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『学校では誰にも知られずに卒業したい 〜うちのクラス、隠し事が多すぎる〜』  作者: 御上常陸介寛浩


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第7話 本番直前、秘密共有同盟(仮)結成

本番直前という時間は、妙に現実感がない。


 真白はステージ袖に近い待機スペースで、照明の切り替わる音とスタッフの行き交う気配を感じながら、そう思っていた。


 現場は慌ただしい。

 だが、それは焦りの慌ただしさではない。

 巨大な歯車が、きっちり決められた回転数で回っているときの慌ただしさだ。


 インカム越しの指示。

 カメラ位置の確認。

 転換スタッフの走る足音。

 少し離れた場所から聞こえてくる別アーティストの本番音声。

 拍手。歓声。ジングル。


 全部が「紅白」だった。


 そしてその中心へ、自分が今から入る。


「……落ち着け」


 真白は小さく呟き、両手を軽く握って開いた。


 指先の感覚は悪くない。

 さっきの音合わせも手応えはあった。

 ピアノの状態も頭に入っている。

 譜面はもうほとんど見なくていい。

 大丈夫だ。音楽的な準備はできている。


 問題は、音楽以外の全部だった。


 数メートル先では、澪――いや、この場ではMIOが、スタッフに最終確認を受けていた。


 顔はまだしっかり隠されている。

 マスクとキャップに加えて、本番用の演出確認で肩から薄い暗色の布を羽織っているため、ぱっと見では輪郭すらつかみにくい。もともとMIOは顔出しNGだが、今回はサプライズ演出の一環もあって、その秘匿性はかなり徹底されていた。


