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『学校では誰にも知られずに卒業したい 〜うちのクラス、隠し事が多すぎる〜』  作者: 御上常陸介寛浩


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第4話 仕事相手が、よりにもよって超人気歌手だった

 年末というものは、世の中全体が少しだけ浮かれているくせに、当事者にとってはだいたい修羅場である。


 真白は金曜の放課後、帰宅してすぐ防音室にこもりながら、その身も蓋もない真理に辿り着いていた。


 壁に立てかけた譜面台。モニターに開かれた進行表。キーボードの上に置いたメモには、演奏中の入りタイミングやブレスを意識する箇所が細かく書き込まれている。普段の弾き語り配信なら、もっと感覚寄りでいける。流れの中で、空気の中で、リアルタイムに形を作っていく方がむしろ得意だ。


 けれど今回の仕事はそうはいかない。


 紅白。

 NHK。

 サプライズ企画。

 共演相手はMIO。


 最後の一行だけで胃が重い。


「いや、普通に重いんだって……」


 ひとりごとが漏れる。


 真白は鍵盤の上に指を置き、四小節だけ弾いて、止めた。テンポは問題ない。和音の積み方も、余計な主張をしすぎてはいない。歌を支えつつ、でも空気の芯になる感じ。方向性は悪くないと思う。


 ただ、それでもどうしても気になる。


 相手がMIOである、という事実が。


 人気や知名度だけの話ではない。真白は、自分がすごいと思えない音楽に対しては割とすぐ「はいはい商業ですね」で処理するタイプだ。もちろん口には出さないが、心の中ではわりと辛辣である。けれどMIOに関しては、そういう雑な切り分けができない。


 シンプルに、歌が強い。


 しかも録音だけではない。ライブ音源も、番組での短い一節も、全部ちゃんと強い。勢いだけでも、技巧だけでもない。人に届く声を、本当に持っている。


 だから厄介だ。


 もし「相手は有名だけどそこまでではない」と思えたなら、まだ少しは気が楽だったかもしれない。だがMIOは違う。同業者として、音楽をやっている人間として、ちゃんと一目置いてしまっている。


 つまり、逃げ場がない。


「やだなあ……」


 椅子の背にもたれながら、真白は天井を見た。


 やりたくないわけではない。むしろ嬉しい。こんな仕事を任されること自体、誇らしいし、配信者として、音楽を続けてきた人間として、大きな節目になるだろう。それは間違いない。


 ただ、嬉しいと怖いは両立する。


 しかも今の真白には、普通の音楽的緊張に加えて、もうひとつ余計なノイズがあった。


 朝倉澪。


 同じクラスの女子。バスケ部主将。住む世界が違うはずの人。


 彼女がMIOかもしれない、というあまりにも飛躍した疑いを、真白の脳がまだ捨ててくれないのだ。


「違うって……」


 口に出して否定する。


 それで消えるなら苦労はない。


 真白はスマホを取り、事務所から共有された資料をもう一度見返した。集合時間、控室案内、現場導線、顔出しの取り扱い、サプライズ内容の口外禁止。そこまではもう何度も確認している。


 問題は、その次。


 共演者欄にある、たった四文字。


 MIO


 その名前を見るたび、胸の奥がきゅっと縮まる。まるで、まだ見ぬ本番の空気が先に身体へ入り込んでくるみたいに。


 そこへ、スマホが短く震えた。


 マネージャーからのメッセージだ。


明日の午後、現場前オンライン打ち合わせ入ります。

紅白演出チーム、楽曲監修、先方スタッフ同席。

本人はスケジュール次第ですが参加未定です。


「本人未定か……」


 それは少しだけ助かるし、少しだけがっかりでもある。


 もしMIO本人が参加してくれたら、事前に話せる。空気感もわかる。けれどその分、緊張も増す。参加しなければしないで、ぶっつけ本番の比率が上がる。


 どちらに転んでも胃に悪い。


 真白はスマホを机に置き、両手で顔を覆った。


「仕事ってなんで毎回こう、“嬉しい”と“怖い”をセットで持ってくるんだろ……」


 その問いに答えてくれる人はいない。


 ただ、キーボードの黒と白だけが、いつも通り目の前に並んでいた。


     ◇


 翌日の学校でも、真白は極力いつも通りに振る舞った。


 少なくとも本人としては、そのつもりだった。


 教室に入り、席に着き、必要以上に喋らず、授業を受け、ノートを取る。表情もなるべく一定に。目立たず、浮かず、静かに。


 だが、人間は「変わらないようにしよう」と意識した時点で少し変になる。


「一ノ瀬さん、今日なんかずっと眠そうじゃない?」


 朝の小休み、絵麻が不思議そうに首を傾げた。


「……そう?」

「うん。目がちょっと遠い」

「遠いって何」

「ここじゃなくて、もう少し遠くを見てる感じ」

「抽象的すぎる……」


 真白はそう返したものの、少しだけぎくりとする。


 たしかに今日は、いつもより脳内リソースを別方向に持っていかれている自覚があった。授業中も頭の片隅で、打ち合わせの時間や、リハで言われそうなことや、本番の立ち位置なんかを考えてしまう。


