第3話 バスケ部主将と、住む世界が違うはずだった
朝倉澪は、たぶん、朝から完成されている。
真白は三限の授業が終わって短い休み時間に入ったとき、教室の後ろの窓際からそんなことを思った。
完成、というのは別に外見のことだけではない。もちろん見た目も目を引く。背筋が伸びていて、制服の着崩し方にだらしなさがない。高い位置でまとめた髪も、表情の明るさも、動きの無駄のなさも、全部が「自分の見せ方を知っている人」みたいに見える。
でも、本当に目につくのはそういう部分ではない。
どこにいてもちゃんとその場に馴染んでいること。
誰と喋っても変に浮かないこと。
必要なときには前に出て、いらないときには一歩引けること。
それができる人間を、真白は心のどこかで別の生き物だと思っている。
「朝倉ー、次の試合の相手校ってどこだっけ?」
「まだ正式には出てないけど、たぶん南高」
「うわ、強いとこじゃん」
「強いね。でも勝てない相手じゃない」
そう言って澪は笑う。
大きく笑いすぎない。かといって澄ましすぎてもいない。教室の中で自然に空気を取る笑い方だ。しかも、自信があるのに嫌味に見えない。
すごいな、と真白は素直に思う。
たぶん自分には、一生できない。
誰かに話しかけられたとき、会話を終わらせずにちゃんと返すこと。
後輩から質問されたとき、鬱陶しがらずに受け止めること。
「期待される側」に立ちながら、潰れずに立っていること。
真白は自分の席に座ったまま、手元のノートに視線を落とす。
別に羨ましいわけではない。そういう生き方をしたいと思っているわけでもない。目立ちたいわけじゃないし、クラスの中心にいたいとも思わない。
ただ、同じ教室にいて、同じ制服を着て、同じ授業を受けているはずなのに、こうも輪郭の違う人間がいるのだな、とは思う。
自分は、どちらかと言えば「気配を薄くしたい」側だ。
澪は、何もしなくても存在感が立つ側だ。
そういう意味で、住む世界が違う。
真白はそういうふうに整理していたし、その整理に特に不満もなかった。
――昨日までは。
「一ノ瀬さん」
ふいに名前を呼ばれ、真白は顔を上げる。
呼んだのは、意外にもその朝倉澪だった。
「え」
「次の現代文のプリント、先生が前から回してって」
「あ、うん」
澪が差し出した紙束を受け取る。
距離が近い、と一瞬だけ思った。別に物理的な話ではなく、会話として。澪と直接やりとりすること自体、今までほとんどなかったからだ。
「ありがとう」
「うん」
澪はそれだけ言って、すぐ自分の席の方へ戻っていく。
それだけのやりとりなのに、真白の心臓は少しだけ変な跳ね方をした。
昨日ならたぶん何も感じなかった。たまたま紙を渡された、それだけで終わったはずだ。
でも今は、どうしても脳が余計な可能性を勝手に並べてしまう。
――いや、違う。
――違うってば。
真白は自分に言い聞かせながら、後ろの席へプリントを回す。
朝倉澪がMIOである可能性。
その考え自体がまず飛躍しているし、失礼だし、何より現実味がない。たしかに澪は目立つ。でもそれは学校の中での話だ。学校で目立つことと、顔出しNGの超人気歌手であることの間には、地球から月くらいの距離がある。
それを、肩を回す癖が似ているからとか、姿勢がいいからとか、そんな理由で結びつけるのはどう考えてもおかしい。
おかしいのだが。
それでも、ほんの一度でも思ってしまったものは、簡単には頭から消えない。
◇
昼休み、教室の一角では弁当の蓋が開く音が重なっていた。
真白は自席で、母が作ってくれた弁当を静かに広げる。彩りはきれいだし味も安定している。ありがたい。けれど、こういう時間に誰かとわいわい食べる習慣はないので、基本は一人だ。
別に寂しいとは思わない。思わないようにしている、の方が正確かもしれないが。
「今日の卵焼き、きれい」
向かいの列からのんびりした声が飛んできた。桃園絵麻である。
「……そう?」
「うん。四角がきれい」
「そこ褒めるんだ」
「四角って大事だよ」
何の話なのかよくわからないまま、真白は「そうなんだ」とだけ返した。
