愛着障害
然し、君、恋は罪悪ですよ、
人を愛するとはなんなのか、不器用ながらも手探りで見つけ出そうとする、ある大学生の日記。
八月のある日のことです。
私は夏祭りに来ていました、いいえ、私は今日、この人生を終わらせるために、この川に足を運びました。
私はここで夏祭りをやっていることなど、微塵も知りませんでした。そう言ったものに、一切の興味がなかったのです。
そんな訳ですから、私は自殺しようというのをやめ、だけれどもそのまま帰路に着くのもどこか勿体なく思えて、夏祭りの中へと進んでゆきました。
人々は皆、祭囃子に浮かされて笑っていましたが、私はただ、それらを遠い場所の出来事のように眺めていました。
あなたに出会ったのは、そんな夜でした。
どこか人通りの少ない静かな場所を探して歩いていると、誰かの肩と私の肘とがぶつかりました。
振り返ると、ごめんなさい、とあなたは言いました。続けて、茶髪のショートの子と、黒髪で背が高い子達を見なかったかと尋ねてきました。
「あなたも、迷子なんですか。」
「ええ、実は。こんなに人が多いと困っちゃうな。」
けれど不思議なことに、その声音には切迫した焦りがありませんでした。
「よければ手伝いましょうか、何度か来たことがありますし。」
少し間が空いた後、あなたは、ありがとうございます、と言い、私についてきました。
人混みの熱気と、盆踊りのメロディだけが私たちの沈黙を埋めていました。
花火が打ち上がる直前になると、人々は皆、川沿いの方へ流れていきました。私とあなたもまた、その人波に押されるように歩いていきました。
「こちらへついてきてください。一旦人混みから離れましょう。」
人混みのせいで、人探しは普段の何倍も困難でした。私はあなたの友人の姿を探しながら、それと同時に隣のあなたの様子にも気を配りながら人波をかき分けて行きました。
夜の空気は生温く、屋台の匂いと遠い喧騒が混ざり合っていました。
結局、あなたの友人はまだ見つかっていませんでした。
「大丈夫なんですか」
私がそう尋ねると、あなたは少し困ったように笑いました。
「まあ、毎年誰かしらとはぐれるので」
私にはその言葉と落ち着きが、不思議とどこか可笑しく感じられました。
河川敷へ辿り着くと、既に多くの人が空を見上げていました。
あなたは人混みの隙間へ並ぶように立ち止まりました。
やがて、夜空に一つ目の花火が咲きました。
胸の奥へ響くような音でした。
赤、青、金色。
光は一瞬だけ世界を照らし、そしてすぐに消えていきました。
あなたは小さく「綺麗」と呟きました。
私は返事をしませんでした。
花火よりも、その光があなたの横顔を照らしていたことの方が、妙に印象に残っていたのです。
けれど、それを言葉にする理由もありませんでした。
数発ほど花火が上がった頃、不意に遠くから声が聞こえました。
「え、いた!」
あなたが振り返りました。
黒髪で背の高い女子高生が、人混みを掻き分けるようにこちらへ近付いてきました。
どうやら友人だったようです。
「もう、探したんだけど!」
「ごめんごめん」
あなたは悪びれもなく笑っていました。
友人はそこで初めて私に気付き、僅かに目を丸くしました。
「……誰?」
「あ、さっき迷ってた時に一緒にいてくれた人」
その説明だけではよく分からなかったのでしょう。
友人は私とあなたを交互に見比べ、それから突然、意味ありげに笑いました。
「え、何それ。めっちゃお似合いじゃん」
私は思わず黙り込みました。
あなたも「違うって」と苦笑していましたが、その声音には本気で否定する強さがありませんでした。
友人は面白がるように続けました。
「だって雰囲気似てるもん。なんか静かだし」
「そんなことないよ」
「あるって」
私はそのやり取りを、どこか遠い場所の出来事のように聞いていました。
“お似合い”という言葉の意味を、私はあまり理解していませんでした。
人と人とが特別な関係になるということが、私には現実感のないものでしかなかったのです。
けれど、不思議と不快ではありませんでした。
夜空では、絶え間なく花火が咲いていました。
その光の下で、あなたは困ったように笑っていました。
私はただ、それを静かに眺めていたのです。
その日は朝から空が重たく、街全体が薄い灰色に沈んでいました。
私は駅前の喫茶店で、一人、文庫本を読んでいました。
冷房の効いた店内は静かで、頁を捲る音と食器の触れ合う微かな音だけが、穏やかに流れていました。
夏休みも終わりに近づいていました。
あの夏祭りの日から三週間ほどが経っていましたが、私はあなたのことを特別考えることもなく過ごしていました。
ただ時折、知らない人と並んで夜空を見上げたことを、ぼんやりと思い出す程度だったのです。
入口の扉が開く音がしました。
私は何気なく顔を上げ、そして少しだけ目を瞬かせました。
あなたが立っていました。
あなたもまた、私に気付いたようでしたが、驚いた顔をしただけで、それ以上は何も言いませんでした。
あなたは軽く会釈をして、それから少し離れた席へ腰掛けました。
私は再び本へ視線を落としました。
正直なところ、気まずさはありませんでした。
親しいわけではない相手というのは、案外そういうものです。無理に会話を探す必要もなく、ただ同じ空間に存在しているだけで済むのですから。
店内には古いジャズが流れていました。
窓の外では、風が木々を揺らしていました。
しばらくして、不意に雨が降り始めました。
最初は静かな雨音でした。けれど、それは次第に激しさを増し、窓硝子を絶え間なく叩き始めました。
「……あ」
ふと顔を上げると、あなたが窓の外を見つめていました。
その表情は僅かに困ったようで、私は何となく、理由を察しました。
「傘、ないんですか」
あなたはこちらを見て、少し気まずそうに笑いました。
「持ってきていなくて」
私は鞄の中を見下ろしました。
折り畳み傘が入っていました。
少しだけ迷いました。
けれど結局、私は席を立ち、その傘をあなたへ差し出しました。
「使ってください」
「え」
「私はまだ帰りませんから」
それは半分ほど嘘でした。
本当は、私もそろそろ店を出ようと思っていたのです。
あなたは暫く傘と私を見比べていましたが、やがて静かに「ありがとうございます」と言いました。
その声音は、夏祭りの夜より少し柔らかく聞こえました。
あなたは席へ戻ろうとして、それから何かを思い出したように足を止めました。
「あの」
私は顔を上げました。
「傘、返したいので……連絡先、聞いてもいいですか」
一瞬、返答に迷いました。
連絡先を交換するという行為は、私にとって妙に現実感のないものでした。
人との繋がりを、自ら求めることなど殆どありませんでしたから。
けれど、断る理由もまた見つかりませんでした。
私は静かに頷き、携帯を取り出しました。
交換した連絡先の画面を見つめながら、私はぼんやりと思っていました。
人との関係というものは、案外こういう曖昧なきっかけから始まるのでしょうか、
日常は、穏やかな川の流れの如く続いていました。
ただ、その流れに、あなたという存在が静かに紛れ込んだだけのことだったのです。
傘を貸した翌日の夕方、あなたから短いメッセージが届きました。
『昨日はありがとうございました。傘、助かりました』
それだけの簡素な文章でした。
けれど、送信までに何度も文面を考え直したのだろうということが、不思議と伝わってきました。
私は数分ほど画面を眺めてから、
『気にしないでください』
とだけ返しました。
すると、しばらくして再び通知が鳴りました。
『傘、お返ししたいのですが、いつご都合いいですか』
私は少し考えました。
大学は夏休みに入っていましたし、特に予定もありませんでした。
アルバイトのない日は、一日の大半を適当に本を読んで過ごしているだけでしたから、時間など有って無いようなものだったのです。
『いつでも大丈夫ですよ』
そう返すと、あなたは随分と長い間既読を付けたまま黙っていました。
やがて、
『本当にすみません』
という言葉が送られてきました。
その後にも、
『急に連絡してしまって』
『ご迷惑じゃなかったですか』
と続きました。
私は小さく目を伏せました。
あなたはきっと、律儀な人なのでしょう。
傘一本借りただけで、ここまで申し訳なさそうにできる人間を、私はあまり知りませんでした。
『迷惑ではありませんよ』
そう返しても、あなたはまだどこか遠慮がちでした。
『でも、お時間取らせてしまうので』
その文章を見て、私は僅かに考え込みました。
“時間を取られる”という感覚が、私にはよく分からなかったのです。
私の日々は元々、曖昧で輪郭のないものでした。
誰かと会う予定もなければ、急いで成し遂げたいこともありません。ただ静かに時間だけが過ぎていくのです。
ですから、あなたと少し話すことが、何かを失うことには思えませんでした。
けれど、そういうことを言葉にするのは難しいのです。
私は暫く迷った末、
『夏休みなので、暇なんです』
とだけ送りました。
するとあなたは、
『大学生ってそんな感じなんですね』
と返してきました。
その後ろに、小さな笑った顔文字が付いていました。
私はそれを見つめながら、何故だか少しだけ可笑しくなりました。
人とのやり取りの中で笑うことなど、最近は殆ど無かったはずなのに。
傘を返す約束をしたのは、土曜日の午後でした。
待ち合わせ場所は町田駅前でした。
休日ということもあって、人通りは多く、改札から流れ出る人々が絶えず行き交っていました。
私は少し早めに着いて、駅前の時計台の近くに立っていました。
八月の終わりの熱気が、アスファルトの上に残って淀んでいました。
空は晴れていましたが、どこか夏の終わりを思わせる薄い色をしていました。
やがて、人混みの向こうにあなたの姿が見えました。
あなたは私を見つけると、小さく会釈をしました。
その腕には、あの日貸した折り畳み傘が抱えられていました。
「すみません、お待たせしました」
「いえ。私も今来たところですから」
そう言うと、あなたは少し安心したように息を吐きました。
そして、丁寧に両手で傘を差し出しました。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「大袈裟ですね」
私がそう言うと、あなたは困ったように笑いました。
「でも、あの日かなり降ってましたし」
私は傘を受け取りながら、小さく「そうでしたね」と返しました。
本当は、そこですぐ別れるつもりでした。
けれど、あなたはどこか言いづらそうに視線を彷徨わせ、それから意を決したように口を開きました。
「あの」
「はい」
「もしよかったら、お礼にお茶くらい奢らせてください」
私は少しだけ目を瞬かせました。
「別に、そこまでしなくても」
「でも、借りっぱなしっていうのも落ち着かなくて……」
あなたは申し訳なさそうに笑いました。
律儀な人だ、と私はまた思いました。
私は少し考えてから、
「まあ、暇ですし」
と言いました。
するとあなたは、何故だか少しだけ嬉しそうに笑いました。
向かったのは、以前あなたと偶然会ったあの喫茶店でした。
店内へ入ると、冷房の涼しさと微かな珈琲の香りが身体を包みました。
相変わらず古いジャズが流れていて、時間だけがゆっくり進んでいるような場所でした。
窓際の席へ向かい合って座ると、あなたはどこか落ち着かない様子でメニューを見つめていました。
「……何か、変な感じですね」
不意にあなたがそう言いました。
「変ですか」
「だって、少し前まで知らない人だったので」
私はその言葉に、静かに目を伏せました。
確かにそうでした。
夏祭りの夜、人混みの中で偶然隣にいただけの人間。
喫茶店で再会し、雨の日に傘を貸しただけの人間。
だけれども私の目には、それだけの人間であったあなたが、なぜだか特別であるように映ったのです。
店員が注文を取りに来た後、短い沈黙が落ちました。
私は窓の外を眺めていました。
駅前を行き交う人々を、どこか他人事のような目で見つめていました。
あなたはそんな私を静かに見ていました。
居心地の悪さは、不思議とありませんでした。
会話が途切れても無理に言葉を探さなくていい相手というのは、案外珍しいものです。
やがて、あなたが小さく口を開きました。
「……大学って、楽しいですか」
私は少しだけ目を瞬かせました。
「どうしてですか」
「なんとなく聞いてみたくて」
あなたは曖昧に笑いました。
その表情には、強い好奇心というより、静かな探るような色がありました。
人との距離を測りかねている人間の顔でした。
私は視線を落とし、少し考えました。
「楽しい、という感じではないかもしれません」
「そうなんですか」
「ええ。自由ではありますけど」
私はそこで言葉を切りました。
何かを説明しようとすると、自分の内側が妙に空虚であることを思い知らされるのです。
私は昔から、夢中になれるものというものがありませんでした。
将来の夢だとか、やりたいことだとか、そういうものを当然のように語れる人々を、私はずっと遠い場所から眺めていた気がします。
「私は昔から、何かを好きになるのが苦手なんです」
気付けば、そんなことを口にしていました。
あなたは黙ってこちらを見ていました。
否定もしませんでしたし、慰めるようなことも言いませんでした。
その沈黙が、何故だか少しだけ心地良かったのです。
「熱中できるものとか、将来やりたいこととか。皆、普通に持っているでしょう」
「……まあ、そういう人、多いですね」
「私は、よく分からないんです」
そう言うと、あなたは少し考えるように目を伏せました。
「じゃあ、毎日つまらなくないですか」
私は小さく笑いました。
「どうでしょう」
窓の外では、夏の陽射しが白く滲んでいました。
私は珈琲へ視線を落としました。
人とこうして向かい合って話していること自体、私にはどこか現実感の薄い出来事でした。
けれど、不思議と悪くはありませんでした。
あなたはストローの先で氷を揺らしながら、ぼんやりと窓の外を見ていました。
私はそんな横顔を眺めながら、静かに口を開きました。
「あなたは、何かやりたいことがあるんですか」
あなたはすぐには答えませんでした。
考えているというより、言葉を選んでいるようでした。
「……まだ、はっきりは決まってないですけど」
やがて、あなたは小さくそう言いました。
「本は好きです」
「読書、ですか」
「はい。あと、文章を書くのも少し」
あなたは照れ隠しのように笑いました。
「だから、そういうのに関われたらいいなって思う時はあります」
私は静かに頷きました。
未来の話をする人間を見ると、不思議な感覚になるのです。
そこには、当然のように“これから先”が存在しています。
来年も、その先も、自分が生きていることを疑っていない人の言葉でした。
私には昔から、それがよく分かりませんでした。
「いいですね」
そう言うと、あなたは少しだけ困ったように笑いました。
「でも、ちゃんとできるかは分からないです」
「皆そんなものではないですか」
「そういうものですかね」
私は珈琲を一口飲みました。
苦味が静かに残りました。
「少なくとも、あなたには好きなものがあるでしょう」
あなたは何も言いませんでした。
けれど、その沈黙は否定ではないように思えました。
私は視線を落としたまま、ぼんやりと続けました。
「私は昔から、そういうものが無かったんです」
何かを強く望んだ記憶がありませんでした。
将来を思い描くことも、何かになりたいと思うことも、私にはどこか現実味のない話だったのです。
気付けば、窓の外はすっかり夕暮れの色になっていました。
西日が店内を薄く照らしていて、テーブルの上には長い影が落ちていました。
「……結構長居しちゃいましたね」
あなたは時計を見ながら、少し申し訳なさそうに笑いました。
「すみません。付き合わせちゃって」
「別に、気にしていませんよ」
「でも、せっかくの休みだったのに」
私は小さく首を横に振りました。
本当に、気にはしていませんでした。
むしろ、誰かとこんなふうに長い時間を過ごしたのは、随分久しぶりだった気がします。
けれど、それを素直に口にするのは何故だか躊躇われました。
会計を済ませて店を出ると、夕方の熱気がまだ街に残っていました。
空は淡い群青へ変わり始めていて、駅前の雑踏も少しだけ穏やかになっていました。
改札の前まで歩いたところで、あなたが足を止めました。
「今日は、本当にありがとうございました」
あなたはそう言って、軽く頭を下げました。
私は「いえ」とだけ返しました。
そこで別れるはずでした。
きっと、普通ならそれで十分だったのです。
傘を貸して、返してもらって、それだけの関係。
それ以上でも、それ以下でもないはずでした。
けれど。
「あの」
気付けば、私はあなたを呼び止めていました。
あなたが振り返りました。
私は自分が何を言おうとしているのか、半ば理解しないまま口を開いていました。
「……また、会いませんか」
言葉にした瞬間、自分自身が一番驚いていました。
私は昔から、未来について考えることがありませんでした。
来週の予定だとか、誰かとまた会う約束だとか、そういうものは私の人生に必要ないと思っていたのです。
人との関係は、偶然始まり、静かに終わっていくものだと。
だから、自分から次を望むことなど、本来ならあり得ないことでした。
あなたは少しだけ目を見開いていました。
けれどすぐに、その表情は柔らかく崩れました。
「……はい」
あなたは小さく笑いました。
「ぜひ」
その声音は、どこか嬉しそうでした。
私は何故だか、胸の奥が僅かにざわつくのを感じていました。
帰りの電車は、夕方の乗客で程よく混み合っていました。
窓硝子には、ぼんやりと自分の顔が映っていました。
疲れたような目をした、いつもの私でした。
けれど、その奥に微かに混ざった感情を、私はまだ上手く言葉にできませんでした。
電車は静かな音を立てながら、夜へ向かって走っていました。
私は窓に映る自分を見つめながら、ぼんやりと思っていました。
もしかすると、この陰鬱な日常は、少しだけ変わっていくのかもしれない、と。
九月に入って暫くしても、暑さは容易く去ってはくれませんでした。
夏の名残を引き摺るような熱気が、大学の構内にはまだ薄く淀んでいました。
空だけが少し高くなり、木々の色が僅かに褪せ始めていることで、ようやく季節の移ろいを知るのです。
私は文学部棟へ向かいながら、ぼんやりとイヤホン越しの雑音を聞いていました。
「おーい」
後ろから肩を叩かれ、私はゆっくり振り返りました。
Bが呆れたようにこちらを見ていました。
「また上の空」
「そうですか」
「そうですか、じゃないって。今絶対聞こえてなかっただろ」
私は少し考えました。
確かに、聞いていなかったのかもしれません。
最近はこういうことが増えていました。
Bは半ば諦めたように笑いました。
「お前ってほんと、ぼーっとしてるよな」
「昔からでしょう」
「まあな」
二人で講義室へ入ると、既にAが席を取っていました。
「あ、来た」
Aは私を見るなり、机へ突っ伏したまま言いました。
「レポート写させて」
「嫌です」
「即答だ」
周囲の学生たちが小さく笑いました。
私は鞄を椅子へ掛けながら、小さく息を吐きました。
「ていうかさ」
Aは頬杖をつきながら私を見ました。