「大丈夫?」

「大丈夫」

「無理してない?」

「してない」

「そっか。じゃあよかった」


 絵麻はふんわり笑って、それ以上聞かない。


 助かる。助かるが、この子の「今は聞かないでおこう」みたいな引き際のよさは何なんだろうと時々思う。絶妙に人の輪郭をなぞって、でも踏み込まない感じ。漫画家っぽい、と言えば漫画家っぽい。――いや、だから勝手に決めつけるな、自分。


 そうやって思考を逸らそうとしても、視界の端にはどうしても澪が入る。


 朝倉澪は、今日も普通に朝倉澪だった。


 部活の話をして、後輩に答えて、教師に呼ばれればきちんと返事をする。表情も自然だし、声も安定している。昨日の体育館での張り詰めた感じも、今はうまく制服の中へしまわれているように見えた。


 やっぱり違うじゃないか、と真白は思う。


 だって、あの澪がMIOだなんて、いくらなんでも話ができすぎている。学校ではスポーツエースで、裏では超人気歌手。設定が盛られすぎだ。そんな人間、現実にいてたまるか。


 ――いや、でも自分も人のこと言えないか。


 学校では無口な優等生、帰宅後は登録者二百万人目前のVTuber。


 冷静に文字にするとだいぶ変だ。


 なら、澪が歌手でもおかしくないのでは。

 いやでも。

 いや、だから。


 頭の中で肯定と否定が押し合いへし合いしていると、


「一ノ瀬」


 不意に本人から名前を呼ばれ、真白の思考が止まった。


「え」

「消しゴム、落ちた」

「あ……」


 足元を見ると、自分の消しゴムが澪の机の近くまで転がっていた。


「ありがとう」

「うん」


 それだけの会話。


 それだけなのに、真白は拾い上げた消しゴムを持つ指に少しだけ力が入るのを感じた。


 声。


 やっぱり、どこかで耳が引っかかる。


 歌っている声とは全然違う。普段の話し方も別人のようだ。なのに、音の芯だけがうっすら似ている気がする。いや、似ている気がするように脳が勝手に加工しているだけかもしれない。


 自分の耳を信じるべきか、信じないべきか。


 音で飯を食っている人間としては前者だが、同級生に対する礼儀としては後者でありたい。


 真白は消しゴムを机に置き直し、必要以上に顔を上げないようにした。


 いま目が合ったら、たぶん少し変な顔をしてしまう気がしたからだ。


     ◇


 放課後。


 真白は帰宅後すぐに制服を着替え、オンライン打ち合わせの準備に入った。さすがに配信部屋の完全な本番仕様にする必要はないが、背景や音声環境は整える。業界の人間と話す以上、雑にはできない。


 PCを立ち上げ、指定URLに接続する。時刻ぴったりで画面に何人かの顔とアイコンが並んだ。紅白の演出担当、音響スタッフ、楽曲監修、そして先方のマネージャーらしき人。誰もが忙しそうで、けれど段取りは正確だ。


「本日はよろしくお願いいたします」


 真白は業務用の声で頭を下げた。


 こういうときの自分は、配信のときとも学校のときともまた違う。テンションは抑え、失礼のない言葉を選び、でも弱くなりすぎない。相手に“若いから不安”と思わせないラインを保つ。


