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よろよろと、走っている。
今にも足をつまづかせてすっ転びそうな程に危うい足取りで、一歩一歩をやや早めに踏み出す。男は完全に疲れ切り、走りとはとても言い難い、早歩きの速度になっていた。
一歩一歩を前に出し、踏みしめてはまた一歩。疲れ切ってはいたが、まるで足に怪我でもしたような、痛みの念さえ感じるその様子は、最早絶望とは何かを語っていた。
実際、怪我をしている訳だが。
両足には'点々と'痣が出来ており、その姿はアレルギー症状か何かを思わせるような酷さと不自然さ。それはまるでーーーーー、
虫に喰われる、葉の如く。
男を喰い走っていくように、点々とした痣は数を増して男にまた痛みという皮肉なプレゼントを与えていった。
どこまでも続く木々、木々、木々。男は、時たま足の速度を緩めては足元の茂みをかき分けて進んでいった。
男がいるのは森の中。広く生い茂る森の木々はまるで男を嘲笑うかのようにザワザワと音を立てて揺れる。男にはこの音が、一々疑わなければならない対象でしか無かった。
男は、周りを伺いながら森の中をひたすら走っていた。
周りを伺いながら走らなければならないのも必然、男は森の中を走ってはいるけれども、迷走している訳でも探し物をしている訳でも無い。
逃げているからだ。
ある少年から、逃げているからだ。
懸命に動かしていた二足を止め、ふと後ろを伺い、追われていることの確認を取る。敵はーーーー、追いはしているだろうが、視界に入る程には接近してはいなかった。
撒いた、のか・・・?
やはり自分の立場上、念入りに確認しながら逃走劇を続けなければならない。といっても、既に追跡者側に男の顔は視認されている為、結局はずっと追われる身なのだろう。
だが、別にいい。
今逃げ切れれば、時間はある。
男が現在の逃走劇成功ルートを仮定してその後の人生を計画している、まさにその刹那。
まるでヒーローが悪役を倒すお約束タイム、つまり見計らったような、そんなタイミングだった。
「よォ久しいな兄弟、調子はどうだァ?」
「ーーーーーーーッ!!!??」
男に、虫が身体内部の真髄部分にまで侵食したかのような、気色の悪い直感と悍ましさが襲った。
それと全く同時に、恐怖の念が腹の底から一気に込み上がって来る。全身から身体に粘り付く程に油ぎったような気持ちの悪い嫌な汗が全身からどっと吹き出し、男はその場で固まるという単純行為しか出来ずにいた。
男は既に、その一言だけで自分の運命が全て決定されたようなものだった。
虫が葉を喰らうが如く。
葉が虫に喰われるが如く。
男の身に、一世一代の賭けの時が迫っていた。
ーーーーここで、死ぬ訳にはいかないですから。
男は立ち上がり、茂みの外を確認する。その身長は、男が16という年齢にも関わらず、立ち上がっても50〜60センチ程度の茂みから身体の半分少し程度しか出せないという、小学生以下の身長だった。
「・・・やはり・・・、私を捕らえる為、そうしてしつこく付き纏う訳ですか?」
茂みの向こう側、そこにはいた。
先程までいなかった筈の、彼が。
2丁のハンドガンを持った、逃走中に視界にすら入っていなかった少年が、そこには立っていた。
黒髪長髪のオールバック、身長は160センチ程、髑髏と読めないようなローマ字が特徴の黒いジャケットに、下はダメージ多めのジーパン。そしてチャームポイント(?)とも言うべき極悪オーラ全開の目付きは、紫の瞳である彼をより一層ワル男に見せていた。
男から質問された目付きの悪い少年は、ただ鼻で男を笑って見せた。
「はッ、今更答えの分かりきった質問してどーすんだ?」
そして少年は、ただただ冷たい笑みだけを浮かべ、返答した。
「本部連れてって、こっちが知りてえこと全部話すようになる程痛めつけてやるまでだっつーの。だから答えはイエスに決まってんだろ、どこまでアホなんだよお前」
「・・・成る程」
やはり、同じ返答しかして来なかった。
実はこの逃走劇の一連の流れを、1時間前から3回ぐらい続けている。当然、逃走ルートを考える余裕を持たせる為の質問な訳で、実際に逃走している側の男にとってその質問の内容及び返答はどうでも良い情報であるが為に頭に入る訳が無いのだった。故に、男には益のある行動パターンでも、少年にとっては何回も同じことを聞いてくる話を聞かないヤツという認識がされており、少年はかなり苛々していた。
