第6話 気まずいのに、音だけは完璧に合う
気まずい。
比喩ではなく、純度百パーセントで気まずい。
真白はピアノの前に座りながら、ここまで明確な「気まずい」を人生で何度経験しただろうかと、わりとどうでもいいことを考えていた。
たぶん片手で足りる。
しかも今回のは、かなり上位だ。
同じクラスの、ほとんど会話もしたことがない女子が、実は顔出しNGの超人気歌手でした。
しかも自分の方も、学校では絶対に隠し通したかったVTuber活動が相手にバレました。
そのうえ今から、紅白本番前の音合わせを二人きりに近い形でやります。
何だこれ。
状況説明だけで胃が痛い。
しかし現場はそんな個人的事情に一切配慮しない。
配慮しないどころか、順調に進行していく。
「まずワンコーラス通して、テンポ感見ましょうか」
「はい」
「音量バランスはそのあと調整します」
「お願いします」
スタッフの声は落ち着いていて、手際がいい。
真白は譜面を確認しながら、視界の端で澪の位置を把握する。
マイク前に立つ姿は、学校で見るバスケ部主将の朝倉澪とはやはり違っていた。
もちろん顔は隠れている。キャップもマスクもまだ外していない。けれど立ち方が違う。空気の受け方が違う。人前に立つことに慣れた人間の静けさがある。教室での澪はもっと自然体で、もっと「人の中にいる」感じだ。今の彼女は逆に、自分ひとりで空間の輪郭を作っている。
それが少し、怖い。
たぶん向こうも同じことを思っているのだろう。
澪は一度だけこちらを見た。
目が合う。
すぐ逸らす。
最悪なくらいぎこちない。
「……」
「……」
沈黙が流れる。
いや、何か言え。
言った方がいい。
社会性。最低限の社会性を発揮しろ。
真白はそう思ったものの、脳がうまく回らない。学校ならまだしも、この現場で、しかも正体が割れた直後に何をどう話せばいいのかわからない。
すると、先に口を開いたのは澪だった。
「……びっくりした」
「……それは、こっちも」
「だよね」
「うん」
会話が、壊滅的に短い。
でも、その短さが逆に助かった。
変に取り繕った言葉より、今はこのくらいでちょうどいい。
「一ノ瀬が……その」
「朝倉さんが……その」
また同時に言って、また止まる。
澪が小さく息を吐いた。
真白もつられて視線を落とす。
何これ、笑っていいのか。
いや笑う場面ではない。
でも気まずすぎて逆に少しだけ面白くなってきているのも事実だった。
「……あとで、ちゃんと話そう」
「うん」
「今は、仕事しよ」
「……そうだね」
その言い方がいかにも澪らしくて、真白は少しだけ肩の力が抜けた。
たしかにその通りだ。
今は学校でもないし、教室でもない。
ここは現場で、自分たちは仕事で来ている。
だったらまず、音を合わせるべきだ。
「では、お願いします!」
スタッフの合図が飛ぶ。
真白は呼吸を整え、両手を鍵盤の上に置いた。
澪もまた、マイクの前で姿勢を微調整する。
最初の一音を鳴らす直前、真白はふと思う。
この瞬間だけは、もう学校の一ノ瀬真白ではいられない。
そう思った瞬間、逆に落ち着いた。
指が動く。
前奏が静かに広がる。
ピアノの音はホール仕様でよく飛ぶ。けれどその響きに飲まれないよう、真白はひとつひとつの粒を丁寧に置いていく。歌のための余白を開けながら、でも骨組みは崩さない。支えすぎてもいけないし、遠慮しすぎてもいけない。そのぎりぎりを探る。
そして、澪が歌い出した。
その瞬間。
真白はほとんど反射で顔を上げた。
――やっぱり、すごい。
知っていた。
知ってはいた。
音源でも、ライブ映像でも、番組の短い歌唱でも、MIOが実力者だということはわかっていた。
でも、生は違う。
マイク越しであっても、生の声は情報量が違う。
強いだけじゃない。細いところにまで意思が通っている。
息の流れがきれいで、語尾が死なない。
少し抑えたフレーズですら空気を支配してくる。
しかも、思っていた以上に、真白のピアノをよく聴いていた。
ただ上に乗って歌っているのではない。和音の変わり目、わずかな間、テンポの揺れをきちんと拾って返してくる。
つまりこれは、ただ歌がうまい人ではない。
ちゃんと“合わせる”ことのできる人だ。
真白の中の職業人的な部分が、一瞬で判断を下す。
この人、本気だ。
同じ頃、澪の側でも、まったく別方向から同じ衝撃が走っていた。
――何これ。
最初の数小節で、澪は理解した。
