母親
二宮が1人で会うと言った友だちを除くと、彼女が謝らなければならない最後の相手が母親だ。その母親について最も詳しいだろう二宮良治に話を聞くため、また彼に自宅まで来てもらった。
「二宮の母親は、別の男と再婚したそうだな」
「菜月は事故の後で心を病んでしまいました。私は自分の仕事のことで精いっぱいで、そんな彼女に何もしてやれませんでした」
「あんたらしくないな」
「私と菜月は同じ職場の人間でした。子供ができて辞めましたが、私は彼女を仕事に理解のある強い女性だと思い込んでいました。でも彩花の死によって、私が思っていた以上に彼女は傷ついていました。菜月が自分を支えてくれる相手を見つけたとき、私には何も言えませんでした」
「再婚後に連絡は?」
「年に1回、彩花の命日かその前後の日に会っています」
「命日じゃない年もあるのか?」
俺の言葉に二宮良治は苦笑いを見せた。
「私の仕事の都合です。年に一度の大切な予定すら守れないこともあるんですよ」
「その時は二宮も一緒なのか?」
「いえ。透花とは会っていません。私との話では、透花のことばかり聞きたがるんですがね」
「何があったんだ? 心を病んだと言ってたが」
わずかに躊躇した後、二宮良治は俺に悲しげな口調で言った。
「虐待というやつですよ。透花が頭を打って病院に行った時、体のあちこちに痣があるのが見つかりました。透花は病院でも菜月を慕っている様子だったので、警察に尋ねられた菜月が告白するまで、誰も彼女が犯人だとは思いませんでした」
「透花に会わないのは、その時の罪悪感のためか?」
「そうなのだと思います」
そういうことなら、まず最初の問題はどうやって母親を二宮と会う気にさせるかだな。
「二宮が母親に会いたがっていることを知っていたのか?」
「私に気遣ったのか、透花は私にそういう話はしませんでした」
「だったら、母親に二宮と会うことを勧めたことはなかったのか?」
「透花は去年、はっきりとは言いませんでしたが母親に会いたいという素振りを見せたことがありました。その時に私は菜月に透花と会う気が無いか聞いてみましたが、期待した答えはありませんでした」
そういうことなら、ここは他人である俺が役に立てそうだ。
「仕方がない。たとえ強引にでも2人を合わせよう。ちょっとした小芝居をすることになるが、あんたから母親を呼び出してくれないか」
「……分かりました。湊河さんにお任せしましょう。もし失敗したらその時のフォローには私も口を出させてもらいます」
「あんたのフォローなら失敗する前から頼みたいな」
「それでどのような理由で呼び出せばよいのでしょうか?」
「娘がたちの悪い男と付き合っている。あんたが止めようとしても意固地になるだけだから、同じ女の立場から説得してくれないか。そういう筋書きにしよう」
「そのたちが悪い男というのは湊河さんのことですか?」
「俺だと二宮の相手としては不自然かな? 二宮の先輩で安西ってやつがいるんだが、そいつにでも頼んでみるか」
「いえ。たちが悪い男は湊河さんでいきましょう。適役です。ああ、悪い意味ではありませんよ」
「……まあいいか。都合がついたら連絡してくれ」
母親とは自宅のリビングで会うことになった。正確に言えば、俺と二宮が一緒にいるところに母親を連れてきてもらう。役割にふさわしい格好をすべきじゃないかと二宮良治に言ったが、普段の格好で十分だと言われた。彼に嫌われていないと思っていた俺は、そのことに少し自信がなくなった。
玄関の鍵は開けたままにしておく。チャイムを鳴らさず、いきなり中に入ってくればいいと伝えてある。二宮に母親の愛情を感じさせるため、できるだけ母親に娘のことを心配させて、その気持ちが態度で娘に伝わるようにしたい。
二宮には、母親のことを相談するとだけ言って、その母親が来ることは伝えていない。つまりここで俺が二宮に何かをすれば、二宮はそれを演技だとは思わないはずだ。母親を心配させるためには、二宮が俺の行動に対して困っている様子を見せたい。
そういう素振りをさせるために、二宮に何をすればいいだろうか。二宮の反応を見ながら試してみよう。
