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砕身

 まず今の状況を冷静に確認する。目の前にある助手席の背もたれが僕の膝の上に被さっていた。それが後席の座面との間で僕の膝を挟んでいる。

 その助手席の位置に僕は違和感を覚えた。助手席が後ろに移動しただけなら、背もたれは僕の脛に当たるはずだ。僕は車の床が『く』の字に折れ曲がっていることに気付いた。


 脚を引き抜こうとしても、膝の皿とふくらはぎがシートに引っかかって動かない。僕は助手席の背もたれをつかんで渾身の力で押した。だけど席の隙間は広がりそうになかった。脚を横へずらして抜けないかと試してみたが、背もたれと座面との隙間は端の方でさらに狭くなっていた。


 脚を90度回したらどうだろうか。脚を前後ではなく左右で挟まれた状態にすれば、膝の皿が引っ掛からずに抜けるんじゃないか。

 それにはまず体全体を横に向ける必要がある。そう思って体をひねった時に僕の左足首に激痛が走った。僕はその姿勢のまま痛みが治まるまで耐えた。

 我慢ができる程度まで痛みが弱まると、僕は痛みのない右脚から抜いてみることにした。座席が脚を挟む力は前を向いていたときより強くなっている。


「ぐ……ぐ……あああああっ! くそっ!」


 脚は動く気配がなかった。徒労感に耐えて次の方法を考えながら、僕は目の前で気を失っているユキを見た。


 ユキは腰をシートベルトに支えられて、左腕だけが僕の方に垂れていた。運転席は助手席よりかなり前にあって、ユキの脚は挟まれていない。

 ユキを起こせば、僕と同じ不安をユキも味わうことになる。でも父さんと母さんのことを考えたら、これ以上ためらって時間を無駄にはできない。念のため僕が右手でユキの首筋に触れると、指先にしっかりとした脈拍が感じられた。

 僕はユキの肩に手を当てて体を軽くゆすぶった。


「おい、ユキ。起きろ」

「ん……、ぐっ、ギャッ!」


 突然ユキが悲鳴を上げた。その目はこれ以上はないほど見開かれてていた。


「うぐっ……、え、あ? ……痛い、痛い痛い!」


 ユキは叫び始めた。僕には何が起こったのか分かなかった。


「ユキ! どうした!?」

「痛いよ。ああ、痛い! 痛いよ。んんっ……痛いっ!」


 ユキが痛みに苦しんでいる。必死でその痛みを訴えている。でも僕にはその理由が分からない。その体を見回しても傷ついているような場所は見つからない。


「ユキ! 何処が痛いんだ!」


 そう呼びかけてもユキは痛みを訴え続けるだけだ。よく見ると、着ている黒っぽいシャツの脇腹が周囲より黒ずんでいた。シャツの色は濃いオレンジだったはずだが、スマホの青い光に照らされるとそうは見えなかった。

 手のひらでその黒い部分にそっと触れると、ぐっしょりと濡れた感触があった。反射的に戻した僕の手には赤黒い液体が付いていた。手を近付けた僕の鼻は、エアバッグの火薬臭の中でも血の匂いを感じた。自分でも聞こえるほど僕の鼓動は高まった。僕は初めて具体的な死を感じた。


 腹からの出血を止めるには、傷口を直接圧迫すればいいはずだ。確か学校でそう習った。僕はユキのシャツを捲り上げて、出血している場所を確認しようとした。しかし胸の辺りまでむき出しにしても、その肌に傷らしいものは見つからない。その間もユキは身をよじるようにして苦痛を訴え続けている。


 早く手当てをしないとユキが死んでしまう。父さんや母さんの場合と違って、僕はそれをはっきりと理解した。一刻も早く救急車を呼ばなくてはならない。


 僕は今度こそ全力で、自分の脚を自由にするための作業を開始した。




 脱出作業を始めてから僕が自分に失望するまで、数分しか掛からなかった。


 僕がどれほど力を込めてもシートはビクともしなかった。体や脚を思い切りひねったり、狭い空間で反動をつけたり、肘や肩や頭を背もたれに叩きつけてもダメだった。

 全力を出し続けられたのはその数分だけだった。僕の体はもう最初の力を出せなくなっていた。


 このままだとユキは死ぬ。それが分かっているのに、僕は脚を抜くことさえできない。こういうとき人は火事場の馬鹿力を出せるものだと僕は思っていた。座席が動かないなら自分の脚が削れるまで引っぱればいい。何故それができないんだ。

