第8話 サプライズ大成功、でも私の心臓はもう限界
会場が、息を止める気配がした。
実際に全員が息を止めたわけではない。
そんなことはありえない。
けれど、照明が落ち、次の演目へ移るわずかな間、何千人分もの視線と期待がひとつの方向へ揃う瞬間というのは、本当に空気の密度が変わる。
真白はピアノの前でそれを感じていた。
顔の前には光がほとんど来ない。
正面から見れば、自分はただの輪郭だ。
テレビの向こうでも、映るのは鍵盤に落ちる手元の光と、黒の中に浮かぶシルエットだけのはず。
ありがたい。
ひたすらにありがたい。
けれど、それで緊張が消えるわけではない。
会場の熱。
全国放送という事実。
そして少し前まで舞台袖で小声の秘密保持協定を結んでいた同級生が、今まさに自分の少し前方に、MIOとして立っているという現実。
情報量が多い。
だがもう、始まる。
イヤモニ越しにキューが入る。
演出上の短い紹介。
客席から「え、誰?」「何が始まるの?」というざわめきが広がる。
そのざわめきは、顔を隠したステージ演出とあまりに相性がよかった。
見えないからこそ、人は想像する。
光の奥にいるのが誰なのか。
これからどんな音が鳴るのか。
真白は一度だけ深く息を吸い、両手を鍵盤へ置いた。
最初の一音を鳴らす。
静かな前奏が、ホールの大きな空間へほどけていく。
響きは深い。
けれど濁らない。
事前の音合わせで掴んだ通り、少し長めに残る余韻を計算に入れながら、真白は音を置いた。
ピアノの前では、不思議と怖さが整理される。
たとえどれだけ緊張していても、弾くべき音は変わらない。
次の和音、その次の間、歌が入る位置。
そこに集中している限り、余計な思考は一段奥へ引っ込んでいく。
そして、澪が歌い出した。
会場の空気が、一気に変わる。
歓声ではない。
悲鳴でもない。
けれど確実に「来た」とわかる気配だった。
顔は見えない。
光の明暗で輪郭しか浮かばない。
それでも、あの声だけで場を支配できるのがMIOだった。
澪の歌は強い。
知っていた。
リハでも思い知らされた。
でも本番はまた別だった。
音源や練習では届かないところまで、声が伸びていく。
観客の意識を攫っていく。
しかも今日は、顔が見えないぶん余計に、声そのものの力がむき出しになっていた。
真白は、歌に合わせてほんのわずかにテンポの呼吸を調整する。
澪はそれを受け取り、語尾にかける息の量を変える。
すぐにわかる。
今この人は、自分のピアノをちゃんと聴いている。
それが嬉しかった。
嬉しい、という感情を本番中に持ち込むのは本来あまり良くない。
でも仕方がない。
こちらが投げた音を、相手が真剣に受け取って返してくる。
それが音楽として気持ちよくないわけがない。
客席は静かだった。
驚くほど静かに、歌とピアノを受け止めている。
派手な舞台装飾はある。
何層もの半透明パネルが光を受けて、ステージ全体を幻想的に包んでいる。
だが、それは騒がしい演出ではない。
むしろ音のための闇を美しく見せるための装置だった。
中央には歌うシルエット。
奥には弾くシルエット。
顔はどちらも見えない。
けれど、その見えなさが逆に、音へ意識を集中させる。
テレビの向こうでも、きっと同じだろう。
「誰だ」と画面を覗き込んでいる人たちのところへ、まず最初に届くのは顔ではなく声で、その次にピアノだ。
顔が見えないまま、音だけが届く。
真白はその事実に、演奏中にもかかわらず少しだけ感動していた。
いい演出だと思う。
そして、本当に助かる。
サビへ入る。
真白はペダルを浅く使い、和音を過剰に膨らませないよう注意した。
ここでピアノが主張しすぎると、せっかくの澪の声の抜けを邪魔してしまう。
けれど引きすぎても、サビの高揚感が痩せる。
ちょうどいいところ。
ギリギリのところ。
その線を、今の真白はかなり正確に引けていた。
澪の声が、サビで一段高く飛ぶ。
真白の背筋にまた鳥肌が立つ。
すごい。
この人、やっぱり本番が強い。
学校で見る朝倉澪も、たぶん本番に強い側の人間なのだろう。
バスケ部主将として人前に立ち、試合で責任を背負い、後輩をまとめる。
でもMIOとしての澪は、その「本番の強さ」がさらに別の形で研ぎ澄まされている。
声がぶれない。
気配がぶれない。
そして、顔が見えないのに、そこに確かに“いる”とわかる。
真白は一瞬だけ、教室での澪を思い出しかけて、すぐに意識を戻した。
今は考えるな。
今は弾け。
最後のフレーズが近づく。
音の密度を少しずつ下げていく。
終わりへ向かう流れを、無理に説明しない。
