目が覚めたら
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香ばしい焼き鮭の香りがする。
週に一度は朝ご飯に好物の焼き鮭を出してくれるのを分かっているので朝から杏奈は上機嫌だ。
『おはよう杏奈、ご飯出来てるわよ』
『おはようお母さん。今日は鮭デーか!』
『ふふ、そうよ。ほら、早く食べちゃいなさい』
『はーい、いただきま!』
岬家は朝食はご飯派であり、朝から杏奈はモリモリとご飯を食べて学校に行っていた。
『葉太はもう行ったの?』
『あなたが寝坊助なのよ』
2つ年下の弟の葉太はしっかり者で朝も早起きだ。
対して杏奈はいつもギリギリに起きては慌てて家を飛び出すのが常である。
どうして姉弟でこんなにも違うのか、杏奈には非常に謎だった。
『うわ、もう時間やば⁉︎それじゃ行ってきまーす!』
『あ、杏奈!今日お母さん仕事だから帰りに卵と鮭買ってきてくれる?』
『えー?しょうがないなぁ。りょーかい!』
『ありがとう、行ってらっしゃい杏奈!気を付けて』
ーーこれが、母親との最後の記憶だった。
下校時に買い物に行く途中で車にはねられ、杏奈はその短い生涯を終えることになった。
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「…ごめん、卵と鮭買えなかったよ…」
ふと目を覚ますと、目に溜まっていた涙が静かに頬を伝った。どうやら前世の夢を見ていたらしい。
今も鮮明に覚えているずっと昔の記憶が、リフェの脳裏から離れない。
「………」
だがここはかつていた日本ではなく自分ももう杏奈ではない。異世界の魔王リフェになったのだ。
…それもまた、やめてしまったけれど。
言いようのない気持ちが彼女の胸を締め付けた。
しばらくすると視界に入る見知らぬ景色に気付いてリフェはのろのろと横たえていた体を起こした。
まず最初に見たのは見知らぬ部屋。
木造の決して豪華とは言えない造りの部屋。寧ろ質素で貧乏そうなイメージの湧く内装だった。寝ていたらしいベッドも硬くもなく柔らかくもない普通のものだ。
だが所々に置かれる花やそれを象った可愛らしい飾りが、この部屋の主の趣味性格を物語っていた。
恐らく女性で、可愛らしい趣味をもっているだろうとリフェは辺りを見渡しながら考える。
そして次にリフェは自分の置かれている状況を思った。
どれほど時間が経ったのか分からないが、リフェは勇者との戦いを避け、魔王城を抜け出して国外へと出た筈だ。
長く彷徨った森を抜けた先に街を見つけ、ひどく喜んだ所で不意に謎の眩暈や吐き気に襲われてその場で意識を失ったのだ。
「そうだあの時誰かが…」
朧げな記憶を捻り出しながらリフェは唸る。
そう、誰かが倒れた自分の前に現れたのだ。
そしてそれははっきりとは見えなかったがとても見覚えのある者で…。
「あ……金髪と緑の目…。…勇…者?」
まさかと思ったが、自分の知り合いに金髪碧眼を持つ者は彼しかいなかった。
「…いやでもほんとに?…もしあれが勇者なら、あの人は私のお願いを聞いてくれたってこと…かな?」
願いを無視するならばあの場でリフェは殺されていただろう。だが記憶にあるのは彼に優しく抱き寄せられたことのみ。他に何か言っていたような気もするが思い出せない。
「たぶん、助けてくれたんだよね…」
今この場にいるという事実。
それはリフェを殺さず生かした彼は、彼女の意思を尊重した上で更に手助けまでしてくれたと言うことになる。
それは暗に今は敵対しないと明示していることに他ならない。
そうなると恐らくローカ達も無事だろう、と密かにリフェは安堵の息を漏らした。
「勇者、優しい人なのかもなぁ。いや基本勇者は優しいか。悪いのはこっちだもんね…はは」
自嘲染みた笑いを浮かべていると、部屋の扉が優しくノックされた。コンコンコン、と軽快な音が室内に響くと、そのまま扉が開けられた。
「入りますよ〜…て、あら?目が覚めたのね!」
部屋に入ってきたのはこの部屋の主だろうか、とても可愛らしい女性だった。長い金髪と大きな青い瞳がとても綺麗で、同時に似通う雰囲気からあの人を思い出させた。
「…あの…」
「おはよう、良かった目が覚めて!昨日アインが連れて来た時はもうびっくりしちゃって、あの子が怪我させたのかと慌てたわ〜!でも怪我もないし顔色も良さそうだしもう大丈夫そうね?あ、私はライラよ貴女は?あの子何も言わずに帰っちゃってもう悪い子よね!あ、そうそう名前は?」
つらつらとリフェが口を挟む間もなくそのライラという女性は話しかけてくる。見た目は20代後半で可愛らしくも美しい容姿を持っているが、どうやらその口は落ち着きがないようだ。