「さァて?じゃあさっさと諦めてもらおうかねェ?」
「・・・」
男は考える。今自分の持っている選択権は三つ。
一つ目はまた逃走劇を再開し、少年が見逃してくれるのをひたすら待つ。二つ目は正々堂々と立ち向かい、実力によって撃退する。男には少年を撃退出来るだけの実力は無くは無いが、あくまでも戦闘系のそれじゃない。戦ったところでやられることくらいは頭を捻って考えなくともよく分かる。
そして三つ目だが。
今所持している切り札で現状を脱出することだ。
少年は、言葉を続ける。
「お前がしたことってのはなァ、国際テロとほぼ変わらない程ヤベェもんだって分かるだろ?お前が譲り渡した神器"魔王媒体の契約書”のありかを説明すりゃ追っ掛けはしねェっつの。コソコソお前達が闇取引してたブツは、実は犯罪グッズなんだよなァ。おっと知らなかったとは言わせねェぞ」
ーーーーーマズい。
男の数時間前にしていたトレードが、完全に少年にバレてしまっていた。
「お前がちょっと前にコソコソやってた闇取引ってのは、"魔王媒体の契約書”と金、お前が取引相手に"魔王媒体の契約書”を渡し、取引相手からその分の金を貰った訳だよな?」
少年は話を続ける。
「だァがしかし?相手から受け取ったのは紙切れだった。つまり、小切手でなければ金を支払えない程の多額って訳だ。停戦同盟軍で遠目からものを見る能力を持ってるヤツがいるが、ソイツ曰く、どうやらゼロの桁がとんでもねェ数だったそうな?」
そして、真実を突き止める探偵の如く、止めのように言い放った。
「軍事資金規模の金を持ったヤツをどうとも気に留めねェヤツの方がどうかしてるんじゃねェかよ」
さらにもう一つ、と少年は付け加える。
「神器"魔王媒体の契約書”なんて物騒なモンを絶対に世間にばら撒く訳にはいかんしなァ?」
少年は、両手に持っていたハンドガンを再び男へと向ける。男から見えた銃口は、森羅万象を飲み込んでしまうようなブラックホールのように感じる。
この時に、男は決めた。
神器の発動を選択した。
「・・・あまり自分の手の内を曝け出すのは趣味では無いのですがね」
男はそう呟き、首からぶら下げていたものを取り出し、だらりとその手から下げる。
人の子供のような形をした赤色の人形がチェーンからぶら下がっており、目と思われる部分には穴が、口の部分には舌の形のワッペンがある。かなり古いものと思われ、フェルトで出来たその人形はかなり黒ずんでいた。
男はこの少々不気味な人形を取り出し、一繋ぎになっているチェーンとその人形を宙に投げてから愉快そうな笑みを浮かべた。
目元の暗い、沈んだような表情。
「神器発動、”抗力逃走”!!!!」
「・・・かかってくるかァッッッ!!!!」
男が叫んだと同時に、まるでそう唱えるのを予想していたかのように、少年は構えた両銃のトリガーを二回引いた。一回目で弾が装填され、二回目に銃口から勢い良く発射される。
弾丸は綺麗に弾道を描き、吸い込まれるように男の元へと直進する。
男の方もまた、宙に投げた人形が禍々しいオーラを放ち始め、そのオーラは少年の弾丸の速度を超える勢いで強まる。
刹那。
少年の弾丸がそこへ疾風の如く辿り着くことなく、弾丸がそのまま直進し、向こう側の木へと衝突した。
「!?」
一瞬先程までそこにいた筈の男が、綺麗サッパリいなくなっていた。少年はそれに対しての驚愕の表情を隠せず、ただ木に当たって失速して落ちた弾丸をぼうと見つめていた。
いなく、なった・・・?
暫く意識が無かったかのように、少年は我にかえる。
「・・・クッソが!!!逃したッ!」
少年は側にあった木を力の限りで八つ当たり、蹴りを入れる。その足には反動の痛みと悔しさが残っていた。
今まで存在感を無くしたように、相手を追い詰めていたのに。
相手もまた、存在感が無くなったように逃げていった。
少年は、自分が馬鹿にされているようで悔しかった。
「畜生が」
そう呟いて、姿勢悪く停戦同盟軍本部へと帰っていった。
翌日、俺は確かにいつも通り学校へ登校した筈だ。
俺は確かにいつも通り教室へ入っていった筈だ。
俺は確かにいつも通り、鈴と会ってどうでも良いような話をきかされたに違いねェ。それが、俺にとっての普段。
普段は変わることはない。だから普段がある。
だが、これは一体どういうことだ?
なんでここが、病室なんだよ。
普段が壊れた瞬間だった。