第31話 放課後の教室、秘密だらけでも居心地は悪くない
放課後の教室というのは、昼間より少しだけ正直だ。
ホームルームが終わり、急いで帰る人が帰って、部活へ行く人がいなくなって、委員会や当番やなんとなく居残る人だけが残ると、教室の空気はぐっと薄くなる。
チャイムの支配が少し弱まる。
話し声も少なくなる。
その代わり、机を引く音や、紙をめくる音や、ペン先の乾いた音が、やけに近く聞こえる。
真白は最近、この時間が少しだけ好きになっていた。
以前は違った。
放課後は、教室に長くいるほど“学校の自分”を続けなければならない時間でもあった。
静かで、無口で、できるだけ目立たない優等生の顔を、少しでも長く保つのは、地味に疲れる。
だから用がない限り、できるだけ早く帰るようにしていた。
でも今は、少し違う。
今日の真白は日誌当番ではなかったが、さやかに頼まれて配布物の残りを確認していた。
完全な雑用である。
だがその雑用のために、教室に数人だけ残っているこの時間が、案外悪くなかった。
教室には今、六人いる。
二階堂さやか。
木乃葉。
絵麻。
ひかり。
音々。
そして真白。
澪は部活へ行ったあとだから、今はいない。
でもいなくても、この教室は十分に情報量が多い。
◇
さやかは前の方の席で、配布物の部数を数えていた。
「一枚足りない」
「また?」
とひかり。
「また。何で毎回ぴったり来ないの」
「学校の七不思議」
木乃葉が机に伏せたまま言う。
「それはもう七つじゃ済まない」
さやかが本気で返した。
ひかりは窓際で文化祭ポスターの仮レイアウトをスマホでいじっている。
たぶん誰かに頼まれたわけではない。
気になったから勝手に直しているだけだ。
でもその“気になったから”の結果が、毎回ちゃんと見やすくなるのだから困る。
絵麻はその隣で、ノートの端にまた何か描いていた。
しかも今日は珍しく、教室そのものを描いている。
机。
窓。
夕方の光。
背中を丸めて何かを数えるさやか。
画面を見ながら色味を悩むひかり。
木乃葉は机に伏せているが、今日はただ寝ているわけではない。
伏せたまま、何かを書いている。
あれはだいぶ器用だ。
たぶん人として、あまり褒められた器用さではないが。
音々は窓の少し手前でイヤホンを片耳だけつけて、外の音と教室の音を半分ずつ聞いているみたいな顔をしていた。
そして真白は、その全員を少しだけ見ていた。
前なら、見ないようにしていた光景だ。
でも今は、見える。
そして、少しだけ面白いと思う。
「一ノ瀬さん」
と絵麻が顔を上げる。
「何」
「今、教室のこと見てた?」
「……見てた」
「やっぱり」
「何でわかるの」
「描きたくなる顔してたから」
「それはもうそっちの感覚が特殊」
「褒めてる?」
「違う」
ひかりがそこで笑う。
「でもわかる。今の一ノ瀬さん、“この空気ちょっといいな”って思ってた顔だった」
「顔に出てる?」
「一ミリくらい」
「またそれ」
「一ノ瀬さん比だと大きい」
さやかが部数を数えながら言う。
「最近ほんと、表情の単位が細かいな、このクラス」
真白は少しだけ視線を逸らした。
否定しきれないのが悔しい。
たしかに今、少しだけ思っていたのだ。
この放課後の教室、悪くないなと。
◇
「ねえ」
ひかりがスマホを見たまま言う。
「何」
と、さやか。
「うちのクラス、放課後の方が本性出てない?」
「今さらだね」
木乃葉が言う。
「授業中の方が仮面」
「仮面って言い方すると重い」
と絵麻。
「でも、わかる」
と真白が言った。
自分でも少し驚くくらい自然に、その言葉が出た。
授業中の教室は、学校の顔をしている。
ちゃんと座って、ちゃんと聞いて、ちゃんと提出して、ちゃんと当てられる。
もちろんそれも本当の一部だ。
でも放課後の教室は、もう少しだけ、外側が滲む。
木乃葉は眠そうなまま書いているし、
絵麻は何でも描くし、
ひかりは空気ごと整えるし、
音々は音を聞いているし、
さやかはまとめている。
そして自分は、自分で思っていたより少しだけ、その輪の中にいる。
「一ノ瀬さん」
ひかりが、ちょっとだけ目を細める。
「何」
「今の、だいぶいい一言だった」
「何が」
「“わかる”って自然に言えたの」
「……」
「前なら黙ってたでしょ」
「たぶん」
「だから褒めてる」
「今日はちゃんと褒めが多いね」
「たまには精度上げる」
「精度って」
そういう言い方がこの子らしい。
でも、たしかにそうだ。
前なら黙っていた。
共感したとしても、それを口に出さなかった。
今はそれが少しだけ、外へ出る。
その変化を、周りは自然に受け取っている。
それが妙にありがたかった。
◇
木乃葉が、伏せたままぽつりと言う。
「放課後ってさ」
「うん?」
絵麻が返す。
「教室が本音に近くなるよね」
「それはあるかも」
ひかりが言う。
「朝とか昼は、学校の速度があるし」
「今はないの?」
さやかが聞く。
「今は“帰るまでに終わればいい”くらいの速度」
「緩い」
「でもそれがいい」
と絵麻。
