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羽化する蝉の観察

私は歩道のコンクリートの上を、じりじりと歩く小さな生物を見つけた。プールの帰りのことだ。もう二十二時をまわった。

近くの街路灯には羽虫と蛾が群れ、たまにアブラゼミが眠れなくて困っています、というようにジジジっと鳴いている。

私はその生物をよく見ようとして近づいた。

それは茶色くてぴかぴかしていて、前足が大きな鎌状になっていて、それなりの大きさなら地球外生命体と思うくらいの不思議なシェイプをしていた。

私は感心した。こんなタワーマンションが乱立するコンクリートジャングルで蝉の幼虫に出会えるなんて。


幼い頃の記憶が、どっと押し寄せた。

子供の頃に蝉の羽化を見ようと、眠い目をこすりながら、青白くて弱々しい蝉が背中をぱっかりと押し開き、やがて黒っぽくてかちんとした力強い成虫に変態したこと。彼を飼うといったら、蝉は長い間土の中にいて、土から出てきたら嬉しさのあまり鳴きに鳴いて鳴き抜いて、やがて死んでしまうと両親が教えてくれたこと。ひくひくと泣きながらその蝉をそっと網戸につかまらせて、いつまでも飽きるまで眺めていたこと。兄と一緒に蝉の抜け殻をせっせとビニール袋いっぱいになるまで集めて、子供部屋の隅にしまっておいたこと。翌春突然思い出して探したが見つからず、父に捨てられていておいおいと泣いたこと。


ふと気づくと、彼はじりじりと私から遠ざかるように、歩道をマンションの方へ歩いている。

おい、そっちはぶら下がる場所がないぞ。私はそのままそっとしておいてやろうと思っていたが、彼の進行方向に、落ちていた枝を差し出し、枝につかまらせて家へ連れて帰った。


妻はごろごろしながらテレビを見ていた。

「ただいま」

「あら、おかえりなさい」

「ほらほら」

「あら珍しい。どこで?」

「下の歩道でね」

「ふうん、家の中には入れないでよ

妻は興味を失ったらしく、再びテレビのほうを向いた。

一言多い、と私は思う。そんなことこちらだってわきまえるようになる。やろと思っていることを念押しされると私は嫌な気持ちになる。宿題やったの?みたいな話。


私はそのままベランダへ出ると、 枝から網戸に蝉の幼虫が乗り換えるまで、辛抱強く待った。

幼虫はよちよちと枝をつたって網戸にしがみつき、うろうろと所在なさげに網戸を歩いた。

私はそこまで見届けて安心し、部屋に入ってビールを飲んだ。


翌朝、出勤前にベランダへ出て、蝉の抜け殻を探した。すると、成虫になりきれずに、さりとて幼虫でもなく、網戸にしがみついている蝉の幼虫を見つけた。

蝉は背中を割って外に出て、しばらく自分だった抜け殻につかまって文字通り羽根を伸ばし、成虫になる。私がつつきまわして体力を使い果たしてしまったのか、風が強くて乾燥したのか、彼は背中の一部だけ外気に晒して、これから着ぐるみを脱ぎたいのですが背中のチャックを下ろして頂けますか?と言った様子で、ぱりぱりとした殻のなかに閉じ込められていた。


私は慌てた。

触ってみると、固い殻の中で、彼はお腹をもぞもぞと動かした。

背中の亀裂を広げて、彼を救出することに決めた。背中からお尻にかけての皮はぱりぱりと剥げたが、顔、脚、羽根は造形が繊細で剥がすことができなかった。

私はやむなく、たっぷりと霧吹きし、ふやけて羽化が再開できるように祈りつつ、鉢植えに彼をそっと置いた。


翌日帰宅しても、彼は同じ場所でひっくり返り、つい数時間前にまで自分の皮膚として、ともに数年間を過ごした殻に囚われ、これからの人生をどのように送ろうか思案しているようだった。

私は再び霧吹きをシュッシュと吹きかけ、お腹の、脚が複雑に生えている部分の殻の除去に取り組んだ。霧吹きはなかなかの効果を上げ、彼は脚を弱々しく動かせるようになった。

