まるで、悪夢のようなこの現実を
パァン、と乾いた銃声が響き、建物に不規則に響いて消えていった。だがそれを悠長に聞き届けている余裕のある者はいない。
標的に定めた狙いが当たったことだけを辛うじて確かめ、撃った本人は素早く物陰に隠れた。コンクリートのジャングルとも言えるような街並みは、身を隠す場所だけはたくさんあることが救いだった。
「……やった?」
「一応な」
間近だが声を潜めて投げられた問いかけに、銃口を真上に向けた少年は視線もくれずに返事をした。相手も相手で別の方向を警戒しているはずだ、お互いに顔を突き合わせることはしない。
「ま、当面の波はやり過ごしたってところじゃない? ……出来ればこのまま終わって欲しいところだけどね」
「無理だろそれは。……くそ、携帯も圏外か」
「アーキスって意外と根強く替えないよね、さっさとスマホにしちゃえば良かったのに」
「だったら繋がるのかよお前は」
「残念ながら根本的に通信手段がやられてるみたいです。僕も無理」
「わかってて茶化しただろ」
「ほらずっと緊張しっぱなしっていうのも良くないから?」
からりと笑ってかわす少年の口調は軽い。だが軽口を叩き合っているように聞こえて、その周囲の緊張感は欠片も薄れていなかった。
「せめて連絡さえ取れたら良かったんだけどな……」
「フロイテ、左。来るぞ」
アーキスと呼んだ少年に呼ばれ、フロイテは一気に気を張りつめた。アーキスがその手の黒光りする銃を構え直すのを視界の端に眺めながら、フロイテは右手に剣を構えた。
「アーキス、逸って弾切れなんか起こさないでよ。僕がアーキスまで守って戦わなきゃいけなくなる」
「そんな馬鹿やるかよ、残弾くらい把握してる。お前こそ突っ込んで行き過ぎだ、どれだけ俺が援護したと思ってんだよ、リーチが短いなら短いなりに頭使って戦え」
「それを言ったら銃なんていつも残弾と装填を気にしながらじゃないか。僕は単純明快に前衛がいい、ねっ」
「あっ、待て!」
待てと言って聞く仲間ではない、ということはよく知っている。温厚そうな言動と裏腹に、フロイテは一度熱が入ると後先考えないところがある。無茶をしようと飛び込みに行く、その抑え役は決まってアーキスだった。
他がいないからって適性がある訳でもない役目を押しつけられる身にもなれ、と一度声を大にして言いたい。
後方に危険がないことを確認しながら飛び出していったアーキスの背を追った。
鮮やかな剣技で相対しているのは―――呻くようにゆらりゆらりと手を伸ばす、形だけはひとと近く見える異形。暗色の体表と水に浸かって膨れたような手足、ひととはまるで異なる顔のパーツが辛うじて表情を思わせる配置で並んでいる。
フロイテの剣が閃く度、急所を確実に捕らえたその攻撃で異形は倒れ、砂か霧のように崩れて消えた。
フロイテの頭上に振りかぶった一体を、アーキスが撃った一発で捉えた。多少降り掛かった異形の残骸を鬱陶しそうにしたフロイテが残党を軽やかに排除する。
表情がないことが逆に不気味さを増しているその異形は素早さがないことが救いだったが、確実にひとの気配を察知してやってくる。
纖滅することは武器さえあれば難しいことではなかったが、どこからともなく次々と湧いてくるのが厄介な相手だった。
何より―――
うわあああっ、と遠くない場所から悲鳴が上がる。ばっと振り返った二人は合図もなしに駆け出した。
角を曲がった向こうで数人が転がるように逃げ惑っていた。やはり同じような異形に襲われて。
ちっ、と舌打ちをしたアーキスは銃口を向けて狙いを定め、フロイテは剣を構えて走った。今は逃げ切ったひとを背後に庇うくらいしかできない。
アーキスの銃弾が捉えきれなかった異形をフロイテが斬り捨てる。そして、一番逃げ遅れていたひとが異形に襲われる瞬間に―――間に合わなかった。
ぶわりと膨らんだ異形の黒い肌が逃げ切ろうとしていた男性を捕らえて無造作に引き込んだ。絶望に染まった男性の口から上がる悲鳴が尾を引く。
異形が迫るのと同じような速さでひとが取り込まれていく。こうなってしまっては為す術がないことをアーキスもフロイテも、もう何度も目の当たりにしてきた。
「た、助け……」
それだけの言葉を残した男性の姿が完全に隠れてしまうと、異形はひと一人を取り込んだにも関わらず元の大きさを取り戻す。