「え、えっと…リフェです」
ふとそこでリフェはしまったと思った。
魔王の名を普通に答えてしまったのだ。恐る恐るライラを見やると、彼女は何も訝しむ様子もなく寧ろ上機嫌でリフェに笑いかけた。
「可愛い名前ね!リフェちゃん、気に入ったわ‼︎」
「あ、どうも…」
よく考えれば魔王の名はあまり人々に知られていないのだった。何故なら魔王は魔王としか呼ばれないから。魔王という存在だけであって、彼らに名前の概念があるとは思われていないらしいのだ。
魔王城の分厚い本にそのような事が書かれていたのを思い出しながらリフェは安堵する。
「道端に倒れてたってアインは言ってたけど、リフェちゃん何か大変なことがあったのね?あ、事情は聞かないから、まずはしっかり休んでいってね!」
「ありがとうございます…。あの、そのアインって人は?」
彼女の口から度々飛び出すその名は、もしや彼のものではないのかと思いリフェは尋ねる。
「アインは貴女を置いてすぐ出て行っちゃってね〜!あ、アインは私の息子なんだけれど、実は勇者なのよ!何でも魔王を倒したからってそれのお祝いパレードするらしいのよ〜。だからサッサと王都に戻っちゃってね!悪い子よね〜」
「……え、魔王倒されたんですか?」
どう見ても母親には見えないこともひどく気になったが、それ以上に聞き捨てならない言葉が聞こえてリフェは少し震え声で尋ねた。
「そうらしいわよ〜?サクッと倒しちゃったらしいわ!我が息子ながらやるわよね」
とんでもない事実が判明した。
何故だか魔王リフェは死んだことになっている。
これは一体どういう事なのか。リフェからすれば好都合ではあるが何故そんなことになったのか分からない。
魔王が倒されたなどローカが許すはずが無いだろうに、ここにリフェを連れて来た勇者は母親に魔王を倒したと告げたのだ。
何か理由があるのだろうか。ローカ達が魔王の死を承諾するような理由…リフェには全く考え及ばなかったが。
「……そう、なんだ」
だがこれから魔王ではなくただのリフェとして生きようとする彼女にとっては大変喜ばしい展開だった。
魔王という足枷が無くなり、魔王と疑われる事も少なくなってかなり動きやすくなる筈だ。
この好機を逃すわけにはいかない。
リフェは己の打ち立てた目標を思い出す。
「ライラさん、この近くに冒険者ギルドってありますか?私、冒険者になりたいんです!」
「まぁそうなの?そうねぇ、この村には支所ならあるけど、そこでは正式に冒険者になれないのよ。本登録するには王都のギルド本部に行かなきゃならないみたいだから、冒険者になりたいのならまず王都に行かないとダメよ?」
ライラがリフェの足らない情報をしっかりと補足説明してくれた。王都のギルド本部に行けば念願の冒険者になれるのだ。リフェはワクワクし始めた気持ちを抑えて手を挙げた。
「なるほど…。じゃあ私王都に行きます!」
「あらお急ぎのようねぇ?でも王都に行くなら色々と準備が必要よ!私も手伝うから、しっかり準備して行きましょうね」
「ありがとうございますライラさん!」
優しい勇者の母親もまた優しいのだな、と柔らかな笑みを浮かべるライラを見ながらしみじみとそう思ったリフェだった。
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その日のうちにリフェはライラと共に王都へ行く為の準備を済ませた。
まず準備したのは旅には欠かせない地図で、地形の地の字も知らないリフェにはなくてはならないものだった。ライラ家にあった民間によく出回っているらしい普通の地図を貰い、それをライラがくれた彼女お手製ショルダーバッグに入れる。
ちなみにライラは裁縫が得意なようで家にある装飾品の殆どが彼女が作ったものらしい。
その1つであるバックに地図、少量のお金、ライラが書いてくれた王都ギルド本部についての情報メモを入れた。
「ここから王都へは2日で行けるわ。隣町のリエスタで乗合馬車に乗って1日。ちょっと長いけど慣れたら平気よ!ただ、リエスタに行くまでの街道で魔物が出ることもあるからそこだけ気を付ければ後は楽チンよ」
王都へ行く乗合馬車の通る道は王都警備隊がいるので安全らしいのだが、田舎道は王都警備隊は派遣されておらず自治体の警備や旅人本人の力で抜けなければならない。
だがその点はリフェは心配していない。何故なら元魔王なので力は有り余っている。ローカにしごかれた魔法術は大抵の魔物は倒せる自信があるのだ。
「軽食は明日の朝渡すわね?それと〜あとは何が必要かしら」
