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『学校では誰にも知られずに卒業したい 〜うちのクラス、隠し事が多すぎる〜』  作者: 御上常陸介寛浩


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第5話 NHK紅白歌合戦の舞台裏で、同級生と鉢合わせました

年末の東京は、空気まで忙しない。


 真白は車窓の外を流れていく景色を見ながら、膝の上でそっと指を組み直した。落ち着かない。もちろん顔には出さないようにしているが、落ち着かないものは落ち着かない。


 車内には、事務所のマネージャーと運転手がいる。必要最低限の会話しかない。ありがたい。こういう日は、励ましの言葉すらノイズになることがある。


「現場入り後は、スタッフさんの指示に従ってください。控室は個別確保されています。顔出し導線は問題ありません」


 マネージャーがタブレットを確認しながら、改めて段取りを読み上げる。


「はい」

「最終リハのあと、すぐにスタンバイです。今回サプライズ枠なので、通常出演者導線とは少し別になります」

「はい」

「緊張してますか」

「それなりに」

「それなりで済んでるなら大丈夫ですね」


 済んでいないのだが、と真白は心の中だけで返した。


 それなり、というのは社会的に便利な言葉だ。すごく緊張していてもそれなりと言えるし、ちょっとだけ不安でもそれなりと言える。詳細を説明する気力がないときに最も便利な曖昧さを持っている。


 今の真白は、それなりどころではなかった。


 NHKホール。

 紅白。

 サプライズ企画。

 共演者はMIO。


 そのどれもが重いのに、さらに厄介なのが、あの嫌な予感がまだ死んでいないことだ。


 朝倉澪だったらどうしよう。


 いや、違うだろ。


 でももしそうだったら?


 その思考を何度も否定して、何度も捨てようとして、そのたびに別の形で戻ってきた。姿勢、声の芯、右肩を回す癖。断片だけならいくらでも偶然だと言える。だが断片が積み重なっていくと、人は勝手に意味を作ってしまう。


 もちろん、これは真白の職業病でもある。音の仕事をしている人間は、つい、声や呼吸や間の取り方で人を見てしまう。


 それでも。


「……ないない」


 小さく呟く。


「何か言いました?」

「いえ」


 マネージャーがちらりとこちらを見る。真白は何でもない顔で首を振った。


 車が現場近くに差しかかる。


 関係車両が出入りするエリアは、表の華やかさとは違う静かな緊張に包まれていた。スタッフの人数は多い。誰もが急いでいるのに、妙に無駄がない。大きなイベントの現場特有の空気だ。


 車が止まり、ドアが開く。


 真白は深呼吸をひとつしてから外へ出た。


 冬の空気は冷たいのに、現場の熱気のせいで妙に現実感が薄い。ここが年末のテレビの中心地のひとつなのだと思うと、少しだけ足元がふわつく。


「こちらです」


 案内スタッフに導かれ、顔出しを避けるルートで中へ入る。


 廊下は明るく、しかし騒がしくはない。出演者もスタッフも、みんなそれぞれの持ち場で動いている。誰も「紅白だー!」みたいなはしゃぎ方はしない。当たり前だ。ここにいる人間にとっては仕事なのだから。


 真白はキャップを少し深くかぶり直しながら歩いた。


 配信では何万人の前でも喋れるくせに、こういうリアルの現場では神経が細くなる。別に人見知りというわけではない。いや、わりと人見知りではあるのだが、それだけではなく、リアルな場では情報量が多すぎるのだ。


 光。音。人の気配。歩幅。タイミング。空気の流れ。


 配信なら自分である程度支配できるものが、ここでは全部が自分の外にある。


 だから、緊張する。


「こちらが控室になります。お時間まで少しお待ちください」


「ありがとうございます」


 案内された部屋は、必要十分に整った小さな控室だった。テーブル、椅子、ミネラルウォーター、簡単な資料、鏡。余計なものはない。ありがたい。過剰に豪華な部屋は逆に落ち着かない。


 ドアが閉まり、ひとりになる。


 真白はそこでようやく肩の力を少し抜いた。


「……来ちゃった」


 自分でも間抜けな台詞だと思う。


 来るに決まっている。仕事なのだから。


 けれど、ここまで来てようやく現実感が追いついてくる。家の防音室で譜面を見ていたときとは違う。学校でノートを取っていたときとも違う。ここは本当に、本番の手前だ。


 テーブルの上の資料を手に取り、もう一度確認する。


 進行、立ち位置、演奏の入り、サプライズ演出上の注意。

 その中にある共演者の名前を、できるだけ平常心で読む。


 MIO。


「……」


 やっぱり字面が強い。


 真白は椅子に座り、ペットボトルの水をひと口飲んだ。


 どう接すればいいのだろう。


 いや、普通に接すればいい。仕事相手として礼儀正しく、必要な確認をして、音を合わせる。それだけだ。相手がどれだけ有名でも、こちらがひるみすぎる必要はない。ピアノに関しては自分もプロとして呼ばれている。対等だ。少なくとも、音の上では。