真昼ましろのピアノが上手いことは知っていた。配信でも聴いていたし、弾き語りのセンスも本物だと思っていた。けれど、いま目の前にいる一ノ瀬真白のピアノは、それよりさらに整理されていた。
配信のときの彼女は、もっと自由で、もっと感情に任せる瞬間がある。もちろんそれも強い。だが今は違う。
歌を殺さず、でも絶対に沈まない。
こちらの声を前に出しながら、土台としての存在感は消さない。
音が整っているのに冷たくない。
技術を見せつける方向ではなく、曲全体の呼吸を支配する方向に強い。
澪の背筋に、うっすら鳥肌が立った。
この子、配信で弾いてるときより、ずっと上手い。
いや、配信が下手だと言っているわけではない。
むしろあれで十分おかしい。
でも現場で人の歌を背負うピアノは、また別の強さを持っていた。
しかも何より厄介なのは、そのピアノから「一緒にやろう」という意志が伝わってくることだった。単なる伴奏ではない。引っ張りすぎず、でも支えるだけでもない。
こちらが本気なら、そのぶん返してこいと静かに言われている感じがする。
澪は自然と歌に集中していた。
気まずさも、学校も、同級生も、いったん全部脇へ押しやられる。
それどころではなくなった。
目の前の音に応えなければならない。
ワンコーラスが終わる。
最後の和音が静かに消えて、空間に一拍の沈黙が生まれた。
「……」
「……」
スタッフが何か言うより先に、真白と澪はほとんど同時に相手の方を見た。
たった今、互いに同じことを考えていたのだとわかる目だった。
――すごい。
――本物だ。
「……いいですね!」
音響スタッフの声が、そこでようやく空間に戻ってきた。
「かなりいいです、テンポ感も自然ですし、歌とピアノの呼吸が合ってます」
「もう一度サビだけ確認しましょうか」
「はい」
「お願いします」
現場の人間たちは冷静だ。
しかし真白の内側は冷静ではなかった。
今の数十秒で、いろいろな前提がひっくり返ってしまった。
朝倉澪は、ただの“同じクラスの目立つ人”ではなかった。
知ってはいたけれど、それでもまだ実感が足りなかった。
彼女は本当に、MIOだった。
歌手としての格があった。
音の上で嘘がなかった。
そして何より、自分のピアノを受け止めて返してくるだけの地力があった。
同時に、澪もまた同じ衝撃を抱えていた。
一ノ瀬真白は、学校の中で見ていた無口な優等生だけではない。
いや、もちろんそれも本当なのだろう。
けれど目の前でピアノを弾いているこの人は、もっとずっと前に出られる人間だった。
音で空気を取ることに慣れている人だ。
しかも、そのうえで人の歌を活かすことまでできる。
ただの人気者ではなく、本当に音楽をやってきた人間の音だった。
「じゃあサビからお願いします」
スタッフの声で、二人はもう一度仕事へ戻る。
今度は少しだけ、最初より自然だった。
気まずさが消えたわけではない。
むしろ秘密がバレた現実はそのままだ。
でも、相手をどう扱っていいかわからない状態からは、一歩抜けた気がする。
理由は単純だった。
もう、信頼してよかったからだ。
相手が本気で、こちらも本気なら、少なくとも音の上では変な遠慮はいらない。
真白はサビの入りで、ほんの少しだけ間の取り方を変えた。
澪はその変化を一拍も遅れずに拾い、伸ばすべき音をきれいに乗せる。
――合わせてくる。
真白は内心で息を呑む。
澪もまた、ピアノの細いニュアンスが気持ちいいほど自分の歌に噛み合ってくるのを感じていた。
――この人、やりやすい。
その感覚は、歌手にとってかなり重要だ。
相性の悪い伴奏者と組むと、どれだけ技術があっても微妙な違和感が残る。逆に相性がいいと、少しのやり取りで呼吸が揃っていく。
真白と澪は、その後の数回の確認で、それをはっきり理解した。
相性がいい。
いや、言葉を選ぶなら、音楽的な呼吸が合う。
お互いの人間性はまだよくわからない。
学校での距離感もある。
秘密を共有したばかりで、何をどう話せばいいかも整理できていない。
なのに音だけは、妙に合う。
それが少し悔しくて、かなり気持ちよかった。
◇
音合わせが一段落すると、スタッフたちはマイク位置やカメラの調整に移っていった。
「いい感じです。ありがとうございます」
「本番もこの雰囲気でいけそうですね」
「では少しだけお二人、こちらでお待ちください」
言われて、真白と澪は少し離れた待機スペースへ移動する。
気まずい。
またしても気まずい。