「ライラさん、これくらいで十分ですよ?私魔法得意だしすぐ王都に着けると思うし」
「甘いわリフェちゃん!何が起こるか分からないんだから、準備は念入りによ‼︎その様子だと王都に着いてからも心配だわ。王都はね、良い人ばかりではないからリフェちゃんみたいに可愛い子は悪〜い人達に狙われやすいのよ?」
また始まったライラの長い返しにリフェは口を挟めない。
「まず王都に着いたら宿屋に行って部屋を取るのよ?それから次の日にギルドへ行って本登録を済ませてね?特に夜はあまり出歩かないことよ、わかった?」
まるで母親のようにリフェに厳しくそう訴えるライラ。
その目を見れば心から心配してくれているのがよく分かったリフェは、言われた通りにすると頷いた。
「良い子ね!…あらそうだわ!どうせならアインの所に行ってしばらく一緒にいてもらうのはどうかしら?」
「え⁉︎」
「あの子も今王都にいるし、住んでる家も王都にあるからきっと色々世話してくれるわよ?そうよ、それがいいわ!」
「い、いやでも勇者さんはパレードとか色々と大変だろうし…」
元魔王と勇者が一緒にいるなどあってはならない。
勇者がリフェの願いを聞いてくれているとは言え、あまりに気まずい。勇者とて元魔王と一緒にはいたくはないだろうに。
それに願いを蹴られて殺される可能性だってあるのだ、一緒に行動など到底考えられない。
「大丈夫よ、パレードなんてすぐ終わるしアインなら貴女の事をちゃんと見守ってくれるわ」
「で、でも…迷惑になるのでしばらくは1人で頑張ります!ーーいや、頑張りたいんです‼︎」
これはリフェの本心だった。
魔王を辞めてただのリフェになりたい。その為には1からやり直さなくてはならない、自分の力で。
「……あら、そう?でも何かあったらあの子に頼って頂戴ね?必ず力になってくれるから」
至極残念そうにライラは応えた。
それにお礼を言うと、リフェは心からの笑みを浮かべた。
会って間もない素性の知れない女の子に、ここまで優しくしてくれる素晴らしい女性に。
「ライラさん、あの…勇者…あ、アイン…さんの好きなものって何かありますか?お、お礼をしたいと思って」
「アインの?そうねぇ…」
あまり会いたくないが、ここまで運んでもらったお礼はしなくてはいけないと思う。もし会うことがあればちゃんとお礼を言っておきたい。
「ん〜甘い物があの子は好きだったわね〜。食べ物も好き嫌いない子だったし、お菓子なんてあげれば喜ぶわよ」
「お菓子…。食べ物以外はありませんか?」
「アインはあまり物欲がない子だから、物は昔から欲しがらなかったのよねぇ。あ、でもお花は好きだと思うわ!」
思い出したようにライラが笑顔でそう答えた。
「よく庭の花の世話もしてくれたし、毎年誕生日はお花をあげていたから好きだと思うのよ」
「お花にお菓子…勇者っぽくない」
「ふふっそうね、でもあの子は勇者である前にアインだから。色んな趣味嗜好があるわよ」
「……勇者である前に…」
そう、勇者も1人の人間なのだ。
もしかしたら望んで勇者になっていないのかもしれない。
望んで魔王になったわけではない自分と同じように…。
ふとそんな事を思い、遠い存在に思っていた勇者がもしかするととても近い存在ではないかと感じた。
実際の所は分からないが、リフェは勇者について何も知らないのだと思い知った。それは逆もまた然りだが、勇者という存在についてもっと知るべきことがあるのかもしれないと、彼女は少しだけそう思った。
数百年毎に魔王は現れ、同時期に現れた勇者によって必ず消滅させられてきた。
その過程で魔王が勇者を、勇者が魔王を互いに見知ることはあったのだろうか。恐らく無かったと思う。
今回がきっと初めての事なのだ。
魔王が逃げ出し、その逃亡の手助けをした勇者など。
よくよく考えればあり得ないことが今起きている。
勇者の思惑は分からないが、これで今までの魔王と勇者の在り方は大きく変わったことだろう。
この先勇者に殺される運命だとしても、リフェはただ殺される運命を受け入れるつもりはない。
リフェとしての人生を生き、満足して勇者と向き合いたい。
それが今の勇者であるなら可能かもしれないと、リフェは思った。
「リフェちゃん、大丈夫?ボーッとして」
考え込み過ぎたのか、返事をするのを忘れていたらしい。
「あ、大丈夫です!また、王都でアインさんに会えたらお菓子とか渡してみます」
「それがいいわ、アインにまた帰ってくるよう言っておいて頂戴ね」
「はい」
そうしてライラと共に旅の準備を済ませたリフェは、お礼を兼ねて家事を手伝いながら1日を終えた。