 僕がユキを、死ぬかもしれないみんなを本当に大切に思っているならできるはずだ。できないのは僕の気持ちが本当じゃないからなのか。


 僕は目の前にあるシートの布地に噛みついた。シートの中がどうなっているか分かれば、何か動かすためのヒントが見つかるかもしれない。簡単には破けなかったから、歯を軋らせて布を磨り潰し、頭を振って布を引っ張った。

 何度も繰り返すことで、ついに布の破片を噛み千切ることに成功した。開いた小さな穴に指をねじ込むと、腕を無茶苦茶に振って裂け目を大きくした。


 僕の膝を押さえつけていたのは直径1センチほどの金属の棒だった。棒の左右の端はそれぞれ頑丈そうな金属の枠にはめ込まれている。

 僕の力で押したり引いたりしても、この棒を曲げらないことは分かっている。しかし左右にある枠の間隔を少しでも広げることができたら、棒は枠から抜けるんじゃないだろうか。


 右腕を勢いよく振って肘で金属の枠を叩く。僕はその作業をひたすら繰り返した。繰り返すことで椅子のどこかにダメージが蓄積して、いつかは枠が動くかもしれない。

 僕に期待できることはそれだけだった。諦めることなどできなかった。苦痛を訴え続けるユキの声が僕の体を動かし続けた。




「大丈夫だ……、大丈夫だ……、大丈夫だ……、大丈夫だ……、ユキ……、大丈夫だ……」

「……泣いてるの? 兄ちゃん」


 どれだけ叩き続けたのか分からなくなった頃、ユキがかすかな声で僕に話しかけた。いつの間にかユキは悲鳴を上げるのを止めていた。ユキの言葉を聞いて、僕は自分の口から嗚咽が漏れていたことに気が付いた。


「ユキ……。ユキ!」

「もう、あんまり痛くない。……痛くないよ。……泣かないで。……痛くないから」


 僕はユキの手を握って言った。


「大丈夫だ。もうすぐ助けが来るから。もう少しだけ待ってくれ。僕が――」


 ユキは僕の言葉に答えなかった。ささやくような声で『痛くない、痛くない』とつぶやき続けていた。


 時間が経って麻痺しかけていた僕の心に激しい感情が湧いてきた。僕の声は詰まり、木々のざわめきだけが聞こえる状況になった。

 その静けさの中で、僕の耳にふと車のエンジン音が聞こえた。最初は空耳かと思ったが音は徐々に大きくなっていった。これは間違いなく車が近付いている音だ。


「ほら! 車だ。車が来た。聞こえるか、ユキ!」


 カーブでガードレールが突き破られていれば、通りがかった運転手に間違いなく見つけられる。近くに事故多発注意と書かれた看板もある。電話で通報するために車はすぐに止まるはずだ。

 だけど僕のその期待は裏切られた。エンジン音が止まることはなく、だんだん小さくなっていった。


「何だよ! 何で止まらないんだ?」


 警察へ電話するなら、法律に違反しないよう車は止めるだろう。……いや、まてよ。走りながらでも同乗者がいたら電話はできる。その考えに希望を見つけた僕の耳に、またエンジン音が聞こえてきた。さっきとは明らかに違う大型車のエンジン音だ。


 考えてみれば、少ないけどあの道には車が走っていた。レストランの駐車場を出てから事故に遭うまででも、すれ違った車は軽く10台を超えていた。

 改めてスマホを見ると事故から何十分も経っている。事故の後に現場を通った車は何十台にもなるはずだ。すでに誰かが通報してくれているだろう。


 そう考えた僕はすぐに矛盾に気が付いた。僕の考えが正しいのなら、すでに救急車が来ているはずだ。


 僕の考えが間違っているのか。人間はそんなに薄情なものなのか。この上の道を通った人たちにとって、電話の1本さえ面倒だと思うほど他人の生死は軽いモノなのか。

 父さんなら間違いなく110番か119番に電話をかける。そして車を安全な所に止めてから、落ちた車と乗っている人がどうなったのか確認しに行くはずだ。


 そうだ! 父さんだ。車と一緒に落ちたのならこの近くにいるはずだ。大声で呼べば目を覚ましてくれるかもしれない。


「父さん! いるんだろ! 起きてよ!

