第一話 飛沫と海の花弁
1
-ー"形のない物を壊したい"。
小さな頃からそう思っていた。
その気持ちはいくつになっても薄れる事はなく、大学生になった今もなおだった。
コーヒーの匂いが充満する店内で本のページをめくる。向こうから誘ったくせに、誘った本人は現れる気配すらない。視線を文章からスマートフォンに向けてもあいつ-ー坂倉天音からの連絡はなかった。
「ごめん、侑李!」
視線を上げると、息を切らした天音がいつの間にか側に立っていた。
気配も連絡もなかったはずなのに、こうしてひょっこり現れる。それが普段の坂倉天音だと俺は知っていたが。
「おせぇよ、バァカ」
「ごめんってば」
前髪を直しながら目の前の座席に座った天音は、メニュー表を眺めて比較的甘いコーヒーを頼む。甘党なのは高校の頃から変わってないな。
「さてと。じゃあ今日のデートはどこに行こっか」
ニコニコと俺の目の前で微笑む天音を一瞥して、俺は本を閉じた。あいつが来る前に頼んでおいたコーヒーは、若干冷めてはいるもののまだ飲める。
「侑李はどこがいい?」
コーヒーを味わっていると、天音は頬杖をつきながら尋ねた。
「ここでいいだろ」
外を見るとコートをしっかりと着込んだ奴らが視界に入った。真冬の中でわざわざデートに行く神経が、俺にはわからない。
「ここって侑李が好きなコーヒー専門のカフェでしょ。……私がコーヒー苦手だって知ってるくせに」
確かにデートの待ち合わせにここを指定したのは俺だ。が、別にこの店が好きなわけじゃない。単純に俺の家とあいつの家の中間にある、それなりにいい店だったからだ。
「じゃあ好きにしろよ」
そうなげやりに言うと、天音は「バカ」と言いつつもスマホでこれから行く場所を調べはじめた。画面を見つめながらコロコロと表情が変わる天音を眺める俺は、運ばれてきた天音の分のコーヒーを断りもなく飲む。俺のは天音を待っている間にほぼ空になっていた。ついさっきが最後の一口だったのだ。
いくら甘いコーヒーでも、天音の場合、残す事がわかりきっている。それでも待たせた詫びに奢らせる事を俺は念頭に入れた。
「……あ、ねぇ! ここにしようよ!」
そう言って見せられた場所は、水族館だった。
「……まぁ、いいんじゃねぇの?」
なんとも言えない場所に微妙な反応になったが、どうやら天音は気にしていないみたいだ。
「ってそれ私のコーヒー!」
「どうせ飲まねぇだろ」
さっき飲んでいたコーヒーは苦いもので、今飲んでいるのは甘いコーヒー。そのおかげで口内の味がいいバランスを保っていた。
「そうだけど…………はぁ。それ飲んだら行こうか」
言い終わる前にカップを置いた俺は、「行くぞ」と天音の手を引く。結局、代金は俺が全部支払う事になった。
店を出ると、天音の甘い匂いが嫌でも匂う。天音は俺が少しだけ距離をとったのを見て、眉を下げながらえくぼを作った。
「侑李のそれ、高二の頃から変わらないね」
「……高二?」
「覚えてないの? ちょっとボケるの早くない? ほら、高二の時に私が侑李の高校に転校して、私たちは出逢ったんだよ」
「そう言えば、そうだったな」
高校の頃はとにかく周りが騒がしかった。
周りと言っても俺が所属していたバスケ部のみで、原田が特にうるさくて、高橋が無駄に天音に絡んでいた。
「私ね、初めて侑李に会った時…………初めて会った気がしなかった」
「なんだそれ。気のせいだろ」
そう言う俺も、天音と初めて出逢った時、同じような感覚を覚えていた。ただ、あまり認めたくないだけで。
「気のせいじゃないよ。……私、多分一目惚れだったんだね」
照れくさそうに笑う天音が、……なんというか、可愛くて。俺はついそっぽを向いた。
本当に、"つい"だった。
そっぽを向いたまま信号を渡った俺は、信号を無視した車にすぐ気づいた。ただ、天音はすぐに気づけなかった。
とっさに手を伸ばしても
振り向くという無駄な時間が運命を変えた。
俺よりも少し先を歩いていた天音は、俺に背中を向けたまま遠ざかっていく。
いっその事、もっと遠くにいてくれとさえその刹那に思った。
「おいッ!」
足を動かす。
バスケ部だったのに、大学に入ってから止めたせいか思うように走れないのを感じた。反応でさえ鈍かったかもしれない。
手を伸ばして、ボールではなく人間を掴む。
限界まで見開いた天音の目と俺の目が合って、赤い飛沫が視界を染めた。
2
冬は色を変えて春になった。
景色は雪景色から桜へと移り、それは脳裏に赤い飛沫を呼び起こさせる。きしむ体を庇うように歩いた俺は、砂浜を踏みしめた。