澪の声が最後の余韻を置くための場所を作る。
そして、最後の和音。
静かに、きれいに落とす。
音が消える。
一瞬の無音。
その直後、会場が爆発した。
歓声。
拍手。
どよめき。
そして遅れてくる、「今の誰!?」という空気。
真白は反射的に顔を上げかけて、すぐに思いとどまる。
顔は見せない。
演出を壊さない。
シルエットのままでいる。
澪も同じだった。
正面を向きながら、深く一礼する。
顔は最後まで光と影に隠れたまま。
けれど、それで十分だった。
いや、むしろそれがよかった。
客席の反応が、その証明みたいだった。
見えていないのに届いた。
顔がわからないのに、音で持っていった。
その手応えがあった。
舞台袖へ戻る合図が入り、真白は立ち上がる。
澪も中央から下がってくる。
照明が落ちる。
次の転換が始まる。
ステージはもう、次の演目のために動き始めていた。
紅白という巨大な番組は、ひとつの成功に浸る暇をくれない。
だが、その無慈悲さは今の真白にとっては少しだけありがたかった。
もしここで「どうでした?」みたいな時間を与えられたら、たぶんその場で情緒が終わっていた。
◇
舞台袖へ戻った瞬間、スタッフたちが一斉に声をかけてきた。
「最高でした!」
「めちゃくちゃよかったです!」
「空気、完全に持っていきましたね」
「ありがとうございます、本当に綺麗でした!」
褒め言葉が飛んでくる。
真白は軽く頭を下げながら、「ありがとうございます」と必要なだけ返した。
内心ではまだ、達成感より処理落ちの方が大きい。
成功した。
それはわかる。
演奏は良かった。
澪の歌も凄かった。
客席の反応も確かだった。
でも、それを「やったー!」みたいなテンションで受け止めるには、今の状況があまりにも多すぎる。
隣では澪もスタッフに囲まれていた。
マスクはまだ外していない。
キャップもそのままだ。
演出上、少なくともこの導線を抜けるまでは徹底するらしい。
そのことにまた少しだけ感謝する。
顔が見えない。
最後まで見せない。
守られている。
そこへ、さっきから別方向の熱を帯びていたスタッフの一人が、モニターを手にして言った。
「もうSNSめっちゃ反応きてます!」
「え」
「“あの歌声誰?”ってトレンド入ってますし、“ピアノやばい”“シルエット演出天才”って」
「うわ……」
「顔見えないのにここまで盛り上がるの強すぎますね!」
真白は笑顔を作りつつ、内心で頭を抱えた。
盛り上がるな。
いや盛り上がってほしい。
仕事としては盛り上がってほしい。
でも盛り上がりすぎるな。
いや盛り上がっていい。
でも学校にだけは届くな。
感情が忙しい。
澪も似たような顔をしていた。
たぶんマスクの下では、かなり複雑な表情をしているのだろう。
やがてスタッフの波が一段引き、移動のための短い隙間が生まれる。
真白と澪は、ようやく少しだけ近い位置に立つことができた。
「……」
「……」
一秒。
二秒。
沈黙。
そして先に、真白が口を開く。
「……成功、した?」
「したと思う」
「よかった」
「うん」
短い。
短すぎる。
でも今はそれが精一杯だった。
澪が少しだけ視線を下げ、それから真白にだけ聞こえる声で言う。
「ピアノ、ほんとによかった」
「そっちこそ」
「いや、ほんとに」
「……うん」
真白はその一言で、ようやく少しだけ実感が湧いた。
成功したのだ。
自分たちはちゃんとやり切った。
あの大舞台で、音を外さず、空気を壊さず、むしろ持っていった。
しかも、顔は見えないまま。
テレビ越しに誰かが画面を見ても、
歌っていたのが朝倉澪だとはわからない。
弾いていたのが一ノ瀬真白だともわからない。
わかるのは、MIOの歌がすごかったことと、ピアノが強かったこと。
それだけ。
その事実が、今はひどくありがたかった。
「……あの」
と澪が少しだけ言いづらそうに声を出す。
「何」
「学校で、その」
「うん」
「もし誰かが紅白の話してても、たぶん、普通にしてて」
「それはもちろん」
「……だよね」
「そっちも」
「うん、わかってる」
秘密共有同盟(仮)は、少なくともこの瞬間、ちゃんと機能していた。
互いの秘密を互いが知ってしまった。
でもそれを武器にも、ネタにも、踏み込む材料にもしていない。
ただ守るべきものとして扱っている。
それが、真白には少し救いだった。
学校では、誰にも知られたくない。
けれど、完全に一人で秘密を抱えているわけではなくなった。
そのことを、今はまだうまく整理できない。
でも、悪い気分ではなかった。
◇
その後、二人は導線の都合で一度別れた。
真白は控室へ戻され、ようやくひとりになる。