私はこれに気を良くして、ピンセットを持ち出して彼の顔を覆う殻を見た。

私は無力感に襲われた。バルタン星人が蝉の顔をモチーフにしているのは有名な話だ。バルタン星人の顔をむんずと掴んで熱々に溶けたプラスチックにつっこんで、冷え固めたように、殻は顔を綺麗に鉄仮面のように覆っている。


メタリカのoneのプロモーションビデオを思い出した。ロックインと言われる、意識はあるが身体が動かせなくなる状態を思い出した。

これでは樹液も吸えない。自分で動くこともできない。きっと殻が邪魔をして複眼も役に立たないだろう。

私は自分の業の深さを思い、彼の絶望を思い心底から胸を痛めた。


どうにもならなかった。

私は彼を自然に委ねることにした。聞こえはいいが、言い方によっては、棄てることだ。いや、しかし彼を歩道に放置しても結果は変わらなかったかもしれない。通りかかる自転車に轢かれたかもしれない。羽化する場所が見つからず、力尽きたかもしれない。

私は自分を誤魔化そうとしていることに気づき、うんざりした。かもしれない、で言えば、すべての事柄がありうる話なのだ。私が彼を見つけなかったら、彼は生きてジージーと飛び回ったかもしれない。あるいはやっぱり美しく若い女性の針のようなハイヒールに天文学的な確率をかいくぐって踏み潰されたかもしれない。

そんなことは言い訳で、彼は死んだも同然で、顔と脚と羽根に、殻が、彼を文字通り縛り付ける鎖のように、張り付いているのだ。


妻には蝉のことは、帰宅当初に見せただけで、羽化に失敗したことは話していない。

後ろめたい気持ちがあった。妻には話さなかった。話したところでどうにもならない。そう思って、このままこっそりと彼を見つけてしまった歩道の近くの、きっと彼が数年間過ごした植え込みに放そうと思った。置こうと思った。棄てようと思った。


私は彼を手のひらにやさしく包んで、スポーツクラブに行ってくる、と妻に声をかけた。妻ははーいと生返事をした。

エレベーターで、たまたま、珍しく、プールでたまに挨拶する程度の中年女性とご一緒した。お互いに挨拶をし、同じマンションにお住まいでしたか、と驚きあった。その間も私は蝉の幼虫をやさしく握っていた。


マンションからスポーツクラブまでぷらぷらと女性とご近所話をしつつ、彼を放す・置く・棄てる場所を探した。

このへんだが。行きがかり上、彼女が植え込み側を歩いている。蝉の幼虫を放す・置く・棄てるには、不自然に彼女のほうに寄って進路を交錯させて植え込みに近づく必要がある。

機会は訪れず、私は彼を生まれ育った土に帰すことができなかった。

結局、彼女の目を盗んで、スポーツクラブの植え込みに放した・置いた・棄てた。


私もそれなりの年齢を重ねてきた。アリを踏み潰したことは数え切れない。バッタの命を奪ったことも数え切れない。鶏に至っては、ちょっとした暴虐な独裁者並みだと思う。豚を牛を魚たちを考えると、国際法廷から出頭命令が出ても拒めないと思う。

それが、蝉の幼虫のたかだか一匹の自由を奪っただけで、暴虐で残虐な独裁者である私は、動揺するのだ。

プールで一生懸命歩いたら、すっきりするかと思った。汗がじんわり浮くくらい歩いたが、歩く間に考えるのは、がっちりと脱け殻に捉えられ、動くことも鳴くこともできずにじっとしている蝉のことだった。