「お前ほんと恵まれてるよね」
「何がですか」
「顔良いし、成績良いし、性格も穏やかだし」
「そんなことありませんよ」
「あるって。女子人気すごいの自覚ないの?」
私は曖昧に笑いました。
正直なところ、よく分からなかったのです。
誰かに好意を向けられることも、それを嬉しいと思う感覚も、私にはどこか現実感の薄いものに思えていました。
「しかも本人無自覚なの腹立つ」
「それな」
Bまで頷き始めました。
私は否定も肯定もせず、窓の外へ視線を向けました。
九月の空は、夏より少しだけ淡い色をしていました。
「そういやさ」
不意にBがこちらを見ました。
「最近なんか機嫌良くない?」
「……いつも悪くはないですが。」
「なんか前よりぼーっとしてる」
「それ褒めてないだろ」
Aが笑いました。
私も小さく笑い返しました。
「あ、笑った!」
最近、ふとした瞬間にあなたのことを考えてしまうのです。
駅前の雑踏だとか、喫茶店の静かな音楽だとか、そういう些細なものが記憶を引き寄せるのでした。
それが何なのか、まだよく分かりませんでした。
ただ、今まで均一だった日々の中に、小さな揺らぎが生まれていることだけは確かでした。
講義開始を告げるチャイムが鳴りました。
私はノートを開きながら、ぼんやりと思っていました。
もしかすると、私は少しだけ、未来というものを考え始めているのかもしれない、と。
数日後、友人たちに半ば強引に連れ出される形で、私は遊園地へ来ていました。
休日の園内は人で溢れていて、遠くでは絶え間なく歓声が上がっていました。
甘い菓子の匂いと機械音が混ざり合い、空気全体がどこか浮ついていました。
私はあまり遊園地が得意ではありませんでした。
嫌いというわけではありません。
ただ、人々が当然のように楽しそうにしている場所にいると、自分だけが少し違う生き物のような感覚になるのです。
「次あれ乗ろうぜ」
Bが地図を片手に言いました。
「絶対嫌です」
「なんで」
「落ちる感じが苦手なので」
「顔に似合わず弱」
Aが笑いました。
結局、私は二人に挟まれる形でジェットコースターの列へ並ばされていました。
秋が近付いているとはいえ、昼間の日差しはまだ暑く、列に並ぶ人々は皆どこか疲れた顔をしていました。
私はぼんやりと空を見上げました。
青空の中を、白い雲がゆっくり流れていました。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えました。
取り出して画面を見ると、あなたからのメッセージでした。
『今度、文化祭あるんですけど、もし暇だったら来ませんか』
私は数秒、その文章を見つめていました。
文化祭。
高校という場所から遠ざかって久しい私にとって、それは妙に眩しい響きでした。
「……誰?」
隣からBが覗き込んできました。
「うわ、絶対女」
「彼女?」
Aまで面白がるように身を乗り出してきました。
私は画面を伏せ、小さく首を横に振りました。
「違いますよ」
「いや絶対今嬉しかったじゃん」
私は否定しませんでした。
実際、嬉しかったのです。
自分が誰かの日常の中で思い出され、誘われたという事実は、私にとってあまり経験のないものでした。
けれど、それを“恋愛”と呼ばれることには、妙な違和感がありました。
私はまだ、人を好きになるという感覚を上手く理解できていなかったのです。
「文化祭に誘われただけですよ」
「それがもう青春なんだって」
Aは大袈裟に肩を落としました。
「いいよなあ、お前は。顔良い奴って人生イージーそう」
「ほんとそれ」
Bまで頷いていました。
私は曖昧に笑いながら、再びスマートフォンへ視線を落としました。
短い文章の向こう側に、あなたがいる。
そのことが、何故だか少し不思議でした。
私はゆっくりと文字を打ち込みました。
『暇なので行きます』
送信ボタンを押した後も、胸の奥には小さな熱が残っていました。
私は列に並びながら、ぼんやりと思っていました。
もしかすると私は、思っていたよりずっと、あなたに会いたがっているのかもしれません。
夕方が近付く頃には、園内の喧騒にも少し疲れが混ざり始めていました。
私たちはアトラクションを幾つか回った後、園内のレストランへ入っていました。
広い店内には家族連れや学生たちの声が満ちていて、食器の触れ合う音や遠くの機械音が絶えず響いていました。
私は窓際の席で、運ばれてきたパスタをぼんやりと眺めていました。
「お前今日ずっと省エネだよな」
向かい側でBが呆れたように言いました。
「元々こんなものでしょう」
「いや、なんか今日は特に」
私は曖昧に笑いました。
正直なところ、遊園地という空間に最後まで馴染めずにいたのです。
周囲は皆、当たり前のように笑っていました。
叫んで、写真を撮って、はしゃいで、それを自然に楽しんでいるようでした。
私はそういう感情の動き方が、昔から少し苦手でした。
「まあでも、今日は収穫あったじゃん」
Aがストローを咥えたまま笑いました。
「文化祭のお誘い」
「だから、そういうのじゃありませんよ」
「はいはい」
明らかに信じていない返事でした。
私は小さく息を吐きました。
「相手、高校生なんだろ?」
Bが興味深そうに聞いてきました。
「ええ」
「どこで知り合ったの」
「夏祭りです」
「うわ、青春だ」
Aがわざとらしく顔を覆いました。
「俺なんか夏祭り行っても屋台しか見てないのに」
「それはお前の問題だろ」
二人は勝手に盛り上がっていました。
私はフォークを持ったまま、窓の外へ視線を向けました。
夕暮れが近付き始めた空の下で、観覧車がゆっくり回っていました。
「でもさ」
不意にAがこちらを見ました。
「お前って、誰かとちゃんと仲良くなるイメージ無かったから意外かも」
私は少しだけ目を瞬かせました。
「そうですか」
「だって、優しいけど距離あるじゃん」
その言葉に、私は返答できませんでした。
自覚はあったのです。
私は昔から、人との距離の縮め方が分かりませんでした。
傷つけないように。
期待させないように。
そう考えているうちに、気付けば誰とも深く関わらなくなっていたのです。
「まあでも、最近ちょっと変わったよな」
Bがジュースを飲みながら言いました。
「前よりちゃんと楽しそう」
「そうですかね」
「うん。前はもっと死んだ魚みたいな顔してた」
「言い方」
Aが吹き出しました。私も小さく笑いました。
変わったのかもしれません。
少なくとも、以前より“次”を考える時間は増えていました。
次はいつ会うのか。
何を話すのか。
そういう未来のことを、私は知らないうちに思い浮かべるようになっていたのです。
それはきっと、今までの私には無かったことでした。
あなたの高校の文化祭へ向かったのは、九月の終わり頃でした。
空は高く、夏の名残だけを薄く残した風が吹いていました。
高校という場所へ来るのは、随分久しぶりでした。
校門を潜った瞬間、どこか閉じ込められていた時間の匂いがしました。
廊下には模造紙の案内が貼られ、教室からは笑い声や音楽が漏れていました。
学生たちは皆忙しそうに走り回っていて、その熱気だけで空気が少し白く霞んで見えるようでした。
私は案内図を見ながら、二年C組を探しました。
教室の前には『お化け屋敷』と大きく書かれた看板が立っていました。
入口には黒い布が掛けられ、薄暗い照明の中で数人の生徒が呼び込みをしていました。
私は列へ並び、流れに従って中へ入りました。
けれど、あなたの姿はありませんでした。
教室の中はよく作り込まれていて、脅かし役の生徒たちが大袈裟な悲鳴を上げながら飛び出してきました。
周囲の客は楽しそうに騒いでいましたが、私はどこか現実感の薄いまま、それを眺めていました。
出口へ辿り着くと、受付にいた女子生徒が「ありがとうございました」と笑顔を向けてきました。
私は少し迷ってから、口を開きました。
「……説明役の人っていますよね」
「え?」
「黒髪のロングの」
「ああ、○○?」
あなたの名前が出た瞬間、私は何故だか少し落ち着かない気持ちになりました。
「午後から入ると思いますけど」
「そうですか」
私は頷き、それだけで終わるつもりでした。
けれど。
「何時頃なら、いますか」
気付けば、そんなことを聞いていました。
女子生徒は一瞬きょとんとした後、意味ありげに口元を緩めました。
「えー、何それ」
私はそこでようやく、自分の言動を客観視しました。
まるで、会いたがっているみたいではありませんか。
実際そうなのかもしれませんでしたが、それを他人に見抜かれるのは妙に落ち着きませんでした。
私は小さく目を伏せました。
何となく、あなたに悪いことをした気がしました。
「私が来ていたことは、言わないでください」
そう言うと、女子生徒は少し意外そうな顔をしました。
「え、なんでですか」
「……気を遣わせたくないので」
彼女は数秒こちらを見つめ、それから少しだけ笑いました。
「なんか、大人ですね」
私は返答をしませんでした。
別に、大人なわけではありません。
ただ、人との距離感が分からないだけなのです。
あなたが午後から来ると知った後、私は暫く校内を歩いていました。
中庭では縁日が開かれていて、射的や輪投げに歓声が上がっていました。
別の教室では脱出ゲームが行われており、廊下には問題用紙を片手に悩み込む生徒たちが溢れていました。
体育館の方からは軽音部の演奏が聞こえていました。
歪んだギターの音と、少し不安定な歌声。
それらを聞きながら、私はぼんやりと思っていました。
自分が高校生だった頃、私はもっと淡々としていた気がします。
文化祭にも参加していたはずなのに、何をしていたのか殆ど覚えていませんでした。
友人と騒いだ記憶も、何かに熱中した記憶も曖昧でした。
ただ、均一な時間だけが静かに流れていたのです。
けれど今は、その景色が少しだけ違って見えていました。
午後になって再び二年C組の前を訪れると、午前中よりも列は長くなっていました。
教室の入口付近には、黒いシャツを着た生徒たちが立っていて、呼び込みの声が絶えず飛び交っていました。
その中に、あなたの姿がありました。
一瞬、胸の奥が妙に静かになりました。
あなたは入口の前で、来場者へ注意事項を説明していました。
「中、結構暗いので気を付けてください」
淡々とした口調でしたが、どこか慣れていない感じが残っていました。
説明を終えるたびに少しだけ視線を逸らす癖があり、それが何故だか可笑しかったのです。
あなたはこちらへ気付くと、少し目を見開きました。
「あ」
それから、僅かに気恥ずかしそうに笑いました。
「来てくれたんですね」
「暇でしたから」
私がそう言うと、あなたは困ったように笑いました。
「本当に来るとは思ってなかったです」
「そういうものですか」
「だって、大学生って文化祭あんまり興味ないのかなって」
私は少し考えました。
実際、以前の私なら来なかったかもしれません。
けれど、そのことを上手く説明する言葉は見つかりませんでした。
「……楽しそうですね」
代わりにそう言うと、あなたは少しだけ目を逸らしました。
「慣れないです、こういうの」
「意外ですね」
「人前苦手なので」
そう言いながらも、あなたは来場者が来るたびきちんと説明を続けていました。
その真面目さが、どこかあなたらしいと思いました。
「じゃあ、また後で」
あなたは次の客へ向き直りながらそう言いました。
私は小さく頷き、教室を後にしました。
廊下へ出ると、少し離れた場所から声が掛かりました。
「あ、会えました?」
振り返ると、午前中受付にいた女子生徒が立っていました。
今日はもう役目が無いのか、ジュースを片手に気楽そうな格好をしていました。
「ええ」
私が頷くと、彼女は何故だか嬉しそうに笑いました。
「よかったです」
私は曖昧に会釈しました。
「なんか最近、あの人楽しそうなんですよね」
不意に彼女はそんなことを言いました。
「楽しそう、ですか」
「前までずっと静かだったんです。別に暗いわけじゃないんですけど、なんかずっと一歩引いてる感じで」
私は黙って聞いていました。
「でも最近、たまにちゃんと笑うようになったっていうか」
彼女はストローを弄びながら、小さく肩を竦めました。
「たぶん、あなたがいるからじゃないですか」
私は返答に困りました。
そんな大層なものではない気がしたのです。
私はただ、偶然夏祭りで会って、少し話すようになっただけでした。
けれど。
「いいなあ、青春って感じで」
彼女は羨ましそうに笑いました。
「青春、ですか」
「だって文化祭に大学生来るとか、普通ちょっと特別じゃないですか」
私は否定しませんでした。
否定できるほど、自分の感情が分からなくなっていたのです。廊下の窓から、秋の柔らかな光が差し込んでいました。
教室の方からは、あなたの説明する声が微かに聞こえていました。
私はその音を聞きながら、ぼんやりと思っていました。
もしかすると私は、知らないうちに、あなたの存在を日常の一部にしてしまっているのかもしれません。
文化祭から数日が過ぎると、再びいつもの大学生活が戻ってきました。
九月の終わりは中途半端な季節でした。
日差しはまだ僅かに夏を引き摺っているのに、風だけが先に秋へ向かっているのです。
週明けの午後、私は大学近くのカフェにいました。
テーブルの上にはノートパソコンと文献、それから飲みかけのアイスコーヒーが散らばっていました。
「終わる気しない」
Aが机へ突っ伏しながら呻きました。
「あと二千字なんだけど」
「それはもう終わるでしょう」
「お前の“終わる”は信用できない」
向かい側でBも疲れた顔をしていました。
「なんで文学部ってこんなレポート多いんだよ」
「文学だからでは」
「意味分かんねえ」
私はキーボードを打ちながら、小さく笑いました。
カフェの中には静かな音楽が流れていました。
窓際の席では、別の学生たちが参考書を広げています。
九月の淡い陽射しが硝子越しに差し込んでいて、店内全体が少し白く霞んで見えました。
「……お前ほんと淡々としてるよな」
不意にBが言いました。
「普通レポートこんな溜まったらもっと焦るだろ」
「焦って終わるなら焦りますけど」
「出た、優等生」
Aが恨めしそうにこちらを見ました。
「顔良くて頭良くて余裕あるの腹立つ」
「別に余裕ではありませんよ」
「いや絶対あるって」
私は曖昧に笑いながら視線を落としました。
昔から、勉強は嫌いではありませんでした。
文章を読んで、考えて、静かに一人で完結する作業は、自分に合っていたのです。
人間関係のように、感情の輪郭を探る必要もありませんから。
「そういや文化祭どうだった?」
Bがストローを弄びながら聞きました。
私は少しだけ手を止めました。
「普通でしたよ」
「絶対普通じゃないだろ、その間」
「なんかあった?」
「別に何も」
私は再びパソコンへ視線を戻しました。
けれど、文化祭の日のあなたの顔がふと浮かびました。
少し照れたように説明をしていたこと。
教室の奥から聞こえていた笑い声。
文化祭の熱気の中で、あなたが確かにそこにいたこと。
思い返すだけで、胸の奥が微かにざわつくのです。
「……なんか最近、前より人間っぽいよな」
Aが突然そんなことを言いました。
「どういう意味ですか」
「前のお前ってもっとこう、仙人みたいだった」
「分かる」
Bまで頷いていました。
「感情薄そうっていうか」
私は少しだけ目を伏せました。
感情が無いわけではありませんでした。
ただ、それをどう扱えばいいのか分からなかっただけなのです。
カフェの窓の外では、秋の風が街路樹を揺らしていました。
私は画面に並ぶ文字を見つめながら、ぼんやりと思っていました。
あなたに会ってから、自分の中の何かが少しずつ変わり始めている気がするのです。
それが良いことなのかどうか、まだ私には分かりませんでした。
夕方になる頃には、友人たちはすっかり疲れ切っていました。
「もう無理」
Aは机へ突っ伏したまま呻きました。
「今日は帰る……」
「お疲れ様です」
「お前は?」
Bが鞄を肩へ掛けながら聞いてきました。
「まだ少しやります」
「真面目だなあ」
私は曖昧に笑いました。
本当は、集中できていたわけではありませんでした。
画面を見つめていても、思考は何度も別の場所へ逸れてしまうのです。
友人たちと別れた後、私は大学近くの図書館へ向かいました。
外は既に薄暗くなり始めていて、九月の風は昼間より幾分涼しくなっていました。
図書館の中は静かでした。
ページを捲る音と、遠くで椅子の引かれる音だけが、時折微かに響いていました。
私は窓際の席へ座り、ノートパソコンを開きました。
レポートの続きを書こうと思っていたのです。けれど数行打ち込んだところで、私は手を止めました。どうにも集中できませんでした。
頭の中には、昼間の友人たちの言葉が残っていました。
『最近ちょっと変わったよな』
『前より人間っぽい』
私は小さく息を吐きました。
自覚はあったのです。
あなたと出会ってから、私は少しずつ変わり始めていました。
以前なら考えもしなかった“次”を思い浮かべるようになったこと。
誰かからの連絡を待つようになったこと。
ふとした瞬間に、その人を思い出してしまうこと。
私は視線を逸らすように、本棚から一冊の文庫本を取りました。
夏目漱石の『こころ』でした。
何度か読んだことのある本でした。
私は席へ戻り、ぼんやりとページを捲りました。
文字を追っているうちに、不意に視線が止まりました。
『然し君、恋は罪悪ですよ』
私はその一文を暫く見つめていました。
図書館は静かでした。
窓の外には、薄い夜の色が広がっていました。
恋。
私はその言葉を心の中で反芻しました。
自分には関係のないものだと思っていました。
人を愛するという感覚が、昔からよく分からなかったのです。
私は人を傷つけないように、そう生きるよう努力をしてきたつもりでした。
けれど、本当にそうだったのでしょうか。
もし私があなたへ向けている感情が“恋”なのだとしたら、それはきっと酷く歪なものです。
私は人との距離の取り方を知りません。
愛情をどう示せばいいのかも分かりません。
そんな人間があなたへ近付けば、いずれ傷つけてしまうのではないでしょうか。
あなたには、きっともっと健全で、真っ直ぐな未来があるはずなのです。
高校生活があって、友人たちがいて、文化祭で笑って、これから先も多くの人と出会っていく。
その人生の中へ、私のような人間が入り込んでいいのでしょうか。
私は頁へ視線を落としました。
文字は静かに並んでいるのに、胸の奥だけが妙にざわついていました。
翌週、私は完成したレポートを提出するために文学部棟へ向かっていました。
朝の空気はすっかり秋めいていて、九月の終わりの風が校内の木々を静かに揺らしていました。
徹夜こそしていませんでしたが、昨夜は殆ど眠れませんでした。
レポートを書き終えた後も、私は長い間机に座ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていたのです。
最近、思考が上手くまとまらなくなっていました。
以前の私はもっと均一でした。
毎日は淡々と流れていて、感情が大きく揺れることもありませんでした。けれど今は、些細なことで胸の奥がざわつくのです。
文学部棟の廊下には、同じようにレポートを抱えた学生たちが歩いていました。
