第45話 翌日の教室、誰も何も言わないのに情報量だけ多い
翌朝の教室ほど、平然と残酷なものはない。
どれだけ前の夜に大きな出来事があっても、朝になれば容赦なくホームルームは始まるし、提出物は消えないし、小テストの範囲も待ってはくれない。
日本アカデミー賞の授賞式に出ていようが、映画原案者として会場にいようが、主題歌を歌っていようが、ピアノを弾いていようが、そのへんは一切考慮されない。
学校とは、そういう意味でかなり平等だ。
真白は朝、教室のドアの前で一瞬だけ立ち止まった。
昨日の夜のことが、まだ少し身体の中に残っている。
ステージの照明。
拍手。
会場の張った空気。
絵麻の「会えてよかった」。
澪の「また学校で」。
それなのに、ドアの向こうにはたぶん今日も、普通の教室がある。
「……」
真白は小さく息を吐いた。
「よし」
そして教室へ入る。
やはり、そこには普通の朝があった。
ひかりが誰かに話しかけている。
さやかが日誌を確認している。
木乃葉は机に伏している。
音々は窓の外を見ている。
絵麻はノートを開いている。
澪は、自席で普通の顔をしていた。
普通の顔。
いや、普通の顔をしているだけで、真白には昨日の会場の光景までセットで見えてしまう。
それがもう、だいぶ面白い。
「おはよう」
と、澪が言う。
「……おはよう」
真白が返す。
短い。
自然。
でも本人たちだけは知っている。
昨日の夜、この二人は日本アカデミー賞の会場で並んでいた。
それを知っているのに、この“おはよう”の平熱をやっているのだから、だいぶじわじわ来る。
「おはよー」
とひかり。
「おはよう」
絵麻もふわっと言う。
「おはようございます」
さやか。
「概念的に」
木乃葉。
「それ挨拶なの?」
と真白が思わず言った。
一拍置いて、教室が少し笑う。
「あ、出た」
ひかりが言う。
「何」
「朝一ツッコミ」
「今日は早かったね」
と絵麻。
「一ノ瀬さん、最近エンジンかかるの早い」
さやかが言う。
「それ、車みたいに言わないで」
「でも今のかなり反射だった」
と澪。
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ視線を逸らした。
「昨日の夜のあとで、最初に出る感想が“それ挨拶なの?”なの、自分でもどうかと思った」
「うわ」
ひかりが笑う。
「そこを自分で言うんだ」
「今の一ノ瀬さん、だいぶ教室側」
絵麻が言う。
「いや、今ここ教室だから」
「そうなんだけどね」
また少し笑いが起きる。
救われる。
こういうどうでもいい会話があると、昨日の夜のあの場所も、ちゃんと自分の延長として処理できる気がする。
◇
一時間目の前、案の定、映画賞関連の話題は少しだけ出た。
いや、少しどころではない。
話題になるのは当然だ。
MIOが主題歌を披露した。
短編アニメのノミネート作品も紹介された。
ネット記事も出る。
SNSも動く。
ひかりがスマホを見ながら言う。
「昨日の授賞式、やっぱり記事早い」
「だよね」
とさやか。
「朝にはもうまとめ出てる」
「仕事が早い」
と木乃葉が机に伏せたまま言う。
「ネットはそういうもの」
ひかりが頷く。
「ほら、主題歌ステージも記事になってる」
「へえ」
と絵麻。
「短編アニメの紹介もちゃんと出てるね」
「……」
「何その間」
とさやか。
「いや、なんか」
絵麻はいつもの柔らかい笑顔で言う。
「記事になるのって変だなあって」
「その感想、だいぶ関係者寄りでは?」
ひかりがにやっとする。
「ちょっとだけ」
絵麻が認める。
「ちょっとだけ、なんだ」
真白が言う。
「そこは?」
「そこはちょっとだけ」
「便利だね」
木乃葉が言う。
「便利じゃないもん」
絵麻が返す。
「今日は便利で逃げる気分じゃない」
「珍しい」
さやかが言う。
