もないところで転んだ。
「あんた、また骨折とかナシにしてよねぇ」
坂倉が骨折したって特に何もしていない高橋が、通り過ぎるついでに言う。そして俺の目の前を通り過ぎようとするのがわかり、腹いせに足を引っかけた。
「んが!」
別に高橋を傷つけてはダメだとかは書いてなかったからな。
「何すんだよいす……」
「来たっ!」
坂倉が扉から顔を覗かせて叫んだ。見ると、予想通り疲れが残っているような表情の奴らが大半だった。
「"椎名くん"!」
坂倉はその中からたった一人だけの名前を呼ぶ。
椎名らしき奴は俯いていた顔を上げ、坂倉を見て曖昧に笑った。
「……あれ?」
が、坂倉は椎名という奴がそんな反応をしたのを見ていなかった。ずっと誰かを探している。不安げな表情になって、いったん隣の俺に視線を移した。
「んだよ」
「あ、ううん! なんでもないよ!」
椎名以外にも知り合いがいるのか。
俺は四月、坂倉に出逢った時の事を思い出して思い当たる節を見つけた。
「--……"侑李クン"か?」
ずっと俺とその"侑李クン"が同一人物だと考えていた辺り、相当俺と顔が似ているんだろうが……そんな奴、どこにもいなかった。
坂倉は、何も答えなかった。
「久しぶり、マネージャー」
主将らしき奴が坂倉に軽く挨拶をする。
「元、だろ」
元々苛立っていた俺はつい口を滑らせた。主将は「お前はつくづく"立花"に似てるな」と顔を歪める。
「……しゅ、主将!」
「なんだ? って、あぁ、立花の事か。それなら椎名の方が詳しいからそっちに聞いてくれ」
坂倉は黙って俯いた。
どちらかと言うと、俺の前で"立花"の名前を出されて焦ったように見えたが。
「……"侑李"」
視線を向けると椎名が悲しそうな目で俺を見据えていた。
「気安く名前で呼ぶんじゃねぇよ」
と返すと、椎名はくしゃっと笑う。
「"依澄"ってホント、侑李に似てるな。懐かしいぜ」
泣きそうな声で、くしゃくしゃな笑顔。
ちぐはぐな椎名が何だかおかしかった。
それでも俺は椎名を笑えなかった。
「椎名くん……」
「久しぶり。ちょっとしか会えてないのに随分変わったな」
坂倉は「そうかな」と照れくさそうに笑う。俺の前では一度も見せなかった笑顔だ。
「聞きたい事、あるんだろ?」
「……うん。あの、侑李くんは?」
それでも坂倉の心は"侑李クン"にあった。
椎名はチラッと俺を見て、俺は空気を読んでその場から離れる。それでも声が聞こえるギリギリまでだ。
「天音、驚かずに聞いてほしい。侑李は……"消えた"」
「っえ?」
「天音が東京に行った日、侑李がお前の後を追っただろ? それ以来、行方不明なんだ」
「嘘……嘘だよ!」
「嘘じゃない。俺だってずっと待ってたけど、侑李は帰って来なかった」
自分の名前でそんな話をされると、自分が"立花侑李"になったような気分になった。
"立花侑李"も、それなりに知られている俺になったような気分になっていたのだろうか。
「見つかってないの? 捜索願いは?!」
「……出してない。宇佐見……俺らの養護施設の先生が、天音に会いに行ってきた侑李と話をしたらしいんだ。その時宇佐見は、『俺が消えたら死んだと思ってくれ』って侑李に言われたらしい。『捜索願いも出さなくていいから』ってさ」
「出さなきゃダメだよ! どうして、どうして侑李くんはそんな事を……」
「俺たちは元々身寄りがないからな。……そういう意味でも出したって仕方ないだろ?」
椎名はここに来る前……それこそ坂倉に会うと決まったその日から、腹をくくっていたらしかった。
実際会ったら曖昧に笑うしかなかったが、坂倉に真実を教えなくてはとでも思ったのか。椎名は時々俺を見て瞳を曇らせながらも、はっきりとした口調だった。
『……私、死んでも愛してるって言ったよ。だからなの? じゃあ、未来で見つけたらって言うのは……何だったの?』
椎名の話を聞いて俯いた坂倉は、ボソリ、呟いた。消えそうなくらいに小さな声は、地獄耳の俺に伝う。
感情表現が豊かすぎるとは思っていたが、こんな風に塞ぎこまれると胸騒ぎがした。それは多分、"また坂倉の不幸が飛び火する"という思いからではなかった。
「……しばらく一人で考えさせて」
坂倉はそう言って体育館から走り去っていく。
俺と椎名以外、誰もそんな坂倉を気にも止めなかった。
「依澄」
椎名が、ずっと何かをしているフリをしていた俺の名前を呼ぶ。
「何だよ」
わずかに聞こえる声音だが、俺たちの距離はこれで充分だった。
「--お前、本当に"侑李"じゃないんだよな?」
「違う」
「記憶喪失は……」
「あり得ねぇな」
坂倉と同じように塞ぎこむ椎名は多分、"侑李クン"の"親友"だろうと直感した。
「双子の可能性は? 侑李は養護施設出身だから、ないとは言い切れないだろ」
気づけば椎名は俺に詰め寄っていた。
「それもない」
「--……"じゃあお前は誰だよ"」
その瞬間。
椎名の口からそう言われた途端。
得体の知れない何かが俺を飲み込んだ。
俺は、誰だ?