 打ち合わせは順調に進んだ。


 進行の確認。演出意図。サプライズ性の保持。カメラに映る範囲。ピアノ位置。曲の長さ。入りと終わり。最終リハでの修正可能範囲。


 真白は必要なところだけ端的に質問し、譲るべきところは譲り、守るべきニュアンスはきちんと伝える。自分でもわかる。こういう“仕事の会話”はわりと得意だ。


 けれど、打ち合わせが終盤に差しかかった頃、先方スタッフの一人が言った。


「MIO本人の参加は今日は難しかったのですが、事前に共有を受けています。ピアノの方は真昼さんに全面的にお任せしたいとのことです」


 真白は、一瞬だけ呼吸を忘れた。


 全面的に。


 その一言は、信頼として受け取っていいはずだ。実際、仕事としてはありがたい。変に口を出されるより、よほどやりやすい。


 それなのに、胸の奥がざわつく。


 まだ直接話してもいない相手に「任せる」と言われることの重み。そこにプレッシャーがないわけがない。


「……承知しました」


 真白は平静を装って返した。


「歌を活かせる形で、責任をもって準備します」

「ありがとうございます。MIO側も楽しみにしています」


 楽しみにしています。


 その一言で、また胃がきゅっとなる。


 打ち合わせが終わり、通話が切れた瞬間、真白は椅子の背に頭を預けた。


「楽しみにしないでくださいよ……」


 言いながらも、少しだけ笑ってしまう。


 楽しみにされるのが嫌なわけじゃない。むしろ嬉しい。嬉しいからこそしんどいのだ。期待というやつは、人を前に進ませる一方で、きれいに胃を削ってくる。


 真白は机の上のメモを見下ろした。


 MIO本人不参加

 ピアノ全面的に任せる方針

 最終リハ現場対応


 つまり、会うのはほぼ本番当日になる。


 逃げられない。


 いや、最初から逃げる気はない。ないのだが、こうも真正面から「その日」を突きつけられると、妙に現実味が出る。


 真白はスマホを取り、MIOの過去音源を再生した。


 イントロが流れ、歌が始まる。


 やっぱり強い声だと思う。張り上げるだけじゃない、抑えたところの密度がある。ピアノが入るなら、たぶん余計な装飾は邪魔になる。空気を開けた方がいい。けれどスカスカにすると今度は支えがなくなる。


「……難しい」


 ぽつりと零す。


 だが、その難しさが嫌ではない。


 たぶん自分はこういうとき、怖がりながらも少し興奮してしまう側の人間なのだ。配信でも、ライブでも、外部仕事でも、毎回そうだった。無理だと言いながら、最終的には面白がってしまう。


 だから困る。


「いやでも、今回は“面白い”で済む規模じゃないんだよなあ……」


 そう言って、真白は再び鍵盤に指を置いた。


 やることはひとつだ。弾く。整える。備える。

 相手が誰であれ、本番で一番いい音を出す。それだけ。


 それだけなのに、その“相手”が、どうしても脳内で朝倉澪の顔をちらつかせてくるのだった。


     ◇


 一方その頃、澪もまた別の場所で真昼ましろのことを考えていた。


 学校を出て、部活を終え、シャワーを浴び、最低限の休憩だけ取ってから向かったのは、都内のスタジオだった。


 今日は大きな収録はない。紅白関連の調整と、別件の仮歌チェックだけ。だが現場に入れば、朝倉澪ではいられなくなる。


 キャップを深くかぶり、マスクをつけ、挨拶をして中へ入る。顔を見せない生活には慣れている。最初の頃は窮屈だったが、今はもうそういうものだ。顔がないからこそ守られるものもあるし、声だけで届く世界もある。


「お疲れさまです」


 スタッフの声。


「お疲れさまです」


 返しながら、澪は喉の感覚を確かめる。部活終わりの身体は少し重いが、歌えないほどではない。


 控室代わりの小部屋に入ると、テーブルの上に今日の資料が置かれていた。紅白の進行確認。出演タイミング。ステージ導線。そして共演者欄。


 もう知っている名前なのに、改めて目に入ると少しだけ呼吸が変わる。


 ピアノ:真昼ましろ


「……ほんとにやるんだ」


 独り言のように漏れる。


 真昼ましろ。

 画面越しなら何度も見てきた人。

 自由そうで、口が速くて、ふざけているようで、でも音に入ると急に真剣な人。


 配信者として見れば、羨ましいくらい場の回し方がうまい。

 音楽をやる側から見れば、誤魔化しのなさが怖い。


 澪は正直、少しだけ身構えていた。


 歌手という仕事は、表に出ればなんでも華やかに見える。けれど実際には、自分よりうまい人、自分より強い人、自分より速い人なんていくらでもいる。そのたびに平気な顔をして、自分の番を全うしなければならない。