真白はその会話を聞きながら、少しだけ考える。
本音に近い。
それもたぶん、そうだ。
ここにいる全員、本音を全部出しているわけではない。
それは当然だ。
この教室は秘密でできている。
でも、完全な学校モードでもない。
仕事や活動のことを直接言わなくても、
疲れ方や手つきや会話の温度に、少しずつ“外の顔”が混ざってくる。
それは不思議な状態だ。
でも不自然ではない。
むしろ今の2年A組にとっては、それが自然なのかもしれない。
「……変な教室」
と真白が小さく言う。
「うん」
と絵麻。
「だいぶ」
と木乃葉。
「でも嫌いじゃない」
とひかり。
「それはそう」
とさやか。
そこで全員の会話が、一瞬だけ自然に重なった。
嫌いじゃない。
その言葉が、真白の中で少しだけ残る。
◇
音々が、窓の方を見たまま言った。
「今の教室、音が少ない」
「静かってこと?」
と真白。
「うん。でも、嫌な静かさじゃない」
「嫌な静かさってあるの?」
ひかりが聞く。
「ある」
音々は即答した。
「音がなくても、気まずいときの静かさ」
「あー」
さやかが頷く。
「わかる」
「今はそうじゃない?」
絵麻。
「うん。今は、それぞれが勝手に何かしてる静かさ」
「自由すぎる」
と真白。
「でも居心地は悪くない」
音々が言う。
その言葉に、真白は少しだけ驚いた。
音々は普段、感想をあまり長く言わない。
でも時々、こういうふうに核心だけを静かに置いていく。
それぞれが勝手に何かしてる静かさ。
たしかに、そうだ。
誰も同じことをしていない。
会話も途切れ途切れだ。
それなのに、空気はばらけていない。
たぶんそれは、みんなが“他人のやってることを邪魔しない”からだろう。
「……いい表現」
と真白が言うと、
「褒めてる?」
と音々。
「うん」
「珍しい」
「最近みんなそれ言う」
「だってほんとだし」
ひかりが笑う。
真白は少しだけため息をつく。
最近、自分の“素直に褒めた”が、だいぶ検知されやすい。
前はそれだけ黙っていたのだろう。
◇
さやかがようやく配布物を数え終えた。
「よし」
「終わった?」
絵麻が聞く。
「終わった。結局二枚足りなかった」
「またかあ」
ひかりが言う。
「学校ってどうしていつも一、二枚足りないんだろう」
「人生みたい」
と木乃葉。
「急に深いこと言うな」
と真白。
「人生、たまに一、二枚足りない」
「何の話」
さやかが呆れたように言う。
「でも今日はちょっとわかる」
「委員長まで巻き込まれた」
ひかりが笑う。
そこで、絵麻がふと思い出したように聞いた。
「一ノ瀬さんって、前は放課後こんなに残ってたっけ?」
「……あんまり」
「だよね」
「用がなければすぐ帰ってた」
木乃葉が言う。
「覚えられてたんだ」
「同じ教室にいるので」
「そこまで空気ではなかったってことか」
「そこまでではない」
と、木乃葉。
「でも、前より今の方が、残ってても変じゃない」
「……」
真白は少し黙る。
たしかにそうだ。
前は、放課後の教室に長くいる理由があまりなかった。
今は少し違う。
理由があるというより、この空気の中にいてもいいと思えるようになった。
「……なんか」
真白は言葉を探す。
「何?」
と、ひかり。
「居心地、悪くない」
「……」
一瞬、教室が静かになる。
「うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
「いや、また結構でかい一言きたなって」
「今のは、だいぶ」
と絵麻。
「かなり」
とさやか。
「褒めてる」
と音々。
「今日はほんとにその担当なんだ」
真白が言うと、
「便利だから」
と音々が真顔で返した。
だめだ。
最後に全部それで持っていく。
でもそのせいで、教室の空気が少しだけほぐれる。
みんな笑う。
真白も笑う。
大げさなことではない。
ただ、放課後の教室が少しだけ心地いいと思えた。
それを口に出してしまっただけだ。
でもたぶん、その“小さく出してしまえるようになったこと”自体が、大きな変化なのだろう。
◇
帰り際、真白は教室のドアのところで一度だけ振り返った。
木乃葉はまだ机に伏せている。
絵麻はノートを閉じる前に、最後の線を一つ足している。
ひかりはスマホを片手に、でも何か考えている顔をしている。
音々はイヤホンケースを閉じたばかりだ。
さやかは配布物の束を抱えて、最後に教室を見渡している。
誰も、ここでは特別な名前を持っていない。
ただのクラスメイトだ。
でも教室の外へ出れば、きっとそれぞれ別の顔がある。
書く人。
描く人。
作る人。
歌う人。
弾く人。
まとめる人。
そういう人たちが、いまは同じ教室の中で、同じ放課後を過ごしている。
そのことが少し不思議で、少しだけ面白くて、前よりずっと悪くない。
「……また明日」
と、真白は小さく言った。
誰に向けたわけでもない。
でもそれは、たぶん教室そのものに向けた言葉だった。
秘密だらけでも、居心地は悪くない。
今の2年A組は、そういう場所になりつつあった。