「……ごめんなさい」
のろのろと、しかし確実に迫り来る異形に向かってフロイテが剣を構えた瞬間、パンともう聞き慣れた音が駆け抜けた。
目の前で異形が倒れて行く。
振り返った先では、疑問に思う余地もなくアーキスが銃口を異形のいた場所へ向けていた。
「お前が責任を感じるようなことじゃないんだ。ちょっと戦えるだけの俺たちが何でも完璧に救える訳がない。お前が何もかもを背負おうとするな」
「……強いね、アーキスは」
何度こんな場面に出くわしても同じ事を考えてしまうフロイテを、アーキスは決まって同じような言葉で諫める。
アーキスが目の前で喰われてしまったひとのことを何も感じていない訳ではない、とフロイテは思っていた。ただ、どうしようもないことを必要以上に気負わないように一線をしっかりと引いているのだろうと。感情に揺れてその一線が曖昧になりやすいフロイテに意図して厳しい言葉を投げているだけなのだろうとも思う。
アーキスは不器用に優しい。逃げ惑っていたひとたちへ、周りを警戒しながら無愛想に言葉を掛けているのもその一端だ。
気持ちの整理は後回しにするしかない。何とかここで出くわしたひとたちをどこかへ誘導しなくては。
「……キス、フロイテ!」
耳に届いた少女の声に二人は確実に声のした方を振り返った。確かに知った声だった。
「ハルヴィア! ハルヴィアだな!?」
「良かった、会えなかったらどうしようかと思ってたの」
「怪我はない?」
「二人がしてるくらいの怪我を除いたら、ほとんど無傷みたいなものね」
「それは何より」
「それより、このひとたちも民間人よね? こっちにシェルターがあるわ、このあたりのひとはみんなそこに」
「……アーキス、いいね?」
「いいかも何もそれしかないだろ。ハルヴィア、案内しろ」
「はい」
ハルヴィアの案内で手近だった建物に連れ立って立ち入る。地下に避難して来た様子のひとが大勢いる中に助けたひとたちを送り、三人はすぐにその場を離れた。
ひとまずは建物の外から目につかない限りあの異形に襲われることもないだろう。張りつめた中に一息をついた。
「……ハルヴィア、ナールは? 一緒じゃなかったの?」
フロイテがハルヴィアに向けてそっと尋ねた。本当はもっと早く尋ねたかった、しかし状況と―――嫌な予感が現実になりそうな不安から今まで問いかけられなかった。
ハルヴィアの肩が目に見えてびくりとしたことを、フロイテもアーキスも見逃さなかった。
少し迷ったように視線を逃がしていたハルヴィアは、覚悟を決めたのか胸元から丁寧に何かを取り出した。
両手の平の上に載った、傷だらけのブレスレット。
それを見た二人が、取り分けフロイテがはっと息を呑んだ。見覚えのありすぎる、そしてハルヴィアの言わんとしていることが十分すぎるほどにわかってしまう。
「ナール、の……」
「……あいつらに襲われたひとを、助けるって言って、それで……」
ハルヴィアの言葉は最後まで声にならなかった。
無理よ、と経験に則って考えたハルヴィアに、仲間のナールという少女はそんな状況でも輝くような笑顔で言ったのだ。
無理だなんて決めつけてたら、あたしたちは最初から誰も治せてなんていないのよ。
結果としてナールはこの場所で顔を合わせることができなくなった。
「……フロイテ、持っていて」
「でも、これは」
「ナールのものだから、よ。……後でみんなでちゃんとお別れしましょう」
ハルヴィアはブレスレットをフロイテの手の中に包み込ませた。一瞬戸惑ったらしいフロイテは手の中を見下ろし、ぎゅっと胸に抱くようにして握りしめた。
本当ならしばらくそのままにさせてやりたい。だが今は状況がそれを許してはくれなかった。
「フロイテ、ハルヴィア。何とか他と連絡しないとここもそう保たない。通信と食糧と移動。出られるか?」
「私は今すぐ行けます。消耗もしていません」
「武器は?」
「ナイフがいくつかと手榴弾、それに閃光弾があるくらいね。二人みたいに役には立てないと思う」
「十分だよ。僕たちだって逃げ隠れしながらが精一杯だった」
「そりゃそうだ」
それであの街並みの中をアーキスとフロイテの二人を探しにやってきたのだから、武器を所持しているにしても大した女だと言わざるを得ない。少なくとも、二人とも口に出して言うことはないが怯えて泣き出す女よりよほど安心できる。
