中学 - 二宮透花
先生から環境を変えるように勧められて、中学は隣りの校区の学校に通った。サキちゃんとは別の中学になったけど、その前からほとんど話をしてなかった。
あたしの生活はあまり変わらなかった。あたし自身も変えようとはしなかった。何かに失敗して迷惑をかければ当然謝ることになる。謝るためじゃなくても、気遣って『ごめんなさい』と言うときもある。その言葉を言えないあたしは、ずっと1人でいることを選び続けた。
同じ小学校で住所が変わってこの中学に通う人が、学年違いも含めると何人かいた。その人たちから話が広まって、あたしはまたいじめられるようになった。彩花の話をする人はいなかったから、あたしはそのイジメを我慢できた。
同じクラスに船橋という男子がいた。その子と同じ小学校だったクラスの男子が、その子をよくいじめていた。楽しそうにしていたという理由でいじめられることもあった。いじめられるとすぐに泣く子だった。
先生がもう1人の当番も呼んでくるように言った。1人で運ぶにはプリントの量が多過ぎるからだ。あたしは一度教室に戻って今日の当番を確認した。
「船橋くんがいい? それとも船橋さんがいい?」
「え? 何?」
あたしが話しかけると、彼は戸惑った様子で返事をした。
「どっちの呼び方がいいか教えて欲しいの。先生は船橋さんって呼んでるよね。同じでいい?」
「別に……。みんなみたいに呼び捨てでいいよ」
「あたしは人を呼び捨てにするのが苦手なの。どっちがいいか選んで欲しい」
「……船橋くん。さんだと上級生とか女子とかみたいだから」
「じゃあ船橋くん。一緒に職員室まで来てくれる?」
「どうして?」
「先生に今日の当番が資料を取りに来るように言われてるから」
「あ……、今日の当番、僕もだったんだ。ごめん……」
あたしと船橋くんは職員室に行くと、授業中に使うプリントの束を受け取った。
2つに分けてプリントをそれぞれが持った。
「二宮さんは強いよね」
船橋くんがいきなりそう言った。
「同じ重さだよ?」
「あんなにひどいこと言われて、平気なんだから」
「ああ、そっち? 平気に見える?」
「違うの?」
「あたしだって、嫌なことを言われたら辛いよ。できればそんなこと言われたくない」
「本当に?」
「だから今も、当番じゃないのに当番の仕事をしてる。その方が嫌なことを言われるより楽だから」
「そうか。今日、僕と当番だったのは森山さんだ」
やっぱり気付いてなかった。
「船橋くんもクラスの人を呼び捨てにしないね」
「……怒る人がいるから」
「あたしが呼び捨てにしないのも同じ理由かな」
「そうなんだ。……でも、二宮さんは辛そうに見えない」
「授業の手伝いをするのは嫌じゃないから」
「今だけの話じゃない。見てる僕がひどいって思うことをされても、僕みたいに落ち込まない」
「辛くなっても、気分を楽にする方法を知ってるの。聞きたい?」
あたしはサンズイさんから教わったこと思い出しながら、自分の言葉にして船橋くんに話した。話し終わる前に教室の前まで来たので、あたしは立ち止まって話を続けた。船橋くんもあたしの話が終わるまで教室に入るのを待った。
あたしの話を聞き終わった船橋くんは、不思議なものを見るような目であたしを見た。そして何も言わずに教室に入った。
クラスに戻ると、いつも船橋くんをいじめている男子たちがあたしたちをひやかした。いつもはすぐ辛そうな顔になる船橋くんが、その時は何かを考え込んでいるように彼らの言葉に反応しなかった。
それから数日間、その人たちはあたしにも嫌がらせを繰り返した。あたしは相手の顔をまっすぐに見て、短い受け答えをしながら静かに話を聞いた。やがてその人たちはあたしに話しかけなくなった。
あたしは船橋くんに、その時の話をどう思ったか聞いてみたかった。だけど船橋くんはあたしと話すことを避けているようだった。2年からは同じクラスにならなかったので、あたしと船橋くんが2人で話をすることはなかった。
でも船橋くんはあまり泣かないようになった。むきになった男子たちからしつこく嫌がらせされてたけど、何とか我慢していた。もしかしたら、あたしから聞いたサンズイさんの話が役に立ったのかもしれない。
クラスの女子に鳥屋さんというキレイな人がいた。女子が集まって話をしている時は、その中心になっていることが多かった。その鳥屋さんから、あたしはよくいじめられるようになった。