「昨日が昨日だから?」
「……」
「その沈黙、もうだいぶ答え」
ひかりが笑う。
教室は相変わらずだ。
見えている人には見えている。
でも、そこでちゃんと止まる。
そのやりとりを聞きながら、真白はスマホの画面を見ないようにしていた。
見なくても、どうせ出ているのはわかる。
日本アカデミー賞。
特別ステージ。
MIO。
真昼ましろ。
しかも今、その記事の話題の中に、自分が普通の制服で座っている。
状況がちょっと面白すぎる。
「一ノ瀬さん」
ひかりがふいに言う。
「何」
「映画賞の記事とか見る?」
「……見るときもある」
「今日のその言い方、かなり“見ました”寄り」
「小鳥遊さん、本当にどうでもいいところで精度高いね」
「褒めてる?」
「違う」
「でも今のはたぶん、昨日見た人の返し」
ひかりが楽しそうに言う。
そこで真白は少しだけ思う。
やっぱりこのクラス、怖い。
でもその怖さも、今は少しだけ慣れてきた。
◇
澪は、その間ずっと比較的静かだった。
比較的、である。
ゼロではない。
でもひかりほど乗らず、さやかほど整理せず、木乃葉ほど含みも持たない。
それが逆に、真白にはわかりやすかった。
この人も、たぶん、内心ではだいぶ昨夜のことを思い出している。
すると、一時間目のあと、澪がごく自然な顔で振り返った。
「一ノ瀬」
「何」
「今日の数学、小テストあるの知ってた?」
「……」
「あ」
ひかりが言う。
「その“あ”やめて」
真白が即答する。
「いや、だって今の」
「だって今の?」
「会話の入り方が、“本当に聞きたいことは別にあるけどとりあえず小テストの話をした人”のそれだった」
「分析が細かい」
と澪。
「いやでもわかる」
絵麻も言う。
「今の朝倉さん、ちょっとだけ“普通の教室会話”を丁寧にやってた」
「……」
「何その沈黙」
とさやか。
「図星なんだ」
「図星ではない」
と澪。
「半分くらい」
「半分認めてるじゃん」
真白が言うと、教室がまた少し笑った。
その笑いの中で、真白も少しだけ肩の力を抜く。
そうだ。
昨日の夜のあとでも、今日は数学の小テストがある。
そういうどうでもいい現実があるから、たぶんちゃんと学校へ戻ってこられるのだ。
「で」
澪が言う。
「知ってた?」
「知ってた」
真白が答える。
「よかった」
「何その安心」
「昨日の余韻で忘れてるかと思った」
「そこまでではない」
「でも今の一ノ瀬さん、少しありえた」
ひかりが笑う。
「何その評価」
「昨日、何かいいもの見た人の顔してるから」
「やめて」
「図星?」
「……半分くらい」
「一ノ瀬さんまで感染してる」
さやかが言った。
たしかに感染している。
便利だね、半分くらい、そういう曖昧な逃がし方が、最近の2年A組にはちょうどいい。
◇
二時間目の休み時間、絵麻が机でぼんやり記事を見ていた。
「桃園さん」
真白が小さく声をかける。
「何?」
「記事、出てるね」
「うん」
「変な感じ?」
「うん」
絵麻は素直に頷く。
「すごく」
「……」
「でも」
「でも?」
「学校来ると、わりと普通」
「それは、わかる」
真白も言う。
昨日の夜、会場の廊下で別れた。
それなのに、今日の朝はいつも通り教室で会った。
その切り替わりの早さは、変だ。
でも、その変さがあるから保たれるものもある。
「一ノ瀬さんも?」
絵麻が聞く。
「うん」
「授賞式のあとでも?」
「うん。教室入ると、意外と教室のこと考える」
「たとえば?」
「木乃葉さん今日人類寄りだな、とか」
「何それ」
と、ちょうど聞こえていた木乃葉が言う。
「褒めてる?」
「今日はたぶん褒めてる」
「なら受け取る」
「そこ素直なんだ」
教室がまた少し笑う。
こういう瞬間があるから、昨日の会場と今日の教室が同じ人生の延長線上にある気がしてくる。
◇
三時間目のあと、さやかが本気で首を傾げた。