 そして真白の方も同様だった。


 ピアノ位置は舞台のやや奥。

 しかも照明はフロントを強く当てず、鍵盤と手元、輪郭線だけを拾う設計になっている。

 さらに本番では、周囲に組まれた半透明の装飾パネルと逆光気味のライティングが入るため、テレビ越しにはピアノ奏者の顔ははっきり映らない。


 つまり。


 放送上、二人とも“顔は見えない”。


 この一点だけが、今の真白にとっては唯一の精神安定剤だった。


 全国放送に出る。

 でも学校の誰かに画面を止められて「これ一ノ瀬じゃない?」と顔で確信される危険は、かなり抑えられている。

 もちろんゼロではない。音や雰囲気で感づく人はいるかもしれない。けれど、少なくとも映像としては守られている。


 ありがたい。本当にありがたい。


 そのとき、スタッフが真白の肩越しに資料を差しながら説明した。


「本番は照明をかなり落とします。MIOさんも真昼さんも、基本的にはシルエットと手元中心です」

「はい」

「サプライズ性を優先するので、カメラも寄りすぎません。顔認識はほぼできないと思ってもらって大丈夫です」

「……助かります」

「え?」

「あ、いえ、演出として素敵だと思います」


 危なかった。


 危うく本音がそのまま出るところだった。

 “助かる”の意味が完全に私情である。


 スタッフは特に気にした様子もなく、「雰囲気かなりいいですよ」と笑って去っていく。


 真白はそこでそっと胸をなで下ろした。


「今の、だいぶ危なかった……」


「何が?」


 すぐ横から低めの声がして、真白は飛び上がりそうになった。


「っ、朝倉さん」

「今ここでその呼び方ちょっと危なくない?」

「じゃあ何て呼べばいいの」

「それは……」


 澪が一瞬だけ言葉に詰まる。

 たしかにそうだった。

 今この場で「朝倉さん」と呼ぶのも違うし、かといって「MIOさん」は急に他人行儀すぎる。しかも本人同士が同級生だと知ってしまったあとではなおさらだ。


 最適解がない。


「……何も呼ばないのが正解かも」

「不便すぎる」

「わかる」


 澪が短く息を漏らし、ほんの少しだけ肩の力を抜く。


 気まずさはまだ消えていない。

 消えてはいないのだが、さっきの音合わせを経て、単なる“事故った同級生”ではなくなっているのも確かだった。


 だから余計に、変な距離感になる。


 真白は小声で言った。


「とりあえず、放送で顔が出ないのは助かった」

「うん、それはほんとに」

「舞台装飾と照明の人にボーナスあげたい」

「気持ちはわかる」


 澪も、マスクの下でたぶん少し笑っていた。


 今回の演出は徹底している。

 センターには歌う澪の輪郭だけが浮かび、その少し後方で、真白のピアノが光の縁取りの中に置かれる。

 強い逆光と周囲の装飾が顔の正面をつぶし、カメラは寄りすぎない。

 衣装も光を吸いやすい色味で統一されていて、髪や目元の特徴が出にくい。


 つまり視聴者から見えるのは、

 声と音、

 そしてシルエットだけだ。


 真白はその事実に、何度目かわからない感謝を捧げた。

 もしこれでバッチリ顔出し演出だったら、たぶん本番前に一回倒れている。


「……学校で誰かに気づかれる確率、何パーセントくらいだと思う?」

 と澪が小声で聞いた。

「映像だけならかなり低い」

「音は?」

「そっちは……」

「そっちは?」

「……ゼロとは言えない」

「だよねえ」


 澪が小さく天を仰ぐような気配を見せる。


 真白もまったく同じ気分だった。


 顔が見えなくても、音は残る。

 そして真白たちは、よりによってその“音”で知られている側の人間だ。

 とはいえ、そこまで気にしすぎても本番はできない。


「でも」

 真白は少しだけ声を落とした。

「この演出なら、少なくとも“画面見て即バレ”は避けられる」

「それは助かる」

「うん」

「……ほんとに助かる」


 澪のその言い方が、あまりにも本音っぽくて、真白は少しだけ可笑しくなった。


 同じだ、と思う。


 教室では、自分とは全然違う生き物に見えていたのに。

 こんな大舞台の袖で、全国放送からどうやって学校バレを回避するかを小声で話している。


 変な話だ。

 でも少しだけ、安心もする。


     ◇


「本番三分前です!」


 スタッフの声が飛ぶ。


 空気がまた一段引き締まる。

 真白の胃がきゅっと縮む。

 澪もわずかに姿勢を正した。


 ここから先は、もう誤魔化しがきかない。

 全国放送の秒読み。

 巨大な舞台装飾の向こうでは、今まさに別の演目が進行している。拍手と歓声が波のように響いてきて、照明が切り替わるたびに壁の色まで変わる気がする。


 真白はピアノ用の薄い黒手袋を確認し、外した。さすがに演奏で滑るのはまずい。代わりに手元だけを整えて、爪の長さをもう一度見る。問題ない。


 その横で、澪がほんの少し首を回した。

 それから、いつものように右肩を軽く回す。


 その動作を見た瞬間、真白の中で「やっぱりこの人は朝倉澪でもありMIOでもあるのだ」という実感がまた少し深くなった。


「……ねえ」

 と澪が、前を向いたまま言う。

「何」

「学校での距離感、どうする?」

「今?」

「今」

「今決めること?」

「今決めないと、年明けにたぶん事故る」


 それは、たしかにそうだった。


 真白は真顔になった。

 今ここで本番前の打ち合わせとして、秘密保持と教室内行動指針を決める。

 冷静に考えると、かなり意味不明だが必要なことではある。


「じゃあ、まず」

 真白は小声で、しかしかなり本気で言った。

「学校では普段通り」

「うん」

「変に話しかけない」

「うん」

「必要以上に避けない」

「……それ難しくない?」

「そっちが言ったんでしょ、避けすぎる方が怪しいって」

「言ったけど」

「じゃあ責任取って」

「重いなあ」


 澪が少しだけ笑う。


 本番前なのに、会話の内容が妙に生活感あふれていておかしい。

 紅白の舞台袖でやる会議ではない。


「あと」

 澪が続ける。

「お互いの活動のこと、学校では絶対に匂わせない」

「当然」

「誰かに聞かれても、知らないで通す」

「うん」

「もし、もしも何かバレそうになったら」

「……なったら?」

「そのときは、そのとき考える」


 真白は思わず澪を見た。