ちょっと泳いでみよう。普段は、歩いて、アクアビクスのレッスンに出ておしまいだが、チェンジを欲した。

往復コースに入って、泳ごうかと思ったそのとき、泳ぐ気まんまんの中年男性が往復コースへ入ってきた。

たまにいるんだよなぁ、自分が速いからって調子に乗っちゃうやつ。私は先手必勝とばかりに、バチャバチャと泳ぎ出した。

バチャバチャやっていると、気持ちが落ち着いてきた。呼吸をすると天地がぐるぐると回るような感じで、なんだか今日はそれが楽しい。

もう一回。バチャバチャやって、はあはあと息をつく。

中年男性はプールサイドに手をついて、肩をごりごりと回している。ゴーグルをつけていないので、まだ泳がないのだろうと判断して、もう一往復。

まだ中年男性は泳ぐ気配がない。数回泳ぐうちに、気にしないことにした。


そろそろ飽きてきて、もうちょっと泳いだら帰ろうと思ってタッチすると、中年男性がいなくなっていた。

ゴーグルを外してはあはあしていると、プールの反対側に中年男性が休んでいるのが見えた。

よし、もうすこし。特に目標を決めずにバチャバチャと泳ぎだす。プールの真ん中あたりで中年男性とすれ違う。

水の中だしこちらもバチャバチャやっていて余裕がないのでしっかりと観察はできないが、どうやら楽にスーッと泳いでいるようだ。

中年男性と私は、タイミングを合わせるように、プールのこちら側と向こう側でよーいどんでスタートし続けた。

中年男性のおかげで、いつもよりたくさん泳げた。心地よい疲労を感じた。今度こそ終わりにするかと思って泳いでいると、目の端に中年男性が私の腰のあたりに迫ってきているのが見えた。あっというまに彼は私を抜き去った。彼の航路には大きな流れができていて、私はぐいっと引き寄せられたのを感じた。そして、さっきと同じバチャバチャでも、引っ張られるような感じがあった。大袈裟に言えば流れるプール・パーソナルエディション。しかし中年男性とともに流れるプールはいなくなった。

私は子供のころ遊園地のプールの、流れるプールを思い出した。もう終わりと思いつつ、嬉しくなって一回、中年男性のあとを追った。


複数回の中年男性追走のあと、中年男性がコースの端で休んでいた。

私も流れるプール製造機がなければ泳ぐつもりはないので、止まって休んだ。

中年男性は礼儀正しく会釈をした。私も会釈を返した。

ちょっと気まずい沈黙があった。

中年男性はなんとなく柔らかな物腰と軽やかな雰囲気を持っていた。

私はプールにおいて自分よりも速く泳ぐひとをべたべたと追い回すのはマナー違反にあたるのかどうか迷いつつ、一応彼に当たり障りないところで挨拶をした。

「お速いですね」

「いえいえ、上には上がおりまして。私なぞまだまだです」

「先ほどは失礼しました。ペタペタと後ろをくっついて泳ぎまして。ご不快でなければよいのですが」

中年男性はにこにこした。

「いえいえ、ひとの後ろをぴったりくっついて泳ぐと気持ちいいですからね。よければまたどうぞ」

私は恐縮するとともに、容姿は爽やかではないが中年男性の爽やかな応対に痛く感心した。


スポーツクラブを出るまで、蝉のことを忘れていた。ほんの少し、心が軽くなっていた。彼のことを思うと、悲しいけれどもやむを得ない出来事であったと感じるようになっていた。

植え込みを見ると、同じ場所に蝉はじっとしていた。

蝉の体の周りが赤黒く縁取られている。よく見ると、小さな赤蟻が彼に群がっている。彼は観念したようにじっとしているが、時折赤蟻に噛まれて痛いのか、のそりと身じろぎする。

蝉と赤蟻の、闘いとは言えないような一方的な暴虐を、私はじっと見つめた。

赤蟻は続々と仲間を呼んで巨大な蝉に取りつき、デモ隊のように取り囲んでいる。

私は蝉から赤蟻を払ってやりたい衝動に駆られたが、やめた。結局、蝉の幼虫を拾うのと同じなのだ。

私はしばらく蝉と赤蟻をじっと見た。おいしいお店に行列するように、赤蟻が熱心に並び始めるのを見守ってから、私は帰宅した。


三日後、スポーツクラブへ行き、蝉を放した・置いた・捨てた場所を見た。そこに蝉になりかけた生物がいたという痕跡は何もなかった。


一週間後、またスポーツクラブへ行った。私は行きがけに蝉のことを思ったが、帰りはなんとも思わず、まっすぐ帰宅した。


一ヶ月後、私はスポーツクラブに通っても、なにも思わなくなった。私は二ヶ月後に開催されるマスターズの大会に参加希望を出した。



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