ドアが閉まる。
静かになる。
そこで初めて、身体のあちこちから一斉に疲労が出てきた。
「……はぁぁぁぁ……」
深く、長く息が漏れる。
椅子に座る。
背中を預ける。
数秒、何も考えない。
いや、考えないは無理だった。
むしろ考えることが多すぎて、脳が変な静けさに入っている感じだ。
紅白。
本番。
成功。
MIO。
朝倉澪。
同じクラス。
顔は見えない演出。
SNSトレンド。
年明けの教室。
「……無理」
結論だけが先に出た。
達成感がないわけではない。
むしろかなりある。
でも、それより先に来るのが胃痛だった。
年明け、絶対に紅白の話は出る。
そりゃ出るだろう。
あの反応なら出ない方がおかしい。
「昨日のサプライズやばかった」「あの歌手誰?」「ピアノの人もすごかった」みたいな会話が、たぶん教室のどこかで発生する。
そのとき、自分は何食わぬ顔でそこに座っていられるのか。
いや、座るしかないのだが。
真白は両手で顔を覆った。
「いやでも、顔見えてないし……」
と自分に言い聞かせる。
「顔見えてない。見えてないから大丈夫。音? 音は……音はちょっと怖いけど、でも顔見えてないし。大丈夫。たぶん。きっと」
まるで念仏だった。
そこへスマホが震える。
事務所のグループ連絡。
お祝いメッセージ。
関係者からの反応。
SNSの速報。
見ない方がいい。
今は見ない方がいい。
なのに見てしまう。
画面には、放送中の視聴者の感想が並んでいた。
「誰かわからないのに泣いた」
「シルエットだけで持っていくの強すぎる」
「歌もすごいけど、後ろのピアノ何者?」
「顔見えない演出なのに逆に印象残るの何」
真白はスマホをそっと伏せた。
嬉しい。
だいぶ嬉しい。
でも今はまだ、嬉しさを素直に味わう余裕がない。
そのとき、ドアがノックされた。
「真昼さん、お疲れさまです」
入ってきたのはマネージャーだった。
「お疲れさまでした。すごくよかったです」
「……ありがとうございます」
「顔出しの心配も問題なさそうです。放送映像確認しましたが、かなり綺麗にシルエット処理されています」
「ほんとですか」
「ええ。正面の特徴はほぼ取られていません。手元と輪郭だけですね」
「……よかった」
本気の本音が出た。
マネージャーは少しだけ苦笑しながらも、それ以上は何も言わなかった。
たぶん、この人もわかっているのだ。
音楽的成功の喜びと、学校バレ回避の安堵が、今の真白の中でほぼ同じ重量を持っていることを。
「今日はもう移動です。少し休んだら出ましょう」
「はい」
マネージャーが去ったあと、真白はもう一度だけ天井を見上げた。
成功した。
たぶん間違いなく成功した。
それなのに、胸の中にはいろんな感情が渋滞している。
嬉しい。
怖い。
疲れた。
少し誇らしい。
でもやっぱり年明けが怖い。
「……心臓がもたない」
ぽつりと漏らしたとき、自分でも笑ってしまった。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
今日、自分はあの舞台でちゃんと弾いた。
朝倉澪――MIOは、ちゃんと歌った。
そして二人とも、顔を見せることなく、音だけを残した。
それはたぶん、簡単には消えない記憶になる。
◇
帰り際、導線が分かれる直前に、真白はもう一度だけ澪と顔を合わせた。
正確には、顔はまだ半分隠れていたけれど。
それでも、目だけで十分だった。
「……おつかれ」
と澪が言う。
「……おつかれさま」
「学校で」
「うん」
「いつも通りで」
「もちろん」
「じゃあ」
それだけ。
長い会話はない。
感動的な握手もない。
紅白の大舞台を一緒にやり切った直後とは思えないくらい、短くて、そっけない別れ方だった。
けれど、その短さが今の二人にはちょうどよかった。
秘密を抱えたまま。
正体を知ってしまったまま。
まだ整理しきれない感情を抱えたまま。
とりあえず今日は終わる。
そして次に会うのは、たぶん年明けの教室だ。
同じ制服。
同じ席。
同じクラス。
昨日まで他人だったわけではないのに、
今日を境に、前と同じ他人ではいられない。
真白はそのことを思いながら、現場の外へ出る。
冬の夜気は冷たくて、紅白会場の熱を少しずつ身体から奪っていく。
それでも胸の中には、まだ消えない熱が残っていた。
音の記憶。
会場の拍手。
顔の見えないステージ。
そして、同じクラスの歌姫の声。
年明けの教室は、きっと何も知らない顔をして始まる。
けれど真白と澪だけは、もう知ってしまっている。
お互いが誰で、どんな音を持っているのかを。