絵麻はほんわかしているくせに、時々視点が妙だ。前に美術の授業でクラスメイトの横顔をデッサンしたときも、「耳の位置がきれい」と言っていた。普通そんなところ見るか。
いや、漫画家とかイラストレーターなら見るのかもしれない。――などと、真白はそこで思考を止めた。
勝手に人の秘密を想像するな。そういうのは良くない。
自分がされたくないことは、するべきではない。
「一ノ瀬」
今度はもっとよく通る声で名前が呼ばれた。
真白が顔を上げると、教室の入口付近にいた朝倉澪が、少しだけこちらへ身を乗り出していた。
「え」
「次の数学、課題提出あったよね」
「うん、ある」
「やっぱり。危なかった、忘れるところだった」
「……よかった」
それだけの確認だ。実際、澪は部活や委員会で忙しそうだから、提出物の把握漏れがあっても不思議ではない。
けれど真白は、昨日までより確実に、その何気ない声が耳に残るのを感じた。
澪の声は、普段の会話ではやや低めで、明るすぎず、通りがいい。歌声とは全然違う。違うはずなのに、どこか引っかかる。輪郭の作り方、とでも言うのだろうか。言葉の頭にちゃんと息が乗っている感じとか、語尾が妙にぶれない感じとか。
いやいやいや。
真白は慌てて頭を振った。
もう完全に職業病ではないか。声を聞いただけであれこれ分析し始めるなんて、自分が音の仕事をしている人間だからって何でも結びつけすぎだ。
「どしたの?」
木乃葉が、弁当箱の向こうから眠そうな目でこちらを見る。
「なんでもない」
「顔が“なんでもない”じゃない」
「……そう?」
「ちょっとだけ、“今すぐ宇宙から隕石落ちてこないかな”みたいな顔」
「してない」
「してる」
即答された。
木乃葉は相変わらず半分寝ているみたいな顔なのに、変なところだけ鋭い。
「何か気になることでもあるの」
「別に」
「へえ」
「……何その、信じてない感じ」
「いや。信じてるよ」
「絶対信じてない」
「じゃあ半分だけ」
適当だ。でも、その適当さに少しだけ救われる。
木乃葉のこういうところは不思議だった。ぐいぐい踏み込むわけでもなく、かといって完全に放っておくわけでもない。体温が低そうで、会話の距離感だけ妙にちょうどいい。
真白は卵焼きをひと口食べて、前を向いた。
その先で、澪はバスケ部の女子たちと話していた。明るい。自然だ。誰から見てもちゃんと「学校の顔」をしている。
だからやっぱり、住む世界が違う。
そう結論づけるのが一番安全なはずなのに、頭のどこかで昨日の通知がまだ消えてくれない。
歌唱担当:MIO
その四文字が、嫌にしつこく脳裏に残っていた。
◇
午後の授業をいくつか越えたあと、体育の時間が来た。
女子は今日は体育館でバスケのミニゲームだった。真白は運動が苦手というほどではないが、得意でもない。必要最低限はやる。しかし輝くことはない。学校生活の方針としても、それで問題ない。
むしろ、ここで急に運動神経がよかったら、それはそれで目立って困る。
「一ノ瀬、ディフェンスー!」
「……うん」
クラスメイトに言われて慌てて戻る。ボールの流れは速く、真白の処理能力を少しだけ超えてくる。体育の授業の何が苦手かと言えば、たぶんこの「即時判断を人前で求められる感じ」だ。
その点、朝倉澪はやっぱり別格だった。
教師が見本として名前を呼ぶまでもなく、動きがきれいだ。走り方ひとつ取っても無駄がない。パスのタイミングも、周囲を見る目も、身体の使い方も、全部が自然に高水準でまとまっている。
真白は自分のチームの順番待ちの間、壁際からその様子を眺めていた。
すごいな、と思う。
目立つとか人気があるとか、そういう表面的な話ではなく、「積み重ねた人間の動き」だと思う。できるようになったからできるのではなく、できるまでやったからこうなっている、という感じがする。
努力の匂いがする。
そして、その努力を見せびらかさない人の動きだ。
「朝倉、一本見せてー!」
別のクラスメイトが冗談めかして言うと、澪は「はいはい」と苦笑しながらボールを受け取った。軽くドリブルし、一歩踏み込み、するりと抜いて、レイアップを決める。歓声が上がる。
「うまっ」
「さすが主将!」
「今の真似したら私たぶん床と仲良くなる」
教室なら少しだけ遠い存在に見える澪が、体育館ではますます眩しく見える。