春の海には初めて来たが、夏とは違う海の色に新しい発見を繰り返す。けれどもその思考はすぐに捨てて、俺はらしくもない花束を握りしめた。
――天音が死んで、何日経っただろうか。
たった一人だけの病室で、天音の死を告げられた。
即死だったと聞かされて、自分の無力さと喪失感を一気に感じて。これは罰だったんじゃないかと思ったら、泣くことさえ出来なかった。
花を包んでいた包装紙を感情のままに破く。
それを捨てたら、俺は花弁さえもちぎった。
「…………」
手のひらでちぎれた花弁を包んで、俺はそれを空高く投げた。それは、バスケットボールをゴールに入れるかのように。
あの日天音が行きたいと言っていた水族館に行けなかった分、ちっぽけな水族館よりも大きな海で。
「さようなら」
高校の頃の、人を見下したかのような声色で唇をゆっくりと動かす。
「……なんて言うと思ったか、バァカ」
そして息が詰まった。
感情のままに。
目頭が熱くなった俺は、本気で海に向かって走った。きしむ体なんて気にする必要は何処にもなかった。
ザブンッと、右足が砂浜ではない感触を捉える。まだ冷たい海にそれでも向かい続けて、腰まで塩水に漬かったところで足を止めた。
振り向くと、俺がさっき投げた花弁がちょうど舞い降りてくるところだった。
適当に選んだだけあって、色も種類もバラバラな花は気ままに砂浜を彩る。その様はあまりにも現実味が無さすぎた。
「……くそ」
気配も連絡もなく、いつもひょっこり現れる天音に期待する。笑って、笑って、笑うあいつに半ばすがる。
「………くそ………が……」
頬が妙に熱かった。
流れるそれに気づいた途端、俺は現実を知って。隠すようにさらに海へと向かった。気づけば俺は、体のすべてで水を感じていた。
流れていたはずの涙は海が持っていく。最後に焼きつけていたあの景色の名残か、水の中でも花弁が見えた。
次第に息が苦しくなる。
それでも俺はもがくつもりはなかった。
天音が最後に会ったのは俺だった。
だから俺も、最後に会ったのは天音にしたかった。
都合がいい事に、入院中誰も俺を訪ねてくる事はなかった。小学校も中学校も高校も大学も、ろくな付き合いをしていなかったからだろう。医者などは、人とは思わないようにしていた。
なぁ。
……このままこうしていたら、俺はお前に会えるか?
*
目を覚ますと、温かな場所だった。
「君、大丈夫?」
声のした方を向く。
そこには、ふっくらとした顔つきの女が俺の顔を覗いていた。俺は……ベッドに横たわっていた。
「……誰だ、お前」
「あら。育ての親に"お前"はダメよ」
「……あ?」
何言ってんだ。つか、ここはどこだ。
俺はあの海に……沈むはずじゃなかったのか。
「この状況を説明してください、おばさん」
「ちゃんと言えるじゃない。本当はおばさんじゃなくてお母さんって呼んでほしいのだけれど……そうね。貴方は養護施設の前に置き去りにされてたの。ここはその養護施設よ」
養護施設?
俺は成人してるってのに……。
そこで気づいた。俺の声も体も、成人のそれじゃない事に。
これは夢か。それとも死後の世界か。
少なくとも、俺は天音に会えなかった。
会えたのは頭のおかしな女だけ。この女が天音じゃないのは断言出来るが、他は何もかもわからない事だらけだった。
「それを聞くって事は、何も覚えてないのね。でも安心して? ここにはみんないるわ」
「…………みんなって誰だ」
「みんなはみんなよ。貴方と同じような境遇の……」
「ちっげぇよバァカ! 俺が会いてぇのは……俺が、会いてぇのは……」
本当にバカなのは自分だ。
天音一人が死んだ程度で取り乱す俺だ。
今も冷静になりきれない俺だ。
俺は天音に出逢って、高校を卒業して、バスケを辞めた途端に弱くなったのか。
こんなのは俺じゃない。
別の誰かだ。
そうだ。
……まるで別の誰かの人生みたいだ。
瞬間、花の匂いがした。天音の甘い匂いとはまた違うが、これも甘い。
「大丈夫よ」
女が俺を抱きしめていた。俺の体は三十代くらいの女よりも小さくて、ヘドが出るのに頭を撫でられる。
「……何も知らねぇくせに」
「そうね。私は貴方の何も知らないわ」
それでも慰める事は出来るってか。
惨めだ、そう思うのに涙が溢れた。
子供の体だからか、泣く事に躊躇いもなかった。
女は何も言わなかった。
この匂いも、涙も、胸の痛みも。
全部が全部、これが現実だと俺に突き立てていた。