第29話 真白、教室でちょっとだけツッコめるようになる
一ノ瀬真白は、前よりちょっとだけ口数が増えた。
その事実に最初に気づいたのは、たぶん本人ではない。
クラスメイトたちだった。
そしてその次に、風間だったかもしれない。
担任という生き物は、そういう微妙な変化にやたら気づく。
だが本人は気づいてもたぶん黙っている。
そういう人だ。
いちばん最後に、ようやく真白自身が「あれ、最近ちょっとだけ口が先に動くことが増えたかもしれない」と自覚した。
理由は、たぶん単純だ。
2年A組が、静かなのに妙にツッコミどころの多い教室だからである。
普通に座っていても、何か起きる。
正確には、大事件ではないのに、地味にコメントしたくなるようなことが起きる。
そして最近の真白は、その“コメントしたくなる気持ち”を、前より少しだけ放流するようになっていた。
それがいいことなのかどうかは、まだ結論が出ていない。
でも少なくとも、教室の中で窒息しそうになる感じは前より減っている。
その日の朝も、平和におかしかった。
◇
教室へ入ると、木乃葉が机に突っ伏したまま、ノートの上へシャーペンを持っていた。
持ってはいる。
だが、書いてはいない。
つまり、寝ながら筆記しようとして失敗した人の形である。
「……何その状態」
思わず真白の口から出た。
言ってから、自分で一瞬だけ止まる。
今、かなり自然にツッコミが出た。
前なら心の中で終わっていたやつだ。
木乃葉は片目だけ開けた。
「創作と睡眠の中間」
「ただの限界では」
「もうちょっと文学的に言って」
「寝ながら原稿しようとしてる人」
「現実的すぎる」
ひかりがすぐに笑い出した。
「今の好き」
「何が」
と真白。
「一ノ瀬さんの反射ツッコミ」
「反射ではない」
「反射だったよ」
と絵麻も言う。
「入ってきた瞬間、間髪なかった」
「そんなに」
「うん」
「一ノ瀬さん、最近そういうの増えたよね」
さやかまで言う。
「もう隠しきれないレベルで」
「隠してたつもりはない」
「いや、前はたぶん無意識で隠してた」
と澪がさらっと言った。
そこで会話が一瞬止まる。
真白は視線を澪へ向けた。
澪はごく普通の顔をしている。
普通のクラスメイトとして、普通の感想を言っただけ、みたいな顔をしている。
その自然さが少しだけ悔しい。
「……朝倉さん、そういうのうまいよね」
真白が言うと、
「何が?」
と澪。
「自然に入ってくるの」
「学校ではね」
「その返し、最近ちょっとずるい」
「褒めてる?」
「半分くらい」
教室が少し笑う。
前なら、この一連の流れそのものが難しかったはずだ。
でも今は、真白もその会話の中にいる。
完全に中心ではない。
でも端っこからちゃんと入って、ちゃんと返せる。
それはたぶん、かなり大きな変化だった。
◇
一時間目の前、今度は絵麻がやらかした。
というより、絵麻は定期的に“ちょっとしたやらかし”をするのだが、本人のふわっとした態度のせいで、なぜか重大事故にならずに済んでいる。
今日は、教科書の間から人物ラフが三枚ほど滑り出た。
「また落ちた」
とひかり。
「また落ちたね」
と木乃葉。
「“また”で済ませていいんだ」
とさやか。
絵麻はしゃがんで紙を拾いながら、少しだけしょんぼりした声を出した。
「今日は落ちないと思ってたのに」
「そういう日もある」
と木乃葉。
「いや、“そういう日”じゃなくて管理の問題なのよ」
さやかがかなり正しいことを言う。
そこで真白の口が、また勝手に動いた。
「桃園さん、そろそろ“落ちる前提で持ち歩く”にした方がいいと思う」
「何それ」
と絵麻。
「発想が強い」
ひかりが笑う。
「いやでも正しいかも」
と澪。
「ファイルを変えるとか」
「それな」
とさやか。
絵麻は紙を抱えたまま、少しだけ考える顔をした。
「……それは、ありかも」
「素直」
と真白。
「素直だねえ」
とひかり。
「このクラス、意外とアドバイスには従う」
と木乃葉。
「従うっていうか、たまに普通に正しいから」
と絵麻。
真白はそこで気づく。
