第32話 私生活はバラバラ、でも教室では同じ朝を迎える
人は、朝になると案外ちゃんと学校へ来る。
それがどれだけ前の晩に別の顔で生きていても、だ。
真白は最近、その事実を少し不思議に思うようになっていた。
自分は夜、真昼ましろとして配信している。
弾き語りをして、ピアノを弾いて、マシンガントークで笑って、何万人ものコメントを相手にしている。
朝倉澪はたぶん、歌手としての仕事や喉の管理をしたあとで、何食わぬ顔で制服を着てくる。
木乃葉は締切と修正に追われ、寝不足のまま来る日がある。
絵麻はラフや原案や何かしらの“描くもの”を鞄に入れているのだろう。
ひかりはたぶん、誰にも見せていないラフや配色案をスマホの中に持っている。
音々は夜に曲をいじり、たぶん人より少し細かく世界の音を聞いている。
さやかはさやかで、普通っぽい顔をしているが、あの観察力で何も抱えていない方がむしろ不自然だと最近は思う。
それぞれが、教室の外で別の生活をしている。
それなのに朝になれば、みんなちゃんと制服を着て、同じ時間に、同じ教室へ戻ってくる。
そのことが少しだけ可笑しくて、少しだけ愛おしい。
第二章の終わりに、真白はそんなことを考えていた。
◇
その日の朝、真白が教室へ入ると、すでに数人が揃っていた。
木乃葉は今日も眠そうだ。
だが“魂の解像度が低い日”ではなく、“寝不足だけど人類側に留まっている日”くらいだった。
だいぶマシである。
絵麻は朝からノートの端に何か描いている。
今日は人物ではなく、たぶん背景のラフだ。
机、窓、カーテンの流れ。
それを何気なく描く精度ではない。
ひかりはスマホを見ながら、イヤホン片耳で誰かと軽く通話していたらしい。
真白が入るのに気づくと、通話を切ってすぐいつもの顔へ戻る。
音々は窓際で、窓の外の雨上がりの音でも聞いているみたいな顔をしている。
さやかは日誌の当番表を見て、朝からすでに少し疲れている。
そして澪は――
「おはよう」
と、かなり自然に言った。
真白は一瞬だけ止まり、それから返す。
「……おはよう」
短い。
でも、自然だ。
少なくとも、以前よりずっと。
その瞬間、ひかりが机に頬杖をついたまま、にやっとした。
「だいぶ扉になったね」
「その表現まだ使うの」
真白が言う。
「だって便利だから」
「もう何でも便利で済むな、このクラス」
「便利だから」
と木乃葉。
「感染が完了してる」
さやかがため息をつく。
「学級閉鎖レベル」
「それは言いすぎ」
絵麻が笑う。
「でも、今日はほんとに自然」
「うん」
澪が頷く。
「今日の挨拶はたぶん合格」
「何の試験なの」
真白が言う。
「教室内距離感検定」
ひかり。
「そんなものあったら全員落ちるのでは」
木乃葉。
「たしかに」
さやかが即答した。
教室が少し笑う。
真白も、少しだけ笑った。
これだ。
この感じ。
以前なら、朝の挨拶ひとつで自分の心拍数ばかり気にしていた。
今はそのあとに、こういうどうでもいい笑いまで続く。
何かが劇的に変わったわけではない。
でもたしかに、教室の空気に少しだけ馴染んでいる。
◇
一時間目の前、風間がいつものように教室へ入ってくる。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
声のばらつきも、だいぶいつもの通りだ。
風間は出席簿を開きながら、生徒たちを一通り見渡す。
真白は最近、その一瞬の視線が少しだけ怖い。
この人はたぶん、クラスの小さな変化をかなり拾っている。
でも拾っても、何も言わない。
言わないから、余計に怖い。
「本日の連絡ですが」
風間が言う。
「来週、校外活動申請を出している人は再確認の面談があります」
「うわ」
ひかりが小さく言う。
「“うわ”で済まない人が数人いそう」
「小鳥遊さん、その言い方が一番危ない」
とさやか。
「褒めてる?」
「違う」
風間はまったく動じずに続けた。
「なお、特に大きな変更がなければ短時間で終わります」
「先生」
木乃葉が手を挙げる。
「はい」
「大きな変更の定義は」
「具体的には、学校生活へ影響するレベルの予定変動です」
「じゃあ人生の締切は含まれない」
「それは自己管理の範囲です」
「先生つよい」
ひかりが笑う。
「そこを普通に返すんだ」
「担任ですので」
「最近ほんとにその返し万能」
真白が思わず言う。
言ってから、教室が少し静かになって、それからふわっと笑いが広がった。
風間はほんの少しだけ目元を和らげた。
「万能に見えるなら光栄です」
「認めるんだ」
さやか。
「便利ですので」
「先生まで」
教室がまた笑う。
真白は思う。
風間までこの空気に巻き込まれている。
いや、巻き込まれているように見えて、実際は一番うまく交通整理しているのだろうが。
とにかく、2年A組は最近、こういう小さな笑いが増えた。
その中に自分が入っていることが、まだ時々不思議だ。
◇
二時間目の休み時間、絵麻がふいに聞いた。
「ねえ」
「何?」
ひかりが反応する。
「もしさ」
「うん」
「みんなが教室の外で何してるか、全部わかったらどうする?」
その質問に、空気がほんの少しだけ揺れた。
まっすぐだ。
でも、このクラスならギリギリ許されるくらいのまっすぐさでもある。