 真昼ましろは、少なくとも「油断していい相手」ではない。


 そこへ、先方マネージャーがノックして入ってきた。


「澪ちゃん、打ち合わせ終わったよ」

「ありがとうございます」

「本人は不参加だったけど、向こうかなりちゃんとしてる」

「へえ」

「ピアノの方向性もいい感じ。任せて大丈夫そう」

「……そっか」


 澪は資料に視線を落としたまま返す。


 向こうもちゃんとしている。任せて大丈夫。

 それは安心材料のはずなのに、なぜか心は落ち着かなかった。


「緊張してる?」

「少し」

「珍しいね」

「相手が相手だから」

「まあねえ」


 マネージャーは苦笑する。


「でも向こうも同じじゃない? MIO相手に緊張しない人、そんなにいないでしょ」

「……それはちょっと感じ悪いです」

「事実でしょ」


 澪はマスクの下で小さく口を尖らせた。


 こういうやりとりは嫌いではない。現場では余計な感情を出さないようにしているが、気を許した相手には少しだけ年相応の反応も出る。


「ともかく、当日はちゃんと空気合わせてね」

「うん」

「歌で殴り合わないように」

「殴り合いません」

「ほんと?」

「……たぶん」

「たぶんなんだ」


 マネージャーが笑って去っていく。


 ひとりになると、澪はソファの背に体重を預けた。


 歌で殴り合わないように、か。


 冗談みたいに言われたが、感覚としては少しわかる。別に敵対するわけではない。けれど本気の表現者が同じ舞台に立てば、そこには必ず何かしらの火花が散る。


 そしてその相手が、よりにもよって真昼ましろだ。


「……どんな人なんだろ」


 澪は小さく呟いた。


 配信で見る彼女と、仕事場で会う彼女はたぶん違う。トーク全開の人が、現場でも同じテンションとは限らない。むしろ、案外静かかもしれない。音の話だけになると急に硬くなるタイプかもしれない。


 そう考えたとき、なぜか一瞬だけ、教室で静かに座っている一ノ瀬真白の横顔が浮かんだ。


「……いや、ないない」


 自分で即座に否定する。


 そんな偶然、あるわけがない。


 同じクラスの無口な優等生が、裏で大人気VTuber。

 そんな話、いくらなんでもできすぎだ。


 そうなのに、どうしてこうも一度浮かんだ想像がしつこいのか。


 澪は片手で額を押さえ、それから立ち上がった。


 考えても仕方ない。

 会えばわかる。

 それだけだ。


     ◇


 週末が過ぎ、紅白当日が近づいてくるにつれて、学校の時間の流れ方まで少し変に感じられた。


 真白は月曜の朝、いつものように教室に入り、いつものように席に着いた。


 周囲はいつも通りうるさくて、いつも通り平和だ。


 けれど自分の内側だけが、静かにざわついている。


 今週のどこかで、現場入り。

 控室。

 音合わせ。

 そして本番。


 そのたびに、頭の中で誰かの声がする。

 MIO。

 朝倉澪。

 真昼ましろ。

 一ノ瀬真白。


 いくつもの名前が、まだ重ならないまま、どこか近づいている。


「……おはよう」


 ぼんやりしかけたところで、隣の列から声が飛んだ。澪だった。


「え」

「おはよう」

「……お、おはよう」


 それだけ。


 それだけなのに、真白の脳内では警報が鳴り響いた。


 朝倉澪が、自分に、朝の挨拶をした。

 いや普通のことだろ。普通のことなんだけど。今までもまったくなかったわけじゃないだろうし。でも今のタイミングでそれをやられると、こっちは異様に意識してしまう。


 真白は前を向きながら、自分の耳が熱くなるのを感じた。


 何なんだもう。

 何でこんなに挙動不審になっているんだ。

 相手が同級生だからか。

 それとも、もうすぐ仕事相手になるからか。

 あるいは、その両方か。


 視界の端で、澪がいつも通りクラスメイトと話しているのが見える。


 本当に、何食わぬ顔をしている。


 その自然さが、逆に真白を落ち着かなくさせる。


「一ノ瀬さん、今日ほんとに遠いね」


 後ろから絵麻の声がした。


「……遠くない」

「でもちょっとふわってしてる」

「してない」

「してるよ」


 木乃葉まで机に伏せたまま同意してくる。


「うっすら上の空」

「みんな見すぎでは」

「一ノ瀬さん、普段ぶれないからわかりやすいんだよ」


 ひかりが笑いながら言った。


 真白は言い返せず、ただノートを開くふりで顔を伏せる。


 見られている。

 いや、監視されているとかそういう意味ではなく、普通にクラスメイトとして見られている。


 それだけのことが、今日はやけに心細くて、少しだけ心強い。


 風間が教室に入ってきて、ホームルームが始まる。

 日直の声。

 机の上の教科書。

 窓の外の冬空。


 全部いつも通りだ。


 だからこそ、今週のどこかで、その「いつも通り」が少しだけずれる気がした。


 真白は胸の奥に小さな重みを抱えたまま、朝の連絡を聞き流す。


 ――そして数日後。


 NHKの舞台裏で、その予感は現実になる。


 同じクラスのはずの他人と、

 他人のはずの仕事相手として、

 最悪なくらい気まずい形で、顔を合わせることになるのだ。

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