また自然に一言多かった。
しかも、その一言で会話が転がった。
前の自分なら「落ちたんだ」で終わっていたはずだ。
今はその先に、少しだけ場を転がす言葉が出る。
それをクラスメイトたちも自然に拾っている。
なんだこれ。
ちょっとだけ楽しいのでは。
そう思った瞬間、ひかりがにやっとした。
「今、一ノ瀬さんちょっと思ったでしょ」
「何を」
「“ちょっとだけ楽しいかも”って」
「何でわかるの」
「顔」
「顔に出てる?」
「一ミリくらい」
「それはほぼ出てない」
「一ノ瀬さん比だと大事故」
「比が限定的すぎる」
教室がまた笑う。
真白は小さくため息をつきながらも、否定しきれない自分がいるのを感じていた。
◇
二時間目の休み時間、今度は音々がやってきた。
「一ノ瀬さん」
「何」
「これ、聞いて」
「今日も?」
「今日も」
差し出されたスマホから、短い音のループが流れる。
音々の作っている曲の断片だ。
この流れも、最近では少し慣れてきた。
慣れてきたのだが、やっぱり毎回ちょっとだけ心拍数は上がる。
「どう?」
と音々。
「……前より整理されてる」
「うん」
「でも、ここのスネアちょっと硬い」
「やっぱそう?」
「あと、後ろで鳴ってるパッド、もう少し引いてもいい」
「一ノ瀬さん、今日もわかる側」
「その言い方やめて」
「褒めてる」
「怖さと褒めが両立してるんだよなあ」
そこへ、ひかりがまた顔を出す。
「何々?」
「音」
と音々。
「また?」
「また」
「一ノ瀬さん、最近ほんとに瀬川さんの相談相手になってるね」
「相談相手では」
真白が否定しかけると、
「なってる」
と音々が真顔で言う。
「即答」
「だって毎回ちゃんと返ってくる」
「……」
それを横で聞いていた木乃葉が、机に頬杖をついたまま言った。
「一ノ瀬、最近“専門外には静か、わかることにはちゃんと口を出す人”になってきた」
「いや、前からそうだったのでは?」
と真白。
「前は“わかることにもあんまり口を出さない人”だった」
澪が言う。
「そこを朝倉さんが言うの」
「客観的事実だから」
「このクラス、一ノ瀬さん観測の精度高くない?」
とさやか。
「最近わかりやすいし」
ひかりが笑う。
「前より確実に“いる”んだよね、会話の中に」
その言い方は、木乃葉のときにも聞いた気がする。
会話の中にいる。
教室にいるだけじゃなくて、ちゃんとその場の流れの中にいる、という意味だろう。
真白は少しだけ視線を落とした。
それは自分でも、なんとなくわかっている。
前より、教室の中で黙って通り過ぎることが減った。
見えてしまったこと、思ってしまったこと、ツッコミたくなったこと。
そういうものを少しだけ口に出すようになった。
そして、意外なことにそれでクラスが困るわけではない。
むしろ、自然に会話が転がる。
「……」
「何その顔」
とひかり。
「いや」
真白は少しだけ考えてから言う。
「前より、クラスに慣れてきたのかも」
「おお」
と絵麻が目を丸くする。
「それ、だいぶ大きい一言では」
「珍しく自分から言語化した」
とさやか。
「メモっとく?」
とひかり。
「やめて」
「絵麻が描く?」
「描かないよ」
と絵麻は言ったが、少しだけ笑っているので怪しい。
◇
三時間目のあと、風間が教室で配布物を配っていた。
ひとりずつ手渡しするわけではない。
列ごとに配るだけだ。
それなのに、なぜか風間の配布物は妙に整然としている。
重なりがきれい。
配る角度がきれい。
置き方まできれい。
「先生」
真白が思わず言っていた。
「はい」
「配布物の所作まで綺麗なの、やっぱりちょっと変です」
「え?」
と風間。
「一ノ瀬さんが先生にそれ言うんだ」
ひかりがすぐ笑う。
「最近つい口が」
真白が少しだけ気まずくなる。
「そうですか」
風間はまったく乱れずに答えた。
「整っている方が、皆さんも受け取りやすいかと」
「いや理屈はわかるんですけど」
さやかが言う。
「受け取りやすさの次元をちょっと越えてるんですよ」
「褒めていますか?」