「終わった?」
後ろから声を掛けられ、私は振り返りました。AとBでした。
「一応」
「“一応”で高評価取るのやめろ」
Bが疲れた顔で言いました。
「こっちは死にそうだったんだけど」
「私も眠いですよ」
「いやお前絶対余裕あるって」
Aはそう言いながら欠伸をしていました。
三人で提出用のボックスが置かれた研究室前まで歩くと、既に何人かの学生が並んでいました。
「文学理論のやつ、意味分かった?」
Bがげんなりした顔で聞いてきました。
「半分くらいは」
「それ分かってる人間の台詞なんだよなあ」
私は小さく笑いました。
こういうやり取りにも、以前より少しだけ馴染めるようになっている気がしていました。
人といることを、そこまで煩わしいと思わなくなっていたのです。
提出を終えると、Aが大袈裟に伸びをしました。
「解放感やば」
「帰って寝たい」
「私は図書館行きます」
二人が同時にこちらを見ました。
「真面目かよ」
「ほんと何でそんな体力あんの」
私は少し考えました。
体力というより、一人で静かな場所にいたかったのかもしれません。
最近、自分の中に生まれた感情を整理しきれずにいたのです。
「……そういえば」
Aが思い出したように口を開きました。
「文化祭の子とはその後どうなの」
私は一瞬だけ言葉に詰まりました。
「別に、何も」
「絶対嘘」
「ほんとですよ」
けれど否定しながら、私は内心で曖昧な違和感を抱えていました。
“何もない”はずなのです。
ただメッセージをやり取りして、時々会って、話をしているだけ。
それだけの関係でした。
けれど、その“だけ”が、最近の私には妙に大きく感じられるのでした。
私は視線を逸らしました。
廊下の窓から見える空は高く、秋の色をしていました。
静かな風が吹いていました。
私はふと、図書館で読んだ『こころ』の一節を思い出していました。
『然し君、恋は罪悪ですよ』
あの言葉だけが、未だ胸の奥に沈んだまま残っていたのです。
結局、その日の夕方、私は友人たちに半ば強引に連れ出される形で焼肉屋へ来ていました。
「レポート提出お疲れ会」
Aはそう言いながら、勝手に肉を網へ並べていました。
「ただ肉食いたかっただけだろ」
Bが呆れたように言いました。
「まあそれもある」
煙と肉の焼ける匂いが充満していて、周囲の席からは大学生たちの笑い声が絶えず聞こえていました。
私は向かい側の席で、水の入ったコップをぼんやり眺めていました。
「お前ほんと静かだな」
Bが笑いました。
「焼肉来てるのに葬式みたいな顔してる」
「元々こういう顔です」
「否定しないんだ」
網の上で肉が音を立て始めました。Aは嬉しそうにトングを動かしていました。
「いやでも、レポート終わった後の飯って妙に美味く感じるよな」
「分かる」
「提出した瞬間、解放されたー、って思った」
私は小さく笑いながら箸を手に取りました。
こういう時間は嫌いではありませんでした。
騒がしくて、取り留めがなくて、皆好き勝手な話をしているだけの時間。
私はその輪の中心にはなれませんでしたが、少し離れた場所から眺めているくらいが丁度良かったのです。
「そういやさ」
肉を裏返しながら、Aがこちらを見ました。
「最近ほんと雰囲気変わったよな」
「またですか」
「だって前のお前、もっと生気無かったもん」
「失礼ですね」
「いや今も薄いけど」
Bまで頷いていました。
私は苦笑しました。
それが良い変化なのかどうかは、まだ分かりませんでした。
「例の高校生のおかげ?」
不意にBがそんなことを言いました。私は箸を止めました。
「だから、そういうのではありませんよ」
「でも会うの楽しみなんだろ?」
私は返答に困りました。
楽しみ。
その言葉は確かに近いのかもしれません。
あなたと話している時間は、不思議と静かでした。
気を遣わなくていい沈黙があって、以前より少しだけ、自分が人間らしくなれる気がするのです。
けれど、それを“恋”と呼ぶことには、まだ強い違和感がありました。
私は人を愛するということを、よく理解できていません。
そんな人間が誰かへ近付くことは、きっと正しいことではないのでしょう。
「……分かりません」
気付けば、小さくそう零していました。
友人たちは一瞬だけ黙り、それからAが笑いました。
「なにそれ」
「でもまあ、お前っぽいか」
網の上では肉が静かに焦げ始めていました。
店内の喧騒は絶え間なく続いていました。
私は漂う煙の向こうをぼんやり見つめながら、考えていました。
もしこれが恋なのだとしたら。
それはきっと、あまりにも不完全で、不器用なものなのでしょう。
肉を追加で頼む頃には、店内はすっかり夜の空気に染まっていました。
ガラス窓には店内の灯りが反射していて、外を歩く人々の姿がぼんやりと揺れていました。
「そういえばさ」
Bがカルビを網へ乗せながら言いました。
「お前ら卒業したら何すんの」
「急だな」
Aが笑いました。
「いや、なんか就活の話聞いてたら急に現実見えてきて」
「わかる。まだ先だと思ってたのに」
二人はそんなことを言いながら、将来の話を始めていました。
公務員だとか、院進だとか。
皆、漠然でも未来を持っていました。
私はその会話を聞きながら、グラスの水をゆっくり飲みました。
「お前は?」
不意にAがこちらを見ました。
「成績良いし、普通に大手行きそう」
「いや、大学残りそうじゃない?」
Bまで面白がるように言いました。
私は少し考えました。
将来。
昔から、その言葉には現実感がありませんでした。
小学生の頃に書かされた将来の夢も、高校時代の進路希望も、どこか他人事のように感じていたのです。
ただ周囲に合わせて、それらしい言葉を書いていただけでした。
「……特には」
私は静かに言いました。
「まだ決めていません」
「え、意外」
「お前そういうのちゃんとしてそうなのに」
私は小さく笑いました。
「別に、やりたいことがあるわけではないので」
その言葉を口にすると、妙に空虚な感じがしました。
けれど、それが事実でした。私は昔から、何かを強く望むことがありませんでした。
将来こうなりたい、と願う感覚もよく分からなかったのです。
「でも文学部で成績良いなら選択肢多そう」
Aは気軽にそう言いました。私は曖昧に頷きました。
選択肢。
確かに周囲から見れば、私は恵まれているのでしょう。
それなりに成績も良く、容姿も悪くないと言われ、人間関係にも大きな問題はない。
けれど、それらは全て、自分自身とは少し離れた場所にあるような気がしていました。
私は未だに、自分の人生へ主体的に関わっている感覚を持てずにいたのです。
「お前、なんかふらっと消えそうで怖いんだよな」
Bが半分冗談のように言いました。私は僅かに目を伏せました。
「縁起でもないこと言わないでください」
「いやでも分かるかも」
Aまで頷いていました。
「なんか執着薄そう」
私は返答をしませんでした。
否定できなかったからです。
私の人生の行き着く先は、きっと静かな死なのでしょう。
私にとっては生まれつき、確かな未来が見えたことなどたったの一度もないのです。
その言葉が、胸の奥で静かに沈んでいました。
けれど同時に、最近は少しだけ、その景色が揺らいでいる気もしていました。
あなたと出会ってから、私は以前より“先”を考えるようになっていたのです。
来週。
次に会う日。
交わす言葉。
それは今までの私には存在しなかった未来でした。
網の上で肉が静かに焼ける音がしていました。
店内の喧騒は相変わらず騒がしく続いていました。
それは今までの私には存在しなかった未来でした。
私はその中で、ぼんやりと考えていました。
十月も半ばになる頃には、空気はすっかり秋のものへ変わっていました。
大学構内の木々も少しずつ色付き始めていて、夕方になると風には微かな冷たさが混ざるようになっていました。
その日、私は講義を終えた後、一人で駅へ向かっていました。
鞄の中には図書館で借りた本が数冊入っていて、その重みが歩くたび静かに揺れていました。
空は曇っていました。
薄暗い夕方の街は、どこか現実感が薄く見えるのです。
駅前へ差し掛かった時、不意に見覚えのある声が聞こえました。
「あ、じゃあまた連絡する」
Aでした。
少し離れた場所で、女子学生と並んで立っていました。
相手は同じ大学の人らしく、楽しそうに笑いながら手を振っていました。
「うん、またね」
二人はそこで別れ、女子学生は駅の方へ歩いていきました。
Aはその背中を見送った後、こちらへ気付きました。
「あ」
数秒ほど間が空いて、それから気まずそうに笑いました。
「……見られてた?」
「偶然です」
私はそう言いながら近付きました。Aは後頭部を掻きながら、小さく息を吐きました。
「なんかタイミング悪」
「彼女ですか」
「いや、まだ」
“まだ”という言葉が妙に印象に残りました。
Aはどこか照れ臭そうでした。
「最近ちょっと会ってるだけ」
「そういうものなんですね」
「どういう意味?」
私は少し考えました。
「人を好きになる過程というか」
そう言うと、Aは可笑しそうに笑いました。
「お前ってたまに変なこと真顔で聞くよな」
私は否定しませんでした。
本当に分からなかったのです。
人と会って、話して、その人をもっと知りたいと思うこと。
また会いたいと願うこと。
それが恋なのか、それとも別の感情なのか、私には未だに輪郭が掴めませんでした。
「まあ、過程っていうか」
Aは少し空を見上げました。
「一緒にいると楽しいとか、落ち着くとか、気付いたら考えてるとか、そんな感じじゃない?」
私は静かにその言葉を聞いていました。
秋の風が、駅前を通り抜けていきました。
「……お前、例の高校生のこと考えてるだろ」
不意にそう言われ、私は少しだけ目を瞬かせました。
「顔に出てましたか」
「いや、なんとなく」
友人Aは笑いました。
「でもまあ、そういうのって案外単純だよ」
「単純」
「うん。会いたいなら、会いたいってことなんじゃないの」
私は返事をしませんでした。
駅前には人々が絶えず行き交っていました。
その雑踏を眺めながら、私はぼんやりと考えていました。
会いたい。
その感情を、私はいつから抱くようになっていたのでしょう。
以前の私なら、誰かを思い浮かべながら日々を過ごすことなど、きっと無かったはずなのです。
駅前の風は冷たくなり始めていました。
行き交う人々の吐く息も、どこか白く霞んで見える気がしました。Aは自動販売機で缶コーヒーを買うと、「飲む?」と聞いてきました。
私は首を横に振りました。
二人で駅前のベンチへ腰掛けると、暫く沈黙が流れました。
私は街灯の光をぼんやり眺めていました。
こういう時、普通なら適当な雑談を続けるのでしょう。
けれど私は昔から、沈黙を埋めるのが得意ではありませんでした。
ただ今日は、その沈黙が妙に落ち着かなかったのです。
「……なあ」
気付けば、私の方から口を開いていました。Aが少し意外そうにこちらを見ました。
「珍しい。何」
私はすぐには言葉を続けられませんでした。
こんな話を誰かにすること自体、初めてだったのです。
「人を好きになることって」
自分でも驚くほど静かな声でした。
「罪悪なんでしょうか」
Aは目を瞬かせました。
「……は?」
当然の反応でした。
私も、自分で言っていて意味が分かりませんでした。
「いや、なんというか」
私は視線を落としました。
「私は、人を愛するということがよく分からないんです」
言葉にすると、それは酷く歪な告白のようでした。
けれど、事実でした。
「好意を向けられても、どう返せばいいのか分からない。誰かを大切にしたいと思っても、その方法が分からないんです」
Aは黙って聞いていました。
「だから、もし誰かを好きになったとしても」
私は小さく息を吐きました。
「結局、傷つけるだけなんじゃないかと思ってしまうんです」
風が静かに吹いていました。
街灯の光が、濡れたアスファルトにぼんやり反射していました。
「……なんか、お前がそんな話するの意外だわ」
Aは苦笑するように言いました。
「ずっと何でもできる側だと思ってた」
私は小さく笑いました。
「そんなことありませんよ」
「いや、あるって。成績良くて、性格も落ち着いてて、頼られる側じゃん」
私は返答しませんでした。
確かに私は昔から、“しっかりしている人間”として扱われることが多かったのです。
相談を受けることはあっても、自分が誰かへ弱さを見せることは殆どありませんでした。
だから今、自分がこんな話をしていることに、私自身が一番驚いていました。
「でもさ」
Aは缶コーヒーを揺らしながら言いました。
「愛し方なんて、最初から分かる奴いなくない?」
私は静かにその言葉を聞いていました。
「皆、手探りなんだと思う」
Aは少し笑いました。
「ていうか、お前ってむしろ優しすぎるんだよ」
「優しい、ですか」
「傷つけたくないって考えすぎて、逆に距離取ってる感じする」
私は目を伏せました。
図星でした。
私は人を傷つけるのが怖かったのです。
だから最初から深く関わらなければいいと思っていました。
けれど。
あなたと出会ってから、その均衡は少しずつ崩れ始めていました。
「……もし」
私は静かに言いました。
「その人の人生を、自分が狂わせてしまうとしても?」
Aは少しだけ眉を寄せました。
「重いな」
私は苦笑しました。
「すみません」
「でもさ」
Aは空を見上げました。
「その子が本当にお前といたくないなら、そもそも近付いてこないんじゃない?」
私は返答できませんでした。
あなたが自分から私へ近付いてきたことを、思い出していました。
夏祭りの夜。
喫茶店。
傘を返す口実。
あなたは何度も、私へ手を伸ばしてくれていたのです。
それなのに私は、未だに愛するということが分からずにいました。駅前には電車の到着音が響いていました。
私はその雑音の中で、ぼんやりと思っていました。もしこれが恋なのだとしたら。
それはきっと、あまりにも不器用で、救いようのないものなのでしょう。
十月の終わり頃、私はあなたと映画を観に行っていました。
駅前のシネコンは休日ということもあって混雑していて、ロビーには学生やカップルが溢れていました。
「人多いですね」
あなたは上映時間の書かれた画面を見上げながら言いました。
「人気らしいので」
私はチケットを受け取りながら答えました。
今回観る映画は、最近話題になっている恋愛映画でした。
時間が逆行する世界で生きる男女の話。
互いの時間が少しずつ噛み合わなくなっていく中で、それでも相手を愛そうとする物語でした。
上映中、劇場はとても静かでした。
隣に座るあなたは、時折小さく息を呑むような気配を見せていました。
スクリーンの中では、主人公たちが限られた時間を慈しむように過ごしていました。
“いつか終わる”ことを知りながら、それでも相手へ手を伸ばしていたのです。
私はその姿を、どこか遠いものを見るような感覚で眺めていました。
愛とは、あんなふうに真っ直ぐなものなのでしょうか。 私には未だによく分かりませんでした。
映画が終わる頃には、劇場のあちこちですすり泣く音が聞こえていました。
館内の照明が点くと、あなたは少し俯いたまま目元を擦っていました。
「……泣きました?」
私がそう聞くと、あなたは少し気まずそうに笑いました。
「ちょっとだけです」
「感受性豊かですね」
「そっちは全然平気そうでしたね」
私は曖昧に笑いました。
平気というより、上手く入り込めなかったのです。
物語としては綺麗でした。
けれど、自分とは違う世界の人間を見ているような感覚が最後まで消えませんでした。
映画館を出た後、私たちは近くのファミレスへ入りました。
窓際の席に座ると、外は既に夜になっていました。
店内には静かな洋楽が流れていて、周囲では学生たちが賑やかに話していました。
「でも、すごかったです」
あなたはドリンクバーのココアを両手で持ちながら言いました。
「最後の方とか、もうずっと苦しかったです」
「時間が逆になる設定ですか」
「それもですけど」
あなたは少し視線を落としました。
「終わるって分かってるのに、一緒にいるのをやめないじゃないですか」
私は黙って聞いていました。
「普通なら怖くないのかなって思うんです」
私は水の入ったグラスへ視線を落としました。
「……そうですね」
終わりが分かっている関係。
その言葉が妙に胸へ引っ掛かりました。
私自身、ずっとそんなことを考えていたからです。
もし誰かを好きになったとしても、私はきっと最後には傷つける。
そう分かっているなら、最初から近付かない方がいいのではないかと。
「でも」
あなたはふと笑いました。
「もし私たちがあの主人公たちみたいだったら、どうなるんでしょうね」
私は少しだけ目を瞬かせました。
「どう、とは」
「時間が逆だったらです」
あなたはストローを指先で弄びながら続けました。
「会うたびに、どんどん相手のこと知らなくなっていくんですよね」
ファミレスの柔らかな照明が、あなたの横顔を静かに照らしていました。
「それでも、多分」
あなたは少し考えるように視線を泳がせました。
「私は、また会いたいって思う気がします」
その言葉に、私は返答できませんでした。
胸の奥が、静かにざわついていました。
私はずっと、終わることばかり考えていました。いつか失うなら、最初から何も持たない方がいいと。
けれどあなたは、終わることを知っていてもなお、“会いたい”と言うのです。
私は窓の外へ視線を向けました。
夜の街には、静かに雨が降り始めていました。
ファミレスを出る頃には、雨はすっかり本降りになっていました。
街灯の光が濡れた道路へ滲み、夜の街はどこか輪郭を失ったように見えました。
「送ります」
私がそう言うと、あなたは少し困ったように笑いました。
「でも反対方向じゃないですか」
「途中までは同じですから」
あなたは小さく「ありがとうございます」と言いました。
二人で傘を差しながら駅まで歩きました。雨音だけが静かに響いていました。
あなたは時折映画の話を続けていましたが、私は半分ほどしか聞けていませんでした。
頭の中では、別の言葉が繰り返されていたのです。
『その子が本当にお前といたくないなら、そもそも近付いてこないんじゃない?』
Aの声でした。
私はあなたの隣を歩きながら、ぼんやりと考えていました。
あなたは何度も私へ近付いてくれました。
夏祭りで迷子になっていた夜。
喫茶店で、傘を返す口実を作ったこと。
文化祭へ誘ってくれたこと。
そして今も、こうして隣を歩いていること。
あなたはきっと、私が思っている以上に、私を必要としてくれているのです。
けれど。
私はその気持ちへ、どう応えればいいのでしょう。
愛するということが、未だによく分からないのです。
誰かを大切にしたいと思うのに、その方法が分からない。
近付きたいと思うほど、壊してしまう気がして怖くなる。
駅の改札が見えてきました。
「今日はありがとうございました」
あなたは傘を閉じながら言いました。
「映画、楽しかったです」
私は小さく頷きました。
「そうですか」
「また行きたいですね」
その言葉に、胸の奥が僅かに痛みました。
また。
その未来を、私は素直に信じることができませんでした。
「……ええ」
それでも私は、静かに頷いていました。
あなたは少し笑って、改札の向こうへ消えていきました。
