第38話 授賞式用アレンジ、静かに火花が散る
仕事相手として相性がいい、というのは、必ずしも穏やかであることを意味しない。
むしろちゃんと相手を信頼しているからこそ、細かいところで遠慮なく意見がぶつかることがある。
真白はそのことを、最近少しずつ理解し始めていた。
日本アカデミー賞の特別ステージ案件は、正式に決まった。
主題歌披露。
歌唱はMIO。
ピアノアレンジと演奏は真昼ましろ。
紅白とは違う。
今度は映画の余韻を背負うステージだ。
流れも、演出も、聴かせ方も変わる。
そして何より、相手が最初から誰なのかわかっている。
そこが、音楽的にはかなりやりやすい。
精神的には、少しだけややこしい。
その日の夜、真白は自室でヘッドホンをつけ、オンライン打ち合わせ用の通話を開いた。
画面共有。
仮アレンジ。
メモ。
譜面ソフト。
白湯。
そして心拍数、やや高め。
「……よし」
自分に言い聞かせるように小さく呟いたところで、通話がつながった。
「こんばんは」
澪の声が聞こえる。
「……こんばんは」
真白も返す。
たったそれだけなのに、紅白の時よりも少しだけ“近い”感じがする。
現場の空気を知っている。
教室の顔も知っている。
それでいて今は、また仕事の声で話している。
変な感じだ。
でも、嫌ではない。
「資料見た?」
と澪。
「見た」
「構成、思ったよりしっとり寄りだったね」
「うん」
「紅白より音数減らす感じ?」
「そのつもり」
「やっぱり」
「映画の主題歌だから」
「……」
「何」
「いや、ちゃんと同じこと思ってたなって」
「そこはたぶん合うでしょ」
「うん、合う」
会話の立ち上がりが、すでに紅白の頃とは違う。
探りが少ない。
遠慮も少ない。
仕事の話に入るまでが、かなり短い。
それはたぶん、お互いの音の返し方を一度知っているからだ。
◇
真白は共有画面に仮アレンジの波形と譜面を映した。
「今回、Aメロはかなり引く」
「うん」
「映画の映像が後ろに入る前提だから、ピアノで説明しすぎると邪魔」
「それはわかる」
「ただ、Bメロの終わりだけ少しだけ持ち上げたい」
「サビへの助走?」
「そう」
「うん、そこはほしい」
澪の返答が速い。
しかも曖昧ではない。
紅白のときは“すごい人だな”が先だった。
今は“ちゃんと通じる相手だな”が先に来る。
その違いは大きい。
「で」
真白は次の小節を指しながら言う。
「サビ一回目、ここで一回抜くつもり」
「え」
澪が少しだけ反応した。
「そこ抜く?」
「抜く」
「いや、そこは残したい」
「何で」
「歌の一行目の前に床がなくなると、逆に不安定」
「でも床を残しすぎると、映画の余韻より“歌い始めます”が勝つ」
「……」
通話の向こうで、澪が一瞬黙る。
その沈黙が、“困っている”ではなく“考えている”種類なのがわかる。
真白は少しだけ唇の端を上げた。
この感じだ。
ちゃんと本気で会話ができる相手との、少しだけ熱のあるやりとり。
「じゃあ」
澪が言う。
「完全に抜くんじゃなくて、残響だけ残すのは?」
「残響?」
「うん。コード感は消さない。でも、拍の輪郭は薄くする」
「……」
今度は真白が考える番だった。
「それなら、たしかに“床”は残る」
「でしょ」
「でもピアノだけでやると濁るかも」
「じゃあ映像のSEと合わせる前提?」
「それはあり」
「なら一回、そこ前提で組んでみて」
「……」
「何」
「今の、ちょっと悔しい」
「何で」
「普通に良い案だった」
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取る」
通話越しに、澪が少し笑った気配がした。
真白も小さく笑う。
前より仕事の会話ができる。
それは事実だ。
でも“できる”からこそ、普通に意見がぶつかる。
そして、普通に相手の案へ唸ることもある。
その関係は、たぶん紅白の時より健全だった。
◇
とはいえ、ずっと真面目な話だけをしていると、人間は疲れる。
特に二人とも、根がわりと真面目に音を詰めるタイプなので、放っておくと平気で一時間くらいサビ前の一拍について話し続ける危険がある。
そこで真白は、一度だけ通話を切らずに白湯を飲んだ。
すると、向こうから澪の声がした。
「それ、白湯?」
「……」
「何」
「何でわかったの」
「音」
「怖いなあ」
「褒めてる?」
「違う」
「でも白湯でしょ」
「……白湯」
「やっぱり」
澪がちょっと楽しそうに言う。
真白は軽く眉を寄せた。
「何その得意げな感じ」
「いや、なんか」
「何」
「ちょっと生活感あって安心する」
「どういう意味」
「真昼ましろでも、授賞式案件の打ち合わせしながら白湯飲むんだなって」
「そこに安心されるの、何か複雑」
「でもわかるでしょ」
「……少し」
