第24話 担任、静かにクラスの均衡を守る
風間恒一郎は、朝の職員室でだいたい二種類の書類を相手にしている。
一つは、教師として普通に処理すべき書類。
出欠、課題、配布物、保護者連絡、委員会関係、部活届、そういう一般的な学校生活の証明たち。
もう一つは、2年A組担任としてやたらと慎重に扱うべき書類。
校外活動申請。
継続的な芸能活動。
商業活動に伴うスケジュール調整。
守秘性の高い連絡事項。
生徒の学校外の顔に直接つながるもの。
後者が多い時点で、たぶん普通のクラスではない。
だが風間は、そのことについてあまり深く感想を持たないようにしていた。
持ったところで仕事は減らないし、何より、生徒にとっては“普通でいてくれる大人”の方が都合がいい。
知らないわけではない。
でも知っている顔をしすぎない。
それが担任としての礼儀だと思っている。
「風間先生」
朝の職員室で、隣の席の教師が苦笑しながら言った。
「はい」
「また書類きれいですね」
「ありがとうございます」
「いや、褒めたくなるくらい整ってるなって。性格出ますよねえ」
風間は机上のクリアファイルを軽く揃えた。
「見やすい方が処理しやすいので」
「うちなんかもう積んで積んで最後に雪崩ですからね」
「それは危険ですね」
「いやほんとに。風間先生の実家って、こういうの厳しそうだなあ」
「……どうでしょう」
「なんか育ちいいですよねえ、先生」
「そう見えますか」
「見えます見えます。物の置き方とか、紅茶の飲み方とか、無駄に綺麗ですもん」
「無駄、ですか」
「褒めてますよ」
風間は小さく会釈だけ返した。
こういう会話は昔から慣れている。
“育ちがにじむ”というのは、隠そうと思って完全に消せるものではない。
実家が誰もが知る財閥だとここでわざわざ名乗る必要はないが、身についた所作まで全部を庶民仕様に矯正するのも、現実的には難しい。
幸い、学校という場所では、多少“丁寧な人”に見える程度で済んでいる。
それで十分だった。
そこへ教頭が顔を出した。
「風間先生、2年A組の校外活動申請の件、確認済みですか」
「はい、今朝の分まで整理済みです」
「早いですねえ」
「提出順に処理しただけです」
「助かります。最近そちらのクラス、外で頑張ってる生徒さん多いですね」
「ええ、そうですね」
それも、事実ではある。
外で頑張っている。
ずいぶん柔らかい表現だが、実際、それでだいたい合っている。
歌う生徒。
弾く生徒。
書く生徒。
描く生徒。
作る生徒。
見ている生徒。
まとめる生徒。
2年A組は、表に出ていないだけで情報量が多い。
多いが、それをわざわざ大人側から面白がる必要はない。
風間は書類を閉じ、立ち上がった。
「では、ホームルームへ行ってきます」
「いってらっしゃい」
◇
2年A組の朝は、今日も静かなようでいて、よく見るとうるさい。
ドアを開けた瞬間、風間はだいたいその日の教室の“密度”がわかる。
今日は、やや濃い。
木乃葉は昨日よりは眠気が薄い。
つまり締切の第一波は越えたらしい。
桃園は落書きを隠す速度が昨日より速い。
学習したのだろう。
小鳥遊はすでに三人分くらいの会話を処理している。
瀬川はイヤホンをケースへ入れながら、教室のざわめきの音量を測っているような顔だ。
二階堂は委員長として朝の空気をまとめようとしつつ、自分がまとめる前に勝手に流れていくクラスに少し疲れている。
朝倉と一ノ瀬は、ここ最近ではかなり自然寄り。
ただし、自然になろうとして少しだけ不自然になる日もまだある。
風間は教壇に立ち、出席簿を開いた。
「おはようございます」
「おはようございまーす」
返事の温度もだいたい予想通りだ。
ホームルームを始める。
日程確認。
提出物。
委員会連絡。
そして必要な書類の回収。
「校外活動申請を出している人は、来週分までの予定変更があれば本日中に」
