第43話 知ってる相手との再共演は、前より少しだけ強い
舞台の袖というのは、どこでも少しだけ冷たい。
実際の温度の話ではない。
空気の話だ。
本番前の人間が集まる場所は、だいたい少しだけ冷えている。
声を抑える人。
呼吸を整える人。
確認事項を最後にもう一度見る人。
スタッフの足音。
遠くで聞こえる拍手。
照明の熱とは別の、ぴんと張った空気。
真白はその空気の中に立ちながら、静かに息を吐いた。
日本アカデミー賞の特別ステージ。
いよいよ本番だ。
紅白のときより、心臓は少しだけ静かだった。
そのかわり、神経の解像度が高い。
手の先。
呼吸。
靴の底に伝わる床の感触。
衣装の袖が動く音。
全部、少しだけ鮮明だ。
それはたぶん、今回の方が“わかっている”からだろう。
何が起きるか。
誰とやるか。
どういう音を作るか。
そして、相手が誰なのかも。
少し前方、同じ袖の位置で、澪が立っていた。
MIOとしての立ち姿。
けれど真白には、その背中の中に、教室の朝倉澪も少しだけ見えてしまう。
それが前より不思議ではなくなってきたことが、いちばん不思議だった。
澪が少しだけこちらを見る。
視線が合う。
言葉はない。
でも、それで十分だった。
前より、信じられる。
たぶん向こうも、少しは同じなのだろう。
◇
ステージ進行の最終確認が入り、スタッフが小さな声で告げる。
「まもなくです」
「はい」
真白は短く答える。
その返事のあとで、澪が一歩だけ近づいてきた。
「一ノ瀬」
「何」
「今さらだけど」
「うん」
「緊張してる?」
「かなり」
真白は正直に答えた。
そこで澪が少しだけ笑う。
「よかった」
「何で」
「私もだから」
「……それ、安心材料?」
「半分くらい」
「便利だね」
「便利だから」
「会場でもそれ言うんだ」
「使えるうちは使う」
少しだけ笑ってしまう。
本番直前なのに。
いや、本番直前だからこそかもしれない。
「でも」
澪が続ける。
「紅白のときよりは、たぶん落ち着いてる」
「それはわかる」
「知ってる相手だから」
「……うん」
「変に気を遣わなくていいとこはある」
「逆に気を遣うとこもあるけど」
「それも、わかる」
その会話は短かった。
でも今の二人には、その短さがちょうどよかった。
言いすぎなくても伝わる。
それが、紅白の頃とのいちばん大きな違いかもしれない。
◇
舞台に出る。
照明が静かに落ち、客席のざわめきが一段低くなる。
映画の映像が後方スクリーンへ映る。
主演俳優の余韻を残した表情。
ラストシーンの気配。
そのあとに、音が入る。
真白はピアノの前に座った。
鍵盤へ指を置く。
その瞬間、頭の中の余計なものが少しだけ整理される。
これはいつも通りだ。
いや、いつも通りにできるようになった、という方が近い。
最初の和音。
映画の空気を壊さないように。
でも、ただ映像の後ろへ退きすぎないように。
今回のアレンジは紅白よりずっと引き算が多い。
そのぶん、一音一音の置き方が露骨に出る。
真白はそれを感じながら弾いた。
少しして、澪の声が入る。
やはり、いい。
知っていた。
知っていたけれど、実際に入るとちゃんと少し驚く。
澪の歌には、映画の余韻を受け止めたあとの強さがある。
紅白のときの“場を支配する強さ”とも少し違う。
もっと静かで、でも芯の深い強さ。
真白はすぐに呼吸を合わせる。
ここで前より少し楽なのは、向こうがどこで伸ばし、どこでわずかに言葉を立てるか、もう一度経験して知っているからだ。
もちろん完全に読めるわけではない。
でも知らない相手とは、安心の質が違う。
澪も同じなのだろう。
真白がサビ前で少しだけ残響を薄くした瞬間、その隙間へきれいに息を乗せてくる。
――ちゃんと来る。
真白はほんの一瞬だけ、少しうれしくなった。
そのうれしさは、たぶん音にも少し出る。
でも今回はそれでいい気がした。
◇
一番が終わる。
間奏で、ほんのわずかにピアノだけが前へ出る。
客席は静かだ。
フォーマルな場の集中は、時々少しだけ怖い。
でも今の真白には、それが前より息苦しくない。
知っている相手と作る音だからかもしれない。
二番へ入る直前、澪の歌い出しが一拍だけやわらかく揺れる。
その揺れを感じて、真白は予定していた和音の重さをほんの少し変えた。
紅白のときなら、そこまでの余裕はなかったかもしれない。
今はある。
相手を知っている。
そして向こうも、自分が返してくることを少し信じている。
その感じがあるだけで、音は前より強くなる。
強いといっても、派手になるわけではない。
むしろ逆だ。
余計なことをしなくても、ちゃんと伝わる。
その確信が、音を少しだけ深くする。
サビ。
主旋律の伸び。
その下を支えるコード。
映画の映像が切り替わる。
観客の視線はたぶんスクリーンと二人の間を静かに往復している。
真白はふと思う。
今ここで鳴っている音は、紅白のときより少しだけ“二人で作っている音”に近い。
あのときは、衝撃と集中で駆け抜けた。