私はその背中を見送った後、一人で反対側のホームへ向かいました。
電車へ乗り込むと、窓硝子には濡れた自分の顔がぼんやり映っていました。
疲れたような目をした、いつもの私でした。
電車が走り出すと、街の灯りが線のように流れていきました。
私はその光を眺めながら、静かに考えていました。
もし、本当に。
もし私があなたを好きなのだとしたら。
それは幸福なのでしょうか。
それとも、やはり罪悪なのでしょうか。
静かな死の影は、まだ遠くで私を見つめていました。
けれど最近、その視線の隣に、あなたの姿がある気がしてしまうのです。
「というか、あなたこそどうなんですか」
私は視線を画面へ戻したまま言いました。
Aが「え」と間の抜けた声を出しました。
「最近よく会ってる人」
「あー」
Bが面白そうに笑いました。
「そういやどうなったんだよ」
Aは露骨に嫌そうな顔をしました。
「なんで急に俺になるんだよ」
「自分から振ったんでしょう」
「お前絶対ちょっと根に持ってるだろ」
私は小さく笑いました。
Aは観念したように椅子へ背を預けました。
「まあ、ぼちぼち」
「ぼちぼちって何」
「いや、普通にご飯行ったりしてるだけ」
「それを世間では順調って言うんだよ」
Bは呆れたように言いました。Aは少し照れ臭そうに視線を逸らしました。
私はその様子をぼんやり見ていました。
誰かの話をする時、人はこんな顔をするのだと、妙に客観的に考えていました。
「でもさ」
Aは頬杖をつきながら言いました。
「人と付き合うのって普通に難しくない?」
「急に真面目だな」
「いや、なんか」
Aは少し考えるように言葉を探していました。
「相手のこと好きでも、どうしたらいいか分かんない時あるし」
私は静かにその言葉を聞いていました。
「変に気遣いすぎて空回る時もあるし、逆に何も考えてなくて傷付ける時もあるし」
「それはお前が雑だからだろ」
「うるさい」
Bが笑いました。
私は視線を落としました。
以前、駅前で交わした会話を思い出していました。
『愛し方なんて、最初から分かる奴いなくない?』
私はずっと、自分だけが欠落しているのだと思っていました。
誰かを愛する感覚を、自分だけが持っていないのだと。
けれど、目の前の友人たちもまた、不完全なまま人と関わっているのです。
「お前はどうなの」
不意にAがこちらを見ました。
「その顔」
「顔?」
「なんか考え込んでる時の顔してる」
私は少しだけ目を伏せました。
「……別に」
「絶対別にじゃない」
Bが笑いました。
私は曖昧に口元を緩めました。
窓の外では、十一月の風が木々を揺らしていました。
ラウンジには学生たちの話し声が響いていて、その雑音が妙に心地良く感じられました。
私はぼんやりと思っていました。
人を好きになるということは、もっと完成された人間だけに許されるものだと思っていたのです。
けれど実際は、皆どこか不器用なまま、手探りで誰かを愛しているのかもしれません。
十二月に入ると、街は急に騒がしくなりました。
駅前にはイルミネーションが灯り始め、店先には赤や金の装飾が並んでいました。
冷たい風の中に、どこか浮ついた空気が混ざっているのです。
大学でも年末特有の慌ただしさが漂っていました。
けれど、追われ続けていた提出物はようやく終わりが見え始めていました。
その日の空きコマ、私たちは再び学食近くのラウンジへ集まっていました。
「終わった……」
Aが机へ突っ伏しながら呟きました。
「まだ提出してないだろ」
「でも実質終わりみたいなもんじゃん」
Bも疲れた顔で伸びをしていました。
「今年ずっとレポート書いてた気がする」
私はノートパソコンを閉じ、小さく息を吐きました。
窓の外では、冬の白い空が静かに広がっていました。
最近、あなたからの連絡は少し増えていました。
テストが終わったらしく、『やっと解放されました』と送られてきた文章を見て、私は何故だか少し安心していたのです。
「そういやさ」
Bが唐突に言いました。
「クリスマスどうする?」
「うわ、もうそんな時期か」
Aが顔を上げました。
ラウンジの隅には小さなクリスマスツリーまで置かれていて、季節が確かに年末へ向かっていることを実感させられました。
「俺バイト入れようかな」
「寂し」
「うるさい」
二人はそんなやり取りをしながら笑っていました。
「お前は?」
不意に友人Aがこちらを見ました。
「例の高校生とどっか行くの」
私は少しだけ言葉に詰まりました。
「……分かりません」
「その間が怪しいんだって」
Bが笑いました。
私は視線を逸らしました。
クリスマス。
そういう“特別な日”を、私は今まで意識したことがありませんでした。
誰かと過ごしたいと思ったことも無かったのです。
けれど。
もしあなたから誘われたら。
私はきっと、断れないのでしょう。
「まあでも、お前去年まで絶対クリスマス興味無かっただろ」
Aが可笑しそうに言いました。
「今も別に」
「嘘つけ」
私は小さく苦笑しました。
以前の私は、本当に興味がありませんでした。
街がどれだけ浮かれていても、それをどこか遠い場所の出来事のように眺めていただけだったのです。
けれど最近は、そういう季節の変化に、あなたの存在が結び付くようになっていました。
イルミネーションを見れば、あなたならどう思うだろうと考える。
街の喧騒を歩きながら、もし隣にあなたがいたらと思ってしまう。
それは今までの私には無かった感覚でした。
「……なんかほんと変わったな、お前」
Bがぼんやりと言いました。
私は窓の外へ視線を向けました。
灰色の空の下で、枯れた木々が静かに揺れていました。
変わったのかもしれません。
静かな死だけを見つめていたはずの日々の中へ、いつの間にか別の誰かが入り込んでしまっているのですから。
その日の帰り道は、随分冷え込んでいました。
駅前にはイルミネーションが灯っていて、白や金の光が冬の街をぼんやり照らしていました。
私は電車へ揺られながら、窓の外を静かに眺めていました。
向かい側の席では、学生らしい恋人たちが小さな声で話していました。
以前の私なら、そういう光景に何の感情も抱かなかったのでしょう。
誰かと過ごす特別な日など、自分とは無関係のものだと思っていました。
けれど最近は違いました。
十二月という言葉を聞くだけで、何故だかあなたの顔が浮かんでしまうのです。
家へ帰ると、部屋は静まり返っていました。
暖房をつけても空気はどこか冷たく、窓の外には冬の夜が広がっていました。
私はコートを脱ぎ、ベッドへ腰掛けました。
それから、無意識のうちにスマートフォンを手に取っていました。
画面にはあなたとのやり取りが並んでいました。
『テストお疲れ様です』
少し前に送ったメッセージの下には、あなたからの返事がありました。
『ありがとうございます。そっちも提出物頑張ってください』
私はその文章をぼんやり見つめていました。
友人たちの言葉を思い出していました。
『会いたいなら、会いたいってことなんじゃない?』
私は小さく息を吐きました。
そんな単純な話ではないと思っていました。
人を好きになることは、もっと複雑で、もっと恐ろしいもののように思えていたのです。
私は人を愛する方法を知りません。
誰かへ近付けば、いずれ傷つけてしまう気がしていました。
けれど。
それでも最近、あなたと会わない時間を少し長く感じるのです。
何かを見れば、あなたならどう思うだろうと考えてしまうのです。
私は画面へ指を置き、ゆっくりと文字を打ち込みました。
『……クリスマス、暇ですか』
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が妙にざわつきました。
私は何故、こんなことを言ってしまったのでしょう。
以前の私なら、こんな誘い方は絶対にしなかったはずでした。
数分後、スマートフォンが震えました。
『暇です』
その後に、少し間を空けてもう一通。
『誘ってくれて嬉しいです』
私はその文章を見つめたまま、静かに目を伏せました。
部屋は相変わらず静かでした。
けれど胸の奥だけが、落ち着かないほど騒がしくなっていました。
冷蔵庫には、以前友人たちと飲むつもりで買った缶チューハイが一本だけ残っていました。
私はそれを取り出し、静かな部屋で開けました。
炭酸の抜ける音が、妙に大きく響きました。
窓の外には冬の夜が広がっていました。
遠くのマンションの灯りだけが、ぼんやりと滲んで見えました。
私はベッドへ凭れ掛かりながら、ゆっくり缶を傾けました。
アルコールはあまり強くありませんでしたが、喉の奥が微かに熱を持ちました。
スマートフォンの画面には、あなたからのメッセージが残っていました。
『誘ってくれて嬉しいです』
私はその短い文章を何度も読み返していました。
嬉しい。
その感情を、あなたはこんなにも素直に言葉へできるのです。
私は昔から、そういうものが苦手でした。
人を好きになることも、好意を示すことも、どこか自分には許されていない気がしていたのです。
私は缶を机へ置き、小さく目を伏せました。
恋。
その言葉を考えるたび、胸の奥が静かに軋むのでした。
私は人を愛するということが、未だによく分かりません。
誰かと共にいたいと思うのに、同時に、その人の人生を壊してしまうのではないかと恐ろしくなるのです。
もし私が所謂普通の人間なら。
もっと素直に喜べたのでしょうか。
もっと真っ直ぐ、あなたへ近付けたのでしょうか。
私はぼんやりと天井を見上げました。
薄暗い部屋の中で、時計の音だけが静かに響いていました。
私は愛されていると感じることができなかった故に、愛するということができなかったのです。どうすればいいのかわからなかったのです。
その言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいました。
私は誰かを傷つけないように生きてきたつもりでした。
誰にも期待せず、誰にも深く踏み込まず、静かに生きていけばいいと思っていたのです。
けれど、あなたはそんな私へ何度も近付いてきました。
夏祭りの夜も。
喫茶店も。
文化祭も。
そして今も、私の誘いを嬉しいと言ってくれている。
私はアルコールで少し熱を持った頭のまま、ぼんやり考えていました。
もし、この感情が恋なのだとしたら。
私はそれを、どうすればいいのでしょう。
窓の外では、冬の風が静かに鳴っていました。
その音を聞きながら、私はふと思っていました。
静かな死の影は、ずっと昔から私の隣にありました。
けれど最近、その影の向こう側に、あなたの姿が見える気がしてしまうのです。
クリスマスの夕方、街は眩しいほどの光で溢れていました。
駅前の並木には無数のイルミネーションが巻き付けられていて、白や金の光が冬の空気の中で静かに瞬いていました。
待ち合わせ場所へ向かう途中、私は人波をぼんやり眺めていました。
恋人同士らしい人々。
笑いながら写真を撮る学生たち。
紙袋を抱えて足早に歩く会社員。
街全体が、どこか幸福を演じているようにも見えました。
あなたは既に駅前へ来ていました。
白いマフラーを巻いた姿は、吐く息の白さと相まって、冬の景色へ静かに溶け込んでいました。
「あ」
あなたは私を見ると、小さく笑いました。
「こんばんは」
「こんばんは」
あなたは少しだけ照れたように視線を逸らしました。
「……なんか、変な感じですね」
「何がですか」
「クリスマスに会うの」
私は少し考えました。
確かに、変なのかもしれません。
以前の私なら、こういう日を誰かと過ごすことなど考えもしなかったでしょう。
私たちはイルミネーションの灯る通りをゆっくり歩き始めました。
冬の空気は冷たかったのに、人々の熱気のせいか、街には不思議な温度がありました。
あなたは時折、光る装飾を見上げては小さく笑っていました。
「綺麗ですね」
「ええ」
私はそう返しながら、隣を歩くあなたを見ていました。
側から見れば、私たちも、このクリスマスという日を過ごすありふれた恋人同士なのでしょう。
そのことが何故だか、不思議でした。
私は昔から、恋愛というものを遠い場所の話だと思っていたのです。
誰かと肩を並べて歩く未来も、冬の街を一緒に眺める未来も、自分には存在しないと思っていました。
けれど今、確かにあなたは隣にいました。
街路樹の光が、あなたの横顔を柔らかく照らしていました。
「寒くないですか」
あなたがふと聞きました。
「大丈夫です」
「ならよかったです」
あなたは安心したように笑いました。
その表情を見た瞬間、胸の奥が静かに痛みました。
私はきっと、この時間を失いたくないと思い始めているのです。
私たちは暫く無言のまま歩いていました。
沈黙は不思議と苦しくありませんでした。
人々の笑い声と、遠くで流れるクリスマスソングだけが夜へ滲んでいました。
私はぼんやりと思っていました。
もし時間が止まるなら、きっとこういう瞬間なのでしょう。
けれど同時に、こんな幸福が長く続くはずもないと、どこかで理解していました。
この楽しい“今”という瞬間も、明日にはただの記憶の一部になってしまうのでしょう。
イルミネーションの光も、冬の匂いも、あなたの笑った顔も。
全て、やがて過去になる。
そう思うと、胸の奥へ静かな焦燥が広がっていきました。
数日前、私は友人Aと駅前を歩いていました。
「で、何買うの」
友人Aは呆れたように言いました。
十二月の街は人で溢れていて、どの店もクリスマスの装飾で煌びやかに彩られていました。
私はその喧騒を眺めながら、小さく息を吐きました。
「……分かりません」
「なんで来たんだよ」
「贈り物をしたことがあまりないので」
Aは可笑しそうに笑いました。
「ほんと不器用だな」
私は否定しませんでした。
誰かのために何かを選ぶ、という行為そのものが、私にはどこか現実感の薄いものだったのです。
けれど最近は、そういう“自分以外の誰か”を考える時間が増えていました。
Aはアクセサリーショップの前で立ち止まりました。
「無難なのはネックレスとか?」
ショーケースには、小さな銀色のアクセサリーが並んでいました。
私はぼんやりとそれを見つめました。
「高校生に重くないですか?」
「お前が重いこと考えすぎなんだって」
私は小さく苦笑しました。
Aは店内を見回しながら、「これとか似合いそうじゃん」と幾つか指差していました。
その中に、小さな月のモチーフが付いた細いネックレスがありました。
派手ではなく、静かな光を宿したような銀色でした。
私は何故だか、そのネックレスから目を離せませんでした。
「……これにします」
Aは少し意外そうに笑いました。
「即決じゃん」
「なんとなくです」
けれど本当は、“なんとなく”ではありませんでした。
あなたが笑う時の柔らかな雰囲気を思い出していたのです。
冬の光の下で、その銀色はきっとよく似合うだろうと思いました。
クリスマスの夜、私たちはイルミネーションを見た後、駅近くのレストランへ入っていました。
店内には穏やかな音楽が流れていて、窓際の席からは夜景が見えました。
周囲には恋人同士らしい客が多く、グラスの触れ合う音や静かな笑い声が響いていました。
側から見れば、私たちもその中の一組なのでしょう。
そう思うと、不思議な気持ちになりました。
「こんなところ予約してたんですか」
あなたは少し驚いたように言いました。
「たまには」
私はメニューへ視線を落としながら答えました。
料理が運ばれてくる頃には、店内の灯りはより一層柔らかく感じられました。
窓の外では、イルミネーションが静かに瞬いていました。
あなたの前にはオムライス。
私の前には、湯気を立てるビーフシチューが置かれていました。
「美味しそうですね」
あなたは少し嬉しそうに言いました。
「そちらも」
オムライスの上には綺麗な焼き色が付いていて、ナイフを入れると半熟の卵がゆっくり開きました。
あなたは「わ」と小さく声を漏らして笑っていました。
私はその様子を静かに眺めていました。
誰かと食事をすること自体は、珍しいことではありませんでした。
友人と食堂へ行くこともありましたし、飲み会へ参加することもありました。
けれど、それらは何処か“作業”に近かったのです。
ただ空腹を満たし、会話へ適当に相槌を打ち、時間が過ぎるのを待つ。
私は昔から、食事へあまり執着がありませんでした。
味も温度も、どこか遠い場所の感覚のように思えていたのです。
私はスプーンでビーフシチューを掬いました。
柔らかく煮込まれた肉が、口の中で静かに崩れました。
赤ワインの香りと、微かな苦味。
温かさがゆっくり喉を通っていきました。
私は僅かに目を伏せました。
――美味しい。
そんな当たり前の感覚を、妙にはっきり認識している自分へ驚いていました。
「どうかしました?」
あなたが不思議そうにこちらを見ました。
「いえ」
私は静かに首を横へ振りました。
「ただ、久しぶりにちゃんと食べている気がして」
「……?」
あなたは少し首を傾げていました。
当然です。
自分でも上手く説明できませんでした。
けれど確かに、今の私は“味わっている”のでした。
料理の味も。
暖かな空気も。
あなたの笑い声も。
以前の私は、こんなふうに世界を感じていなかった気がします。
「そっちはどうですか」
私がそう聞くと、あなたは少し嬉しそうにオムライスを見下ろしました。
「美味しいです」
それから少し笑って、
「なんか、こういうの憧れてたんです」
「こういうの?」
「クリスマスに誰かとご飯食べたり」
私はその言葉を静かに聞いていました。
あなたは照れたように水を飲みました。
「普通のことなんですけどね」
普通。
私はその言葉を頭の中で繰り返しました。
恋人同士がクリスマスを過ごすこと。
プレゼントを交換すること。
食事をしながら笑い合うこと。
きっと世間では、そんなものはありふれた幸福なのでしょう。
けれど私には、その全てが未だ現実感の薄い夢のように思えました。
何故なら私はずっと、自分にはそういう未来が訪れないと思っていたからです。
私は窓の外へ視線を向けました。
街は相変わらず光に溢れていました。
その眩しさの中で、私はぼんやりと思っていました。
もしこの時間が幸福なのだとしたら。
私は今、確かに幸福なのかもしれません。
食事の最中、あなたはどこか落ち着かない様子でした。
けれど、それは嫌そうなものではなく、どちらかと言えば緊張に近いように見えました。
料理を食べ終えた頃、私は紙袋を取り出しました。
「これ」
あなたは目を丸くしました。
「……え」
「クリスマスですから」
あなたは少し慌てたように袋を受け取りました。
「開けてもいいですか」
「どうぞ」
包装を解いた瞬間、あなたは静かに息を呑みました。
銀色のネックレスが、レストランの灯りを受けて小さく光っていました。
「……綺麗」
その声は、ほとんど独り言のようでした。
「ありがとうございます」
あなたは少し俯いたまま、小さく笑いました。
「すごく嬉しいです」
私はその表情を見つめながら、胸の奥が静かに熱を持つのを感じていました。
すると今度は、あなたがおずおずと鞄から袋を取り出しました。
「その……私も」
私は少し目を瞬かせました。
「開けても?」
あなたは小さく頷きました。
中には、深い紺色のマフラーが入っていました。
手編みらしく、少し不揃いな編み目がありました。