しかしさっきまでとは種類が違う気まずさだった。
ただ秘密がバレたから気まずいのではない。
相手の実力を知ってしまったから、変に軽くもできないのだ。
数秒の沈黙のあと、真白が先に口を開いた。
「……すごかった」
「え」
澪が少し目を見開く。
真白は自分でも、もう少しマシな言い方があっただろうと思った。もっとプロっぽく、もっと気の利いた言葉を選べたはずだ。なのに出てきたのは、小学生みたいな感想だった。
でも、それがいちばん本音だった。
「歌」
「……」
「思ってた以上に、じゃなくて、思ってた通りにすごかった」
「何その褒め方」
「事実だから」
澪は一瞬だけ黙り、それから、マスクの下でたぶん少し笑った。
「そっちこそ」
「……」
「ピアノ、やばかった」
「やばいって、語彙」
「いや、語彙なくなるでしょ、あれは」
そう返されて、真白はほんの少しだけ肩の力が抜けた。
朝倉澪は、学校のときと同じ声で喋っている。
でもさっきまでのMIOとしての強さも、その中にちゃんと残っている。
不思議な感じだった。
どちらが本物とかではなく、たぶんどちらも本物なのだろう。
真白もたぶん、向こうから見ればそうなのだ。
「……配信のときより、全然違った」
と澪が言った。
「どっちが」
「いい意味で、ちゃんとしてた」
「それ配信のときちゃんとしてないみたいじゃない?」
「いや、してるんだけど」
「どっち」
「自由すぎる」
「……否定できない」
そこで、二人の間に小さく笑いが落ちた。
ほんの少しだけ。
でも、それだけでさっきまでの張り詰め方が変わる。
澪は壁にもたれず、まっすぐ立ったまま小さく言った。
「学校で見てるのと、全然違った」
「そっちも」
「だよね」
「うん」
また短い会話になる。
でも今はそれで十分だった。
互いに、相手のことを全部知ったわけではない。
ただ、少なくともひとつだけ確かなことが増えた。
この人は、ちゃんと尊敬できる相手だ。
それはたぶん、今後の関係を大きく変える。
同級生として気まずいだけだった相手が、
同時に、仕事相手として信頼できる人になってしまったのだから。
◇
「まもなく本番位置確認入りまーす!」
スタッフの大きめの声が飛び、現場がまた慌ただしくなる。
真白は反射的に背筋を伸ばした。
澪も小さく息を整えている。
本番が近い。
ここまで来ると、もう怖いとか気まずいとかだけではない。
身体が自然と“やる側”へ切り替わっていく。
それでも、確認しておかなければならないことがひとつあった。
澪が少しだけ真白の方へ顔を寄せ、他のスタッフに聞こえないくらいの声で言う。
「……学校では、絶対いつも通りで」
「うん」
「このことも、私のことも」
「わかってる」
「そっちも、もちろん」
「……それは、お願いしたい」
真白は小さく頷く。
そうだ。
いくら音の上で尊敬できても、いくら仕事で信頼できても、それと学校は別だ。
少なくとも今は、まだ。
教室で急に距離感が変わったら怪しまれる。
周りに悟られるわけにはいかない。
自分の秘密も、相手の秘密も、あまりに大きすぎる。
澪は視線を少しだけ和らげた。
「……ありがと」
「こっちこそ」
たったそれだけのやり取りなのに、真白の胸のあたりが少しだけ温かくなる。
秘密を抱えたまま同級生として生きるのは、想像以上にしんどい。
でも、相手も同じだと知ってしまった。
しかもその相手は、尊敬できる人だった。
それは少しだけ、救いだった。
「では、お二人こちらお願いします!」
本番位置への呼び出し。
真白はピアノの方へ向かい、澪はマイク位置へ進む。
背中越しに、それぞれがそれぞれの集中へ沈んでいく気配があった。
音合わせは終わった。
気まずさはまだある。
でも、もう最初の頃の“どう扱えばいいかわからない他人”ではない。
同じクラスの、秘密を抱えた同級生。
そして、音の上では信用できる相手。
それだけで、少しだけ世界の見え方が変わる。
本番前の照明はまだ控えめで、ステージの向こう側には巨大な年末の空気がうごめいているようだった。
真白はピアノ椅子に座り、手を軽く組み直す。
このあと全国放送が始まる。
大勢の前で弾く。
MIOが歌う。
そしてたぶん、今日という日は、もう二度と忘れられない。
視線を上げると、マイク前の澪がほんの一瞬だけこちらを見た。
真白も、ほんの一瞬だけ見返す。
言葉はない。
でも、それで十分だった。
大丈夫。
たぶん、音だけは裏切らない。