 ユキが、ケガしてるんだ。大変なんだよ!

 父さん! 父さん! 父さん! 父さん! 父さん!」


 父さんからの返事はいくら待っても聞こえなかった。


「……誰か! 誰か来て! 誰か! 助けて!

 あああああっ! 誰か! 救急車! 呼んで! 早く!

 何で誰も助けてくれないんだ。死んじゃうんだよ!

 このままじゃ、ダメなんだよ! 誰か!

 わあああああああああああ! ユキ! 死ぬな!

 こんなの……、こんなのウソだ! 何でだよ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ! 抜けろ!

 抜けろ……。

 抜けろ…………。

 抜けてくれ――」


 脚さえ抜ければユキを助けられる。きっと母さんや父さんも助けられる。でも僕の脚はまだ挟まれたままだ。自分の体なのに、どうして僕にはこの足を抜くことができないんだ。僕ができなければみんな死ぬ。少なくともユキは助からないだろう。

 死んでも仕方がないと思ってるから、僕は本当の力を引き出せないのか。こんなに精一杯やったんだから仕方がないと思ってるのか。僕はみんなを見捨てるのか。体を動かすのを止めたのはそういうことなんだな。


「違う! 全然違う!」


 だったら諦めるな。諦めるのはみんなを殺すということだ。体を動かせ。誰かに気付いてもらえるように声を出せ。


「誰かああああああああああああああああああああぁぁ

 ああああああぁぁぁ……

 ぐっ! げふっ!

 くそっ! くそおおおおおおっ!

 わあああああああああああああああっ!

 こんな脚が! くそっ! どうしたら……。

 あっ! ああっ! そうだ! 切ればいいんだ! 脚を!

 切るもの! 何か! ガラス!」


 砕けた窓ガラスの粒が僕の周りに落ちていた。僕はそのガラスをつまむと、膝を抑えている金属棒に沿って、切るように何十回もこすった。


「切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ! 切れろ!」


 でもズボンの布さえ全く切れなかった。指で触ってみても、こすった跡は分からなかった。ガラスにこすられた金属棒がキーキーと鳴っただけだった。

 金属棒の方にはかすかだが傷がついていた。ガラスはナイフで傷つかない。ガラスは鉄より脆いけど硬い。


「知ってる! TVで見た! だから何だ!」


 ハンカチか何かにガラスの粒をまとめて乗せるんだ。それで金属棒を包んで擦ったら、やすりみたいに削れるんじゃないか。


「ホントか? ちょっと待て……。

 これで……擦るぞ!

 ……鳴ってる! キーって鳴ってる!

 キー! キー! キー! キー! キー! キー! キー!

 キー! キー! キー! キー! キー! キー! どうだ!

 ……ほらほらっ! 表面がザラザラになった! よし!

 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ! 削れろ!」


 僕は叫びながら金属棒をこすり続けた。疲れて動かしにくくなると、左右の腕を交代させた。続けているとキーキーという音が小さくなってきた。ガラスの角がすり減ってきたんだろう。

 僕はハンカチのガラス粒を捨てて、別のガラスを拾い集めた。拾っている間は僕も叫ぶのをやめた。僕の耳に、自分の呼吸音と心臓の音が聞こた。


 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッ


 その音に混じって、より小さく、少し違うテンポで別の音が聞こえていた。


 トッ……トッ……トッ……トッ……トッ……トッ……


 これはユキの心臓の音だ。僕はそう思った。これが聞こえている間は僕のやっていることは無駄じゃない。

 ガラスを集め終えると、僕はそれでまた金属棒をこすり始めた。

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