「編んだんですか」
「……はい」
あなたは恥ずかしそうに視線を逸らしました。
「上手くないですけど」
私は指先で静かにマフラーへ触れました。
柔らかくて、微かに毛糸の匂いがしました。
誰かが自分のために時間を掛けたものを受け取るのは、こんなにも不思議な感覚なのだと、その時初めて知りました。
「ありがとうございます」
私は静かに言いました。
あなたは少し安心したように笑いました。
窓の外では、イルミネーションが静かに瞬いていました。
この楽しい今という瞬間も、明日にはただの記憶の一部になってしまうのでしょう。
それでも今だけは。
私は、この時間が終わらなければいいと、ほんの少しだけ思ってしまっていたのです。
プレゼントを交換した後も、私たちは暫く言葉を失っていました。
店内には静かなピアノの音が流れていて、窓の外ではイルミネーションが冬の街を淡く照らしていました。
あなたは受け取ったネックレスを何度も見つめていて、その度に少し照れたように笑っていました。
私はそんなあなたを見ながら、指先でマフラーの感触を確かめていました。
柔らかく、不揃いで、酷く人間らしい温度がありました。
やがて、タイミングを見計らったように店員が皿を運んできました。
「こちら、クリスマス限定のサービスになります」
白い皿の中央には、小さなショートケーキが二つ並べられていました。
粉砂糖が雪のように振られていて、皿の端には細くチョコレートでメッセージが書かれていました。
あなたは少し驚いたように目を丸くしました。
「……すごいですね」
「そういう店らしいです」
本当は予約の際に追加で頼んでいたものでした。
けれど、何となくそれを言うのは気恥ずかしくて、私は曖昧に視線を逸らしました。
あなたはフォークで小さくケーキを切り分けながら、どこか楽しそうにしていました。
「甘いもの好きなんですか」
「普通くらいです」
「普通の人、こんな店予約しませんよ」
私は小さく笑いました。
「そうかもしれませんね」
以前の私なら、確かにこんなことはしなかったでしょう。
誰かのために店を探し、予約をして、贈り物を選ぶ。
そういう“未来を前提とした行動”を、私は殆どしてこなかったのです。
ケーキは静かに甘く、口の中でゆっくり溶けていきました。
私はぼんやりと、その味を感じていました。
「……なんか」
あなたが小さく言いました。
「今日、夢みたいです」
私は視線を上げました。
あなたは少し困ったように笑っていました。
「こんなちゃんとしたクリスマス、初めてかもしれません」
私は返す言葉を探しました。
けれど結局、何も上手く見つかりませんでした。
あなたはきっと、こんな時間を大切なものとして受け取ってくれているのです。
それが嬉しくて、同時に恐ろしくもありました。
「……私も」
気付けば、そんな言葉が零れていました。
あなたは少し驚いたようにこちらを見ました。
「え」
「こういうのは、慣れていないので」
私はフォークを置き、窓の外へ視線を向けました。
イルミネーションの光が、硝子越しにぼんやり滲んでいました。
この楽しい“今”という瞬間も、やがては記憶へ変わっていくのでしょう。
けれど。
もし消えてしまうのだとしても、今この瞬間だけは確かに存在しているのです。
「……また来年も来れたらいいですね」
あなたはケーキを見つめたまま、静かにそう言いました。
私は息を止めました。
来年。
その言葉は、私にとってあまりにも遠い未来でした。
私は昔から、自分の人生へ長い先を想像することができなかったのです。
静かな死だけが、いつも曖昧な未来の代わりにそこへありました。
それなのに今、あなたは自然に“来年”を口にするのです。
私は少しだけ目を伏せました。
「……そうですね」
それでも私は、否定することができませんでした。
年末の街は、クリスマスの喧騒が過ぎ去った後の、どこか気の抜けた空気に包まれていました。
イルミネーションはまだ残っているのに、人々の関心は既に正月へ移り始めているようでした。
その日、私はAとBに呼ばれて駅前の居酒屋へ来ていました。
「今年お疲れ会」
Bがそう言いながら、適当にジョッキを掲げました。
店内は忘年会らしい客で賑わっていて、あちこちから笑い声が聞こえていました。
私は烏龍茶の入ったグラスを軽く合わせました。
「お前酒飲まないの」
Aが聞いてきました。
「飲めなくはないですけど」
「またその曖昧な返事」
私は小さく笑いました。
窓の外では、冬の夜が静かに広がっていました。
「で、クリスマスどうだったの」
Bが興味津々な顔で聞いてきました。
私は少しだけ言葉に詰まりました。
「普通でした」
「絶対普通じゃない」
Aが即座に笑いました。
「お前最近“普通”の基準おかしいからな」
「そうですか」
「で? どこ行ったの」
私は暫く迷った後、小さく答えました。
「……イルミネーションを見て、食事を」
「うわ」
Bが大袈裟に顔をしかめました。
「ちゃんとデートしてる」
「だからそういうものでは」
「まだ言うか」
Aは呆れたように笑っていました。
「お前は?」
Bが聞くと、Aは少し照れ臭そうに視線を逸らしました。
「まあ、普通に一緒にいた」
「ふうん」
「何その反応」
Bが横から笑いました。
「こいつ、彼女とイルミネーション見に行って浮かれてたよ」
「余計なこと言うな」
Aは嫌そうな顔をしていました。
そのやり取りを見ながら、私は静かにグラスへ口を付けました。
「お前は?」
今度は友人Aが友人Bへ話を振りました。
「バイト」
「悲し」
「クリスマス時給高いんだよ」
友人Bはあっさり言いました。
「カップルだらけで疲れたけど」
三人で小さく笑いました。
こういう時間は不思議でした。
以前の私は、年末を誰かと過ごすことへ特別な意味を感じていなかったのです。
けれど今は、あなたがここにいないことを少しだけ意識していました。
家族と過ごしていると言っていました。
きっと今頃、暖かい部屋で笑っているのでしょう。
私はその光景をぼんやり想像していました。
「……なんかほんと変わったな」
不意にBが言いました。
「最近のお前、前より人間っぽい」
「どういう意味ですか」
「前はもっと幽霊みたいだった」
Aまで笑って頷いていました。
私は苦笑しました。
否定はできませんでした。
以前の私は、何処か人生を傍観していたのです。
誰かへ執着することもなく、未来を想像することもなく、ただ静かに日々を消費していました。
けれど最近は違いました。
来年という言葉を聞けば、無意識にあなたを思い浮かべてしまうのです。
それが幸福なのか、あるいは破滅への前兆なのか、私にはまだ分かりませんでした。
友人たちの笑い声を聞きながら、私はぼんやりとグラスの氷を眺めていました。
以前の私なら、きっとこの場にいても何も感じなかったのでしょう。
適当に相槌を打ち、時間が過ぎるのを待ち、それだけで終わっていたはずなのです。
けれど最近は、
人の言葉に一喜一憂し、誰かの不在を寂しいと思い、未来というものを少しだけ想像してしまう。
そんな自分を、未だにどこか他人のように感じていました。
あなたという存在は、確かに私を人間らしく甦らせてくれました。
色の無かった日々へ温度を与え、ただ淡々と流れていた時間へ意味を与えてくれたのです。
私はあなたと出会って初めて、季節の移ろいや、誰かと食事をする時間の暖かさを知りました。
明日を待つという感覚を、ほんの少し理解し始めていました。
けれど。
それと反比例するように、私の胸は、言葉にはできない何か重たい鎖で静かに縛られていくのでした。
幸福であればあるほど、その終わりを考えてしまうのです。
いつか失うのではないか。
私が壊してしまうのではないか。
そんな恐怖が、幸福の輪郭をなぞるように、常に隣へありました。
「……おい」
不意にBの声がして、私は顔を上げました。
「またぼーっとしてる」
Aも苦笑していました。
「最近ほんと増えたよな、それ」
私は小さく目を瞬かせました。
「そうですか」
「そうだよ」
Bは呆れたように箸を置きました。
「話してる途中で急に意識どっか行くじゃん」
「前から多少あったけど、最近特に」
私は曖昧に笑いました。
自覚はありました。
最近、少し気を抜くとすぐにあなたのことを考えてしまうのです。
街で見掛けたもの。
友人との会話。
冬の匂い。
そういう些細なものが、何故だか全部あなたへ繋がってしまうのでした。
「絶対今も例の子のこと考えてたろ」
Aが面白そうに言いました。
私は数秒黙り込み、それから静かにグラスへ口を付けました。
「否定しないんだ」
「……最近、難しいんです」
気付けば、そんな言葉が零れていました。
「何が?」
私は少し考えました。
けれど上手く説明できませんでした。
人を好きになること。
誰かを失いたくないと思うこと。
未来を願ってしまうこと。
その全てが、私には未だ馴染みのない感情だったのです。
「自分が、自分じゃないみたいで」
店内の喧騒が遠く聞こえていました。
AとBは一瞬だけ黙り、それから小さく笑いました。
「重症だな」
「完全に恋してる人の台詞じゃん」
私は苦笑しました。
否定しようとして、言葉が出ませんでした。
以前の私なら、即座に否定していたはずなのです。
けれど今は、“違う”と言い切れなくなっていました。
それが少し恐ろしくて、同時に何処か安堵している自分もいました。
「まあでも」
Aがジョッキを揺らしながら言いました。
「そんな顔するくらいなら、ちゃんと大事なんだろ」
私は静かに目を伏せました。
大事。
その言葉は、胸の奥へひどく静かに沈んでいきました。
私は今まで、何かを“失いたくない”と思ったことが殆どありませんでした。
けれど今は違うのです。
あなたと過ごした時間が、記憶になっていくことを惜しいと思ってしまう。
来年も、その先も、隣にいて欲しいと考えてしまう。
それはきっと、とても人間らしい感情なのでしょう。
そして同時に。
私を静かな破滅へ近付ける感情でもある気がしていました。
「ていうかさ」
Bがふと箸を止めました。
「前から思ってたんだけど」
私は顔を上げました。
「お前ってほんと危なっかしいんだよな」
「危なっかしい?」
「なんていうか……気付いたら急にいなくなってそうっていうか」
Aが「あー」と苦笑混じりに頷きました。
「分かる」
私は小さく目を瞬かせました。
「失礼ですね」
「いや、そういう意味じゃなくて」
Bは言葉を探すように空中へ箸を向けました。
「ほら、英語の未来形あるじゃん」
「急に文法」
「お前、なんかずっと“will”なんだよ」
私は少し考えました。
「……どういう意味ですか」
「“going to”じゃないってこと」
Aが笑いながら補足しました。
「予定とか現実感ある未来じゃなくて、“そうなる気がする”みたいな曖昧な未来」
私は静かにその言葉を聞いていました。
「分かんないけど、お前って昔から“この先こうしたい”みたいなの全然無かったじゃん」
「なんかずっと、今ここに仮置きされてる感じ」
Bはそう言って、少し困ったように笑いました。
「だから怖いんだよ。ふらっと全部捨てて消えそうで」
店内の喧騒が、急に遠く聞こえました。
私はグラスの中で揺れる氷を見つめていました。
――ああ。
その感覚を、私は自分でも知っていました。
私の人生には、いつも確定した未来がありませんでした。
大学へ進学したのも、文学を学んでいるのも、ただ何となく流れに乗っていただけのような気がしていたのです。
来年も。
その先も。
自分が存在している実感を、私は上手く持てずにいました。
「でも最近はちょっと違う気がする」
不意にAが言いました。
私は顔を上げました。
「最近のお前、前よりちゃんと“先”見てる感じする」
「……そうですか」
「うん」
Aは笑いました。
「少なくとも、その子といる時のお前は、ちゃんと未来側にいるよ」
私は返事をしませんでした。
胸の奥が、静かに軋んでいました。
未来。
その言葉を、私はずっと恐れていたのです。
けれど最近は、あなたと過ごす“次”を考えてしまう。
次に会う日。
冬休みが終わった後。
来年の春。
そんなものを想像してしまう自分がいるのです。
それはきっと、幸福なことなのでしょう。
けれど同時に。
未来を持ってしまった人間は、失う痛みから逃れられないのだとも思いました。
年が明けた翌日、私はAとBに半ば強引に連れ出される形で明治神宮へ来ていました。
原宿駅を降りた時点で、人の多さに少し後悔しました。
「帰りたい顔してる」
友人Bが笑いました。
「実際ちょっと帰りたいです」
「まだ鳥居もくぐってないぞ」
冬の空気は鋭く冷えていましたが、境内へ向かう人々の熱気のせいか、妙に温度がありました。
参道には屋台が並び、甘酒や焼き団子の匂いが漂っていました。
私は人波へ押されながら、ぼんやりと木々を見上げていました。
高い空は薄い灰色で、枝の向こうに冬の光が滲んでいました。
「お前、初詣とかちゃんと来るタイプだっけ」
Aが聞きました。
「来たり来なかったりです」
「願掛けとかしなさそう」
私は少し考えました。
確かに、神へ何かを願うことはあまりありませんでした。
未来に期待するという感覚自体、私には薄かったのです。
けれど最近は。
“来年”や“その先”というものを、以前より少しだけ現実的に考えてしまうようになっていました。
「今年は何お願いすんの」
Bが面白そうに聞きました。
「秘密です」
「うわ、絶対あの子関連じゃん」
私は否定せず、小さく笑いました。
境内は思った以上に混雑していて、参拝まで長い列ができていました。
私たちはゆっくり前へ進みながら、取り留めのない話を続けていました。
Aは途中で甘酒を買っていて、「熱っ」と騒いでいました。
Bは屋台を見掛ける度に立ち止まり、「腹減った」と繰り返していました。
そんな二人を見ながら、私は静かに息を吐きました。
以前の私なら、この時間をただ騒がしいだけだと思っていたのでしょう。
けれど今は、不思議と悪くないと思っている自分がいました。
ようやく賽銭箱の前まで辿り着くと、周囲の喧騒が少し遠のいた気がしました。
私は静かに手を合わせました。
願い事を考えようとして、少し迷いました。
健康でも、成功でもありませんでした。
頭へ浮かんだのは、あなたのことでした。
けれど同時に、私は躊躇っていました。
あなたの幸福を心から願いたいと思うのに、それはひどく罪深いことのようにも感じられたのです。
誰かの人生へ深く関わり、その先の幸福まで願ってしまうこと。
それは本来、もっと真っ当で、未来を信じられる人間だけに許された行為なのではないでしょうか。
私のような人間が、誰かの人生へ干渉してよいのでしょうか。
私は昔から、自分が長く生きる未来を上手く想像できませんでした。
静かな死だけが、いつも曖昧な未来の代わりにそこへありました。
そんな人間が、あなたの隣へ立ちたいなどと思ってしまうこと自体、間違っている気がしたのです。
もし私があなたへ近付かなければ。
あなたはもっと穏やかで、普通の幸福を得られるのではないか。
そんな考えが、祈りの最中でさえ胸の奥を静かに締め付けていました。
それでも私は、願わずにはいられなかったのです。
どうかあなたが、笑っていられますように、と。
そう願い、私は少しだけ目を伏せました。
昔の私なら、誰かの幸福を祈ることなど無かった気がします。
参拝を終えた後、Bがこちらを見ました。
「で、何お願いしたの」
「言うと叶わないらしいですよ」
「珍しくちゃんと初詣っぽいこと言うじゃん」
私は小さく苦笑しました。
冷たい風が木々を揺らしていました。
その音を聞きながら、私はぼんやり思っていました。
もし神というものが存在するのなら。
どうか、あなただけは傷つかないでいてほしい、と。
「……で、湿っぽい空気になったところで」
Bが手を叩くように言いました。
「おみくじ引きますか」
私は顔を上げました。
「切り替え早いですね」
「初詣来たら引くだろ普通」
Aも「せっかくだしな」と笑っていました。
参道の脇には、おみくじを引くための列ができていました。
白い息を吐きながら並ぶ人々を眺めつつ、私たちもその後ろへ加わりました。
「お前、こういうの信じるタイプ?」
Aが聞いてきました。
「都合のいい部分だけ」
「一番人間らしい回答じゃん」
私は小さく苦笑しました。
順番が回ってきて、私は木箱を静かに振りました。
細い棒が一本だけ落ちてきて、その番号を巫女へ伝える。
渡された紙は、冬の空気で少し冷えていました。
「何だった?」
私は紙へ視線を落としました。
そこには、穏やかな言葉が幾つも並んでいました。
“焦らず待て”
“人との縁を大切にせよ”
そんなありふれた文章が、妙に胸へ引っ掛かりました。
「俺、大吉」
Aが得意げに見せてきました。
「うざ」
「お前は?」
「末吉」
Bは露骨に嫌そうな顔をしていました。
「絶対今年バイト運しかないわ」
三人で小さく笑いました。
私はもう一度、自分のおみくじへ視線を落としました。
恋愛の欄には、
“思い詰めるな”
とだけ書かれていました。
私は静かに目を伏せました。
まるで見透かされているようでした。
あなたを想うことは、私にとって幸福であると同時に、酷く重たいものでもありました。
好きになればなるほど、自分があなたを不幸へ近付けている気がしてしまうのです。
「なんか深刻そうな顔してるけど、大凶でも引いた?」
Aが笑いながら言いました。
「いえ、吉です。」
私は紙を畳み、静かにポケットへしまいました。
「……ただ、当たってる気がして」
「何が」
私は少しだけ考えて、それから曖昧に笑いました。
「秘密です」
冬の風が木々を揺らしていました。
その音を聞きながら、私はぼんやりと思っていました。
もし未来というものが存在するなら。
私はそれを、まだ少し怖がっているのでしょう。
参拝を終えた後、私たちは屋台の並ぶ通りへ流されるように歩いていました。
冬の空気の中へ、甘い匂いやソースの香りが混ざって漂っていました。
「腹減った」
Bが早速たこ焼きの屋台へ吸い寄せられていきました。
「さっき昼食べたばっかだろ」
「屋台は別腹」
Aは呆れながらも焼きそばを買っていました。
私は少し迷った末、甘酒を手に取りました。
紙コップ越しに伝わる熱が、冷えた指先へゆっくり染み込んでいきました。
近くのベンチへ三人で腰掛けると、周囲には同じように屋台の食べ物を抱えた人々が行き交っていました。
子供の笑い声。
遠くで鳴る電車の音。
冬の澄んだ空気。
私はぼんやりとその光景を眺めていました。
「お前それだけ?」
Bがたこ焼きを頬張りながら聞いてきました。
「十分です」
「食細すぎ」
私は小さく笑いました。
甘酒を口へ含むと、ほんのりとした甘さが喉へ広がりました。
以前の私なら、こういう時間をただ騒がしいだけだと思っていたのでしょう。
けれど最近は、不思議と穏やかでした。
ふと。
こんな場所へ、あなたがいたらどうするだろうと思いました。
あなたはきっと、屋台を一つ一つ見て回って、小さなことにも楽しそうに笑うのでしょう。
甘酒を飲んで、「熱っ、」と少し困ったように笑うかもしれません。
私は無意識に、その光景を想像していました。
「……またぼーっとしてる」
Aが呆れたように言いました。
私は視線を戻しました。