真白はその光景を、少しだけ複雑な気持ちで見ていた。
わかりやすく人に評価される才能。
しかもそれを真正面から受け止められる強さ。
自分にはないものだ。
配信で褒められるのとはまた違う。画面越しの歓声ではなく、目の前の空間で「すごい」と言われること。真白はそれが苦手だ。苦手だから、顔も出さず、学校でも黙っている。学校で褒められるのなんて、せいぜいテストの点くらいで十分だ。
そう思っていたのに。
澪は、決めたあと、一瞬だけ右肩を軽く回した。
ほんの小さな動きだった。肩の力を抜くみたいに、無意識でやる癖。
真白の視界が、その瞬間だけ鋭くなる。
「……」
昨日見た資料の一文が、嫌というほど鮮明に蘇った。
発声前に軽く右肩を回す癖あり。
いや、発声前と運動後じゃ違うだろ。違うに決まってる。なのに妙に一致して見えるのは、自分が勝手に意味を見出しているだけだ。
真白は息を止めたまま、少しのあいだ澪から目を逸らせなかった。
そのとき、教師が笛を鳴らす。
「次、一ノ瀬たち入ってー!」
「……はい」
返事をして前に出る。動かないわけにはいかない。
けれど体育が終わるまでのあいだ、真白の集中はどこか微妙に散ったままだった。
◇
授業が終わり、放課後になると、教室の空気はそれぞれの「次の顔」へ向かって解けていく。
部活へ急ぐ者。寄り道の約束をする者。委員会の仕事へ向かう者。帰宅する者。
真白は帰る側だ。
だが今日は、なんとなくそのまま帰る気分になれなかった。
いや、正確には、澪のことが少し気になった。
気になる、というのは恋愛的な意味ではない。そういうのでは断じてない。ただ単純に、体育のときのあの張り詰めた感じが少しだけ引っかかったのだ。バスケ部の主将として期待されていて、実際に上手くて、でも楽しそうかと言われると少し違う気がした。
人に見せる「強さ」の奥に、別の力みがあるような。
真白は自分の鞄を持ちながら、窓の外の体育館をちらりと見た。
ガラス越しに、部活の準備をする人影が見える。たぶん澪もあそこにいる。
少しだけ迷ってから、真白は昇降口へ行く前に体育館の脇を通るルートを選んだ。
別に意味はない。ほんのついでだ。そういうことにしておく。
体育館の裏手へ回ると、夕方の空気はもう少し冷たかった。ドアの隙間から、ボールの弾む乾いた音が響く。規則的で、速い。掛け声も混じる。
真白は、わざわざ立ち止まるのも変だと思いながら、それでも数秒だけ耳を澄ませた。
「もう一本!」
「はい!」
「足止まってる、そこ切り替えて!」
澪の声だった。
教室で聞くより少し強く、少し低い。よく通る。指示が明快で、無駄がない。主将の声だと思う。
そして、その声の端に、ほんのわずかだが、無理を押し込んでいる感じがあった。
真白は眉を寄せる。
何が、とは言えない。ただ、自分も「声で平気なふりをする」ことに関しては人に負けない自覚がある。だから、澪の声の硬さが少しだけわかった。
期待される側の声だ。
倒れてはいけない側の声。
不安があっても出してはいけない側の声。
真白は、ふいに、自分と少しだけ似ているのかもしれないと思った。
学校での顔は正反対でも。
人に見せている場所は全然違っても。
何かを背負って立っているという意味では、近いのかもしれない。
「……いや、それでも別世界だけど」
小さく呟いて、真白はその場を離れた。
自分は配信者で、ピアノを弾く人間で、学校では静かにしていたいだけの女子だ。澪はスポーツエースで、誰に対しても自然に話せて、たぶん人に期待されることにも慣れている。
近いわけがない。
ただ、少しだけ、「遠いまま切り捨てていい人」ではなくなってしまった気がした。
◇
その夜、真白は帰宅してからピアノの前に座っていた。
配信はない日だ。だから部屋は静かで、コメント欄の勢いもない。メトロノームの電子音と、自分の指が鍵盤を叩く音だけがある。
紅白用の仮アレンジ。テンポの確認。ニュアンスの調整。歌が乗ったときに邪魔にならない間の作り方。真白は譜面を見ながら、何度か同じフレーズを弾き直した。
仕事モードに入れば、余計なことは考えずに済む。
少なくとも、そう思っていた。
