第44話 授賞式の夜、同じ教室の三人が別々の導線で帰っていく
大きな場が終わったあとの空気には、独特の軽さがある。
完全に解放されたわけではない。
まだ人もいるし、スタッフは動いているし、会場の明かりも消えていない。
でも、本番前に張っていた見えない糸みたいなものが、ひとつずつほどけていく。
日本アカデミー賞の夜も、そんな感じだった。
真白は特別ステージを終え、控え近くの導線で少しだけ立ち止まっていた。
呼吸はもう落ち着いている。
手も震えていない。
でも、胸の中にはまだ音の余韻が残っていた。
映画の映像。
澪の歌。
自分のピアノ。
拍手。
袖へ戻ったあとの短いやりとり。
全部が少しずつ、まだ身体の中にある。
そこへ、澪が隣へ来た。
そして少し遅れて、絵麻も別導線から合流する。
同じ教室の三人が、授賞式会場の廊下で揃う。
冷静に考えると、本当に意味がわからない。
「……」
「……」
「……」
一瞬、三人とも何を言えばいいかわからなかった。
たぶん、教室の中ならもっと適当なことを言えた。
でも今は場所が場所だし、全員少しだけ仕事の余韻を引きずっている。
その微妙な沈黙を最初に崩したのは、やっぱり絵麻だった。
「なんか」
と、絵麻。
「何?」
真白が返す。
「本当に会場にいるね」
「今さらそこ?」
澪が言う。
「でもわかる」
真白も頷いた。
「正直、まだ半分くらい夢みたい」
「だよね」
「うん」
「しかも同じ教室から三人」
澪が言う。
「だいぶ意味わからない」
「そこは今日何回も確認した」
真白が言うと、絵麻が小さく笑った。
そうだ。
今日だけでたぶん三人とも何度か思っている。
うちのクラス、本当に何なんだろう。
でも今は、その意味不明さの中に少しだけ心地よさもあった。
◇
「一ノ瀬さん」
絵麻が真白の方を見る。
「何」
「さっきのピアノ、ほんとによかった」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ視線を落とした。
「さっきも言われたから」
「もう一回言う」
「二回言うんだ」
「言うよ。二回よかったから」
「何その言い方」
「便利だから?」
「そこは雑に逃げないで」
と澪が笑う。
絵麻は少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、ちゃんと言う」
「……」
「映像の後ろに下がりすぎないのに、でもちゃんと映画の空気を壊してなくて」
「……」
「あと、澪の声の前に出すところと引くところが、すごく自然だった」
「……」
「何その顔」
「今のはだいぶ効いた」
真白が素直に言う。
「褒めてる?」
「かなり」
そう返すと、絵麻は少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑い方が、やっぱり教室の桃園絵麻なのが不思議だった。
会場にいても、褒め方の温度は少しだけふわっとしている。
「朝倉さんも」
絵麻が次に澪を向く。
「何?」
「二番の入り、すごく好き」
「……」
「そこだけ少しだけ“歌う人”より“作品の人”だった」
「うわ」
澪が小さく言う。
「何その感想」
「だめ?」
「だめじゃない」
「じゃあ褒めてる」
「それは、かなり褒めてる」
真白はそのやりとりを見ながら思う。
絵麻はやっぱり、“作る側”の見方をする。
技術だけじゃなくて、その瞬間に何を残したかを見ている。
だから褒められると、変なところまで刺さる。
「桃園さん」
澪が言う。
「何?」
「やっぱり原案者なんだなって、さっきの感想であらためて思った」
「……」
「何その顔」
「いや」
絵麻は少しだけ照れたように笑う。
「会場でそれ言われると、ちょっと恥ずかしい」
「教室ならいいの?」
真白が聞く。
「教室なら、もう少し雑に流せる」
「場所で対応変えるんだ」
「そこは多少」
「すごいな」
澪が言う。
「桃園さん、会場でも桃園さんのままだと思ってたけど」
「うん」
「細かいところではちゃんと会場仕様なんだね」
「それはあるかも」
「へえ」
真白が言う。
「何」
「ちょっと安心した」
「何で」
「全部ふわっとしてると、それはそれで心配になる」
「ひどい」
絵麻が笑う。
「でも少しわかる」
三人でまた少し笑った。
◇
笑ったあとに来る沈黙は、前よりだいぶ自然になっていた。
会場の空気はまだ続いている。
遠くでスタッフの声。
関係者が行き交う靴音。
照明が少しずつ落ち着いていく気配。
その中で、同じ教室の三人が静かに立っている。
「……」
「……」
「……」
でも、気まずくはない。
「なんかさ」
澪が言う。
「何?」
真白が返す。
「今日のこと、学校で普通に話せないの変だね」
「それはほんとにそう」
真白は即答した。