「顔に出てた?」
「出てる出てる」
Bが笑いました。
「絶対今あの子のこと考えてたろ」
私は否定できず、小さく苦笑しました。
以前の私は、一人でいることに慣れ過ぎていました。
誰かが隣にいる未来を、想像することすらなかったのです。
けれど今は違いました。
景色を見る度に、あなたならどう思うだろうと考えてしまう。
何かを食べれば、一緒に食べられたらと思ってしまう。
そんな自分を、未だに少し信じ切れずにいました。
私は湯気の立つ甘酒を見つめながら、静かに思っていました。
人を想うということは、こんなにも日常へ入り込んでくるものなのですね、と。
屋台の通りを抜ける頃には、空の色はすっかり薄くなっていました。
冬の夕方は終わるのが早く、気付けば境内の灯りがより強く浮かび上がっていました。
「じゃ、締めるか」
Aが当然のように言いました。
「締める?」
私は首を傾げました。
「初詣の後は居酒屋だろ」
「いつからセットになったんですか」
「伝統」
Bが即答しました。
結局そのまま流されるように、駅前の居酒屋へ向かうことになりました。
暖簾をくぐると、外の静けさとは対照的に、店内は一気に騒がしい空気に包まれました。
忘年会と新年会の境目のような雰囲気で、笑い声と食器の音が混ざっていました。
「とりあえず生!」
「お前は烏龍茶でいいよな」
「はい」
私たちは奥の席へ案内されました。
木のテーブルは少しだけ温かく、外気で冷えた手がじんわりと落ち着いていきました。
AとBはすぐにメニューを開き、適当に料理を頼んでいました。
私はその様子を眺めながら、窓の外を見ました。
ガラス越しに見える街は、もう夜の色になっていました。
そのときふと、思いました。
この一年の終わりを、私はこうして誰かと過ごしているのだと。
以前の私なら、きっと一人で部屋にいたでしょう。
静かな部屋で、何も考えずに時間が過ぎるのを待っていたはずです。
けれど今は違いました。
友人たちの声が、隣にありました。
そしてそのさらに向こう側には、あなたの存在がありました。
あなたは今、何をしているのでしょう。
家族と過ごしていると言っていました。
きっと暖かい部屋で、穏やかに笑っているのでしょう。
その光景を想像すると、不思議と胸の奥が少しだけ落ち着きました。
「お前さ」
友人Bがジョッキを受け取りながら言いました。
「今日ずっと落ち着いてるよな」
「そうですか」
「いや、前はもっとこう……どこか遠く見てる感じだった」
Aも頷いていました。
「最近はちょっと違う」
私は少しだけ言葉に詰まりました。
違うのだと思います。
確かに私は変わり始めていました。
人と関わること。
誰かを待つこと。
そして、誰かを思い浮かべながら日常を過ごすこと。
それらは以前の私にはなかったものでした。
けれどその変化を、私はまだ上手く言葉にできませんでした。
「まあいい変化じゃね」
Aが軽く言いました。
「人間っぽくなってきたってことだし」
私は小さく笑いました。
「前は何だったんですか」
「幽霊」
「またですか」
三人で笑いました。
店内の騒がしさの中で、その時間だけが少し柔らかく感じられました。
居酒屋を出たあとの夜は、やけに静かでした。
駅へ向かう人の流れから外れたまま、私は自然と川沿いの道へ足を向けていました。
理由は、うまく説明できません。
ただ、喧騒の残り香のようなものを、そのまま家へ持ち帰りたくなかっただけなのかもしれません。
川は黒く沈んでいて、街灯の光さえも途中で吸い込まれていくようでした。
水面は何かを映しているようでいて、実際には何も掴ませてくれません。
私は欄干にもたれながら、その流れを見ていました。
音のない水が、ただ一定の速度で下流へ向かっていきます。
それはまるで、何かが“失われていく過程”そのもののように見えました。
私はふと、今日のことではなく、もっと前のことを考えていました。
あなたと出会った日からのことです。
夏祭りの夜。
喫茶店の雨。
傘を貸したこと。
返しに来た日。
文化祭。
映画館。
イルミネーション。
クリスマスのレストラン。
ひとつひとつは確かに明るい記憶のはずでした。
けれど、それらを順に辿っていくと、どこかで足元の感覚が曖昧になっていきました。
私は少しずつ、自分の内側が変わっていくのを感じていました。
人を想うということ。
誰かを待つということ。
未来を考えてしまうということ。
それらは、私にとってはまだ上手く扱えないものばかりでした。
そして同時に、それらが確かに“生きている感覚”でもあることを知ってしまったのです。
その事実が、ひどく怖いのです。
川を見つめているうちに、思考はさらに奥へ沈んでいきました。
もしこのまま、誰かを想い続けてしまったら。
もしこのまま、未来というものを手放せなくなってしまったら。
私はどうなるのでしょう。
以前のように、何も持たずに静かに立っていることができなくなるのでしょうか。
それとも、その“何もない場所”へ戻れなくなるのでしょうか。
川は相変わらず暗く、何も答えませんでした。
ただ、静かに流れ続けていました。
その流れを見ているうちに、私は気付きました。
自分もまた、同じように流され始めているのだと。
どこへ向かうのか分からないまま、何かに少しずつ引き込まれているのだと。
それは恐怖というより、もっと静かな感覚でした。
抗う力を持たないまま、暗闇の方へ馴染んでいくような。
私は欄干に触れた手を、ゆっくりと握り直しました。
それでも川は止まらず、夜はただ深くなっていきました。
一月は、思っていたよりも早く形を失っていきました。
年が明けたという実感も、日付の変化も、どれも薄い膜の向こう側にあるようでした。
それでも大学は始まり、講義はいつものように淡々と続いていました。
私はAとBと、空きコマのたびに顔を合わせていました。
学食の席は相変わらずで、窓の外の光だけが少しだけ冬から春へと傾き始めていました。
「正月太りってさ」
Bが箸を動かしながら言いました。
「実在するよな」
「お前は年中だろ」
Aが即座に返していました。
私は小さく笑いながら、味噌汁を飲みました。
以前より、こういう何でもない会話が長く頭に残るようになっていました。
意味のないやりとりの中に、妙な安心があることを知ってしまったからかもしれません。
Aがふとこちらを見ました。
「で、冬休みどうだったの」
「普通でした」
「またそれ」
Bが笑いました。
「絶対普通じゃないって」
私は少し考えて、それから視線を落としました。
普通ではなかったのかもしれません。
けれど、それをどう言葉にしていいのか分かりませんでした。
あなたと過ごしたクリスマスは、今も記憶の中に残っていました。
ネックレスの光。
マフラーの温度。
窓の外のイルミネーション。
それらは確かに現実だったはずなのに、思い返すたびに少しだけ遠くなっていきます。
「なんかさ」
Aが少し真面目な声で言いました。
「お前、前よりちゃんと“ここにいる”感じする」
私は目を瞬かせました。
「そうですか」
「うん」
Bも頷いていました。
「前はマジでどっか行きそうだったけど、今はまだ引っかかってる感じある」
私はその言葉をすぐには理解できませんでした。
引っかかっている。
それが良いことなのか悪いことなのかも分かりませんでした。
ただひとつ分かるのは、私はもう完全に一人ではないということでした。
友人たちの存在。
日常の会話。
そして、あなたという存在。
それらが、静かに私の輪郭を形作っていました。
けれど同時に、その輪郭はどこか不安定でもありました。
何か一つ欠ければ、簡単に崩れてしまいそうなほどに。
講義の帰り道、私は一人で駅へ向かっていました。
冬の終わりの空は、まだ冷たさを残していましたが、ほんの少しだけ明るさが混じっていました。
その空を見上げながら、私は思っていました。
このまま時間が進めば、春が来るのだと。
そして春になれば、また新しい日常が始まるのだと。
その中にあなたがいるのかどうか、私はまだはっきりとは分かりませんでした。
ただ、いないという未来を想像すると、胸の奥が静かに軋むのを感じていました。
私はそれを、まだ上手く扱うことができませんでした。
二月の空気は、同じ冬でも少しだけ質が違っていました。
乾いた冷たさの奥に、わずかに柔らかさが混ざり始めているような、曖昧な季節でした。
バレンタイン当日、私はあなたと駅前で待ち合わせをしました。
人通りは相変わらず多く、ショーケースには赤や茶色の包装が並んでいました。
その中で、あなたは少しだけ早く着いていて、私を見つけると小さく手を上げました。
「こんにちは」
「……こんにちは」
あなたは少し照れたように笑って、それから紙袋を差し出しました。
「これ、良かったら」
中には、小さなチョコレートの箱が入っていました。
派手ではなく、けれど丁寧に包まれていて、触れ方ひとつにも気遣いがあるような箱でした。
「ありがとうございます」
私はそれを受け取りながら、どう言葉を返せばいいのか少し迷いました。
あなたは「いや、その」と言いながら視線を逸らしました。
「お返しとか気にしないでください。ただ、なんとなく渡したかっただけで」
その“なんとなく”という言葉が、妙に胸に残りました。
そのまま、私たちはいつもの喫茶店へ入りました。
窓際の席は冬の光が柔らかく差し込んでいて、外の寒さが少しだけ遠く感じられました。
私はチョコレートを小さく割りながら、静かに味を確かめていました。
甘さは控えめで、どこか落ち着いた味でした。
「どうですか」
あなたが少し緊張したように聞きました。
「美味しいです」
そう答えると、あなたは少しだけ安心したように笑いました。
その表情を見ながら、私はふと思いました。
この人はいつも、私の反応を少し気にしているのだと。
それが嬉しいのか、苦しいのか、まだ自分でもよく分かりませんでした。
しばらくして、あなたがカップを両手で包みながら、ぽつりと言いました。
「……あの」
「はい」
少し間がありました。
窓の外を一度見て、それからあなたは視線を戻しました。
「あなたって、どこか遠くにいる感じがするんですよね」
私は動きを止めました。
あなたは言葉を選ぶように続けました。
「目の前にいるのに、近づけない気がするっていうか……」
私はすぐに返事ができませんでした。
その言葉は、ずっと自分の中でうっすらと感じていたものと、どこかで重なっていたからです。
私はここにいるつもりで、ここにいないのかもしれない。
誰かと話していても、完全にはその場に属していないような感覚。
それを、あなたは見抜いているようでした。
「そう、見えますか」
やっとそれだけを言いました。
あなたは少し困ったように笑いました。
「見えるというか……うまく言えないんですけど」
「…」
「ちゃんとそこにいるのに、ずっと少しだけ先にいるみたいで」
私はカップの縁を指でなぞりました。
返す言葉はすぐには出てきませんでした。
否定することも、肯定することもできないまま、ただ静かに時間だけが流れていきました。
窓の外では、人々が行き交っていました。
そのどれにも完全には混ざれないまま、私はここに座っていました。
そして同時に、あなたの言葉が不思議なほど正確であることを悟ってしまっていました。
あなたはしばらくカップを見つめたまま黙っていました。
それから、小さく息を吐くようにして、こちらを見ました。
「……すみません」
私は顔を上げました。
「失礼なこと、言っちゃいましたか」
その声は、いつもより少しだけ頼りなく聞こえました。
「いえ」
私はすぐに否定しました。
けれど、その否定が十分なものだったのかは、自分でも分かりませんでした。
あなたは少しだけ安心したように頷きましたが、すぐに視線を窓の外へ逃がしました。
ガラス越しの街は、まだ冬の明るさを残したまま、ゆっくりと流れていました。
あなたの横顔は、どこか考え込んでいるようにも、少しだけ寂しそうにも見えました。
私はその表情を見ながら、何も言えずにいました。
さっきの言葉は、きっと間違いではなかったのだと思います。
けれどそれをどう扱えばいいのか、私にはまだ分かりませんでした。
「今日は……」
あなたがぽつりと言いました。
視線はまだ窓の外に向いたままでした。
「このくらいにしておきましょう、ほら、きっと忙しいでしょうし、」
私は瞬きをしました。
「もう少し時間はありますが」
「いえ、大丈夫です」
そう言って、あなたは少しだけ笑おうとしました。
けれどその笑みは、どこか途中で途切れているようでした。
「なんか、私も来年受験生だし、もっと勉強しなきゃなって」
その言葉には、理由があるようでいて、ないようでもありました。
私は頷きました。
「分かりました」
それだけしか言えませんでした。
あなたは伝票の方へ手を伸ばしながら、少しだけ慌てたように言いました。
「あ、これは自分が」
「いいです」
「でも」
「いつも奢らせちゃってますし」
そう言うと、あなたは一瞬だけ言葉を失って、それから小さく頷きました。
席を立つとき、あなたはもう一度だけ窓の外を見ました。
その視線の先に何があったのか、私は分かりません。
けれど、その横顔はさっきよりも少しだけ遠く見えました。
「じゃあ……また」
「はい」
扉が開き、冷たい空気が一瞬だけ店内へ流れ込みました。
あなたの背中が外へ消えていくのを見送りながら、私はしばらくその場から動けませんでした。
窓の外の景色は、何も変わらないまま流れていました。
バレンタインから数日後、私と友人たちは講義の合間にファミレスへ入っていました。
昼過ぎの店内は空いていて、窓際の席からはぼんやりとした冬の光が差し込んでいました。
私はミルクティーを頼み、AとBはそれぞれ適当にランチセットを注文していました。
「でさ」
最初に口を開いたのはBでした。
「バレンタインどうだったの」
まず最初に話し始めたのはAでした。
「俺は普通に彼女からもらっただけ」
「普通にって言うけど、普通じゃねぇだろそれ」
Bがすぐに突っ込むと、Aは少しだけ肩をすくめました。
「まあ……俺にも春が来たのかなって」
その言い方が少しだけ照れを含んでいて、私は思わず目を瞬かせました。
「まあ手作りじゃないけど、ちゃんとラッピングとかもしてて、意外とちゃんとしてた」
「うわ、何そのリア充ムーブ」
Bはわざとらしく顔をしかめました。
「お前さ、絶対“今年は手作りだと思う”とか言われて期待してただろ」
「別に」
「絶対してた」
Aは小さく笑いながら否定しませんでした。
そのやりとりを聞きながら、私は静かにスプーンを動かしていました。
“誰かから何かを受け取る”という行為が、こんなにも自然なものとして語られていることが、少しだけ遠いもののように感じられました。
「で、お前は?」
次はAがBに視線を向けました。
「俺はさ」
Bは少し間を置いて、わざとらしく誇らしげに言いました。
「後輩女子から頼まれた」
「頼まれた?」
私は思わず聞き返しました。
「そう。『これ、○○くんに渡してもらえませんか』って」
Bはフォークをくるくる回しながら続けました。
「いわゆる“中継役”」
「それお前に頼むの?」
Aが笑いました。
「軽く舐められてない?」
「いや普通に人望だから」
Bは真顔で言いました。
「でさ、そのチョコが地味にちゃんとしててさ」
少しだけ声のトーンが変わりました。
「別に高そうとかじゃなくて、手作りで、袋にちょっとメッセージとか付いてて」
その言葉の中に、少しだけ気まずそうな間が混ざりました。
「なんかさ」
Bは視線を上に向けました。
「“ちゃんと好きなんだろうな”って分かるやつだったんだよ」
私はその言葉に、少しだけ息を止めました。
「で、渡したの?」
Aが聞くと、Bは肩をすくめました。
「なんでだよ、渡したよ。普通に」
「そしたら?」
「そしたら終わり」
あっさりとした言い方でした。
けれど、その“終わり”の軽さの裏に、何かが薄く残っているようにも見えました。
「なんかさ」
Bは少しだけ笑いました。
「渡す側って楽そうに見えるけど、地味に気使うんだよな」
「まあな」
Aが頷きました。
「相手の反応とか気にするし」
私は黙って二人の話を聞いていました。
“渡す”という行為と、“受け取る”という行為の間にあるものが、今までより少しだけ具体的に見えた気がしました。
「で、お前は?」
私は少しだけ間を置いてから、静かに答えました。
「チョコはいただきました」
「うわ、言い方堅い」
Aが笑いました。
「普通に嬉しかったやつだろそれ」
「……そうですね」
そう言うと、Bが身を乗り出してきました。
「で、なんか伝えたの?」
「美味しい、とは言いました。」
AとBが顔を見合わせました。
「いやそれ、絶対ちゃんと伝えた方がいいやつじゃん」
「そういうのってさ」
Aが少し真面目な声になりました。
「渡した側は結構勇気出してるんだよ」
私はカップを持つ手を少し止めました。
その言葉は、分かっているつもりで、どこか遠くに置いていたものでした。
あなたの表情を思い出しました。
チョコを渡したときの、少し照れたような顔。
喫茶店での、落ち着いた空気。
そして最後に見た、少し寂しそうな横顔。
「……そういうものなんですか」
私は小さく呟きました。
Bが即座に頷きました。
「俺はもらってないからわかんないけど、普通にそうだろ」
「お前さ、そういうの一番気付くタイプなのに鈍いよな」
Aが少し呆れたように言いました。
少し言葉を探しました。
「どう返すのが正しいのか、分からなくて」
正しさ。
その言葉を出した瞬間、自分でも少し違和感がありました。
けれど他に言い方が見つかりませんでした。
Aは少しだけ黙って、それから静かに言いました。
「正しいとかじゃなくてさ」
「うん」
「ちゃんと向き合わないと、相手の方がかわいそうだと思う」
私は視線を落としました。
カップの中で、氷が小さく揺れていました。
Bも珍しく冗談をやめていました。
「まあ、その子もちょっと不器用なんじゃないの?」
「悪いことしたわけじゃないけどさ」
その言葉は、責めるものではありませんでした。
それでも、胸の奥に静かに沈んでいきました。
私はゆっくりと息を吐きました。
あなたのことを思い浮かべると、いつも少しだけ言葉が遅れます。
何を選べばいいのかではなく、何を選んでも何かを壊してしまいそうで。
「……考えます」
それだけを言いました。
Aは小さく笑いました。
「それでいいんじゃね」
Bも肩をすくめました。
「でもさ、考えてるうちに逃げんなよ」
窓の外では、冬の光が少しだけ傾いていました。
私はその光を見ながら、何も言えずにいました。
三月になると、大学の空気は少しだけざわつきを失っていました。
講義棟の廊下にはいつもより人が少なく、掲示板の前だけがやけに人だかりを作っていました。
年度末特有の、終わりへ向かう静けさがありました。
私はAとBと、いつものように空きコマに学食で向かい合って座っていました。
窓の外では、冬の名残の冷たい光が、春に変わりきれないまま地面に落ちていました。
「レポート全部終わった?」
Bがスプーンを回しながら言いました。
「ギリ」
「ギリって言うやつ大体ギリじゃない」
Aが笑いました。
「お前は?」
「私は終わりました」
「うわ、出た」