たしかに、自分だって澪の白湯事情を知ってから、前より“歌姫”を遠いものとしてだけは見なくなった。
学校でも喉を守る人。
収録前に冷たいものを避ける人。
そういう生活感があるから、逆に現場での強さも現実味を持つ。
「朝倉さんだって」
真白が言う。
「何」
「打ち合わせ中に、時々“部活終わりの人”の呼吸になる」
「え」
「さっきちょっとだけなってた」
「そんなのわかる?」
「わかるよ」
「……」
「何その沈黙」
「今の、ちょっと効いた」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「便利だね」
「便利だから」
「感染してるなあ」
そこで二人とも少し笑った。
仕事の話をしていても、相手の学校側の顔が少し混ざる。
その感じが、たぶん今の二人にはちょうどいい。
◇
しばらくして、二人は二番の構成へ入った。
「ここ」
澪が言う。
「二番Aメロの入り、もう少しだけ歌いやすい隙間ほしい」
「隙間?」
「うん。映画の本編後だと、一回目より感情が重いから」
「……」
「一回目と同じ入り方だと、少し説明っぽくなる」
「たしかに」
「でしょ」
「でも、そのために空けすぎると今度はだれる」
「うん」
「だから難しい」
「うん」
ここから先は、完全に仕事の顔だった。
映画本編のあとに流れる主題歌の意味。
観客の感情の残り方。
一回目のサビと二回目のサビの差。
映像があるステージと、音だけで引っ張る場面の違い。
話している内容はかなり本気だ。
だがその本気の会話の中で、たまにだけ、お互いが相手を少し知っている空気が混ざる。
「一ノ瀬」
と澪。
「何」
「今、完全に“作る側”の顔してる」
「通話越しで顔見えてない」
「声」
「またそれ」
「でもそういうときの一ノ瀬、ちょっと早口」
「……」
「図星」
「……図星」
そこを自分で認めてしまうのも、前より自然になった気がする。
「朝倉さんも」
と真白。
「何」
「今、“歌う人”っていうより“作品の出口を考える人”の喋り方してる」
「……」
「何その沈黙」
「それ、ちょっと嬉しい」
「何で」
「ちゃんと聞いてくれてる感じするから」
「聞いてるよ」
「うん」
「何」
「今のも、ちょっと嬉しい」
こういうところだ。
真面目な仕事の会話の途中で、たまに急に温度が上がる。
でも、その温度を変に誤魔化さなくても済むようになってきた。
それもまた、紅白の頃にはなかった変化だろう。
◇
打ち合わせが一時間を越えたあたりで、さすがに二人とも少し疲れてきた。
「休憩入れる?」
と澪。
「うん」
「五分」
「了解」
通話はつないだまま、少しだけ互いに黙る。
真白はヘッドホンを片耳だけ外し、首を回した。
肩も少し重い。
でも、不快な疲れではない。
「……」
「……」
沈黙。
でも気まずくはない。
「今さらなんだけど」
と澪がぽつりと言った。
「何」
「紅白のあと、こうなると思ってた?」
「全然」
「だよね」
「むしろ、教室でまともに会話する未来すらあんまり想定してなかった」
「それは私も」
「今こうして授賞式のアレンジ詰めてるの、だいぶ意味わかんない」
「意味わかんないね」
「でも、悪くない」
「……」
「何その間」
「いや」
澪が少しだけ笑う気配がした。
「同じこと思ってた」
「そう」
「うん。変だけど、悪くない」
真白は白湯をもう一口飲む。
あたたかい。
ちょうどいい温度だ。
変だけど、悪くない。
たしかにそうだ。
教室の外では、またこうして音を作る話ができる。
教室の中では、まだ全部は言えない。
でも、その両方があることが、前より少しだけ自然になってきている。
◇
休憩後、最後に細かいメモだけ確認して、その日の打ち合わせは終わった。
「じゃあ、次は修正版共有で」
と真白。
「うん」
「早めに組んで送る」
「ありがとう」
「そっちも、歌い回しの仮メモもらえると助かる」
「わかった」
「……」
「……」
「何」
と澪。
「いや」
真白は少しだけ迷ってから言った。
「今日、思ったよりちゃんと仕事できたなって」
「何その感想」
「いや、もっと変に緊張するかと思ってた」
「……」
「でも、普通にぶつかれた」
「うん」
「それは、よかった」
「……それ、私も思ってた」
「何その間」
「ちょっと照れるから」
「そういうのあるんだ」
「あるよ」
「意外」
「失礼では?」
二人とも少し笑う。
「じゃあ」
澪が言う。
「また次」
「うん。また」
通話が切れる。
部屋が静かになる。
でも今日は、その静けさがいつもより少しだけ柔らかい気がした。
授賞式用アレンジは、まだ完成していない。
これからまた詰める必要がある。
たぶん意見もぶつかる。
でも、それでいいのだろう。
静かに火花が散るくらいが、今の二人にはちょうどいいのかもしれなかった。