何がきっかけだったのかは、よく分からない。あたしには鳥屋さんがあたしに辛く当たる理由が分からず、鳥屋さんもあたしにそのことを言わなかった。
サンズイさんに教えてもらった通り、あたしは鳥屋さんのすることを気にしないようにした。だけど鳥屋さんはあたしをいじめるのを止めなかった。鳥屋さんと親しい人も一緒になってあたしをいじめた。クラスの他の人はあたしに関わろうとしなくなった。
どうしたらいいのか分からなくなったあたしは、サンズイさんに話を聞いて欲しくなった。サンズイさんがあたしに何をしに来たんだと言っても、今なら相談したいことがあると言うことができる。
サンズイさんはあたしに、自分で役に立つことがあったら相談してくれと言ったことがある。その言葉がとっくに時効なのはあたしにも分かっていた。厳しいことを言われても、あたしはサンズイさんの言葉が聞きたかった。
あたしは記憶を思い起こして、サンズイさんが自宅があると言っていたアパートに行ってみた。でもサンズイさんはもうそこに住んでいなかった。
あたしとサンズイさんとのつながりで、他に思いつくのは小学校しかなかった。自分の都合で他人に話しかけるのが苦手なあたしは、何度もためらった。
でも最後はサンズイさんに会いたいという気持ちが勝った。小学校に電話をして、一番親切にしてくれていた先生を呼び出してもらった。
「あら、二宮さん。どうしたの。中学校で何か困った事でもあったの?」
「あの、すみません。こんなこと、聞いてもいいのか分からないんですけど。でも、どうしても……」
「遠慮せずに聞いてみなさい。何を聞きたいの?」
「サンズイさんが何処の高校に通ってるのか知りたいんです。昔親切にしてもらって、お礼を言ってなくて」
「サンズイ?」
「あたしが3年のとき6年だった人です。児童会でイジメの発表とかをしてた」
「……ああ、あの子ね。すぐには分からないな。中学の先生に聞いてみるから、後で電話するわ。番号は昔と同じでいいわよね」
、先生はサンズイさんの進学先を調べてくれたけど、もうその高校は辞めてしまってた。何処へ転校したのかは先生にも分からなかった。
サンズイさんに会う方法が分からなくなったことで、あたしは自分でも驚くほどがっかりした。あたしはただ、サンズイさんに会うきっかけが欲しかっただけかもしれない。
あたしは中学でも授業が終わるとすぐに帰っていた。学校では部活動への全員参加が原則だったけど、あたしは家庭の事情が認められて入らずに済んだ。人との付き合いが苦手なあたしは、そのことで助けられていた。
遅くまで仕事があるお父さんは、あたしが寝る時間になっても帰れない日がある。そういう日は前もって電話をしてくれることが多い。でも仕事の都合で電話をかける暇がないときもある。
お父さんは9時を過ぎたら先に食べておきなさいという。でもあたしはついもう少しだけと思ってお父さんを待ってしまう。そんな日にあたしは食卓で寝てしまうことがある。次の朝にはベッドの上で目を覚まして、運んでくれたお父さんから怒られる。
でも、どんなに遅くなっても朝ご飯の時には起きて一緒に食べてくれる。お父さんは食事の後にあたしから話しを聞くのが好きだ。でも学校で人との付き合いがないあたしは、あまり話せることがない。お父さんはたまに『おいしい』って言ってくれて、あたしはそれがとても嬉しかった。
少し前からお父さんの様子がおかしい。何か心配事があるみたいだった。あまり気持ちを表に出さないお父さんだけど、あたしになんとなくは分かった。
「菜月。どうなんだ、具合は?」
お父さんの部屋から聞こえたのは、いつになく心配そうな声だった。その後は声が小さくなってあたしには聞こえなかった。
お父さんはさっきママの名前を言った。ママは病気なんだろうか。お父さんがあんなに心配するほど悪いんだろうか。あたしの不安はどんどん大きくなっていった。
「お父さん。……ママは今、どうしてるのかな?」
お父さんはあたしに驚いた顔を見せた。ママが他の人と結婚したって聞いてから、あたしはずっとお父さんにママの話をしなかった。
「菜月に会いたいのか?」
「そうじゃないけど……」
ママに会いたいとは言えなかった。お父さんはママが嫌いになって別れたわけじゃない。あたしのせいでママはいなくなった。
電話をしていたんだからお父さんはママの連絡先を知ってるはず。