そんなやり取りが、もう何度目か分からないほど繰り返されていました。
私はその会話を聞きながら、静かにパンをちぎっていました。
年度末というものは、何かが終わるはずの時期なのに、実際にはただ淡々と時間が積み重なっているだけのように思えました。
それでも、人は区切りを作ろうとするのだと思います。
終わりを意識しなければ、次へ進めないからでしょうか。
「お前さ」
Aがふとこちらを見ました。
「今年度どうだった?」
私は少しだけ手を止めました。
「どう、とは」
「いや、全体的に」
Bも面白そうにこちらを見ていました。
私はすぐには答えられませんでした。
講義。
レポート。
友人たちとの時間。
そして、あなたとの時間。
そのどれもが、以前の自分からは少しだけ遠い場所にあるようでした。
「……変でした」
ようやくそう言うと、Aが笑いました。
「変って何」
「前より、考えることが増えた気がします」
Bが少しだけ首をかしげました。
「いいことじゃね?」
「分からないです」
私は正直にそう言いました。
考えることが増えたことは、良いことなのかもしれません。
けれど同時に、それは私を少しだけ不安定にしている気もしていました。
何も考えなかった頃の方が、ずっと楽だったのではないか、と。
「まあでもさ」
Aが少しだけ優しい声で言いました。
「お前、前よりちゃんとここにいる感じするよ」
私は目を瞬かせました。
「ここ、ですか」
「うん」
Aは頷きました。
「前はどっか行きそうだったけど、今はちゃんと引っかかってる」
その言葉は、少しだけ前にも聞いたものでした。
けれど今は、その意味が少し違って感じられました。
私はゆっくりと視線を落としました。
“引っかかっている”という状態は、安定ではないのかもしれません。
けれど同時に、それは確かにどこかに繋がっているということでもありました。
人と。
時間と。
そして、あなたという存在と。
私はそのことを、まだ上手く受け止めきれずにいました。
「来年度も同じメンツかな」
Bが軽く言いました。
「知らんけど、まぁどっかで飯は食ってるだろ」
Aが笑いました。
私はその言葉を聞きながら、少しだけ想像しました。
来年。
その先。
その中には、私がいるかどうかを。
その問いに、まだ答えはありませんでした。
ただひとつだけ分かっているのは、私はもう“何も考えない側”には戻れないということでした。
三月の終わり、駅前の喫茶店はいつもより少しだけ静かでした。
春休みのせいか、窓の外の人通りもゆるやかで、冬のざわめきだけが薄く残っていました。
私は少し早く着いて、窓際の席に座っていました。
やがて、あなたが店の前に立ち止まります。
少し周囲を見てから、こちらに気づき、小さく会釈しました。
「すみません、遅くなりました」
「いえ、大丈夫です」
あなたは軽く息を整えてから、席に着きました。
その動作のひとつひとつが、いつもより少しだけ慎重に見えました。
少し間を置いて、私は紙袋を差し出しました。
「これ、ホワイトデーのお返しです」
あなたは一瞬だけ目を瞬かせました。
「……あ」
受け取る手が、ほんの少しだけ迷ってから伸びてきます。
「ありがとうございます」
その声は、少しだけ驚きを含んでいました。
あなたは紙袋を膝の上に置き、すぐには開けずに、それを見つめていました。
私はその様子を見ながら、何かを言うべきか少し迷いました。
けれど結局、何も言わないままカップに手を伸ばしました。
窓の外では、春の光が少しだけ柔らかくなり始めていました。
やがてあなたは、小さく息を吐きました。
「ちゃんとしたお返し、ありがとうございます」
「いえ、遅くなってしまって」
「そんなことないです」
あなたはそう言って、少しだけ笑いました。
その笑い方は、どこか安心したようで、それでいて少しだけ落ち着かないようでもありました。
しばらく、他愛のない話が続きました。
よく見るTV番組のこと。
最近の趣味のこと。
窓の外の景色だけが、少しずつ色を変えていました。
そして、少し間が空いたあとで、あなたが言いました。
「……あの」
「はい」
あなたは一度視線を落とし、それから言葉を選ぶように続けました。
「しばらく、ちょっと忙しくなりそうで」
その意味を、私はすぐに理解しました。
あなたにあまり会えなくなるということ。
「なので、しばらくはあまり会えないかもしれません」
その言葉は、静かに落とされました。
私は一瞬だけ言葉を失いました。
“しばらく”がどのくらいなのか、まだ掴めなかったからです。
「そう、ですか」
やっとそれだけを言いました。
あなたは少しだけ困ったように笑いました。
「でも、連絡が完全に取れなくなるとかじゃないので」
「はい」
私は頷きました。
それ以上、何かを言うことができませんでした。
あなたはカップを両手で包みながら、少しだけ視線を外へ向けました。
「なんか……変ですね」
「何がですか」
「ちゃんと会って話してるのに、少しずつ離れていく感じがして」
私はその言葉に、すぐには返せませんでした。
それは、私自身がどこかで感じていたものと重なっていたからです。
近いのに、確かではない距離。
触れられるのに、どこか届かない感覚。
私はカップの縁に指を添えました。
「……そうかもしれません」
そう言うと、あなたは少しだけ目を伏せました。
その横顔は、いつもより少しだけ静かで、少しだけ遠く見えました。
沈黙が続きました。
けれどそれは重いものではなく、ただ時間が形を変える前の静けさのようでした。
窓の外では、春の光が少しずつ街を塗り替えていました。
まだ名前のつかない季節の気配だけが、ゆっくりとそこにありました。
それから、私はあなたと会うことが少なくなりました。
正確には、「会えなくなった」というより、「会わない時間が自然に増えていった」という方が近いのだと思います。
あなたは受験生になり、日々の生活は以前よりずっと静かに忙しそうでした。
短い連絡は時々届きましたが、それも次第に間隔が空いていきました。
私はそれを、特別なこととして受け取らないようにしていました。
春の講義は淡々と進み、AとBとの会話も、以前と同じように続いていました。
学食の席、空きコマの雑談、何となく選ばれる話題。
表面だけを見れば、何も変わっていないように思えました。
けれど、少しずつ戻っていくものがありました。
以前の、あの静かな感覚です。
何かを強く意識しないまま、一日が過ぎていく。
誰かの返信を待つこともなく、次の予定を特別に思い描くこともない時間。
それは落ち着いているとも言えましたし、何もないとも言えました。
私はその状態に、ゆっくりと馴染んでいきました。
ある日、Aがふと私を見て言いました。
「最近、また幽霊っぽくなったよな」
「そうですか」
私は曖昧に頷きました。
自分の中から、何かが少しずつ元の形へ戻っていく感覚がありました。
あの冬の終わりから春にかけて持っていた、わずかな揺らぎ。
誰かを思い浮かべてしまう癖。
未来を勝手に想像してしまう癖。
それらが、薄くなっていくのを感じていました。
そして同時に、別の考えが静かに戻ってきました。
私は、やはり誰かを愛するべきではなかったのではないか、という考えです。
誰かを想うことは、私の中では常に均衡を崩すものでした。
少しでも近づけば、不安が生まれる。
少しでも大切だと思えば、その分だけ失うことが怖くなる。
そして結局、その恐れは相手にとっても負担になるのではないかと考えてしまう。
あの時間も、今振り返れば同じでした。
あなたと過ごした日々は確かに温度がありました。
けれどその温度を、私は最後まで自分の中で扱いきれなかったのだと思います。
だからきっと、こうなるのが自然だったのかもしれません。
離れていくこと。
薄れていくこと。
元の静けさに戻ること。
それを受け入れるほど、私はまた少しだけ“楽”になっていました。
ある放課後、ひとりで講義室を出たとき、私はふと立ち止まりました。
理由はありませんでした。
ただ、一瞬だけ、あなたのことが頭をよぎりました。
けれどその名前を追う前に、その思考はすぐに形を失っていきました。
まるで最初から存在していなかったかのように。
私はそれを特に悲しいとも思わず、ただ静かに歩き出しました。
やがてそのことさえ、日常の中に埋もれていきました。
ある日の夕方、講義が終わった頃にAからメッセージが来ました。
『今日軽く飲まない?』
続けてBからも短く一言。
『バー行くぞ』
私は少しだけ画面を見て、それから返信しました。
『分かりました』
特に理由はありませんでした。断る理由もありませんでした。
夜の街は、昼間よりもずっと音が整理されているように感じました。
集合場所の駅前で合流すると、Bが先頭に立つように歩き出しました。
「今日さ、ちょっとちゃんとしたとこな」
「ちゃんとしたって何」
Aが笑いながら聞くと、Bは肩をすくめました。
「バー。落ち着いてるやつ」
「お前が選ぶと信用できないんだけど」
「失礼だな」
私は二人のやりとりを聞きながら、少し遅れて歩いていました。
夜風はまだ冷たく、けれど冬ほど鋭くはありませんでした。
店は少し奥まった路地にあり、木の扉を開けると、外の喧騒が一気に遠のきました。
低い照明と、静かな音楽。
グラスが触れる音だけが、柔らかく響いていました。
「おお、いいじゃん」
Aが少しだけ感心したように言いました。
「だろ」
Bは得意げにカウンターへ向かいました。
私たちはそこに腰掛けました。
薄暗い空間の中で、氷の音だけがはっきりと聞こえます。
私はメニューを開きながら、色とりどりなカクテルの種類を眺めていました。
「お前、何にするの」
Aが聞きました。
「……軽いものにします」
「またそういう曖昧なやつ」
私は小さく笑いました。
グラスが運ばれてくると、店内の時間はさらにゆっくりになったように感じました。
Bはすでに楽しそうに話し始めていて、Aもそれに乗るように笑っていました。
その会話を聞きながら、私は静かにグラスを見つめていました。
氷が溶けていく音が、やけに規則正しく感じられます。
ふと、思いました。
こういう場所にいる自分は、少し前よりもずっと透けているように見えるのかもしれない、と。
あの頃のような、何かに引っかかっている感覚は薄れていました。
けれどそれは、完全に戻ったということでもありませんでした。
ただ、何も感じないふりが少し上手くなっただけなのかもしれません。
「でさ」
Bがグラスを揺らしながら言いました。
「最近どうなの」
「どう、とは」
「あの子」
その言葉に、私は一瞬だけ手を止めました。
けれどすぐに、何事もなかったように視線を戻しました。
「特には」
「ふーん」
Aが軽く笑いました。
「まあそんな感じだと思った」
私は曖昧に頷きました。
その瞬間、自分の中で何かが確かに“終わったまま”であることを理解しました。
けれどそれを、今さら確かめる気にはなりませんでした。
グラスの中の氷は、静かに形を失っていきました。
私はふと尋ねました。
「どうして今日は、ちゃんとしたお店にしたんですか」
Bは一瞬だけ目を上げ、それからグラスの氷を軽く揺らしました。
「んー」
少し間を置いて、いつもの調子よりわずかに静かな声で言います。
「なんとなく」
「なんとなく、ですか」
「うん」
Bは苦笑するように口の端を上げました。
「いやさ」
グラスの縁を指でなぞりながら、少しだけ視線を落とします。
「俺たち3人でこうやって飲めるのも、実はもうそんなにないんじゃないのかなって思って。ほら、俺らも就活とか、色々あるだろ」
その言葉は、軽く言ったようでいて、どこか慎重に置かれたものでした。
Aが一瞬だけ黙って、それから「急にセンチメンタルじゃん」と笑いましたが、いつもの勢いは少しだけ弱かった気がしました。
私はそのまま、しばらくグラスを見ていました。
時間を大切にする、という感覚が、私にはあまりありませんでした。
今この瞬間が特別だと言われても、それをどう扱えばいいのか分からないのです。
だからこそ、Bの言葉も、どこか現実味のないものとして浮いて聞こえました。
「……そういうものですか」
そう呟くと、Bは肩をすくめました。
「そういうもんだと思うけど」
私は少しだけ視線を落としました。
大切にする、というのは、どういうことなのでしょう。
記憶に残すことなのか。
その場にしっかり留まることなのか。
それとも、失わないように意識し続けることなのか。
どれも、私には少しずつしっくりきませんでした。
「……」
私は静かに言いました。
「そんなにない、ですか、」
Aが一瞬こちらを見ました。
「急に何」
「いえ……」
私は少しだけ言葉を探しました。
「ただ、あまり実感がないというか」
Bは小さく笑いました。
「まあ、お前っぽいな」
その言い方は軽いものでしたが、少しだけ優しさが混じっているようにも感じました。
私はグラスを指でなぞりながら、ぼんやりと考えていました。
“ぱっとしない”という感覚。
それはこの場面だけでなく、最近のすべてに対してそうなのかもしれませんでした。
楽しいとも、悲しいとも言い切れないものが、ただ静かに積もっているだけで。
私はそれを、うまく名前にすることができないまま、黙っていました。
数日後、私は特に理由もなく、海へ行きました。
予定があったわけでも、誰かに会うわけでもありませんでした。
ただ、電車に乗っているうちに、海の方へ向かっていました。
車窓の外は、住宅街から少しずつ建物が低くなり、空の割合が増えていきました。
それだけで、世界が少しだけ単純になっていくような気がしました。
駅を降りると、潮の匂いがすぐに分かりました。
観光地というほどでもなく、平日の午後の海辺は静かで、人もまばらでした。
砂浜の端を、風がゆっくりと撫でていきます。
私は靴を脱ぐこともなく、そのまま堤防の方へ歩きました。
海は思っていたよりも色がなく、ただ広く、一定のリズムで寄せては返していました。
そこに立っていると、時間の流れが少しだけ変わるような気がしました。
何かを考えているつもりでいても、実際にはほとんど何も考えていませんでした。
ただ、波の音だけが一定に続いていました。
その単調さが、少しだけ安心に近いものに感じられました。
友人たちと話していたことを思い出しました。
時間を大切にする、という言葉。
3人で飲む時間がもう長くないかもしれない、という話。
私はそれに、うまく頷けなかった自分を思い出していました。
大切にするということが、まだ自分の中で現実の手触りを持っていませんでした。
そして同時に、あなたのことも、少しだけ思い出しました。
思い出そうとしたわけではなく、ただ波の間に紛れるように浮かんできました。
けれどその像はすぐに輪郭を失い、はっきりとは残りませんでした。
まるで、最初からそこに何もなかったかのように。
私は堤防の縁に立ち、しばらく海を見ていました。
風が髪を少しだけ乱していきます。
その感覚だけが、妙に現実的でした。
私は思いました。
何かを失ったわけでもなく、何かを得たわけでもないのに、ただ少しずつ薄くなっていくものがある、と。
それは悲しいというよりも、説明のつかない静けさに近いものでした。
海は変わらずそこにあり続けていて、私の中だけが少しずつ形を変えていくようでした。
私はしばらくそこに立っていましたが、やがて何も決めないまま、駅へ戻る道を歩き出しました。
海から戻って数日後も、日常は特に何も変わりませんでした。
講義があり、課題があり、空きコマがあり、帰り道がありました。
その繰り返しは、以前と同じようでいて、どこか少しだけ輪郭が曖昧になっているようにも感じました。
春が近づくにつれて、空気は少しずつ軽くなっていました。
けれど私の中の静けさは、その変化にあまり反応しませんでした。
大学では、AとBと変わらず会っていました。
「レポート出した?」
「出した」
「早くない?」
「普通だろ」
そんなやり取りが、いつも通りに流れていきます。
私はそれを聞きながら、頷いたり、少し笑ったりしていました。
けれどそのどれもが、以前より少しだけ遅れて出てくるような感覚がありました。
会話は成立しているのに、どこか一拍だけずれているような。
講義室では、教授の声が一定のリズムで続いていました。
ノートを取る手は動いているのに、言葉はあまり深く残りませんでした。
それでも、特に困ることはありませんでした。
必要なことだけを拾っていれば、日常は問題なく進んでいきます。
帰り道、駅までの道は少しだけ明るくなっていました。
夕方の光が長く伸びて、地面に薄く色を落としていました。
その中を歩きながら、私は何となく思いました。
以前あった“揺れ”のようなものは、もうほとんど感じられないということを。
あの冬や春の初めにあった、説明しづらい不安定さ。
誰かを思い出してしまうこと。
言葉を待ってしまうこと。
それらは、少しずつ遠くへ移動していました。
代わりに残ったのは、静かな一定の流れでした。
何かを強く望まないこと。
何かを強く失わないこと。
その状態は、以前よりもずっと扱いやすく感じられました。
ある日、Bがふと笑いながら言いました。
「お前ほんと、穏やかだよな最近」
「そうですか」
「うん。いい意味でつまんない」
Aがそれを聞いて笑いました。
「それ褒めてないだろ」
「いや褒めてるって」
私はそのやり取りを聞きながら、少しだけ曖昧に笑いました。
“つまらない”という言葉は、以前なら少しだけ引っかかったかもしれません。
けれど今は、それさえも遠くで響いているだけのようでした。
夜、部屋に戻ると、特にすることもなく時間が過ぎていきました。
スマートフォンの画面を眺めたり、何となく窓の外を見たりしているうちに、一日が終わっていきます。
その繰り返しは、退屈というよりも“安定”に近いものでした。
私はその中で、ふと気づきました。
何かを強く考えようとしない限り、私はもうほとんど揺れないのだということに。
そしてそのことに対して、特に抵抗も感じていない自分がいることに。
日常は静かに続いていきました。
何かが終わったわけでもなく、何かが始まる気配もないまま。
夜の部屋で、特に意味もなく机に向かっているときでした。
ペンを持っていたわけでも、課題を進めていたわけでもなく、ただ椅子に座っているだけの時間が続いていました。
窓の外は暗く、街灯の光がぼんやりとカーテンに滲んでいます。
その単調な静けさの中で、ふと、思い出しました。
夏目漱石の『こころ』の一節です。
正確な文面ではなく、断片のような形でした。
言葉というより、読んだときの感覚だけが残っているような状態でした。
——「然し君、恋は罪悪ですよ」
その一文だけが、静かに浮かび上がりました。
私は少しだけ瞬きをしました。
理由は分かりませんでした。
特別にその本を開いていたわけでも、最近読み返したわけでもありません。
ただ、今の自分の静けさと、その言葉が妙に重なってしまいました。
恋は罪悪。
その言葉を、私はしばらく頭の中で繰り返していました。
かつてはそれを、少し抽象的な思想のように読んでいた気がします。
人間関係の複雑さや、道徳や、時代背景の中で語られる言葉として。
けれど今は違って聞こえました。
もっと個人的で、もっと現実に近い場所に落ちてくる言葉でした。