 問題はその“普通”が、相手次第ではあっさり崩壊する可能性があることだ。


 もしも、本当に、万が一にも、朝倉澪だったら。


 いや、ない。

 でも。

 いや、ないってば。


 そこでノックの音がした。


 真白は背筋を伸ばす。


「はい」


 入ってきたのは演出スタッフで、表情はきびきびしているが柔らかい。


「このあと音合わせに入ります。先方もまもなく到着ですので、準備をお願いします」

「わかりました」

「五分ほどでまたお迎えします」

「はい」


 ドアが閉まる。


 真白はその場で数秒固まった。


 先方。

 まもなく到着。


 つまり次にドアが開いたら、もう逃げ場はない。


「……よし」


 今度こそ本気で、自分に言い聞かせるように呟く。


 大丈夫。

 相手が誰でも、弾くことは変わらない。

 音で会話すればいい。

 変に取り繕わなくていい。

 いや、社会性は取り繕え。最低限は。


 真白は立ち上がり、キャップの位置と服の皺を軽く整えた。


 そのとき、ドアの向こうの廊下で、誰かの話し声がした。


 スタッフのものと思われる声と、もうひとつ、落ち着いた、少し低めの声。


 真白の肩がぴくりと揺れる。


 聞こえたのはほんの一言だった。内容までは拾えない。けれど、妙に耳に残る響きだった。


 違う。

 気のせい。

 こんな状況で、勝手に何でも結びつけるな。


 それでも鼓動が少し速くなる。


 数秒後、再びノック。


「失礼します。ではこちらへ」


 真白は小さく息を吸い、頷いた。


「お願いします」


     ◇


 案内された先は、ステージ脇に近いリハーサル用の空間だった。


 本番用の豪華なセットがそのまま見えるわけではないが、照明や機材の規模だけで十分に“紅白”の気配がある。人の出入りも多い。けれど導線は整理されていて、誰も無駄に立ち止まらない。


