第30話 秘密を守る者同士、言わない優しさでできている
秘密を抱えている人間は、たぶん、人の秘密にも敏感になる。
そしてその次に覚えるのが、
“見えても言わない方がいいことがある”
という感覚なのだと思う。
真白は最近、それを少しずつ理解し始めていた。
前までは、自分のことだけで精一杯だった。
真昼ましろであること。
それを学校で隠すこと。
普通の優等生として静かに卒業すること。
そのために、教室では空気を薄くしようとしていた。
誰にも深く踏み込まれず、誰にも深く踏み込まない。
そうやってやり過ごすつもりだった。
でも今は少し違う。
朝倉澪を知った。
木乃葉の締切を見た。
絵麻のラフを見た。
ひかりの“なんとなく”の精度を知った。
音々の耳の怖さと、その優しさも知った。
このクラスには、自分だけじゃなく、いろんな“教室の外”がある。
そしてたぶん、みんなうっすら互いに気づいている。
それでも、決定しない。
そこが大事なのだ。
そう思うようになった矢先、その日は朝から“見えても言わない”がやたら発生する日だった。
◇
最初の事件は、ホームルーム前に起きた。
木乃葉が机でぼんやりしていた。
いや、ぼんやりというか、半分寝ていた。
その机の端に置いていた文庫本が、ひょいと滑って落ちたのである。
「あ」
と絵麻。
「落ちた」
とひかり。
木乃葉が拾うより一瞬早く、澪がそれを拾い上げた。
「はい」
「……ありがとう」
木乃葉が受け取る。
それだけの、何でもないやり取り。
問題は、その表紙だった。
帯にでかでかと書かれていたのは、
シリーズ累計100万部突破!
最新刊発売中!
という、かなり強い文言である。
そして著者名のところは、絶妙に指で隠れていた。
「……」
「……」
「……」
その場にいた数人の空気が、一瞬だけ揃って止まった。
だが、誰も何も言わない。
すごい。
今の一瞬で、たぶん全員、かなりいろいろ察した。
察したのに、誰も踏み込まない。
最初に動いたのはひかりだった。
「木乃葉さん、読書家だねえ」
「……うん」
「棒読みだ」
と真白が思わず言う。
「一ノ瀬さんも割と棒だった」
と澪。
「そこを拾うの」
「拾うよ」
木乃葉は本を鞄へしまいながら、ぼそっと言った。
「今のは、まあ」
「まあ?」
と、ひかり。
「事故」
「だよねえ」
「でも、事故のわりに情報量が強かった」
さやかがかなり正しいことを言う。
「100万部って、だいぶ強い」
絵麻がのんびり頷く。
そこで木乃葉が、少しだけ目を細めた。
「見えても、言わないんだ」
「……」
真白は一瞬だけ木乃葉を見る。
「言ってほしいなら言うけど」
ひかりが軽く笑う。
「それはだめ」
「だよね」
「じゃあ言わない」
「うん」
木乃葉は頷いて、それ以上何も言わなかった。
そのやり取りを見て、真白は少しだけ胸の奥があたたかくなる。
ああ、これなんだ、と思う。
このクラスの優しさは、
“全部知ろうとしないこと”
でできている。
◇
一時間目が終わったあと、今度は絵麻の番だった。
絵麻が席でプリントを整理していると、ノートの間から一枚の紙が覗いた。
真白の位置からは全部は見えない。
でも、右上に小さく印刷された文字だけは見えた。
キャラクター設定 第3稿
だいぶ強い。
しかもその下に、制服姿の少女の全身ラフと、横顔、笑顔、怒り顔、困り顔がびっしり並んでいる。
「……」
真白の視線が一瞬止まる。
だがその瞬間、ひかりも見たらしかった。
さらに木乃葉も、机に伏せたまま目だけで見ていた気配がある。
でも誰も言わない。
すごい。
今この教室、全員が“見えてるけど見てないフリ”の技術を競っている。
そして、その沈黙を破ったのは絵麻だった。
「……見えた?」
「……ちょっと」
と真白。
「私も」
