復帰
退院した俺は、数ヶ月ぶりに自宅に戻った。自宅の一階はノーブルという名前の喫茶店になっている。父さんは会社員で、この喫茶店を経営していたのは母さんだ。僕が中学に進学するのと同時にここへ引っ越した。
ノーブルと言う名前は、父さんや僕たち兄弟の名前にある『貴』の文字を由来に母さんがつけた。当初は上品な雰囲気の店にしようとした母さんだが、好みなのはどちらかというとファンシー寄りで、結局はそういった系統の内装に落ち着いた。
この店舗付きの家のローンは払い始めてまだ3年目だったが、債務者死亡で全額免除になった。自動車保険や生命保険の死亡保障により、俺には高額の現金が残された。
生活費を稼ぐ必要はないのだが、時間に余裕のある俺は店を開けることにした。この店を建てるために両親がした苦労を知っている俺は、店を閉めたまま放置して埃まみれにしたくなかった。
店の経営を続けるには、食品衛生責任者の資格が必要だ。この資格は、食品衛生協会の講習会に一日参加して合格すれば貰える。受講できるのは、高校生以外の17歳以上だ。17歳までまだ半年ほどあったが、俺はすぐに高校を辞めた。
その頃には、俺は友人たちと疎遠になっていた。彼らにとって俺はかつての僕と違いすぎた。俺の中でも彼らへの好意が薄れていたので、彼らには俺の言動が我慢できないようだった。
俺は母さんのレシピに従って店のメニューを作ってみた。最初はとても食えた物ではなかった。簡単な物を選んで繰り返し調理の練習をした。多少はましになったが、客に商品として出せる代物ではなかった。
どうやら俺には料理の才能がないようだ。不味く作る才能があると言うべきかもしれない。コーヒーは母さんの味には遠く及ばなかったが、他のメニューに比べればまだましといえた。
この状況で店に客を入れるわけにはいかなかった。俺は毎日1時間以上店の掃除した。そのくらいしか俺にはできることがなかった。
俺は誰ともつながりを持たずに、ただ犯人の出所を待ち続けた。待つことしか出来ない時間を俺はとても長く感じた。あり余る時間で、俺は自分の体を鍛えることにした。
事故の時に、俺は自分の脆弱さをいやになるほど実感した。鍛錬すれば犯人を殺すための手段を増やすことになり、突発的な事態に対応できる能力を身につけることにもなる。
俺は250万ほど払って、海外からトレーニング用の器具と教材を購入した。海兵隊の格闘術を組み込んでいて、本人にやる気があれば素人からでも始められというのが宣伝文句だった。
器具や体に付けたセンサーが、使用者の負荷や疲労状態を検出する。そのデータから最適な負荷と運動量になるように、使用者に対してPCのアプリが指示を出す。検出値による評価が設定されたレベルを超えると、使用者は次のステップに進むことが認められる。
このトレーニングに卒業はない。最終ステップは設定としては存在するものの、監修している海兵隊特殊部隊の元指導者が、自分の全盛期でもクリアするのは不可能だと解説の中でいっている。
その1つ手前のステップでも、習得するには才能と飛び抜けた精神力と十分な時間、目的に合った追加料金も必要だそうだ。
このトレーニング方法を選んだ一番の理由は、使用者の限界を機械が判定してくれることだ。今の俺は痛みを感じないため、無理をしていることに気付かず体を壊す恐れがある。
痛みを感じない病気は実在する。ただし多くの場合は汗をかかないという症状も伴っていて、俺の状態には該当しなかった。
最初は2時間足らずで訓練の中止を指示された。4ヶ月経った頃には、毎日5時間以上の訓練が可能になった。それでも俺は最初のステップからまだ先に進めていなかった。
客観的に言えば、俺はまだ素人に毛が生えたレベルだということだ。まだまだやるべきことはある。俺にはそのための時間がいくらでもあった。
俺の中にある犯人と自分自身への怒りは、俺の存在そのものだった。どれだけ時間が経っても薄れる様子はなかった。だから娯楽など単に自分を楽しませるだけのことで時間を潰すことは出来なかった。
起きて、食事をして、店を掃除して、トレーニングをして、食事をして、トレーニングをして、食事をして、寝る。
1日の予定を全て合わせても8時間ほど時間が余る。そしてその余った時間の使い道が俺にはなかった。
1日で最も時間を費やすトレーニングは、俺にとって楽しい時間ではなかった。ただトレーニング以外のことを考えずに時間が経つのは有り難いことだった。
楽しいと思う気持ちがないわけではなかった。最初は家族への義務感から始めた店の掃除だったが、やがてそれに幾らかの楽しさを感じるようになった。俺はネットや本でその方法を調べ、自分なりの工夫もしていった。
その成果はあって、俺の清掃の技術は家事のレベルを超えて熟練していった。調理器具の手入れについても習熟して、厨房はいつでも使える状態を維持している。
何もせず、ただ過ぎていくのを待つだけの時間は、それと気付かない間に俺の心を疲弊させていた。明確な目的があるのに、自分ではどうしようもない理由でそれを果たせない状況が、俺の中のいらだちを募らせた。
何かをしたかったが、何をすればいいのか分からなかった。トレーニングに別の方法を選んでいたら、俺はオーバーワークで体を壊していただろう。
何か他人の役に立ちたいという気持ちはあった。俺が犯人を殺す理由の1つも、その他人を犯人から守るためだ。
しかし俺はいずれ殺人犯となって自殺することが決まっている。そうなれば俺と関係がある者には不快な思いをさせることになる。その際に世間に広がる悪評が俺の関係者に向かうことも考えられる。
相手にそれ以上のメリットがあると思えないなら、無関係な人間に対して、俺からつながりを持とうとするするべきでない。
ネットのニュースで、隣りの町に不審者が現れたという記事があった。学校の近くに現れ、話を聞こうとした教師を投げ飛ばして逃げたとのことだ。
トレーニングで鍛えた俺の体がもしかすると役に立つかもしれない。そう考えた俺は記事に書かれていた住所を訪れた。不審者の特徴は中肉中背だったので俺が間違えられることはないだろう。
しかし現場近くに着いてから1時間も経たない間に、俺は3回も警官から職質を受けた。事故の際に知り合った警官の名前を出すとすぐに解放されたが、どうして俺が職質されたのかという疑問は残った。
この辺りはそれほど人通りが少ないわけではない。俺自身は軽装で手には何も持っていないから、危険を感じるような格好とは言えないはずだ。
その謎は3人目の警官に尋ねて分かった。怖い顔をした大男がうろついているという通報があったそうだ。
自宅に戻って鏡で自分の顔を見てみた。ずっと見続けていて気付かなかったが、いつの間にか俺の顔は、素の状態で子供が怖がりそうな険しい顔になっていた。