「ねえ」
「何」
ひかりが返す。
「うちのクラス、今日はいつも以上に“誰も何も言わないのに情報量だけ多い”日じゃない?」
「うわ」
ひかりがすぐ笑う。
「そのまとめ方、かなり正しい」
「何でそんなことになるのよ」
さやかが言う。
「普通、情報量って誰かが喋ることで増えるんじゃないの?」
「2年A組は違う」
と木乃葉。
「黙ってても増える」
「その仕様いらない」
「でも今日はほんとにそう」
絵麻が頷く。
「昨日のこと、誰も具体的には言ってないのに」
「うん」
「なんか教室の空気だけ、一ミリ多い」
「それ」
真白が言う。
「まさにそれ」
「何その乗り方」
さやかが呆れる。
「一ノ瀬さんがそこまで共感する時点で、たぶんかなり当たり」
「……」
「何その顔」
ひかりが聞く。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「ほんとに、昨日の夜を知ってる人だけ空気が一ミリ違う感じするなって」
「うわ」
澪が小さく言う。
「何」
「今の、かなりその通り」
「朝倉さんまで」
「だってそうでしょ」
二人でそこで少しだけ目が合って、すぐに逸らす。
その一瞬を、ひかりが見逃すはずもない。
「はい」
「何」
真白が言う。
「今の一瞬だけで、情報量二倍」
「やめて」
「でもほんと」
「小鳥遊さん、やっぱり仕事が速い」
さやかが言う。
「情報処理の?」
「そっち」
「褒めてる?」
「今日はわりと」
「やった」
ひかりは本当にこういうとき楽しそうだ。
◇
昼休み、風間が教室へ来て、何食わぬ顔でこう言った。
「昨日、関係のあった人たちはお疲れさまでした」
「……」
教室の空気が一瞬止まる。
怖い。
担任、やっぱり全部把握している。
「なお」
風間は続ける。
「学校では通常運転でお願いします」
「先生」
さやかが言う。
「はい」
「その言い方、だいぶ意味深なんですけど」
「一般論です」
「一般論の精度が高い」
「担任ですので」
「その万能ワードほんとに強いな……」
教室が少し笑う。
でも真白は、その一言に少しだけ助けられていた。
学校では通常運転。
それでいいのだ。
それでいいと言ってくれる大人がいるのは、たぶんかなり大きい。
◇
放課後、帰り支度をしながら、真白はあらためて思う。
昨日の夜、自分たちは日本アカデミー賞の会場にいた。
澪は主題歌を歌った。
自分はピアノを弾いた。
絵麻は原案者としてその場にいた。
でも今日の教室では、誰も大げさにそれを言わない。
ただ、少しだけ空気の情報量が多いだけだ。
そのギャップが、なんだか少し面白かった。
「……変だけど、嫌いじゃない」
真白が小さく言うと、
「何が?」
と絵麻。
「今日の教室」
「うん」
絵麻はすぐ頷く。
「私も」
「昨日のこと知ってる人だけ、ちょっと空気違うのに」
「うん」
「でも、それをそのまま大きくしない感じ」
「それがこのクラスだもん」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ目を細めた。
「最近ほんとに、このクラスのこと好きになってきたかも」
「うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
「今の、だいぶ大きい告白」
「教室への?」
と絵麻。
「重い」
と木乃葉。
「でも、いいと思う」
澪が静かに言った。
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今日はほんとに、情報量多いなって」
「昨日の夜のぶん」
と絵麻。
「それがまだ残ってる」
「たぶんそう」
真白が頷く。
翌日の教室。
誰も何も言わない。
でも情報量だけ多い。
それは、変で、可笑しくて、そして少しだけやさしい朝だった。