風間が言うと、数人だけ反応の角度が違った。
ほんの一瞬。
でも見ればわかる。
朝倉。
一ノ瀬。
そして、本人は隠しているつもりだが、木乃葉も少しだけ目線が動く。
風間は内心で思う。
やはりこのクラス、普通ではない。
そして、その普通ではなさの種類が、全員少しずつ違う。
「先生」
ひかりが手を挙げた。
「はい」
「校外活動って、どこまでが校外活動ですか」
「どこまで、とは?」
「例えば、趣味でちょっと描いたり作ったりしてるのが、たまたま外で出たりした場合とか」
「表現がふわっとしてますね」
「便利だから」
教室が少し笑う。
風間は一拍置いてから、穏やかに答えた。
「継続性と責任の有無です」
「責任?」
と絵麻。
「はい。趣味の延長でも、継続的に外部とのやり取りが発生し、学校生活と両立の調整が必要なら、申請した方がいいでしょう」
「なるほど」
とひかり。
「じゃあ“便利だから”では通らないんですね」
「通る場面は限られます」
「先生つよい」
「褒めてますか?」
「そこそこ」
「便利だなあ」
と、さやかがぼそっと言って、また笑いが起きた。
風間は表情を崩しすぎない程度に、わずかに空気を和らげた。
この教室は、こういう軽い笑いの上に均衡が乗っている。
誰かの秘密へ踏み込みすぎず、でも完全に無関心でもない。
その絶妙さを崩さないことが、担任としての仕事の一つでもあった。
◇
二時間目のあと、風間は職員室へ戻る前に教室の前を通りかかった。
中では、文化祭ポスターの仮案について軽い議論が続いている。
「だから、ここは余白あった方が絶対いいって」
ひかりが言う。
「でも情報が減ると不安じゃない?」
さやか。
「情報は減らさない。見せる順番を整理するの」
「また出た、プロっぽいこと」
と澪。
「プロではない」
とひかり。
「そこは否定するんだ」
真白が言う。
「否定というか保留?」
「便利だなあ」
木乃葉。
「便利って言えば何でも済む空気やめたい」
さやか。
「でも便利」
絵麻。
教室の空気がやわらかい。
風間はそれを確認してから、静かに廊下を歩き出した。
よい傾向だと思う。
少し前までは、一ノ瀬はもっと“完全に外側”へ引いていた。
朝倉も、教室の中での距離感をかなり慎重に扱っていた。
今はまだ不安定さもあるが、クラスメイトとしての会話が少しずつ自然になっている。
無理に元へ戻そうとしない方がいい。
あのとき一ノ瀬へ言ったことは、たぶん間違っていなかった。
変えようとしない。
変わってしまった分だけを、無理なく馴染ませる。
人間関係というのは、だいたいそのくらいがちょうどいい。
◇
昼休み、風間が職員室で昼食を取っていると、教頭がまた話しかけてきた。
「風間先生」
「はい」
「今度の保護者会の席次ですが、こちらでよろしいですか」
「拝見します」
「ありがとうございます。あ、そうだ」
教頭は思い出したように言う。
「2年A組の保護者会、少し緊張しますね」
「そうですか?」
「いえ、何というか、皆さんしっかりしたご家庭が多そうで」
「……」
「特に朝倉さんや一ノ瀬さんの保護者の方も、いろいろご事情がありそうですし」
風間は書類から視線を上げずに答える。
「それぞれ事情はあるでしょうが、ここでは生徒の保護者です」
「先生、そういうとこ真っ直ぐですよねえ」
「学校ですので」
それだけ言って、席次表に視線を戻す。
学校では、学校のルールで扱う。
生徒の外側がどれだけ派手でも、どれだけ社会的に重くても、それを教室へそのまま持ち込む必要はない。
少なくとも風間は、そうしたいと思っている。
その一方で、少しだけ皮肉だなとも思う。
生徒たちは自分の外側を学校へ持ち込まないようにしている。
そして自分もまた、風間家の人間としての外側を学校へ持ち込まないようにしている。
結局、2年A組で何かを隠しているのは、生徒だけではないのだ。
