夢中 - 二宮透花
あの部屋であたしの方に駆け寄る足音を聞いた時、あたしにはそれが店長さんだと分かった。でも店長さんはすぐに小延さんを殺さなかった。あたしに声をかけてから、ガスマスクとゴーグルを着けてくれた。
もしかすると、隣りにいるのが小延さんだとまだ気付いてないのかもしれない。あたしは店長さんが小延さんの方へ行かないように、その体にしがみついた。
店長さんはあたしを振り払わずに、逆に抱きしめ返してくれた。あたしの心に温かいものが広がって、その分だけ恐怖が薄れていった。
隣りで小延さんが大きな咳をした。あたしが見上げると、店長さんは小延さんの方を見ていた。また強い恐怖に襲われたあたしは、全力で店長さんを小延さんから離そうとした。
それはあたしに自分の非力さを実感させただけだった。でもその様子を見た店長さんは『今は殺さない』と自分の家族に誓ってくれた。あたしは恐怖と一緒に全身から力が抜けそうになった。
店長さんの指示に従って移動している時、あたしは店長さんを死なせないための方法を必死になって考えていた。店長さんにまだ死ねないと思わせるために、あたしはどうすればいいんだろう。
店長さんは小延さんを殺すことより、あたしを助けることを優先してくれた。でもそれは、あたしがもう安全だと店長さんが思うまで。だからといってあたしがまた危険に飛び込めば、店長さんは今度こそ呆れてあたしを見捨てるだろう。
ビルの屋上に着いた時、店長さんはまずあたしのお父さんに電話をかけた。そしてスマホをあたしに渡すと、あたしから離れずに電話が終わるのを待ってくれた。
電話で話をしたお父さんはあたしを怒らなかった。無事で良かったと優しい声で言ってくれた。でもまだ無事だとは言えなかった。お父さんに申し訳ないという気持ちがこみ上げてきて、あたしは泣いてしまった。
あの悪夢を見たときの恐怖は、今もあたしの中に焼き付いている。すぐに目が覚めたあの時でもあたしの心は深く傷ついた。
あの恐怖に終わりがないとしたら、あたしの心は間違いなく耐えられない。お父さんがこの後で会うのは、心の壊れたあたしかも知れない。
その後の店長さんとの話で、あたしが何を言ったのかはよく覚えていない。パニックに近い状態の中であたしはただ必死だった。自分を人質にして店長さんを止めようとしたことは覚えている。あたしの中の冷静なあたしは、何を言ってもムダだと思っていた。
でもあたしは店長さんとの話を止めなかった。店長さんが死なないと安心できるのは、こうして話を続けている間だけだった。
「その必要はない」
店長さんにそう言われた時、あたしはショックで言葉を出せなくなった。でも店長さんはすぐに言い直した。
「二宮は今の俺にとって一番大切な存在だ」
その言葉と店長さんの優しい目があたしの言葉を止めた。あたしの頭の中でその言葉が何度も繰り返された。
店長さんはあたしとの話が終わると、次に小延さんから話を聞いた。小延さんの話が長く続いている間に、あたしは店長さんの言葉に疑問を感じ始めていた。
『お前は気付いてなくても、もう俺に十分なものを与えてくれた』
店長さんはそう言ってくれたけど、あたしは何をしてあげたんだろう。店長さんがあたしにしてくれたことならいくらでも思いつける。でもその逆は、いくら考えてもあたしには思いつかなかった。
あたしがしたのは料理を作ることぐらいだ。そのことでお客さんが増えたかもしれないけど、それを店長さんが強く望んでいたとは思えない。店長さんはいずれ店をやめるつもりだった。
さっきの店長さんの言葉が、あたしを落ち着かせるためだったと思えてきた。時間が経つにつれて、その考えが正しいと思うようになった。この話が終われば店長さんは結論を出す。そう思うとあたしは小延さんにいつまでも話し続けて欲しかった。
小延さんの話は終わった。店長さんは決断を下そうとしていた。
「俺の中にあるのは憎しみだけじゃない。二宮を幸せにしてやりたいという強い気持ちがある。二宮が俺にはそれができると教えてくれた。俺にしかできないと言ってくれた。そして俺自身も一緒に幸せになりたい」
あたしの望んでいたことを、大きく超えている言葉だった。
「両方は選べない。だから俺は二宮を選ぶ」
店長さんはそう言って、あたしを優しく抱き上げた。
小延さんを殺さないと言ってくれた。
小延さんが誰かと幸せになることまで認めていた。
……めでたしめでたし?