しかし一曲通しで弾き終えたところで、またしても脳内に別の顔が浮かぶ。
朝倉澪。
右肩を回す癖。
部活中の張り詰めた声。
教室での自然な振る舞い。
住む世界が違うはずの、同じクラスの女子。
「……考えすぎ」
自分に言い聞かせるように呟き、真白は譜面を閉じた。
これ以上はノイズになる。仕事に集中しろ。相手が誰であれ、自分のやることは変わらない。弾く。それだけだ。
そうして、もう一度鍵盤に手を置こうとしたとき。
一方その頃、都心のスタジオでは、朝倉澪もまた別の顔をしていた。
◇
レコーディングスタジオの空気は、学校の体育館とはまるで違う。
壁は音を吸い、照明は必要以上に明るくなく、機材のランプだけが静かに点っている。マイクの前に立つと、自分の呼吸や衣擦れまで音になる。ここでは、身体ではなく声がすべてだ。
朝倉澪はキャップを深くかぶり、ブースの中で小さく息を吐いた。
「じゃあ、Aメロからもう一回お願いします」
ヘッドホン越しに、ディレクターの声が響く。
「はい」
返事は短い。
その声は、学校で後輩に出すものとも、クラスメイトに向けるものとも違っていた。余分な明るさを削ぎ、芯だけを残した声。
ブースのガラスの向こうでは、スタッフが何人かモニターを見ている。誰も無駄話はしない。澪にとってこの空間は、安心する場所であると同時に、一切誤魔化しのきかない場所でもある。
イントロが流れる。澪は一度、軽く右肩を回した。
いつもの癖だ。
それから目を閉じ、歌い出す。
空気が変わる。
少女の声ではなくなる。
朝倉澪ではなく、MIOになる。
低音は深く、高音は鋭いのに細くならない。息の使い方に迷いがなく、感情の乗せ方も強い。録音ブースの中にひとりしかいないのに、そこだけ空間の密度が変わるような歌だった。
ワンコーラス歌い切る。
「ありがとうございます。いいですね」
ディレクターの声が聞こえる。
「少しだけ二Aの語尾、切らずに残しましょうか」
「了解です」
「あと、紅白の件なんですけど」
「……はい」
澪はヘッドホンを少しずらした。
「サプライズ企画、ピアノ担当が正式決定しました」
「……」
「真昼ましろさんです」
その名前を聞いた瞬間、澪の表情がわずかに変わる。
もちろん知っている。
名前だけではない。歌も、配信も、弾き語りも、切り抜きも少しだけ見たことがある。トークの回転が異様に速く、空気づくりがうまく、そして音楽面ではごまかしがない。人気なのがよくわかる人だと思っていた。
しかも、単なる人気VTuberではない。ピアノに関しては、正直、同業としてもかなり信用している。
だからこそ驚いたし、同時に少しだけ身構えた。
「……本当に?」
「はい。先方も前向きです」
「そっか」
短く返す。
澪は感情を表に出しすぎない。少なくとも現場ではそう決めている。
けれど、内心では別の意味で落ち着かなかった。
真昼ましろ。
よりにもよって、あの人か。
配信では軽快に喋り倒すくせに、音楽になると急に芯が出る。自由そうに見えて、ちゃんと実力で殴ってくるタイプ。そういう人と大舞台で合わせることになるのかと思うと、正直、気は抜けない。
そして、澪の脳裏にも、まったく別の顔が一瞬だけ浮かんだ。
二年A組。
無口な優等生。
一ノ瀬真白。
「……まさかね」
誰にも聞こえないくらいの声で澪は呟き、自分で小さく首を振った。
そんなわけがない。
学校で静かにしているあの子と、画面の向こうで何万人を回しているあのVTuberが同一人物だなんて、そんな出来すぎた話があるはずない。
あるはずない――と、思いたい。
「朝倉さん?」
「あ、すみません。大丈夫です」
「では、次ラストサビいきます」
「はい」
ヘッドホンを戻す。
マイクの前に立つ。
右肩を軽く回す。
MIOとしての澪は、余計な不安をいったん脇へ追いやった。
年末は近い。
サプライズ企画。
共演相手は真昼ましろ。
まだ会ってもいないのに、澪は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じていた。
それが仕事への緊張だけではないことに、彼女自身、まだ気づいていなかった。