◇
放課後、さやかが珍しく職員室まで来た。
「失礼します」
「どうしました、二階堂」
「日誌持ってきました」
「ありがとうございます」
「あと」
「はい」
「先生って、なんでそんなに落ち着いてるんですか」
だいぶ直球だった。
風間は日誌を受け取りながら、少しだけ首を傾げる。
「落ち着いて見えますか」
「見えます」
さやかは真顔で言う。
「うちのクラス、わりと情報量が多いじゃないですか」
「そうですね」
「でも先生、毎回“そうですか”で受け止めるじゃないですか」
「必要以上に動じても、事態は改善しませんので」
「その理屈はわかるんですけど」
「はい」
「普通もっと、ちょっとくらいびっくりしません?」
「……」
風間は少しだけ考えるふりをした。
もちろん本当の理由はある。
財閥の家に生まれ、政治家、経営者、文化人、芸能人、そういう“大人の顔”を幼い頃から見てきた。
表の看板と裏の事情が一致しないことにも慣れている。
だから高校生の秘密に対しても、過剰に反応しないでいられる。
だが、さすがにそれをここで説明する必要はない。
「慣れ、かもしれません」
「何に」
「人それぞれ、学校へ持ち込まない顔があることに」
「……」
「二階堂も、多少はそうでは?」
「私は普通ですけど」
「本当に?」
「……」
今度は、さやかが少しだけ黙った。
風間はそこで、わずかに口元を和らげる。
「ほら」
「今の、ずるいです」
「何がでしょう」
「先生たまにそうやって、こっちにも軽く刺してきますよね」
「担任ですので」
「その返し万能すぎません?」
それは、今日二回目くらいに言われた気がする。
「先生」
さやかが少しだけ声を落とす。
「何ですか」
「先生も何か隠してます?」
「……どうしてそう思いますか」
「育ちが良すぎるからです」
「率直ですね」
「褒めてます」
「それはどうも」
風間は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、笑いそうになった。
この子はやはり、常識人のように見えて観察が鋭い。
2年A組の均衡を外側から支える人間だからこそ、担任の“違和感”にも気づくのだろう。
「二階堂」
「はい」
「たとえ何かを隠していたとしても、学校で必要なのは担任であることです」
「……」
「ですから、今はそれで十分では?」
「……まあ、そうですね」
「納得していない顔ですね」
「ちょっとだけ」
「便利だなあ」
「先生まで使うんですか!?」
職員室に小さな笑いが落ちた。
◇
その日の帰り際、風間は2年A組の教室をもう一度だけ見た。
誰もいない。
机と椅子が整然と並んでいる。
昼間はあれだけ情報量が多かったのに、今はただ静かだ。
だが風間は知っている。
明日の朝になれば、またここへ、
眠い作家が来る。
ふわふわした原案者が来る。
空気をデザインする絵師が来る。
耳のいい作曲者が来る。
歌姫が来る。
VTuberが来る。
そして、何も知らない顔をしながら全部をまとめようとする委員長も来る。
みんな、教室の外では別の顔を持っている。
でも朝になれば同じ制服で、同じ教室へ戻る。
普通ではない。
けれど、それでいいのだろうと思う。
学校とは、本来そういう場所でもある。
社会へ出る前の人間たちが、自分のいろいろな顔を持て余しながら、なんとか同じ教室へ座ってみる場所。
2年A組は少し濃すぎるが、それでも本質は同じだ。
「……静かに濃いですね」
誰もいない教室へ、風間は小さく呟いた。
その表現が一番しっくり来た。
そして、そんな教室を今日も無事に回せたことへ、わずかに安堵する。
担任の仕事は、たぶん、事件を起こさないことではない。
秘密だらけでも崩れないように、静かに交通整理することだ。
それなら、まだしばらくはやっていけそうだった。