ほんの少し前まで、あたしは最悪の結果を考えて怯えていた。なのに何だろう。この結果はあたしにとってあまりにも都合が良すぎる。
いつからこの世界は、あたしに対してこんなに優しくなったんだろう。店長さんは見たことがないほど優しい顔であたしを見ている。本当にこれは現実なんだろうか?
抱き上げられたあたしがボーっとしていると、いつの間にか安西先輩がすぐそばにいた。あたしの事をとても怒っていた安西先輩に、あたしは夢の中で会いたいとは思っていないはず。だったらこれは現実なんだろうか。
あたしは店長さんに抱かれていることが急に恥ずかしくなって、残念な気持ちはあったけど店長さんに降ろしてもらった。
「湊河さんと出会って、湊河さんを好きになったのが二宮さんでよかった。心から祝福するよ。2人は本当にお似合いだと思う」
安西先輩のその言葉を聞いて、あたしは『ああ、やっぱり』と思った。世界はあたしに優しいままだった。この夢はいつ終わるんだろう。
あたしがそう思った途端にその時はやってきた。
「おい、安西。何か勘違いしてないか? 俺と二宮は、別に恋人とかじゃないぞ」
あたしの夢を終わらせる言葉だった。気が付くとあたしの周りには誰もいなくなっていた。しばらくして、下の暗闇から足音が近づいてきた。現れたのは、明るいとは言えない表情の安西先輩だった。
「二宮さん、その……」
あたしにはその言葉の続きが予想できた。さっきの光景は、神様があたしにくれた最後の幸せな時間だったのかもしれない。
「世の中には、まず相手と結婚できる確率について考える人もいるんだ」
……?
あたしの夢はまだ終わってないようだった。混乱していたあたしには、安西先輩の説明が半分くらいしか分からなかった。話が複雑すぎて、とても自分の夢だとは思えない。それとも、夢だからこそ訳が分からないのだろうか。
その後にあたしは店長さんの姿を見て、その優しい言葉を聞くこともできた。あたしの心は幸せな気持ちで満たされた。
あたしが夢現のままと店長さんと歩いていると、その先に2人の男の人が現れた。その1人にあたしは見覚えがあった。あたしと小延さんをあの部屋に連れて行った背広の人だ。その隣のジャケットを着た人には見覚えがなかった。
「またお会いできましたね。そちらが貴方の大切な方ですか?」
「はい」
現実感のないまま、あたしは背広の人の言葉に素直に答えた。背広の人の表情が少し柔らかくなった。
「あれから調べさせていただきました。あの方の関係者だとは思っていましたが、まさか本当に16歳の娘だとは思いませんでした」
「またあの方ですか? あたしは本当に高校生ですよ」
「先ほどあなた方を助けたのも、同じ学校の生徒さんたちでしたね。少し話を聞かせていただきました。いえ、心配は要りません。刑事のふりをして話を聞いただけです」
背広の人は、前に会った時の冷静な表情を崩していた。
「彼らは実に若者らしい理由で行動していました。自分たちが何をしたのか全く理解していませんでした。お見事だと言わせてください。見事過ぎで少し寒気がしました」
「おい。分かんねえ話はそのくらいにしろ」
少し興奮気味に話す背広の人に、ジャケットの人が言った。一緒にいる人にも意味の分からないことが、あたしに伝わるわけがなかった。でもあたしは気にしなかった。夢と言うのはそんなものだから。
「うちみたいな稼業はナメられたら終わりなんだよ。やられたらやり返さないとな」
ジャケットの人は淡々とした調子でそう言った。背広の人がフォローするように言葉を続けた。
「ですが、それが国のお仕事なら話は別です。我々もこの国の国民ですから。この人にそれを確認させてください」
そう言うと、背広の人はジャケットの人を見た。ジャケットの人は店長さんをじっと見ていた。
「この人は本社の者です。あなた方の素性を確認するために私が案内役を仰せつかりました。……いかかですか?」
最後の質問はジャケットの人に対してだ。あたしは話が分からな過ぎて、逆に何だか楽しくなっていきた。後で夢占いの人に聞いたら、なんて言うんだろう。