俺と二宮は、小ぶりなテーブルを挟んで向かい合って座っている。テーブルの上に置いたタブレットには、二宮に持ってきてもらった家族の写真が映っている。写真には当時の母親の姿も写っているが、ずいぶん若く見える母親だ。二宮から30を過ぎていると聞いて俺は驚いた。
まず何も言わずに、タブレットを操作している二宮の手をいきなり握ってみる。
「どうしました?」
「小さな手だな」
「店長さんの手が大きいんですよ」
これではダメなようだ。俺は立ち上がると、二宮が座っているソファーのすぐ隣に座った。すると二宮はTVのリモコンを取って俺に渡した。どうやら俺がTVを見るために、それを見やすい場所に移動したと思ったようだ。
俺は渡されたリモコンでTVの電源を入れ、次々にチャンネルを変えていった。もしかすると、家族で見ていると雰囲気が微妙になるような、そんなシーンが映るかもしれない。
残念ながら午前中の番組では、そのようなシーンは期待できそうになかった。
次に俺は、二宮と体が触れるところまで座る位置を横にずらした。すると二宮は場所を開けようとして、ソファーの端まで移動した。それ以上移動できない二宮に、俺はまた体が触れるところまで体を寄せた。明らかに不自然な行為だ。
二宮が俺の方をじっと見ていることは視界の端で分かったが、俺はTVから視線を外さなかった。そのまましばらく沈黙が続いた。先に声を上げたのは二宮だった。
「あの。……ユキさんはこんなとき、どうしたんでしょうか?」
何故ここでユキの話が出るんだ?
「……どうって?」
「ソファーの取り合いですよね。彩花も十分並んで座れるのに、よくこんな風にあたしを押してきて」
「あ、……ああ、そうだな」
どうやら家族とのスキンシップを俺が求めていると思われたらしい。そういえばユキとも、そんな他愛ないことしたことがあった。仕掛けてくるのは大抵ユキの方だったが、ケンカしてユキが口を利かなくなったときには、オレから仕掛けたこともあった。
「そうだな、確か……、最初は俺を押し返そうとしたな。俺がそれを無視していると、今度は俺の膝の上に座ってきて、俺にTVを見せないようにじゃまをした」
それを聞いた二宮は、気まずそうな表情になって俺から目を逸らした。小学生ならともかく異性の高校生を相手にして、ソファーの取り合いをしたがるのは普通とはいえない。
もしかするとユキにかこつけたセクハラだと認定されたのかもしれない。いずれにせよ、二宮を不安にさせるという目的は果たせたようだ。
その時、二宮がソファーから立ち上がった。そしてテーブルを横に移動させると、彼女は俺の視界からTVを遮るように、そして自分はTVの方を向いて立った。これは彼女が俺の童心(?)につきあってくれたということだろうか。
二宮は振り返って俺を見た。そして俺の膝の上に腰を下ろした。
「おいっ!?」
俺が焦って立ち上がったため、二宮はバランスを崩して床に倒れた。今のは完全に予想外だった。仰向けに転がった二宮は、肘をついて体を起こそうとしながら少し恥ずかしそうに言った。
「びっくりしました。ユキさんとの遊びは今ので終わりなんですか?」
「……いや、俺も驚いた。小学生だったユキならともかく、二宮が俺の膝に座るとは思ってなかった」
それを聞いた二宮の顔は、頬を赤らめた状態から真っ赤に変わった。両手で顔を覆うと、仰向けに床の上へ倒れ込んだ。
「やだ。あたし……、そんなつもりじゃ――」
俺は苦笑しながら二宮の横に膝をつき、彼女を助け起こそうと手を伸ばした。その時、俺の後ろで物音がした。
「何をしてるの!」
突然、女性の怒号が部屋に響いた。俺が振り返ると、30前に見える女性が怒りに燃えた顔で俺をにらんでいた。ツカツカと俺に近づくと、両手で俺の右腕をつかんで思い切り引っ張った。
「離れなさい! 透花から離れなさい!」
その女性の力に抵抗するのは簡単だったが、その懸命な様に気の毒になった俺は、大人しく彼女が引く方向へ移動した。女性は俺の腕を離すと、二宮のところへ小走りに駆け寄った。
「透花! 大丈夫!?」
この女性は写真で見た二宮の母親だ。とっくに40を超えているはずなのだが、全くそうは見えない。間違いなくさっきのシーンを誤解している。しかしこの反応は俺が期待していたところだ。このまま予定通りにシナリオを進めることにする。
「誰だ、お前は?」
「この子の母親です」
「……ママ?」