「今日はたぶん褒めてます」
「それはどうも」
風間は相変わらず強い。
だが、そのやり取りに教室が少し笑ったあと、真白はふと気づく。
今の自分、普通に担任へツッコミを入れた。
しかもクラス全体の前で。
前なら絶対やっていない。
「……」
「今、自分でちょっと驚いた顔してた」
と澪が小声で言う。
「してた?」
「してた」
「だよね……」
「一ノ瀬さん」
絵麻がのんびりと言う。
「何」
「今の良かった」
「何が」
「先生相手でもその温度で言えるの」
「それ褒められてるのかな」
「褒めてる」
「今日は褒めの精度高いね」
「便利だから」
「最後にそれを入れるな」
また教室が笑う。
だめだ。
この教室、最近ちょっと居心地が良すぎる。
そのせいで口が滑る。
いや、滑るというか、前より出る。
でも不思議と、それでひどく後悔する感じはない。
◇
昼休み、真白はひとりで窓際に立ちながら、外を見ていた。
校庭。
冬の薄い陽。
遠くから聞こえる運動部の声。
すると隣に、澪が自然に立った。
「何考えてるの」
「……最近ちょっと、喋るなって」
「うん」
「うん、なんだ」
「事実だから」
「そこは否定してもよかったのに」
「でも前より全然いるよ」
「いる」
「教室に」
「その表現、木乃葉さんも使ってた」
「たぶんみんなそう思ってる」
思っているのか。
それは少しだけ気恥ずかしい。
「嫌じゃない?」
と真白が聞く。
「何が」
「前より喋るようになったの」
「何で嫌なの」
「わからないけど」
「じゃあ嫌じゃないんじゃない?」
「……」
「一ノ瀬、そういうとこたまに面倒」
「今のは褒めてないね」
「うん、今のは普通に言った」
そこはちゃんと分けるのだ。
真白は少しだけ笑う。
「でも」
澪が続ける。
「前より今の方がいいと思う」
「……」
「教室でちゃんと返してくれる方が、私はやりやすいし」
「やりやすいって」
「会話」
「……」
「何その顔」
「いや、そういう言い方するんだなって」
「普通でしょ」
「学校の中だと、朝倉さんの“普通”がたまにまぶしい」
「それ褒めてる?」
「……半分くらい」
「便利だね」
「便利だから」
「感染ってるなあ」
二人で少し笑った。
前なら、このくらいの会話でも気まずさが残った。
今はそれが少ない。
それもまた、変化なのだろう。
◇
放課後、帰り支度の中で、木乃葉がぽつりと言った。
「一ノ瀬」
「何」
「最近、ツッコミの質がちょっと上がった」
「何の評価」
「教室への参加度」
「またその話」
「でもほんとだよ」
ひかりが笑う。
「前は“言っても心の中”だったのが、今はちゃんと外に出てる」
「一ノ瀬さん、前より表情も少し動くし」
絵麻。
「いや、そこまででは」
真白が言うと、
「そこまでだよ」
とさやか。
「委員長権限で断言する」
「委員長権限、何でもありだな」
「便利だから」
「使い始めた……」
また笑いが起きる。
真白はそこで、ふと、少しだけ自然に笑っている自分に気づいた。
無理に合わせている感じではない。
ちゃんとその場の流れの中で、少しだけ笑っている。
それは、以前の自分にはなかったことだ。
「……まあ」
真白は少しだけ肩をすくめた。
「何?」
とひかり。
「前より、たぶん、ここにいるのは楽」
「……」
一瞬、教室が静かになる。
しまった、と思った。
今のは少しだけ本音すぎたかもしれない。
だが次の瞬間、絵麻がふわっと笑った。
「それはよかった」
「うん」
と澪。
「普通に」
と木乃葉。
「すごく」
とさやか。
「褒めてる」
と音々。
最後だけおかしい。
「いや、瀬川さん、そのタイミングで“褒めてる”はちょっと違う」
真白が言うと、
「でも合ってる」
と音々は真顔で返した。
結局また、教室に小さな笑いが落ちる。
真白も、今度はちゃんと笑った。
少しだけツッコめるようになった。
少しだけ会話に入れるようになった。
少しだけ、自分からここにいていいと思えるようになった。
大きな変化ではない。
でも、たぶん、今の自分にはそれで十分だった。




