店長さんは行動しながら考える

事故

　山上にあるレストランで食事をした帰りだった。評判を聞いて初めて訪れた店だ。頼んだ料理はうわさ通りの味で、僕たちは満足して帰路についた。

　外食の時に運転をするのは母さんの役目だ。父さんと違って、母さんはお酒があまり好きじゃないからだ。僕たち湊河(みなとがわ)家の４人は、その日も母さんが運転する軽自動車で家に帰るところだった。

　助手席に父さん、運転席の後ろに弟、そして助手席の後ろに僕が座っている。もちろん全員シートベルトは着用している。それを確認してからでないと母さんは車を動かさない。

　僕は身長が１８２センチあって、家族の中では一番背が高い。母さんが車を選んだ時は、広さが十分かを確認するため僕も試乗についていった。そうやって選んだこの車は、僕が後席に座っても足元が狭くない。単に前後に広いだけじゃなく、座面の長さや高さも普通車とそれほど変わらない。

　アルコールが入ると口数が多くなる父さんは、僕が今までに何度も聞いた話をまた繰り返している。僕よりもずっと聞き飽きているはずなのに、母さんはいつも通り機嫌よく父さんの話に合いの手を入れていた。

　話がまだ序盤の時に、弟のユキが父さんに声を掛けた。

「お父さん。その話は３７回目」

　ユキは最近、こうやって父さんが話した回数を言うようになった。

「いつも思うけど、ユキは本当に覚えてるのか？」

「この前より数が増えてるから本当に覚えてるみたいよ。貴弘(たかひろ)」

　ユキの名前は貴幸(たかゆき)だ。名前の一文字目が僕と同じなので、いつもユキと呼んでいる。

　僕は小さい頃、母さんからタカちゃんと呼ばれていた。弟が生まれてからはお兄ちゃんになり、そして高校受験の頃から貴弘と呼ばれるようになった。ついでに言うと、友だちには小学校の頃からサンズイと呼ばれている。

　小学校では僕と同じ学年に湊川という名字の子がいた。僕の名字は『みなとがわ』を漢字に変換しても出てこない。変換されるのは湊川の方だ。その子と区別するために僕は『さんずいのみなとがわ』と呼ばれた。すぐに省略されてサンズイとなった。

「この前は４０を超えてたはずだけど」

「それはお母さんが道を間違えた話だよ。３７回目はガス欠の話」

「……聞き流してると思ってたけど、意外にちゃんと聞いてるんだな、お前」

　父さんの話は母さんが主役になっていることが多い。ほとんどが失敗談なのに、最後には何故か惚気話になってしまう。親のそんな話を聞かされるのは、高校生にもなると別の意味でつらいものがある。

　これもいつも通りだけど、話が終われば父さんは僕に、誰かつき合っている子はいないのかと聞くだろう。隠さなくても答えは否だ。

　すると次に、誰か気になっている子はいないのかと尋ねてくる。僕も健全な高校生だから全くいないわけじゃないが、名前を言えるほど特別な子がいるわけでもない。

　そういう相手を作れるチャンスはあった。中学の時には女子から告白されたこともある。どちらかといえば好意を持っていた相手だったけど、結局僕はその子につき合うと言わなかった。

　僕は一目ぼれをしたことがない。好きなタイプの芸能人を聞かれても答えられない。可愛いと思うことはあっても、好きだと思ったことはないからだ。だから僕が好きになるのは、普段からつき合いのある女の子だ。

　よく知っていて好意を持てるような子なら、僕以外にその子を好きな男がいても不思議じゃない。僕に告白をした子を好きなのは僕の友人だった。告白されるまで僕は彼女もその友人が好きだと思っていた。僕がそう思うくらいに２人は仲が良かった。

　僕にその子とずっとつき合える自信があるなら答えは簡単だ。彼女の気持ちに答えられるのに、それでも友人に譲ろうとするほど僕は傲慢じゃない。

　友人ほど彼女に惹かれていなかった僕は、事情を知らないその友人にまで心配されるほど悩んだ。悩み過ぎたからだろう。数日後にはその子の方から告白をなかったことにしてくれと言われた。

　僕がよく知っていて、しかも一番理想に近い男女関係は両親だ。父さんが母さんを好きになったのも知り合いになってからで、つき合い始めたのはこの人しかいないと確信してからだ。今でもその愛情は深まる一方だと、僕は本人から聞いている。