二宮が戸惑った表情で母親を見た。
「こいつに母親はいないぞ。まさか、10年以上も娘の前に姿を見せなかった女のことじゃないよな?」
俺の暴言に、怒りに満ちていた彼女の表情が陰った。
「まだ小さい娘を放り出して他の男とくっついた女を、母親なんて言わないよな?」
さらに追い打ちをかけると、彼女の目からさらに力が失われた。肝心の二宮の方は突然出会った母親にまだ戸惑っているようだ。
この小芝居の狙いは、俺が悪役を演じて二宮と母親を互いにかばい合わせることだ。二宮には彼女が母親だとはっきり理解してもらう必要がある。
「二宮。この人に見覚えがあるか? 無いよな。幼稚園の時に会ったきりだからな」
「ママ? え? どうしてここに……」
「ママじゃない。ママだった人だ。勘違いするなよ、二宮」
「やっぱり。あたし……、ママに謝りたくて、あたしのせいで――」
よし。これで完全に認識したな。
「二宮。謝るな。その必要はないぞ。お前はその人に虐待されていたんだ。痣がいくつもできるぐらいにな」
「違うの、店長さん。ママのせいじゃないの。あたしがママを怒らせたから――」
「怒ったら殴るのか? 自分の子供だぞ。まだ4歳だぞ。殴っていいわけがないだろ」
「あたしがそうして欲しかったの。あたしが悪い子だったから。彩花を死なせて、ママを悲しませて」
「……透花」
これで二宮の母親に、二宮が母親を恨んでいないことが伝わったはずだ。
「二宮の元ママ。あんたが捨てた娘はこう言ってるぞ。本当に仕方なくやったのか?」
「……私は……、この子に腹を立てて――」
「ママが怒ったのは、あたしがご――」
二宮が声を詰まらせた。
「ご? 何だ『ご』って?」
「あたしが……、謝ってばかりいたから」
二宮が『こめんなさい』と言わないのは、言いたくないからではなく、言葉を口に出すこともできないからだったのか。母親の罪悪感を煽るために、そのことを二宮に問いただす。
「言えないのか? 二宮。『ごめんなさい』という言葉を口から出せないんだな。どうしてそうなったんだ? 元ママ。あんたには分かるのか?」
「……」
「あたしがその言葉しか言わなくなったから、ママは怒ったの。ママはあたしに優しくしたかったのに、あたしが謝ってばかりだったから、ママはあたしに優しくできなかった」
「そうか。お前が悪いのか。じゃあ、どうすれば良かったんだ?」
「ママに甘えれば良かった。そうしたらママも優しい気持ちになれたのに。あたしにはできなかった」
二宮の思いはこれで十分母親に伝わっただろう。次は母親の気持ちを確認したい。
「元ママ。あんたはどう思うんだ。本人と一緒に4歳だった娘のしたことを責めるのか?」
「……私は、あんなに小さかった――」
彼女はうまく自分の気持ちを言葉にできないようだ。これまでに加害者家族や父親と十分に会話したことで、二宮は自分の考えを再確認してきた。その彼女のようにはいかないか。
「透花のママ。あんたはどうしたいんだ? 透花はあんたが父親の連れ合いじゃなくなっても、自分にとってはママでいて欲しいんだ。それでもあんたは、また透花を捨てるのか?」
「……いいの? 私が――」
「はっきりしろ! あんたがいらないと言うならこいつは俺が貰う。もうあんたには会わせない」
俺はそう言いながら二宮に近づき、腕をつかんで引きずる素振りを見せた。二宮の母親は、そうさせまいと二宮の体にしがみついた。
「それがあんたの本当の気持ちなんだな?」
彼女は何度もうなずいた。俺が手を放すと、二宮も母親の体を抱きしめ返した。
もう心配する必要はないだろう。
俺が居間から出ようとした時、二宮の父親が俺に声をかけた。
「貴方は、もっと丁寧に事を進めるタイプだと思っていました」
「失望させたのなら悪かったな」
「いえ、むしろ反対ですね。上手くいくと分かっていたとしても、私にはできない方法です」
そう言うと、二宮良治は笑顔と共に胸の前でこぶしを握った。そのこぶしに自分のこぶしを当てた俺は、階段を降りて店へと続く廊下を進んだ。
二宮たちを家族だけにしたいという気持ちはあった。それと同時に、2人を見ていて俺の胸にわきあがった気持ちもあった。廊下の端から店内を見た俺は、いつもそこにいた母さんの後ろ姿を思い出すことができた。