 中央には、今回使う予定のピアノが置かれていた。黒く磨かれた天板が照明を鈍く反射している。


 真白は一歩近づき、軽く鍵盤に触れた。


 感触は悪くない。むしろかなりいい。音も通る。少しホール寄りの響きだが、歌を支えるにはちょうどいいかもしれない。


「真昼さん、よろしくお願いします」


 音響スタッフが挨拶する。


「こちらこそ、よろしくお願いします」

「歌唱側もすぐ入りますので、先に簡単な音確認だけ」

「はい」


 真白は椅子に座り、軽くスケールを弾いた。高音域、低音域、ペダルの感触。ホール用の響きは配信部屋とは全然違うが、対応できないほどではない。


 指を慣らしながら、真白は自分の呼吸も整えていく。


 大丈夫。

 大丈夫。

 少なくともピアノの前では、自分はそんなに弱くない。


「先方、入りまーす」


 スタッフの声が飛ぶ。


 真白の背筋が、ほとんど反射で伸びた。


 足音が近づく。

 数人のスタッフ。

 その中央、やや後ろ。

 キャップとマスクで顔を隠した細身の人物。


 真白は立ち上がった。


 仕事相手として、まずは礼儀正しく挨拶をしなければならない。たとえどれだけ有名な相手でも。いや、有名だからこそ、なおさら。


 その人物もまた、こちらに気づいて一歩足を止めた。


 距離は三メートルほど。


 最初に見えたのは、身長。

 次に、肩の線。

 そして立ち方。


 真白の脳内で、嫌な予感が急激に現実味を帯びる。


 相手もまた、同じようにこちらを見ている気配があった。


 顔はまだマスクと帽子に隠れている。

 なのに、妙に目が離せない。


 スタッフが何か説明している声が、急に遠く感じた。


「こちら、本日のピアノ担当、真昼ましろさんです」


 その紹介に合わせるように、相手が少しだけ帽子のつばを上げる。


 目元が見えた。


 その瞬間、真白の中で何かがきれいに繋がった。


 教室。

 体育館。

 朝の挨拶。

 右肩を回す癖。

 よく通る声。

 住む世界が違うと思っていた同級生。


 目の前にいるその人も、同じように固まっていた。


 マスクの上からでもわかる。

 目が見開かれている。


 真白の口から、ほとんど無意識で声が漏れる。


「……え」


 相手も、信じられないものを見る顔でこちらを見たまま、小さく声を漏らした。


「……なんで」


 その声は。


 朝倉澪の声だった。


 真白の思考が、一瞬きれいに止まる。


 いや待って。

 待って待って待って。

 そういう“まさか”は、比喩として使うものであって、現実に目の前へ出てきていいものではない。


 だって今ここはNHKの舞台裏で、相手はMIOで、でもそのMIOが朝倉澪で、つまり同じクラスのバスケ部主将が顔出しNGの超人気歌手で、こっちはこっちで一ノ瀬真白であり真昼ましろで、いや情報量が多すぎる。


 何から処理すればいい。


 相手も同じことを考えているらしかった。


 澪は数秒、完全に言葉を失っていた。学校で見るあの余裕も、部活でのきびきびした主将の顔も、今はきれいに吹き飛んでいる。


「……一ノ瀬?」

「……朝倉さん?」


 確認するな。

 いやでも確認しないと脳が受け入れない。


 スタッフたちは一瞬だけきょとんとした顔をしたが、すぐに「お知り合いですか?」という柔らかい空気を出した。


 柔らかい空気を出さないでほしい。こちらとしては、だいぶ大事故だ。


「えっと……」

「その……」


 真白と澪が同時に口を開き、同時に詰まる。


 最悪だった。


 学校ではろくに話したこともない相手と、まさかこんな場所で、こんな形で、お互いの最大級の秘密を抱えたまま向かい合うことになるなんて思わないだろう。誰が予測できる。脚本でももう少し加減する。


 澪が先に、ぎこちなく息を吸った。


「……同じ学校、です」

「同じクラスで」

「知り合い、ではあります」


 知り合い、ではあります。


 その距離感の雑さが逆にリアルで、真白は混乱のさなかに少しだけ笑いそうになった。いや笑っている場合ではない。


「それはよかったです、話が早いですね」


 スタッフは完全に善意でそう言った。


 早くない。全然早くない。むしろ情報処理速度が追いついていない。


 真白は必死で表情を崩さないようにしながら、もう一度澪を見た。


 マスクとキャップの奥にいるのは、たしかに朝倉澪だった。学校の中ではバスケ部主将としてまっすぐ立っている女子。クラスでは明るく、自然体で、たぶん人から期待されることに慣れている人。


 その彼女が今、MIOとしてここにいる。


 そして澪の方も、こちらを見て同じ衝撃を受けている。


 たぶん、真昼ましろの正体が一ノ瀬真白だと知ってしまったから。


 胃が痛い。

 心臓もうるさい。

 でも逃げられない。


「では、まず軽く立ち位置確認してから音を合わせましょう」


 スタッフの進行は止まらない。現場は個人の感情で止まってはくれない。ありがたいような、ありがたくないような。


 澪は一度だけ目を閉じ、小さく息を吐いた。


 そして次に目を開けたときには、ほんのわずかだが、仕事の顔へ戻ろうとしていた。


「……よろしく、お願いします」


 マスク越しの声は少し硬い。


 けれど、その一言はちゃんとMIOとしてのものでもあり、朝倉澪としてのものでもあった。


 真白は喉の奥が変に乾くのを感じながら、同じように頭を下げる。


「……こちらこそ、よろしくお願いします」


 言いながら、思う。


 絶対に、普通の“よろしく”ではない。


 学校ではほぼ他人だった同級生。

 なのに今は、お互いの最大級の秘密を一瞬で握り合ってしまった相手。

 しかも今から、この二人で音を合わせなければならない。


 最悪だ。

 いや、たぶん音楽的には最高かもしれない。

 でも精神衛生的には最悪だ。


 真白と澪は、数メートルの距離を挟んだまま、まだうまく言葉にできない衝撃を抱えて立っていた。


 このあと音を合わせれば、きっとさらにいろいろなことがわかってしまう。

 相手の本気も、格も、呼吸も、嘘のつけなさも。


 そしてたぶん、それは学校の中の距離感を、もう元通りにはしてくれない。


「では、お願いいたします!」


 スタッフの声。


 真白はピアノの前に座り、澪はマイクの位置へ立つ。


 お互いまだ、ほんの少しだけ相手から目を逸らしたままだった。


 でも、もう逃げ場はない。


 NHK紅白歌合戦の舞台裏で。

 同じクラスのはずの二人は、

 同級生としてではなく、

 プロとして向き合うことになってしまったのだった。

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