　僕が気軽に女の子とつき合えないのは、間違いなく両親の影響だ。

　普段は頼りなく見える父さんは、僕よりも僕のことを知っている。小学校の時に僕は友人たちとケンカをした。自分が正しいと思っていた僕はいつまでも謝らなかったから、その全員から無視されるようになった。そのままにしていたら、イジメとしてエスカレートしていったかもしれない。

　しばらくしてケンカをした相手の１人だった志水から、僕に自分のレアカードを盗まれたと言われた。僕は廊下に落ちていたトレカを拾って、誰かが気付くまで自分の机に置いていただけだった。だけど誰も僕の言うことを聞いてくれなかった。

　その日の夕方に志水が親を連れて僕の家に来た。父さんは２人を応接間に通してそこで相手の話を最後まで聞いた。その子が僕のことを酷く言っても父さんは何も言わなかった。その後で父さんは僕に話を聞いた。僕が落し物を拾っただけだというとその子はすぐに嘘だと言った。

　父さんはその子に僕がカバンから盗んだとしたら何時のことかと尋ねた。その子がトレカを最後に見てから無くなったと気付くまでの間、僕はその子のカバンから離れた場所で授業を受けていた。

「だから言ったろ！　僕が――」

「貴弘。この子に盗まれたと言われた時にどう返事したか覚えてるか？　盗まれるような物を持ってくる方が悪い、とか言ったんじゃないか？」

　確かに僕がむきになった時に言いそうなことだった。

「……そうかも知れないけど」

「持ってくる方が悪いのなら盗んだ方は悪くないことになる。言われた方はそう思うんじゃないか？」

「でもトレカを学校に持ってくるのは――」

「持ってくる方が盗んだ方より悪い。そうお前は思うのか？」

　父さんの目は、僕によく考えてから話すように言っていた。

「……ううん。そうは思わない。ごめん志水。勘違いさせるようなことを言って悪かった。でも本当に僕は盗んでないんだ」

　僕の言葉を聞いた志水の親は、僕に謝るよう志水に言った。そして志水は僕に謝った。

　父さんはその前から僕の様子がおかしいことに気付いていた。だから僕がそんな風にみんなから疑われるようになった理由を聞いた。話を聞いた父さんは、友だちだった子の家を一軒ずつ訪ねた。全員じゃなかったけど親も含めて学校で話し合うことになった。

　その前に父さんや母さんとよく話をして、僕はケンカをした時に自分にも悪い点があったことに気付いていた。みんなが集まった場所で、僕は最初に自分の良くなかった言動を謝った。一番大切な人が僕を理解してくれているから、僕は相手の方が悪いという気持ちに拘らなかった。

　その時の僕の態度が公正だったと認められたことで、僕は学校で起こっているイジメの問題にかかわるようになった。６年になると児童会活動でイジメの問題を担当するまでになった。僕はその活動に全力を尽くした。結果に心残りがないわけじゃないが、僕にできる限りのことはした。

　僕にとって家族は自分自身と同じくらい特別なものだ。他の家族も全員がそう思っている。そう僕には断言できる。

　誰かが喜んでいれば自分のことのように喜べる。自分が苦しいときには何も言わなくても気付いてくれる。頼めば惜しみなく力になってくれて、逆なら喜んで力になれる。

　僕にとって家族というのは、そんな掛け替えのない存在だ。

　曲がりくねった山沿いの下り道を走っていると、どこからかタイヤの滑る音が聞こえてきた。時間が経つにつれてその音は大きくなっていった。振り返った僕の目に、見え隠れするヘッドライトの光が映った。

　乱暴な運転をしているドライバーがいるようだ。母さんもそれに気付いたのか、速度を十分に落とすと道の中央を空けて走った。

　僕たちの車は右曲りのカーブに入った。奥の方でカーブがきつくなるから事故の起こりやすい場所だ。そのきつくなったカーブで、僕たちの車は急にヘッドライトの強い光に照らされた。その直後に僕は轟音と共に激しい衝撃を受けた。

「タカちゃん……、ユキちゃん……」

　朦朧とした状態で、僕は絞り出すような声を聞いた。その声は時々途切れながら何度も繰り返されている。

　僕の意識がはっきりしてくると、掠れていてもその声が母さんだと分かった。聞いていて胸がつまるような声だった。

　周りは真っ暗でほとんど何も見えず、鼻には火薬が燃えたようなきつい臭いを感じていた。

「母さん？」

　状況が分からず、僕は問いかけるように母さんを呼んだ。

「……タカちゃん」

　母さんの声は相変わらず掠れていたけど、さっきの悲痛さは感じられなかった。

　僕は何か凹凸のある物の上で横になっていた。手で探ると触り慣れたドアの取っ手が見つかって、僕が寝ていたのは自動車のドアだと分かった。車は僕がいた左側を下にして横倒しになっていた。