誰かを思うことが、誰かの重さになるのだとしたら。
近づくことが、同時に何かを壊すことになるのだとしたら。
私はその続きを、自然に考えてしまっていました。
あの時間。
あなたと過ごした時間。
喫茶店。
クリスマス。
ホワイトデーの紙袋。
それらは確かに存在していたはずなのに、今は少し遠い出来事のようでした。
そして同時に、それがどこかで“間違い”だったのではないかという感覚が、静かに戻ってきていました。
私は人を愛する資格があるのだろうか、と。
そう考えた瞬間、自分でも驚くほど自然に、その問いは形を持っていました。
資格という言葉を使う時点で、すでに何かを測っているのだと分かっていました。
けれど、それ以外の言葉が見つかりませんでした。
私は机の上に視線を落としました。
そこには何も置かれていません。
ただ静かな空白だけがありました。
その空白が、今の自分そのもののようにも思えました。
恋は罪悪。
その言葉だけが、しばらく部屋の中に残っていました。
その言葉を、何度か頭の中で反芻しているうちに、部屋の静けさが少しずつ違う質に変わっていきました。
ただの静寂ではなく、何かが沈んでいくような静けさでした。
恋は罪悪。
その響きだけが、時間を少しずつ曇らせていきます。
気づけば、あの頃の感覚が戻ってきていました。
出会う前の、何も特別ではなかった日々の輪郭です。
誰かを思い浮かべることもなく、何かを期待することもなく、ただ淡々と続いていた時間。
それは安定していたはずなのに、今となっては少しだけ遠く、冷たいもののように感じられました。
私は机に向かったまま、しばらく動けませんでした。
頭の中で、いくつかの言葉が勝手に繋がっていきます。
誰かを思うことは、正しいことなのか。
誰かを大切にすることは、結局どこかで歪みを生むのではないか。
その歪みは、相手にも自分にも、静かに積もっていくのではないか。
そう考え始めると、以前の感情が少しずつ別の形に見えてきました。
あの時間は、温かかったのではなく、ただ一時的に揺れていただけだったのではないか、と。
そしてその揺れは、いずれ必ず収束するものだったのではないか、と。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに冷えました。
あの人と過ごした時間を思い出そうとしても、以前のような明るさは浮かびませんでした。
喫茶店の光も、クリスマスの夜も、言葉のやり取りも、どれも少しずつ輪郭を失っていました。
代わりに残るのは、「近づいてはいけなかったのではないか」という感覚でした。
私は静かに立ち上がり、窓の方へ歩きました。
外は暗く、街灯だけが一定の距離で並んでいます。
その光の列を見ていると、自分の中の感情も同じように並べられているような気がしました。
どれも等間隔で、どれもどこかに行き着かないまま続いているだけのもの。
私は思いました。
やはり私は、人を愛するべきではないのかもしれない、と。
それは悲しみというより、再確認に近いものでした。
最初からそうであったものに、もう一度戻っていくような感覚でした。
あの夏の日に向かった死という場所へ、静かに引き寄せられてゆくように。
私はカーテンを少しだけ閉めました。
部屋の光がさらに弱くなり、音が遠のいていきます。
その中で、私はただ静かに座っていました。
何も始まっていない場所に戻ったような感覚のまま。
それからしばらくして、私は机に向かい直しました。
特別な目的があったわけではありません。
ただ、頭の中に残り続けているものが、少しずつ形を求めているような感覚がありました。
私はノートを開きました。
最初は何を書くつもりでもありませんでした。
けれどペンを持ったまま黙っているうちに、自然と文字が落ちていきました。
日記のようなものです。
出来事を整理するためというより、ただ残しておくためのものに近いものでした。
あなたと出会った日のこと。
夏祭りの夜。
喫茶店の窓際の席。
傘を渡した雨の日。
クリスマスの光。
焼き菓子の甘さ。
それらを書いていくうちに、私は少しだけ不思議な感覚になりました。
それは単なる思い出の整理ではなく、まるで別の人生をもう一度辿っているような感覚でした。
日常の中に埋もれていたはずの時間が、文字になることで急に輪郭を持ちはじめます。
その一つ一つは、確かに私の中に存在していたものでした。
けれど同時に、それは今の静かな日常とは少し距離のある、別の層の出来事のようにも思えました。
私はふと、ペンを止めました。
この記録は、誰かに見せるためのものではありませんでした。
特にあなたに向けたものでもありません。
ただ、どうしても消えてしまう気がしたのです。
時間が過ぎれば、感情は薄れ、出来事は形を失っていきます。
そうして最後には、何もなかったのと同じようになってしまうのではないか、と。
私はそれが、少しだけ怖かったのだと思います。
だからこそ、残しておきたかったのかもしれません。
あの時間が、確かに“あった”ということだけは。
それは大げさな意味ではなく、ただ事実として。
私は静かにページをめくりながら、また少しだけ書き続けました。
言葉は淡々としていましたが、その奥には、かつて確かに揺れていた時間が静かに沈んでいました。
それが、この文章です。
私は時々思ったのです。私は人を愛するべきではなかったのではないか、と。あるいは、愛するということ自体を、私は最後まで理解できなかったのではないか、と。
それでも、あの時間は確かに存在していました。私の中では、少しだけ違う色をした時間でした。
そして、そのことだけを、どうしてもどこかに残しておきたかったのだと思います。
この文章は、そのためのものです。
ただ一つ、どうしても言葉にしておかなければならないことがあります。
私は、あなたを愛してしまったのです。
それは、静かで、確かで、そして私にとっては説明のつかないものでした。
かつて私が理解していた、映画の中の、或いは小説の中の、所謂辞書的な意味の「愛」とは少し違っていました。
もっと遠くにあって、もっと安全で、触れないままでいられるものだと思っていました。
けれどあなたと過ごした時間は、その前提を少しずつ壊していきました。
気づかないうちに、私はその中に立っていました。
それでも私は、それを正しく扱うことができませんでした。
近づくことも、離れることも、どちらも同じくらい不器用でした。
だからきっと、私は何度も間違えてきたのだと思います。
この言葉があなたに届いたとしても、どうかそれを抱えたままにしないでください。
それはあなたの人生に置かれるべきものではありません。
ただ、私の中には確かにあったという、それだけの記録です。
そして私は今になってようやく、気づき始めています。
人は何かを失うために生きているのではなく、何かを残してしまうために生きているのかもしれないということに。
あなたという存在は、私の中でその「残ってしまったもの」の中心にあります。
それを美しいと言っていいのかは分かりません。
正しいと言えるかどうかも分かりません。
ただ、消してしまうにはあまりにも確かでした。
ここまでが、彼の書いた日記、いや、遺書であった。
それを読んだのは、たまたまのことだった。
どちらが最初に見つけたのかは、もう曖昧になっている。
彼の部屋に置かれた紙束を手に取っただけだった。部屋の鍵はかかっておらず、奇妙な、でも、彼の部屋と言われれば相応しいような静寂があった。
中身を確認するつもりはなかった。
けれど、綺麗に揃えられた紙は、ただのレポートやメモには見えなかった。
最初に読み始めたのはAだった。
「……これ、あいつの日記じゃない?」
その一言で、空気が少し変わった。
Bは最初、半分冗談のように覗き込んでいたが、数行読んだところで言葉を止めた。
それからは、誰も軽い調子ではいられなくなった。
そこに書かれていたのは、説明でも、報告でもなかった。
静かな記録だった。
夏祭りの夜。
喫茶店の傘。
クリスマスのイルミネーション。
ホワイトデーの紙袋。
どれも知っている出来事なのに、他人の言葉で並べられると、まったく別のもののように見えた。
Aは途中で一度、紙から目を離した。
「……こんなの、書いてたのかよ」
誰に向けた言葉なのかは、すぐに分かった。
だからこそ、続きが重かった。
「あなたを愛してしまったのです」という一文で、部屋の空気が完全に変わった。
それは告白というより、すでに終わった出来事の報告のようだった。
Bは、そこで初めて小さく舌打ちをした。
「ふざけんなよ……」
怒りなのか、困惑なのか、自分でも分からない声だった。
Aは何も言わなかった。
ただ紙を持つ手が少しだけ強くなっていた。
読み進めるほどに、それは「恋の記録」というより、「距離が広がっていく過程」に見えた。
近づいたこと。
離れていったこと。
どちらも同じ速度で淡々と書かれていた。
そこには、誰かを責める言葉も、救いを求める言葉もほとんどなかった。
だから余計に、どう扱えばいいのか分からなかった。
読み終えたあと、しばらく誰も話さなかった。
紙束は机の上に戻されたが、それを「元の場所に戻す」という感覚はもうなかった。
ただ、そこにあってはいけないものを一度見てしまった、という感覚だけが残った。
Bがようやく口を開いた。
「……これ、どうすんだよ」
Aは少し間を置いてから言った。
「分かんない」
それ以上の答えは、誰も持っていなかった。
窓の外では、いつも通りの大学の午後が続いていた。
人の声も、足音も、何も変わらない。
それなのに、さっきまでとは同じ世界にいる感じがしなかった。
机の上の紙だけが、そこに残っていた。
何も終わっていないのに、何かだけが確かに終わっているような状態で。
Aは最初にその場を離れた。
廊下に出てからも、しばらく壁にもたれたまま動けなかった。
Bは部屋に残っていたが、紙束を見ようとはしなかった。
「……これ、現実かよ」
その言葉は誰に向けたものでもなかった。
時間だけが少しずつ進んでいった。
大学の午後は、何も知らないまま続いていた。
別の教室では講義があり、廊下では笑い声がしていた。
その“いつも通り”が、逆に異物のように感じられた。
数日後、その事実は正式に知らされた。
誰かが説明したわけでも、誰かが泣き崩れたわけでもない。
ただ、共有されるべき情報として静かに伝わった。
それを聞いた瞬間、友人Aは一度だけ目を伏せた。
Bは何かを言おうとして、やめた。
どちらも、すぐには言葉にならなかった。
それからの日常は、何事もなかったように続いた。
講義は進み、課題は出され、時間割は変わらないままだった。
けれど、会話の中にだけ、わずかな空白が残った。
Aがふと黙る瞬間。
Bが冗談を途中で止める癖。
だけれども、そこで彼が静かに話を聞いている、というのはもう存在しなかった。
それは誰も指摘しなかったが、確かなことだった。
店の扉を開けると、前と同じように低い照明と静かな音楽が迎えた。
グラスの触れる音だけが、ゆっくりと空間を満たしている。
カウンターではなく、奥の席だった。
Aはメニューを開きながらも、ほとんど見ていなかった。
Bはすでに注文を済ませていて、氷をゆっくり揺らしていた。
しばらく、会話はなかった。
沈黙は気まずいというより、最初から言葉が入る余地が少なかった。
少しして、Bがグラスを見たまま言った。
「なあ」
Aは視線だけを向けた。
「ん」
Bはしばらく間を置いて、それから少しだけ眉をひそめた。
「前さ」
「何」
「3人で飲むのも、もうあんまりないかもって言ったじゃん」
Aの手が一瞬だけ止まった。
バーの音が、少し遠くなる。
Bは続けた。
「……あれ、今思うとさ」
グラスの中の氷が、小さく音を立てた。
「縁起でもないこと言ったなって」
その言い方は軽くしようとしているのに、うまく軽くならなかった。
Aはすぐには返事をしなかった。
ただ、目の前の透明な液体を見ていた。
「別に、お前のせいとかじゃないだろ」
ようやくそう言った声は、いつもより少しだけ低かった。
Bは短く息を吐いた。
「分かってるけどさ」
そこで言葉が切れた。
それ以上は続かなかった。
しばらくして、またいつものような会話に戻そうとする声が少しずつ増えた。
けれど、どこかぎこちなかった。
笑いは出る。
冗談も出る。
それでも、その下に残っている沈黙だけは消えなかった。
Aはふと、グラス越しに空間を見た。
そこにもういないはずの誰かの気配だけが、薄く残っているような気がした。
そしてそれが、もう誰にも共有できない種類の感覚であることも分かっていた。
Bは視線を落としたまま、ゆっくりとグラスを回していた。
言葉にしないまま、同じことを考えているのが分かる距離だった。
私は日記を書き終えたあと、私は少しだけ窓を開けました。
夜の空気は冷たく、けれどどこか軽く、音のないまま部屋の中へ入ってきました。
街はいつも通りで、特別な変化は何もありませんでした。
光は点在し、遠くで車が通り過ぎる音だけが途切れ途切れに聞こえます。
私は机の上に置いたノートを見ました。
そこには、あなたと過ごした時間が、もうほとんど一つの流れとして並んでいました。
断片ではなく、ひと続きの記録として。
けれど不思議なことに、それを読み返しても、もう強い感情は戻ってきませんでした。
痛みも、熱も、揺れも、どれも少しずつ距離を取っていました。
ただ、確かにあったという感覚だけが残っています。
それだけで十分なのかもしれない、とも思いました。
私はペンを置きました。
それ以上書く必要はないように思えたからです。
人は何かを終わらせるとき、きっと劇的な理由を必要としないのだと思います。
気づけば静かに、境界が曖昧になっていく。
そうして、どこからが始まりでどこからが終わりなのか分からなくなる。
今の私も、きっとその途中にいるのだと思います。
窓の外では、夜がただ続いていました。
その中に、あなたの名前だけが、少しだけ長く残っていました。
呼べば届きそうで、けれど呼ぶ必要ももうないような距離で。
私はそれを見つめたまま、しばらく動きませんでした。
やがて、その距離さえも、静かに薄れていきました。
何かが終わったという確かな合図もなく、ただ、最初からそうであったかのように。
夜はそのまま、淡々と続いていくようでした。
ですが、そのうち落ち着かなくなり、私はどこへ行くでもなく、ただ街へ出ました。歩いていると、ふと、前に友人たちと行ったバーが目につきました。
「お客さん、今日は遅いんですね。」
「ええ、少し。」
バーは以前と変わらず静かでした。
私はカウンター席に座りました。前に彼らと飲んだ席です。
マスターは顔を上げ、軽く目を細めました。
「久しぶりですね」
「……そうですね」
注文はしませんでした。
ただ、そこに座ることだけが目的のようでした。
マスターは特に何も聞かず、グラスを拭き続けていました。
その沈黙は不思議と居心地が悪くありませんでした。
しばらくして、私は言いました。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
マスターは手を止めないまま、小さく頷きました。
「はい」
私はグラスの縁を見ながら続けました。
「恋は、罪悪だと思いますか」
その言葉を口にしたとき、自分でも少しだけ滑稽だと思いました。
以前どこかで聞いた言葉が、頭の中に残っていました。
それが今になって、形を変えて戻ってきただけのようでした。
マスターはすぐには答えませんでした。
グラスを拭く手が、わずかに止まります。
それから、少しだけ視線を上げました。
「難しいですね」
短い返答でした。
私は続けました。
「人を好きになることは、誰かを壊すことになるのでしょうか」
マスターはしばらく黙っていました。
そして、ゆっくりと言いました。
「壊すかどうかは分かりませんが」
「少なくとも、何も変わらないままではいられないと思います」
その言葉は、肯定でも否定でもありませんでした。
ただ事実のように置かれていました。
私はグラスを見たまま、小さく息を吐きました。
やはり答えは、どこにもはっきりとは存在しないのだと思いました。
それでも、なぜか少しだけ納得してしまう自分がいました。
マスターはそれ以上何も言いませんでした。
ただ、静かにグラスを拭き続けていました。
音楽だけが、変わらず流れていました。
私はしばらくそこに座っていましたが、やがて何も言わずに席を立ちました。
扉を開けると、外の空気は思ったよりも軽く感じられました。
その軽さが、少しだけ遠く感じられました。酔いのせいもありましょうか、ひどく心地の良い気分でした。
私は橋の欄干にもたれて水面を見つめていました。そこには果てしない夜空の星々が、嫌というくらい瞬いていました。それはまるで、あの日見た花火のようでした。
バーを出たあとも、夜は特に変わらなかった。駅へ向かう道は、さっきと同じ明るさで、同じ速度で人が流れていた。
Aは少し前を歩き、Bはその横に並んでいた。
どちらも、特別に何かを引きずっているようには見えなかった。
むしろ、何もなかったかのように会話は続いていた。
ある日、Bのスマートフォンに、見覚えのない名前から連絡が入った。
「もしもし」
Bが出ると、相手は少し間を置いてから言った。
「突然すみません、〇〇さんの友人なのですが、」
声は落ち着いていた。
Bは悟ったように答えた。
「別にいいけど。どうした?」
しばらく沈黙があった。
それから、相手は短く言った。
「最近、あの人どうしてますか」
特定の感情は含まれていない問いに思えた。それでも、かつての友人の大切な人を傷つけまいと、ポケットを探り、見つからない答えを見つけようとした。
Bは窓の外を見た。
「さあな」
少しして、そう返した。
「そうですか」
それだけだった。
会話はそこで途切れそうになったが、相手はさらに続けた。
「元気かどうかだけでも分かりますか」
友人Bは軽く息を吐いた。
「普通だと思うけど」
「普通、ですか」
そのまま復唱される。
意味を確認しているだけのようだった。
Bは少しだけ間を置いてから言った。
「そんなに頻繁に会う関係でもないしな」
「そうでしたか」
相手の声には、納得とも失望ともつかないものはなかった。
ただ事実を受け取っただけのような反応だった。
通話はそれ以上続かなかった。
自然に終わり、特に区切りもなく切れた。 Bはスマートフォンを机に置いたまま、しばらく動かなかった。
外では、いつも通りの時間が流れていた。それ以上でも以下でもない日常だった。
誰かがいなくなったという事実さえ、まだうまく意味を持っていなかった。
通話を終えたあとも、特に何かが変わったわけではなかった。
Bはスマートフォンをポケットに戻し、ため息のような息を一度だけ吐いた。
そのまま、何事もなかったように時間は進んでいく。
改札が近づくにつれて、会話は自然に別の話題へと移っていく。
明日の授業のこと。
どうでもいい課題のこと。
週末の予定。
誰も、その話題を引き戻そうとはしなかった。
引き戻す必要もなかった。
駅の中はいつも通り混雑していた。
その中で二人は普通に別れ、普通に手を振った。
残された人の物語は当たり前に続いていく。