「今こうして同じ会場にいるのに、明日……いや、来週か」
「うん」
「教室では“おはよう”から始まるんだよね」
「うん」
絵麻も頷く。
「ちょっと変」
「ちょっとどころではない」
真白が言う。
「だって会場では、歌姫とVTuberと原案者だよ」
「急に肩書きで整理するな」
澪が笑う。
「いやでも正しい」
絵麻も言う。
「で、学校では?」
「……ただのクラスメイト」
と真白。
「うん」
澪が頷いた。
「それが一番変」
「でも」
絵麻が少しだけ考えてから言う。
「その変さ、嫌いじゃない」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
絵麻は少しだけ目を細める。
「学校でまで全部“外の顔”になっちゃったら、たぶん息つかないし」
「それはわかる」
澪が言う。
「うん」
真白も頷く。
「だから、教室ではただのクラスメイトでいられるの、案外大事」
「……」
「でも、その“ただのクラスメイト”が授賞式会場にいるのはだいぶ変」
「そこは両立するんだ」
真白が言う。
「するよ」
「便利だね」
澪が言う。
「そこ便利で済ませる?」
「今のは半分くらい冗談」
また少し笑う。
そうだ。
教室ではただのクラスメイト。
でも外では、それぞれ別の仕事をしている。
その二重さは、今までずっと“隠さないといけないもの”として感じていた。
でも今は少し違う。
守るべきものではある。
ただし、それだけではない。
その二重さがあるから、こうして同じ会場で会ったときに、妙に安心もするのだ。
◇
そこへ、会場スタッフがそれぞれへ声をかけ始めた。
「朝倉様、こちらのご移動をお願いします」
「はい」
澪が答える。
別方向からは、
「桃園様、関係者お出口はこちらになります」
「ありがとうございます」
絵麻も会釈する。
そして真白の方にも、スタッフが近づいてきた。
「一ノ瀬様、お車のご案内をいたします」
「はい」
一ノ瀬様。
ついに来た。
真白が少しだけ微妙な顔をすると、絵麻が先に気づいた。
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ言いづらそうに言う。
「一ノ瀬様、慣れないなって」
「そこ?」
澪が笑う。
「そこ」
「今それ言う?」
絵麻が吹き出す。
「だって仕方ないでしょ」
「わかるけど」
「今日ずっと“様”で笑いそうになるの我慢してた」
「そんな我慢してたんだ」
「してたよ」
「えらい」
澪が言う。
「褒めてる?」
「そこはちゃんと」
「その褒め方、地味に好き」
真白が言うと、
「それはだいぶ会場後のゆるみが出てる」
澪が笑った。
三人とも、少しだけ肩の力が抜けていた。
だからこそこういうどうでもいい会話ができるのだろう。
◇
それぞれのスタッフが少し待っている。
長くは話せない。
ここでずっと“同級生会”を始めるわけにもいかない。
それでも、最後に何かひとことは言いたかった。
「……じゃあ」
真白が言う。
「うん」
澪が返す。
「何?」
絵麻も見る。
真白は少しだけ迷ってから、素直に言った。
「今日、会えてよかった」
「……」
「……」
「何その沈黙」
「いや」
澪が少しだけ笑う。
「今の、普通にうれしかった」
「私も」
と絵麻。
「ちょっとだけ安心したし」
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
真白は小さく息を吐いた。
「言ってから少し恥ずかしくなった」
「遅い」
と澪。
「でも、言ってよかったやつ」
と絵麻。
「うん」
澪も頷く。
その短い会話だけで、十分だった。
全部を言わなくてもいい。
でも、ほんの少しだけ言葉にしておくと、今日の出来事がちゃんと形になる気がした。
「じゃあ、また学校で」
澪が言う。
「うん」
真白が返す。
「また教室で」
絵麻も言う。
「……うん」
それぞれが、別の導線へ歩き出す。
澪はステージ側の流れのまま。
絵麻は関係者席の流れのまま。
真白もまた別方向へ。
同じ教室から来た三人なのに、帰り道は別々だ。
それが少しだけ寂しくて、でもすごく自然だった。
◇
車へ向かう途中、真白は少しだけ振り返った。
もう二人の姿は見えない。
会場の廊下はまた、仕事を終えた人たちの流れへ戻っている。
それでいいのだと思う。
学校ではただの同級生。
外ではそれぞれ別の顔。
今日の夜は、その二つが少しだけ交差しただけ。
でも、その“少しだけ”が思っていたより大きい。
「……ほんと、変」
小さく呟く。
でも、口元は少しだけ笑っていた。
授賞式の夜、同じ教室の三人が別々の導線で帰っていく。
その光景は、妙に静かで、妙にきれいで、少しだけ変だった。
そしてたぶん、その変さを、真白は前より好きになっている。