とひかり。
「概念的には」
と木乃葉。
「概念で見るな」
と真白。
「いや、そこツッコむんだ」
ひかりが笑う。
「でも今の、一番安全な返しだったよ」
「安全?」
「うん。誰も内容に踏み込んでない」
たしかにそうだった。
見えた。
でも、何の作品かも、どこに出すのかも、何者としてやっているのかも、誰も聞かない。
絵麻は少しだけ頬を赤くして、紙を鞄に戻した。
「ありがとう」
「何が」
と、さやか。
「その、みんな」
「いや、まあ」
さやかは少しだけ気まずそうに言う。
「見えちゃったものは仕方ないけど、本人が言ってないならそこはね」
「委員長」
ひかりが笑う。
「今ちょっといいこと言った」
「たまには言うわよ」
「褒めてる?」
と絵麻。
「今日はちゃんと褒めてる」
さやかが言うと、教室が少しだけ笑った。
真白も少し笑う。
こういう空気が、最近わりと好きだ。
誰かの秘密が“事故”として少しだけ漏れる。
でも、それを面白半分に暴かない。
ただ、みんな少しずつ「あるんだな」と思うだけで止まる。
冷たいわけではない。
むしろ、だいぶやさしい。
◇
二時間目のあと、音々がまた静かに爆弾を落とした。
今日は昼前から少し雨が降っていて、窓の外には細かい水音が続いていた。
その音を聞きながら、音々がぽつりと言ったのである。
「今日の教室、みんなちょっと静か」
「そう?」
とひかり。
「うん」
と音々。
「雨だから?」
と絵麻。
「それもあるけど」
「でも何か違う?」
と澪。
「うん。たぶん、みんなちょっとだけ“見たけど言ってない”音がしてる」
言い方が怖い。
「何その表現」
と真白。
「え」
音々が首を傾げる。
「違う?」
「違わないけど、急にそうやって言語化されると怖い」
「褒めてる?」
「違う」
「でもちょっとわかる」
と、木乃葉。
「今のクラス、静かなのに情報量だけ高い」
「またその状態」
さやかがため息をつく。
「もうそれが平常運転になりつつあるの、委員長としてどうなの」
「たぶん諦めのフェーズ」
ひかりが笑う。
「早いなあ」
「いや、でも実際そうでしょ?」
「……そうかも」
さやかは否定しなかった。
たしかに最近の2年A組は、“見えても言わない”がだいぶうまくなっている。
そしてそのうまさの上に、微妙な平和が成り立っている。
真白は思う。
これって、変だ。
でも悪い変さではない。
◇
昼休み、澪が珍しく小さなため息をついていた。
「どうしたの?」
と真白が聞く。
「いや」
澪は少しだけ困った顔をする。
「今日、喉の調子ちょっと微妙」
「大丈夫?」
「大丈夫だけど、教室って地味に乾くなって」
「それはわかる」
「わかるんだ」
「いや普通に、冬の教室乾燥するし」
「そういう意味でもあるけど」
真白はそこで一拍置いてから、鞄を開いた。
中から、のど飴を一つ取り出す。
「いる?」
「え」
「前にコンビニで買ったやつ」
「……」
「何その顔」
「いや」
澪が少しだけ笑う。
「一ノ瀬がそういうの自然に渡してくるの、ちょっと意外で」
「……じゃあやめる?」
「やめないで」
「じゃあ受け取って」
「はい」
やり取り自体は短い。
でも、それを絵麻とひかりが見ていた。
「うわ」
ひかりが言う。
「何」
と真白。
「今の、ちょっといい」
「何が」
「言わない」
「言え」
「そこは言わないのが礼儀」
「急にルールを使うな」
「便利だから」
「だめだ、全部そこに逃げる」
絵麻はにこにこしている。
絶対また何か描く顔だ。
でも今は何も言わない。
そこはちゃんとしている。
「一ノ瀬さん」
絵麻がふわっと言う。
「何」
「最近、優しいね」
「……」
「前から優しかったのかもだけど、最近ちょっと見える」
「……」
「その褒め方、少し照れる」
と真白が小さく言うと、
「おお」