そんなの、十六年前から依澄侑李だと決まっている。
断言する。信じてないが神にだって誓える。俺は誰が何と言おうと"立花侑李クン"じゃない。
「つか、根拠は何だよ。坂倉もお前も、根拠なくそう言いやがって」
「ねぇよ。ただの直感だ。つーか、確信さえしてる。お前らは絶対他人じゃねぇってな」
存在を否定されたような感覚に似ていた。だからどうとは思わないが、胸くそが悪いのは確かだった。
坂倉が戻って来ないまま練習試合が始まった。浪江総合との練習試合は、何度やっても豊崎の圧勝だった。
休憩に入り、俺は再び例のメールに目をやる。最初は無視してやるつもりでいたが、それはメールに反抗したいという子供じみた考えからだった。
それでも気になってしまうのは、椎名との会話のせいだ。
あの会話があったから、俺は何となく思う事がある。それはこのメールの送り主の事だった。
--このメールの送り主は、"立花侑李"だ。
俺の頭で考えた結果がこれしかなかった。
"立花侑李"は何がしたいのか、俺に何をして欲しいのか。そこはまだわからないが、送り主がわかっただけでも良しとしよう。
「またな、依澄。俺、お前となら親友になれる気がする」
最後に椎名はそう言い残して、神奈川に帰った。
最後まで坂倉は体育館に戻って来なかった。
仕方なく坂倉を探しにいくと、坂倉は俺と出逢った時に寝ていた桜の木の下にいた。が、今は寝ておらず願うように額を幹につけている。
夏の桜は桜に見えなかった。
それでも一瞬だけ、薄い桃色の桜が坂倉を包んでいるように見える。坂倉はどこまでも桜が似合っていて、桜に愛されているとさえこの俺に思わせた。
「おい、何やってる。連中はもう帰ったぞ」
桜が坂倉を連れていく前に声をかけた。
坂倉は顔を上げて泣き腫らした"ぶさいく"な表情を俺に向ける。傷つけるなと言われていながら、結果、俺のせいではないにしろ傷つけてしまっていた。
「……侑李くん」
「熱中症になっても知らねぇからな」
こんな時、どう声をかけていいかわからず。
坂倉の表情を見てみぬフリをして言った。
「平気だよ。ここ、涼しいから」
よく見ると、桜の葉が太陽から坂倉を守っていた。直射日光に当たる俺自身が熱中症になりそうで、桜木の下に避難する。そんなつもりはなかったが、今の坂倉に追い打ちをかけるように尋ねた。
「どんな奴だったんだ? "侑李クン"は」
坂倉は幹に背中を預けて座り、その隣を示す。遠慮なく隣に座ると坂倉はポツポツと語り始めた。
「猫を被っているから周りの人には礼儀正しいの。いつもは口が悪くて、ちょっぴりひどい事をして。バスケが得意で、頭が良くて、素直じゃなくて、本当は優しい。そして……"泣き虫"な男の子」
泣き虫なのはどっちだ。
涙声が聞くに耐えられなかった。
「そんな、依澄侑李くんそっくりな男の子」
だから、俺じゃないっての。
俺とそんな奴を一緒にして、一緒に見るな。吐き気がする。坂倉も椎名もどうかしてる。空気が喉に張りついて、声にもならなかったが。
坂倉は俺の隣で体育座りをして頭を乗せた。
「ずっとここで考えていたんだけど、私、バカだから全然わかんないの。どうして侑李くんはいなくなっちゃったんだろうって……どうして"君"がいるんだろうって」
その君というのが俺だとすぐにわかった。
俺だって好きでここにいるわけじゃない。今すぐにでもその侑李クンと人生を変えてもいい……そう思えたのはいつの俺か。
--今の俺は"ここ"を譲る気はなかった。
「--どうして"君"を好きになっちゃったんだろうって」
坂倉はそう言ったきり、黙った。
聞き間違いかとさえ思った。
「……今の忘れて」
聞き間違いではなかった。が、確信を代償になかった事にされた。
「忘れるかよ、バァカ」
きっと忘れられない。
あんな事を言われたら、嫌でも未来で思い出す。
「ひどいよ」
泣き虫もそうだが、ひどいのはどっちだ。
「……意味わかんないよ。未来で見つけたらって、何? 私は未来で君を見つけたのに、君は侑李くんじゃないって言うんだもの。それにいなくなっちゃうなんて……聞いてないよ。ひどいよ」
ひどいのは誰だ。
俺か、坂倉か、侑李クンか。
空しい話だった。俺には到底理解出来ない話だった。