「……移動しなきゃいけないにしても、これからどうする?」
「まずは近場のシェルターじゃないか? もっと高度な設備のある所ならまた状況も違うはずだ。場合によっては全員移動しなきゃならない」
「まずは僕たちで様子見だね」
「そういうことだ。行くぞ」
号令に続いて見た目は無造作に建物から街中へと抜け出す。例の異形はそれこそ掃いて捨てるほど徘徊しているだろう。警戒さえ怠らなければ遅れを取ることはない。
物陰から前方を伺いながら、滑るように人けのないアスファルトをじりじりと進む。場所は三人がよく知っている先なので迷うことはない。
すっと三人が息を潜めた。呼吸を整えると同時に姿勢を低くする。
アーキスが二人に目配せをしようとしたとほぼ同時にフロイテがばっと身を踊らせた。残像を認識したと思った時には背中が遠くなっている。
アーキスは諫める語調で叫んだ。
「フロイテ!」
「先制一本! 待ってたって消耗するだけだ!」
低く構えた剣を逆袈裟に切り上げ、返す刀で別の異形を斬り捨てる。危なげはない身のこなしだが飛び出し方は心臓に悪いことこの上ない。
「ハルヴィア、後方は抜かるなよ!」
任せてという返事を聞きながらアーキスもまた物陰から身を乗り出した。基本的な戦い方は変わらない。
フロイテという前衛はどちらかといえば中距離型のアーキスにとっては頼れる味方だ。しかし同時にフロイテを確実に避けて射撃をする必要がある。自由に動き回るフロイテの援護はなかなかに至難の技ではあった。
フロイテの腕は確かだと確信がある。だからアーキスはフロイテの手の届かない場所の異形か、あるいはフロイテの剣をすり抜けて襲いかかろうとしたものだけに集中すれば良かった。視線をあちこちに向かわせながら最後の的へ銃口を向けた。
結局それは向けただけで、身軽に距離を詰めたフロイテが鮮やかに剣を閃かせた。
残党がないことを数秒気配で探る。
「ありがとう。お疲れ、アーキス」
「お前は毎回そうやって特攻する癖を直せ。いくら相手がああでも段取りってものが……」
アーキス、と悲鳴のような金切り声が聞こえた。ハルヴィアのものだ、と思考が判断したと同時に、
ふっと差していた光が陰った。
見上げた途端に何か黒いとしかわからないものが膨れ上がった。どっと押し潰され倒れ伏したのはその直後だ。
「アーキス!?」
フロイテの声が聞こえた。身動きが取れない。肌にまとわりついて離れない、冷たいのか生温かいのかぬるりとしているのか硬質なのか。
その隙間へ這い出るように光を手で掻いた。辛うじてフロイテとハルヴィアが見える。それでもなおどこかへ向かって引き戻されるような力に抗いながら。
ハルヴィアが泣き叫びながらこちらへ手を伸ばすのを、フロイテが泣き出したいのか怒り出しそうなのかわからない表情で剣を構えているのを見た。
そうか俺は異形に襲われて取り込まれそうでもう助からない。
「フロイテ……! ハルヴィア、フロイテ!!」
うわああっ、と自分のものではないような声が聞こえた。どれだけ死線をくぐっても何とか平静でいられた心が何もかもをかなぐり捨てて命乞いの言葉しか出て来ない。
ああなったら何も出来ないと努めて冷徹に斬って捨てた自分の声がどこからか聞こえる。まるで今の自分をあざ笑うかのように。
死にたくない。
体の感覚もなくなってしまった中で必死に手を伸ばす。その光も端からじわじわと、絶望を伴った視界ではそれでも早すぎる速さで黒く塗り潰されていった。
今まで何度も聞いたような悲痛な声が尾を引くのをどこか遠くで聞いて、意識までそのまま黒に堕ちた。
* * *
「……っていうのが今年の初夢だったんだよね」
「そりゃまた年明けからスペクタクルな夢を見たもんだな。縁起悪いんじゃないのか、そういうの」
「一概にそうとも言えないらしいけどね。なかなかスリルのある寝覚めだったことは確かだよ」
「押し掛けて来たと思ったら一言目からそれが始まるんだもんな……。他に言うことないのかよ」
「言うこと? うーん……あ、」
明けましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしく。
2012.1.2.