「その子供は素人だ。そっちの男も見た目ほどの経験はなさそうだ」
「そうでしょうか?」
その言葉を聞いて、ジャケットの人は意外そうな顔をした。
「……あんたがそう言うなら試してみるか」
店長さんがあたしの前に出た。ジャケットの人の手には、いつの間にか刃物が握られていた。
「なるほど。そっちのお譲さんはこれを見ても反応しないか」
あたしは状況を理解してないだけだけど、何か言うべきなんだろうか。
「驚きました。手品みたいですね」
あたしがそう言うと、ジャケットの人は笑みを浮かべた。そしてあたしたちに向かって歩き出した。刃物は手にぶら下げた状態で、その先は地面を向いている。ほとんど同時に店長さんも動いた。
2人がぶつかりそうになった時、いきなりジャケットの人が転んでそれを店長さんが避けた。ジャケットの人はそのまま動かなくなった。店長さんが背広の人を見ると、背広の人は両手を小さく挙げた。
「私は荒事には不向きなんです。でもこれで十分でしょう。こんなに驚いたのは久しぶりです」
言葉ではそう言っているけど、あたしには背広の人が驚いているようには見えなかった。あたしには分からなかったけど、店長さんが何かしたんだろうか。
こんなシーンを時代劇とかマンガとかで見た気がする。いきなり相手が倒れて、周りの人が勝った方の凄さを説明する。そう思ったら余計に現実感が薄れてきた。この芝居っぽい場面は、あたしの想像力が貧困なせいなんだろうか。
「殺気がなくて、普通ではない相手の動きを予測して対応している。私には軍隊で使われる技のように見えました」
背広の人の解説はまだ続いてた。店長さんは、軍隊じゃなく喫茶店の店長さんなのに。あたしは何を考えてこんな夢を見ているんだろう。
「お手数をおかけしました。今回の件はあまりにも派手でしたから、私の言葉だけでは本社が納得しなかったんです。警察が押収した書類で色々なことに片がつくはずです。もうあの部屋が使われることはないでしょう」
ジャケットの人に近付いた背広の人は、そこにしゃがんで何かをした。すろとジャケットの人が目を覚ました。背広の人は、ジャケットの人が起き上がるのを手伝った。
「本社にはこの人が説明します。もうご迷惑はおかけしないでしょう。あれも返していただきましょう。上着の襟に着けておいたものです」
店長さんはバッグの中を探ると、何か針金のついた金属の部品を取り出した。背広の人はそれを受け取るとジャケットの人と立ち去っていった。
あたしと店長さんはビルの間を抜けて川辺の道に出た。照明は少なくなったけど、代わりに月明かりがあたしたちを照らしていた。見上げた月は怖くなるほどきれいだった。
本当のあたしは、今どこかで眠っているんだろうか。隣にいるのが本物の店長さんなのかを確かめたくて、あたしは店長さんの手を握った。店長さんはあたしを見て、あたしの手を握り返してくれた。
その手から、あたしは店長さんの優しい気持ちが伝わってくるのを感じた。あたしはこの手を本物だと思った。もしこれが夢だとしても、店長さんがあたしの手を握っていることだけは本当だ。
眠っているあたしの手を握ってくれているのかもしれない。あたしの中から力が湧いてきた。幸せにしてもらうだけじゃない。あたしが店長さんを幸せにする。
これが夢なら夢でもいい。夢なら予行演習だと思えばいい。失敗を恐れないで店長さんのためだと思う事をしよう。これが夢じゃなくても、あたしの失敗くらい店長さんなら何とかしてしまうはず。
早くしないと店長さんがあたしを目覚めさせてしまう。夢から覚めたあたしは、また臆病なあたしに戻ってしまうかも知れない。その前にあたしは予行演習を済ませておかないといけない。
店長さんはあたしをどうやって起こすだろう。あたしの名前を呼んでから、抱き起こしてくれるんだろうか。お話の女の子のように愛する人のキスで目覚めたなら、あたしは今の気持ちをずっと失わないと思う。