　そしてようやく僕は、自分たちの車が事故に巻き込まれたことを思い出した。

「タカ……ちゃん……、だ、じょ……」

　声が小さくてよく聞き取れなかったけど、僕に大丈夫か聞いているようだった。僕は腕や脚を順番に動かしてみて、自分の体に異常がないことを確認した。一番痛みを感じているのは左の足首だが、動かさなければ我慢できる。

　他にも痛む場所は幾つかあったけど、動かすことに支障はなかった。ただし両脚は何かに膝の辺りを挟まれていて、僕が力を入れても全く動かなかった。

「大丈夫だよ。母さんは？」

　さっき聞こえた声の調子では、母さんの体に問題がないとは思えない。僕のことを貴弘ではなく昔のようにタカちゃんと呼んだことも気になっていた。僕の問いかけに母さんは返事をせず、聞こえるのは苦しそうな呼吸音だけだ。

　僕の中で不安がどんどん強くなっていった。僕がもう一度声をかけようとした時、大きく息を吸う音が聞こえた。

「タ……カ……、あ……が――」

　その続きはいくら待っても聞こえなかった。気が付くと呼吸する音も聞こえなくなっていた。

「母さん！？　母さん！」

　何度呼んでも返事はなかった。

　どうしよう。僕はどうすればいい？　……落ち着いて考えろ。そう、まず救急車を呼ばないと。

　僕は自分の体を探ってスマホを見つけ、触れたことで画面が点いたスマホを取り出した。闇に慣れた僕の目にはディスプレイの光が眩しかった。待ち受け画面の青い光が周囲を照らしたので、僕はようやく車内がどうなっているのかを確認することができた。

　僕のすぐ目の前に助手席のヘッドレストがあった。助手席がスライドできる範囲を超えて僕の方へ移動していた。その背もたれと僕が座る後席の座面との間に、僕の両脚は挟まれていた。

　助手席を少しでも前に動かして脚を自由にできないか。そう思って助手席の背もたれに手をかけた時、僕の指がシートと一緒に何かの布をつかんだ。引っ張るとそれは大きな布で、反対側がダッシュボードの隙間に入っている。父さんが座っていた場所をその布が覆っていた。これは開いた後のエアバッグだ。

　ダッシュボードとその先の割れたフロントガラスが、僕のすぐ前まで近づいていた。車体が前から押し潰されて、助手席のドアは取れて無くなっている。ダッシュボードは助手席に押し付けられていて、エアバッグの布の下には人が居られるスペースはない。

　父さんはどこに行ったんだろう。さっきまで座っていた場所に居られるのは、潰れても大丈夫なぬいぐるみぐらいだ。事故の衝撃で開いたドアから外へ放り出されたのかもしれない。僕にはそうとしか考えられない。

「父さん！　父さん！」

　大きな声で呼んだが父さんからの返事はなかった。さっきまでの僕のように気を失っているのだろうか。酔って寝てしまった父さんは、揺さぶって声を掛けたくらいでは目を覚まさない。

　スマホの画面で時刻を確認すると、事故が起こってから３０分以上は経っていた。それなのにまだ救急車が来ていない。僕たちを崖に落とした車のドライバーはどうなったんだろう。電話のできない状態なのか、それとも無事なのにそのまま逃げてしまったのか。

　左手で支えて上体を起こすと、運転席とそこに座っている母さんが見えた。車が倒れて僕たちには横向きの重力がかかっている。母さんも背もたれから上半身が半分ほどはみ出していた。

　頭を僕の方へ向けていて、僕からその横顔がはっきりと見えた。気を失っているものの、その表情から痛みや苦しみは感じなかった。だからといって、僕の心に余裕が生まれたわけじゃない。さっきの母さんの様子を考えたら、すぐ医者に診てもらう必要がある。

　電話をかけるためにスマホに目を戻した僕は、そこで初めて圏外の文字に気が付いた。

　手の届く範囲でスマホの位置を変えてみても圏外の文字は消えなかった。ここはおそらく崖の下で、車の床や天井は電波を通さない。電話をかけるためには車の外に出る必要があるが、僕は脚を座席の間に挟まれていて動けない。

　僕はスマホの自動消灯時間を最長の１０分に変更してから、床に……ではなくドアの上に置いた。そして家族と自分を助けるために脚を抜く作業に取り掛かった。