「それ会議で一番ダメなやつでは?」

「いやでも現実的に」

「現実にはそうだけど」

「ほら、私たち今、あんまり余裕ないし」

「それはそう」


 ダメだ。

 この人、思ったより勢いで喋る。


 学校ではもっとしっかりして見えるのに、こういう切羽詰まった場面だと案外ざっくりしている。


「じゃあ、一応まとめる」

 真白は自分でも何をしているのかわからないまま、指を折るふりをした。

「学校では普段通り」

「うん」

「秘密は守る」

「うん」

「変な匂わせをしない」

「うん」

「困ったら……」

「先生」

「……先生だね」

「風間先生」

「担任強すぎる」


 二人そろって、小さく息を漏らす。


 風間恒一郎。

 2年A組担任。

 現代文教師。

 こちらの秘密を知っていて、しかも漏らさない、現状ほぼ唯一の安全地帯。


 困ったら先生。


 それは学生としてどうなのかと思わなくもないが、この場合かなり現実的だ。

 何しろあの先生、たぶんクラスの地雷原を全部把握したうえで平然とホームルームを回している。


「秘密共有同盟……って感じ?」

 と澪が言う。

「字面がダサい」

「じゃあ何」

「……秘密保持協定」

「急に法務部っぽい」

「校則絡んでるから実質そう」

「たしかに」


 そこでまた、小さな笑いが落ちる。


 ほんの短い時間だった。

 けれど、その短さのわりに、二人の間にあるぎこちなさは少しだけほどけた気がした。


 同じ秘密を持っていて、

 同じように学校バレを恐れていて、

 でも音の上では信頼できる。


 そういう相手がいるというのは、妙な心強さがある。


 澪が少しだけ真面目な声で言った。


「……ありがと」

「何が」

「いや、その。普通に、助かる」

「……こっちも」


 真白も素直にそう答えた。


 学校では絶対に口にしない類の言葉だ。

 けれど今ここでは、少なくとも少しだけ本当だった。


     ◇


「まもなくスタンバイです!」


 ステージ側の照明が切り替わる。

 暗転に近い光の変化が、舞台袖まで波のように伝わってくる。

 スタッフたちの動きも、一段速くなる。


 真白はステージの方をちらりと見た。


 今回のサプライズ企画用セットは、事前に説明を受けていた以上に印象的だった。


 黒を基調にした広い空間。

 床にはわずかに光を反射する加工。

 舞台中央には、背の高い半透明の装飾フレームが幾重にも重なって立っていて、正面から見るとそれが光の層になる。

 フレームの内側と外側で明暗差が作られ、奥に立つ人間の輪郭だけが浮き上がる仕組みだ。


 澪の立つ位置はその中心。

 真白のピアノは少し後方、斜めの位置。

 ピアノにも横から細いライトが入るが、正面から顔が抜けるほどの明るさではない。むしろ手元とシルエットが印象として残るよう計算されている。


 なるほど、これなら確かに見えない。


 視聴者が見るのは、歌う影と、弾く影。

 輪郭と音だけ。


「……綺麗」

 と真白は思わず漏らした。


 澪も舞台を見ながら小さく頷く。


「うん」

「助かるし、普通に演出として強い」

「助かるが先に来てるの、ちょっと面白い」

「事実だから」

「否定できない」


 そこへスタッフが来て、最終確認を告げた。


「本番は顔の正面にフロント当たりません。カメラも寄りは最低限です。お二人ともシルエットメインになります」

「はい」

「ではスタンバイお願いします」


 もう逃げられない。


 真白はピアノ位置へ向かう前に、一度だけ大きく息を吸った。

 緊張はある。かなりある。

 でも、さっきまでのような孤独な緊張とは少し違う。


 すぐ近くに、同じように緊張している相手がいる。

 しかもその相手は、ただの“同級生”ではなくなってしまった。


 澪――MIOもまた、舞台へ出る直前の顔をしていた。


 教室では見たことのない、静かな集中。

 けれど、ほんの少しだけ口元に力が入っている。

 たぶん、向こうも怖いのだ。


 真白はその事実に、少しだけ安心した。


「じゃあ」

 と澪が言う。

「じゃあ」

 と真白も返す。


 何を言えばいいかわからない。

 頑張ろう、も違う。

 よろしく、はさっき言った。

 大丈夫、も根拠がない。


 だから最後は、ひどく短い言葉になった。


「……いつも通りで」

 と澪。

「……音だけは」

 と真白。


 澪がほんの少し目を細める。

 真白もわずかに頷く。


 それで十分だった。


     ◇


 舞台へ出る。


 照明が落ちる。

 客席の気配が一気に遠くなる。

 その代わり、光の輪郭だけが鋭くなる。


 真白はピアノ椅子に座り、位置を微調整した。

 手元には細い光が落ちる。

 顔の前は暗い。

 周囲の装飾パネルが視界の端で光を返し、まるで薄い霧の中にいるようだ。


 この角度なら、たしかにカメラ越しでも顔はわからないだろう。

 テレビ越しには、ただ黒の中に浮かぶピアノと、その向こうのシルエットが映るだけだ。


 中央では、澪が定位置に立つ。

 彼女の姿もまた、明暗の境目にきれいに溶けていた。

 髪や目元の情報はつぶれ、肩の線と立ち姿だけが残る。

 まるで最初から“顔を見せない物語”として設計された人みたいだ、と真白は思った。


 客席からは歓声が上がっている。

 けれど誰も、まだその顔を知らない。


 全国放送の画面越しでも、

 誰も、二人の顔は確認できない。


 見えるのは、

 歌声と、ピアノ。

 それだけだ。


 その事実を最後の支えにして、真白は鍵盤の上に手を置いた。


 本番数秒前。

 心臓はうるさい。

 でも、指は震えていない。


 横目で見ると、澪がほんのわずかに右肩を回した。

 真白はそれを見て、逆に落ち着いた。


 大丈夫。

 少なくともこの人は、ここにいる。

 同じ秘密を抱えて、同じように緊張して、それでも前に立っている。


 なら、自分も弾ける。


 照明がさらに絞られ、会場が息を止める気配がした。


 サプライズ企画が始まる。


 学校では誰にも知られたくない二人が、

 顔の見えない光の中で、

 音だけを全国へ放つ、その瞬間が来た。

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