「知りたい?」
とひかり。
「ちょっとは」
と絵麻。
「でも、全部は知らなくていいかも」
「それはわかる」
と木乃葉。
「知ると見方が変わるし」
「変わるの嫌?」
と真白が聞く。
「嫌というか、重い」
木乃葉が言う。
「教室はもうちょい雑でもいい」
「あー」
ひかりが頷く。
「それすごいわかる。教室まで全部“本業の顔”だと息つけない」
「本業って自分で言うんだ」
とさやか。
「たとえば、って話」
「便利な逃がし方だね」
「便利だから」
やっぱりそこへ戻る。
だが、真白はそこで少しだけ考える。
もし本当に、全員の外の顔が全部わかったらどうなるのだろう。
たぶん今の距離ではいられない。
見方が変わる。
それは悪い意味ではないかもしれないけれど、今の“ただのクラスメイトでもいられる感じ”は少し薄くなる気がする。
だから、全部知らなくていい。
少し見えているくらいで、ちょうどいい。
「私は」
真白が言う。
「うん?」
と絵麻。
「少し見えてるくらいが、いちばんいいかも」
「……」
「全部知らない。でも何も知らないわけでもない」
「うわ」
ひかりが言う。
「今の、だいぶ第二章の締めみたいな台詞」
「そういうメタっぽい言い方やめて」
「ごめん、でもわかる」
ひかりは笑った。
「それ、たぶん今の2年A組のちょうどいい距離だよね」
「うん」
と絵麻。
「きっとそう」
「褒めてる?」
真白が言うと、
「ちゃんと褒めてる」
と、さやかが即答した。
最近、褒められる頻度が少し上がっている気がする。
いや、前までが少なすぎただけかもしれない。
◇
昼休み。
真白は珍しく、教室の中央寄りの席まで行っていた。
理由は大したことではない。
ひかりが文化祭ポスターの配色案をみんなに見せていたからだ。
別に見る義務はない。
でも、少し見てみたいと思った。
「ここ、背景明るいと文字飛ぶんだよね」
ひかりが言う。
「じゃあ暗くする?」
絵麻が聞く。
「暗くすると今度は雰囲気が重くなる」
「面倒だなあ」
木乃葉。
「でもそういうの大事」
と真白が言うと、
「お」
ひかりが目を丸くする。
「何」
「今、一ノ瀬さんが完全に参加者の顔だった」
「前からいるけど」
「前は見てるだけ寄り」
さやかが言う。
「今はちゃんと意見言う」
「何か、最近ほんとに」
と澪が少し笑う。
「一ノ瀬が“教室の中の人”になってきた感じある」
「……」
「何その顔」
「いや、その言い方ちょっと恥ずかしい」
「褒めてる」
「今日はそれで済ませられること多いな」
「便利だから」
木乃葉が言う。
「今日も便利だね」
絵麻が笑う。
真白は、少しだけ肩の力を抜いた。
教室の中の人。
たぶん前の自分は、そこから半歩外にいた。
今は、完全ではないにせよ、少しだけ中へ入っている。
それは少し気恥ずかしい。
でも嫌ではなかった。
◇
放課後、部活へ行く前の澪が、教室のドアのところで振り向いた。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
ひかりが言う。
「おつかれ」
さやか。
「概念的に応援してる」
木乃葉。
「それ応援なの?」
絵麻が笑う。
「……頑張って」
真白が言う。
そこで、澪がほんの少しだけ笑った。
「うん」
短い。
でも、すごく自然だった。
ひかりがその瞬間を見逃すわけもない。
「おお」
「何」
と真白。
「いや、今の感じ」
「何が」
「だいぶ“朝になれば同じ教室に戻る人たち”って感じ」
「詩的だね」
と木乃葉。
「でもわかる」
絵麻が頷く。
「外で何してても、結局ここに戻ってくる感じ」
「……」
真白は少しだけ黙る。
それは、たしかにそうだ。
夜になれば自分は配信部屋に戻る。
澪は歌の仕事へ向かう。
木乃葉はたぶん原稿に追われる。
絵麻は何かを描く。
ひかりは見せ方を作る。
音々は音をいじる。
さやかはたぶん、普通っぽい顔でいろいろ考える。
私生活は、バラバラだ。
全然違う。
時間の使い方も、抱えているものも、見ている景色もたぶん違う。
それでも、朝になればまた同じ教室にいる。
その事実が、今の真白には少しだけ可笑しくて、少しだけ誇らしかった。
◇
帰り道、真白はひとりで思う。
第二章に入ってから、たくさんの“外側”を見た。
澪の歌手としての顔。
木乃葉の締切。
絵麻のラフ。
ひかりの見せ方。
音々の音。
風間の、全部知っていて全部を暴かない強さ。
そのたびに、教室の見え方が少しずつ変わっていった。
前は、学校とそれ以外を、もっときっぱり分けて考えていた。
教室は教室。
配信は配信。
混ざらない方が安全だと。
今でもその線は大事だ。
真昼ましろとしての自分を、学校へ持ち込みたいわけではない。
その気持ちは今も変わらない。
でも、完全に切り離せないものもあるのだと、最近は思う。
夜の自分がいて、朝の自分がいる。
その両方を抱えたまま、同じ教室へ戻る。
みんなもたぶん、そうしている。
それなら、この教室は少しだけ、
“秘密を持ったままでも戻ってこれる場所”
なのかもしれない。
「……悪くないな」
小さく呟く。
そして、少しだけ笑った。
私生活はバラバラ。
でも朝になれば、また同じ教室だ。
その妙な当たり前が、前より少しだけ好きになっていた。