今回は、わかっていて選びながら進んでいる。
それがたぶん、“前より少しだけ強い”ということなのだろう。
◇
本番は、あっという間に終わった。
最後の和音を落とし、澪の声の余韻が会場へ溶ける。
拍手が来る。
静かに、でも確かに大きい拍手だった。
真白は立ち上がり、澪と並んで一礼する。
その瞬間だけ、スクリーンの光が少し強く当たった。
客席はまだ暗い。
それでも、ここにいることの重みはちゃんと感じる。
日本アカデミー賞の会場。
映画主題歌の特別ステージ。
その真ん中に、自分たちがいる。
しかも片方は同級生だ。
冷静に考えると、やっぱり意味がわからない。
だが今は、その意味不明さすら少しだけ受け入れられる。
舞台袖へ戻る。
照明の熱が遠のき、スタッフの動きが戻ってくる。
緊張が一段抜けて、真白はようやく長く息を吐いた。
「……」
「……」
澪と目が合う。
数秒、どちらも何も言わなかった。
それから先に口を開いたのは澪だった。
「よかった」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ口元を押さえた。
「同じこと思ってた」
「うん」
「ちゃんと、よかった」
「うん」
その“よかった”だけで、今日はかなり十分だった。
◇
だが、そのまま綺麗に終わらないのが最近の自分たちらしい。
「あと」
と澪。
「何」
「二番の入り」
「うん」
「少しだけ予定より軽くしたでしょ」
「……」
「やっぱり」
「よくわかったね」
「そこはわかる」
「何そのちょっと誇らしい感じ」
「褒めてる?」
「違う」
「でも、よかった」
「……」
真白は少しだけ視線を逸らした。
やはりこの人はちゃんと聴いている。
そこが良くて、少しだけ悔しい。
「朝倉さんも」
「何」
「サビ前、少しだけ早めに息を乗せた」
「……」
「何その顔」
「いや、わかるんだなって」
「わかるよ」
「そうだよね」
「でも、よかった」
「……」
今度は、澪が少しだけ照れたように笑った。
結局そこなのだ。
知っている相手だから、ちゃんと聴く。
ちゃんと聴いているから、終わったあとに細かい話までできてしまう。
紅白のときは、そこまで余裕がなかった。
今はある。
「一ノ瀬」
「何」
「今の、仕事相手としてはだいぶ信用できる」
「今さら?」
「今さら、あらためて」
「……」
「何その顔」
「ちょっとだけうれしい」
「素直だ」
「今日は会場仕様」
「その仕様いいな」
「褒めてる?」
「かなり」
二人で少し笑う。
◇
そこへ、タイミングよく絵麻が関係者導線の向こうからこちらを見つけた。
「あ」
と、また小さく声が漏れる。
その顔は、さっきより少しだけやわらかい。
たぶん、向こうも緊張の一山を越えたのだろう。
絵麻が近づいてきて、少しだけ目を輝かせた。
「よかった」
「……」
真白と澪が同時に絵麻を見る。
「何その同時」
「いや」
真白が言う。
「今、桃園さんも“よかった”って言ったなって」
「言ったよ」
絵麻が頷く。
「だって、よかったから」
「語彙が同じ」
と澪。
「でも一番正確」
絵麻は少し笑う。
「二人とも、前よりずっと自然だった」
「……」
「何その“見てた人の感想”」
真白が言う。
「見てたから」
「だいぶ観客の目だ」
「原案者でもあるけど」
「うわ」
澪が言う。
「その一言、急に重くなる」
「でも今のはたしかに重い」
真白も頷いた。
絵麻は少しだけ照れたように肩をすくめる。
「映画のあとに、ちゃんと映画の続きになる音だった」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ息を飲んだ。
「今のは、だいぶうれしい」
「褒めてる?」
「かなり褒めてる」
「じゃあ受け取る」
やっぱりこの人は、受け取り方がふわっとしている。
でも今の言葉の重みは、本物だった。
原案者にそう言われるのは、たぶん相当大きい。
◇
少しして、またそれぞれの導線へ戻る時間になった。
会場はまだ続く。
授賞式もまだ動いている。
自分たちの仕事はひとまず一区切りだが、世界はそのまま流れている。
真白はその流れの中で、ほんの少しだけ立ち止まるように思う。
知ってる相手との再共演は、前より少しだけ強い。
それはたぶん、音の話だけではない。
教室での朝。
放課後の会話。
白湯。
のど飴。
便利だから、というふざけた逃がし方。
そういう全部が少しずつ、今日の音の下地になっていた。
教室と会場は別の場所だ。
でも、完全に断絶しているわけではない。
そのことを、真白は今日、かなりはっきり感じていた。
「……また、強くなったかも」
小さく呟く。
「何が?」
と、すぐ横で澪が聞いた。
「うわ」
「その反応ひどい」
「いたの」
「いたよ」
「気配」
「褒めてる?」
「違う」
そこでまた、二人とも少し笑う。
大舞台の直後なのに。
それでもこうして少し笑えてしまうのが、今の二人なのだろう。
そして、それはたぶん悪いことではない。