ひかりが反応する。
「今のかなり素直だった」
「やばい、メモる?」
と木乃葉。
「書くな」
「書かないよ」
「その間が怪しいんだってば」
また教室に小さな笑いが起きる。
そう。
こういうのだ。
前なら、のど飴を渡すこと自体、少し躊躇していたかもしれない。
でも今は、必要だと思ったら自然に動けた。
それをクラスメイトたちが見て、少し笑う。
でも、変に深掘りはしない。
たぶんこの教室は、
見えても言わないし、見えた優しさはそのまま受け取る
場所なのだ。
◇
放課後、日誌を書きながら、さやかがぽつりと言った。
「なんかさ」
「何」
と真白。
「秘密抱えてる人同士って、逆に踏み込まないんだろうね」
「……」
「いや、最近のうちのクラス見てて思った」
「どういうこと?」
と絵麻。
「みんな何かしら変なのに」
「変って言うな」
木乃葉がぼそっと言う。
「褒めてるわけじゃないのよ、これは」
「珍しい」
「そこじゃない」
さやかはペンを置いて続ける。
「前はね、私は“静かでちょっと変なクラス”だと思ってた」
「うん」
ひかりが頷く。
「でも最近は、もっとこう……」
「もっとこう?」
と澪。
「秘密抱えてる人たちが、お互いの地雷を踏まないようにしてる感じ」
「……」
「それ、かなり近い」
真白が小さく言う。
自分でも、そう思う。
このクラスがやさしいのは、全員が性格的に聖人だからではない。
たぶん、自分も見られたくないものを持っているから、人にも無理に踏み込まないのだ。
木乃葉は書いている。
絵麻は描いている。
ひかりは見せ方を作っている。
音々は音を作っている。
澪は歌っている。
自分は配信して、弾いている。
どれも学校の外の顔だ。
その外側を持つ者同士だから、うっかり見えても少しだけ止まれる。
「秘密を守る者同士、ってやつ?」
ひかりが言う。
「なんかちょっとかっこいい」
「言葉だけはね」
と木乃葉。
「実態は、見えても“あっ”で止まる教室」
「それはそれで平和」
と絵麻。
「瀬川さんはどう思う?」
さやかが聞く。
音々は少しだけ考えてから言った。
「言わない方がいい音って、ある」
「……」
「聞こえるけど、そのままにしとく音」
「うん」
「たぶん、そういうの」
短い。
でも、妙に正確だった。
真白はその言葉を聞きながら、胸の中で少しだけ何かが落ち着くのを感じた。
ああ、これなんだ、と。
この教室の平和は、
知らないこと
ではなく、
知っても全部は言わないこと
でできている。
それは冷たい無関心ではない。
たぶん、秘密を抱える者同士の、静かな礼儀だ。
◇
帰り支度の中で、真白はふと教室を見渡した。
木乃葉は眠そうだ。
絵麻はノートの端にまた何か描いている。
ひかりはスマホを見ながら、でも会話の流れは拾っている。
音々は静かだ。
澪はのど飴を鞄へ入れていた。
さやかは日誌を閉じたばかり。
誰も秘密を明かしていない。
でも、みんな少しずつ知っている。
その状態で、教室が壊れずにちゃんと笑えるのは、やっぱりすごいことなのかもしれない。
「……このクラス、意外とやさしいね」
真白がぽつりと言うと、
「意外?」
とひかり。
「うん」
「それ今まで気づいてなかった?」
「気づいてなかったかも」
「遅い」
と木乃葉。
「でも、一ノ瀬さんがそう思えるようになったなら、だいぶ大きいかも」
絵麻が笑う。
「褒めてる?」
と真白。
「ちゃんと褒めてる」
とさやか。
「今日は本当に」
「便利だから、じゃないんだ」
と澪が笑った。
「たまにはちゃんとするわよ」
とさやか。
そこでまた、教室に小さな笑いが落ちる。
真白も笑う。
秘密を守る者同士、言わない優しさでできている。
それが、今の2年A組なのだろう。
それなら、たぶん、ここにいても大丈夫だ。