いつも持っているスマホはロックが掛かっているから中を見れない。いけないことだと分かっているけど、あたしはお父さんのPCを調べることにした。最初のパスワードはお父さんが打つところをこっそり見て覚えた。
メールも読むのにパスワードが必要で、あたしはそれを知らなかった。だからPCの中にあるファイルを直接開いてみることにした。もしかするとどれかにママのことが書いてあるかもしれない。
お父さんのPCの中には開けられないフォルダーがいっぱいあった。でも色々と探してみると、開けられるフォルダーの中から書きかけのファイルが幾つも見つかった。
どれもお父さんが調べている事件のことが書いてあった。お父さんは普通の警察官じゃないけど警察の仕事をしている。見てはいけないファイルだから、あたしは関係ないと思ったらすぐに閉じた。
時間をかけて幾つもファイルを読んでみたけど、ママのことは書いてなかった。お父さんのこのPCは仕事専用みたいだ。ママのことを知りたかったら、やっぱりスマホを見るしかない。
お父さんが仕事から帰るとすぐに、あたしは料理を温め直すため鍋を火にかけた。食事の用意ができるまで、お父さんはいつものようにメールを確認している。あたしは鍋の熱いところを触ってから悲鳴を上げた。
「あっ!」
驚いたお父さんはスマホを放り出すように置くとあたしの所に駆け寄った。あたしの指は軽い火傷で赤くなっていた。流した水で指を冷やすようあたしに言って、お父さんは火傷の薬を探した。
薬箱に薬が無かったから、お父さんは近くの店へ買いに出かけた。その薬はあたしが隠していた。
あたしはその間に、心の中で謝りながらお父さんのスマホを見た。そして見つけたママの住所と電話番号をメモに書いた。火傷の痛みもあったけど、それよりお父さんに申し訳ない気持ちでその夜はよく眠れなかった。
あたしは学校から帰ると、自転車でママの住んでいる家を探しに行った。手にはその住所を書いた紙を握っていた。
でもその住所に近付くにつれて、あたしは段々と怖気づいてしまった。ママの体を心配する気持ちと、またママにあんな悲しい顔をさせるかもと心配する気持ちが、あたしの中でぶつかりあっていた。
遠くからでも元気なママを確認できればいい。そう思ってあたしは少し離れた場所からママの家を見ていた。
暗くなるまで待ってもママは家から出てこなかった。家の明かりもつかなかったから、この家には今誰もいないのだろう。あたしは自分の考えのなさに呆れていた。ママの無事を知るための他の方法を思いつかない自分に落ち込んだ。
仕方なくまた自転車を漕いで通学路まで戻ってきた時だった。いきなり脇道から大きな車が飛び出してきた。慌てて避けようとしたあたしは電柱にぶつかって、自転車から落ちた時に頭を地面にぶつけた。
気が付くとあたしは病院にいた。その後で病室に入ってきたお父さんの顔で、どれだけ心配をかけたかが分かった。お父さんを騙したことの罪の意識がまた強くなった。
手に握っていたはずの紙は無くなっていた。もうその紙がなくても住所は覚えていたけど、もう一度ママに会いに行こうとは思えなくなっていた。
あたしは一晩様子を見るため入院することになって、お父さんは一旦仕事に戻った。
翌朝に病室へ来た看護師さんは、無くしたと思っていた紙をあたしに渡した。紙の裏には誰かのメッセージが書かれていた。
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あなたが倒れた場所でこの紙を拾った者です。
岩本菜月さんは、賀川病院で無事に出産されました。
病院の連絡先を書いておきます。
お母さんと男の子はともに元気です。
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ママが重い病気じゃなかったと知って、あたしは本当に安心した。そしてママがまた子供のいる家庭を持てたことが嬉しかった。あたしがママに感じていた罪悪感が少しだけ軽くなった気がした。
そしてあたしは、そのことを教えてくれた名前も知らない誰かに感謝した。紙を拾ったというだけで、こんなことをしてくれる人がいるとは思わなかった。他人の優しさを感じたのは久しぶりだった。
イジメに疲れたあたしは、他人に対して無関心になろうとしていた。全く無関係な人があたしにしてくれたことは、そんなあたしの心を少し変えた。